【第9話】  慈尊院・弥勒仏坐像 発見物語




【目   次】


1.高野山参詣の登り口、慈尊院に遺された厳重秘仏〜国宝・弥勒仏像


2.想定外の開扉発見(昭和35年)から、調査、国宝指定へ


3.弥勒仏像修理のエピソード〜辻本干也氏の思い出話


4.今も21年に一度に限られる、弥勒仏御開帳〜近年の御開帳を振り返る


5.そうめったにはない、新発見仏像の国宝指定






1.高野山参詣の登り口、慈尊院に遺された厳重秘仏〜国宝・弥勒仏像



慈尊院の秘仏、弥勒仏坐像の発見物語です。

平安時代一木彫像の見事な優作で、国宝に指定されています。




慈尊院・秘仏弥勒仏坐像(国宝)




【流石に国宝!と唸らせる優作〜昭和35年に開扉発見】


慈尊院・弥勒仏坐像は、昭和35年(1960)に発見されました。

古来厳重な秘仏で、その姿を知られていなかったのですが、「たまたまに」と云って良いような経緯で厨子の扉が開かれ、秘されてきた仏像は、平安前期を代表する傑作であることが判明したのでした。

慈尊院の弥勒仏像は、現在も、21年に一度だけしか開扉されない厳重な秘仏で、めったに拝することは出来ません。
ただ、写真を見ただけでも、その素晴らしさは、惚れ惚れするばかりで、

「一度は拝してみたい、魅惑の仏像」

となっている方も多いのではないかと思います。

やや下ぶくれのエキゾチックなお顔、重厚な中にもおだやかさ匂わせる姿には、心魅せられます。


仏像彫刻としての出来の良さは超一流で、適度の引き締まりと抑揚感ある肉付け、深い衣文の彫り口など、どれをみても見事で、堂々とした風格が感じられます。
長らく厳重秘仏とされてきたため、光背、台座の蓮弁などに、当初の美しい彩色が残されています。

「流石に国宝!」

と唸らせる、平安前期の傑作です。


ここからは、この慈尊院の弥勒仏が、古来、長らく厳重秘仏として秘されてきた由来と、発見物語について、振り返っていきたいと思います。



【空海自作と伝える弥勒仏〜鎌倉時代には、もう厳重秘仏に】


慈尊院は、昔は高野山参詣の登り口であった、和歌山県伊都郡九度山町という処にあります。

弘法大師空海が、高野山参詣の表玄関として伽藍を創建したと伝えられる古刹です。




慈尊院・山門


由緒を振り返ると、高齢となった空海の母・阿刀氏が、讃岐から息子を訪ね来た折、高野山は女人禁制のため、この政所に滞在したと伝えられます。
空海は、ひと月に9度、高野山を下って母を訪ねたので、「九度山」という地名が付けられたといいます。
空海の母は承和2年(835)に逝去しますが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったと伝えられています。
弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、慈尊院と呼ばれるようになったとのことです。

このような伝えのある、空海ゆかりの弥勒仏ということで、古来厳重に秘仏として守られてきました。

鎌倉時代には、早くも厳重秘仏であったことを伝える古記録が残されています。
後宇多院御幸記には、

正和2年(1313)、後宇多院が高野に行幸の折、慈尊院弥勒堂の開扉を命ぜられたが、住職は困惑、
「弥勒像は弘法大師の御作として、昔から扉を開いたことが無い旨を言上」
したが、お聞き入れならず、やむなく恐る恐る扉を開いた。

という記事が見えるそうです。

そんな由来の本尊でしたから、仏像の存在は知られていても、誰も拝したことはないという仏像でした。



【21年に一度、弥勒堂屋根葺替えの折に限り開扉される弥勒仏】


昔から、安置されている弥勒堂の檜皮葺きの屋根の葺き替えが、21年に一度行われることになっており、御本尊をお移しするため、その折に限り開帳したということです。




弥勒仏像が祀られている、檜皮葺きの慈尊院・弥勒堂



現在も、21年に一度限りの御開帳とされていますが、これも何時頃からそうなったのかは、良く判りません。

いずれにせよ、厳重秘仏として守られ、御開帳されることはあったものの、限られた人の眼にしか触れていなかったのだと思います。
いわゆる文化財調査のようなものはなされたことがなく、

「どのような仏像なのか、本当に平安時代の仏像が残されているのか、後世のものと変わってしまっているのか?」

も、よく判っていないということであったのでした。




2.想定外の開扉発見(昭和35年)から、調査、国宝指定へ



【きっかけは、高野山文化財調査の折、たまたま耳にした慈尊院本尊の話】


この慈尊院の弥勒仏像を、初めて実見した専門家は、倉田文作氏と西川杏太郎氏です。

昭和35年(1960)、夏のことでした。

両氏は共に、後に奈良国立博物館長を務めた仁ですが、当時は、倉田氏は文化財保護委員会(現文化庁)事務局・美術工芸課彫刻部主査、西川氏は同文部技官でした。


   
倉田文作氏(左)               西川杏太郎氏(右)


倉田氏らが慈尊院を訪れることになったのは、ひょんなことからでした。

5年に及ぶ高野山の文化財総合調査で、高野山上に滞在しているとき、高野山・蓮華浄院の増田僧正から、

「慈尊院に、等身の弥勒仏像が今も安置されている。」
「慈尊院本尊はともかく大きな、立派なお像ですよ。」

という話を耳にしたのです。

この話を聞き及んだことが、予定になかった、慈尊院を訪れるきっかけとなったということです。

この慈尊院・弥勒仏像の発見のいきさつについては、倉田文作氏の回想記が残されています。
大発見であったのでしょう。

発見3年後の1963年、芸術新潮5月号に、

「国宝になった新発見の弘仁仏〜慈尊院の弥勒像〜」

と題した発見記が、掲載されているのです。




「芸術新潮」に掲載された発見回想記



ここからは、倉田氏の回想文をたどりながら、発見物語を振り返っていきたいと思います。



【実見できるとは思いもせずに訪れた慈尊院〜まさかの開扉にビックリ】


慈尊院・弥勒仏の話を聞いた倉田氏は、ついでというわけではないのでしょうが、高野山の調査の帰りに慈尊院によってみることにして、本山からねんごろにご連絡をねがって山を下りました。

倉田氏は、高野山総合調査の疲れか、あまり気乗りがしていなかったようで、

「元来秘仏というのは我々には苦手で、拝見して驚嘆する場合と、黙って帰る場合と両極端があるように思える。
中世焼損したり、他像と入れ替わったりの理由で、他見をはばかる秘仏となった例もしばしばである。」

と語っており、それほどの期待はなかったようです。

また、古来、厳重な秘仏として祀られており、

「なにしろ大師母公の廟所の本尊だから、かりそめに開扉は許されない。
山上の金剛峯寺と、山下の慈尊院と、両者の代表が立会いのもとにはじめて開扉が行われる仕組みで、まことに厳重なことは、正和のむかしと変っていない。」

とされていましたので、慈尊院を訪れたとしても、まさか開扉が許されるなどとは考えもしていなかったようです。

ところが、慈尊院を訪ねた処、如何なる訳か、想定外に開扉いただけるということになったのです。

御住職は病気退院後の静養中で、長い杖をついて本堂に案内いただけたそうです。

「なぜ、こんなに快く開扉してくださったかは、今日もってわからない。

御住職も、最初は開扉のおつもりがなかったのだから、やはり機縁、仏縁というほかない。」

倉田氏は、このように回顧しています。



【姿を現した弥勒仏の見事さに驚愕〜超一流の平安古仏】


まさかの開扉ということで、ビックリしたものの、さほどの大きな期待も抱かずに、お堂に上がったそうです。

そして、読経が終わって厨子が開かれると、これまた想定外、見るも見事な弥勒仏像が出現したのでした。
正真正銘、堂々たる一木彫の、平安前期仏像が祀られていたのです。


「我々の懐中電灯が灯されたとき、私は唖然としてしまった。
八重の蓮華座の上、床から80センチほどの高さに、大きな円光を背にして、堂々たる一木彫の弥勒仏の等身像がすわっておられる。
・・・・・・・・・
電灯の光を台座に向けるにおよんで、私はまさに歓喜してしまった。
観心寺の蓮弁にみられるような見事な藻文が、繧繝の色も鮮やかに目に入る。

これは大変なことになりました、と私はいった。
これでは今日調査をすますというわけにはいかない。
あらためてその心組みでうかがいます、というわけで私どもは心残りながらこの日はお別れした。」

倉田氏の、想定外の傑作像に遭遇した、驚きと喜びがあふれ出てくるような、大発見の感動が語られています。



【発見一年後に実施された、正式調査〜寛平4年制作を伝える墨書銘発見】


弥勒像の正式な調査は、一年後の昭和36年(1961)に行われました。
倉田文作氏、田辺三郎助氏、西村公朝氏(美術院)、小川光三氏(写真・飛鳥園)のメンバーで、実査が行われ、細かな計測から撮影、細部の実査と記録などが綿密にされました。

倉田氏は、調査のありさまをこのように回想しています。

「この一年問の辛抱は、らくではなかった。
これが正式の実査となったわけで、高野からは西南院の和田師がいかめしい顔で立会役をつとめ、病臥の安念僧正にかわって寺を代表された所祥賢師も、早朝から夜にわたる長時間われらとともに堂内に罐づめになり、閉口されたにちがいない。
実査に当るわれわれは、こまかい計測から撮影、細部のノートと、昼食の時間も惜しい忙しさであった。」


実査の結果、平安前期彫刻の優品であることが確認できたのは勿論ですが、以下のような事柄が判明しました。

・像本体は膝前までを含めた一木彫成で、頭体部とも背面から内刳りして背板を当てていること。

・像の量感や、衣文の彫り口は平安初期のものであるが、目鼻立ちや、体側面の一種やわらいだ表現、衣文の形式化された特色は、9世紀末の造立を想定させること。

・台座の各部、蓮弁などに美しい繧繝彩色が残っているが、すべて完存、当初のものであること。


 
あざやかな繧繝彩色がのこる弥勒仏像の蓮弁



【制作年(寛平4年)を想定される墨書銘を発見】


膝前裳先の墨書き
さらには、制作年が想定される墨書銘が発見されたのです。

墨書が残されていたのは、膝前の取り外し可能な裳先の裏面でした。

「寛平4年 歳次壬子 五月十九日造仏事已了」

と書かれていました。

寛平4年というのは、892年、平安初期彫刻の成熟期にあたります。

この膝前の裳先部分は後補で、墨書も後世の筆ではありますが、何らかの典拠に基づいて記されたことには間違いないようです。
銘文は江戸時代修理の際に、古銘を写したものとも想像されるものでした。
造形、作風も、この年紀と合致することから、墨書銘の制作年は根拠があり信用出来得るもので、9世紀末制作の基準作例としてよいと考えられたのでした。



【発見、調査後、一気に国宝指定へ(昭和38年)】


この大発見の慈尊院弥勒仏坐像は、平安前期の傑作として、実査翌年の昭和37年11月、重要文化財に指定されました。
そして翌年、昭和38年3月末には、一気に「国宝」に指定されました。

昭和35年(1960)の新発見から3年、実査からたった2年弱で国宝指定という、大スピード出世となったのでした。

倉田氏は、回想記の終わりを、

「このように新発見の作品が国宝になることは、まことにまれである。
これほどのめぐりあいは、調査にあたるわれわれの一生にも、そう繰り返されるものではない。

慈尊院像のめでたさが、今さら思い出されるとともに、わが国の文化財の底知れぬ可能性をあらためて認めざるを得ない気がする。」

このように、感慨深く締めくくっています。




3.弥勒仏像修理のエピソード〜辻本干也氏の思い出話



ついでの話ですが、国宝指定後の昭和40年(1965)、慈尊院弥勒仏像の修理が行われました。
携わったのは、美術院国宝修理所の辻本干也氏です。

辻本氏は、慈尊院像修理の思い出を、青山茂氏との共著対談集

「南都の匠 仏像再見」辻本干也・青山茂著 1979年 徳間書店刊

のなかで語っています。



【歓迎ムードでもなかった修理作業〜秘仏の仏罰?】


辻本氏が弥勒像修理に訪れたときには、慈尊院の方からは、歓迎されたという感じではなかったようです。

辻本干也氏
辻本氏は

「あそこの御住職が長らく臥せっておられて、修理どころではないようなお寺の雰囲気のなか、私らは行ったわけです。
そのために、私たちには庫裏を使わせてもらえない。
こんなところでもと通された一室が、隙間風の入る部屋で、・・・・・・・・・」

と語っています。

勝手な推測ですが、御住職が静養中の時に、厳重秘仏を開扉したことや、その後病臥中の時に本尊を修理するなどということは、決して良いことではない。
良くないことが起こるかもしれない、というムードであったのかもしれません。

厳重秘仏を開扉すると、仏罰が下されるという言い伝え、信仰は、古くから残されています。

法隆寺夢殿・救世観音像を、明治17年(1884)に岡倉天心、フェノロサ等が強引に開扉したときには、寺僧たちは仏罰を恐れて、皆逃げ去ったと云ことですし、
先にご紹介した、東寺西院・御影堂の不動明王などは、平安末、仁平3年(1153)に、不動明王の後光損傷の修理が行われたが、その一月後に、時の東寺長者・寛信寛信が急逝したという話が、東宝記に遺されているなど、厳重秘仏の仏罰を畏怖する風があったのです。

このような空気があるなかで、慈尊院弥勒像の修理が始められたというわけです。

そんなさなか、修理にあたっていた辻本氏自身が、風邪をこじらせ入院、心嚢炎であることが判明して、何か月もの入院を余儀なくされてしまいました。

辻本氏は、

御住職は病臥されているし、自分も倒れたら、「秘仏の仏罰が当たった」という風に結び付けられてはいけないと、不調を隠して我慢を重ねていたら、ついに長期入院になってしまった。
お見舞いに病院にみえられたお寺の方に、
「私が身代わりで、こないな病気になったんだから、御住職には心配はないと、そんなことをうわごとのように言って、・・・・・・・」

と、回顧しています。

こうしたこともあり、お寺の方にも、随分気を遣ってもらえるようになったそうです。

辻本氏は、復帰後しばらくして、美術院を辞し新たな門出を果たすことになります。

「仏さんから時間を与えてもらい、自分を見直し、大事にするということを教えられた。」

このように、思ったそうです。

これもまた、「弥勒仏の思し召し」、ということなのかもしれません。



【修理の際に、前面に植替えられた螺髪】


修理の話のついでですが、この修理の時に、弥勒像の螺髪が、全部前面部に植え替えられています。

お気付きになっていたでしょうか?

修理前は、螺髪が相当数失われて、まばらになっていましたが、お寺さんの方の前から見たお姿が良くなるようにとの意向もあり、後頭部の螺髪を前面に移して整えたということだそうです。



4.今も21年に一度に限られる、弥勒仏御開帳〜近年の御開帳を振り返る



慈尊院・弥勒仏像は、文化財調査が行われ、国宝に指定された後も、引き続き21年に一度に限って開扉される厳重秘仏として守られています。

近年の御開帳を振り返ると、次のとおりです。

平成5年(1993)、10月30日〜31日の2日間、21年に一度のご開帳で開扉されました。

平成17年(2005)、3月3日〜9日の7日間、高野山世界遺産登録記念ということで、特別開帳されました。




2005年3月特別御開帳の時の慈尊院




2005年3月特別御開帳の時のポスター



平成27年(2015)には、21年に一度の御開帳に合わせたタイミングで、高野山開創1200年を記念して、4月2日から5月21日まで開帳されました。
通例では、一両日のみの御開帳なのですが、なんと、50日間の長期御開帳となりました。




2015年3月高野山開創1200年記念、御開帳の時の慈尊院



これらの御開帳のチャンスに、慈尊院まで駆けつけて、弥勒仏像の見事な姿を拝された方も、結構いらっしゃるのではないでしょうか。
私は、平成17年の御開帳の折に訪れました。
流石、国宝という見事な弥勒仏像でしたが、堂外のちょっと離れたところからしか拝することが出来ず、眼近にその素晴らしさを実感できなかったのは、ちょっと残念でした。

通常ですと、後20年ほど先にならないと、次の御開帳の時期は到来しません。
それまでに、拝することが出来る機会は、訪れるのでしょうか?




5.そうめったにはない、新発見仏像の国宝指定



前話に引き続き、古来、厳重秘仏として守られてきた、弘法大師・空海ゆかりの仏像の開扉発見物語をご紹介しました。

東寺御影堂の不動明王像と八幡三神像、慈尊院の弥勒仏像ですが、いずれも平安前期の超一流仏像の大発見で、なんと発見後、3件とも「国宝」に指定されました。


新発見の仏像が、「国宝」に指定されるというのは、そうめったにあるものではありません。



【昭和30年代前半は、国宝仏発見の当たり年】


昭和の時代に入ってから、新たに発見された仏像で、「国宝指定」になったものがどれだけあるのか、調べてみました。
私が確認してみた限りでは、次のようなものがありました。





ご覧のように、昭和以降の新発見国宝指定仏像は6件ありましたが、そのうちの4件は昭和30年代前半頃に発見されたものでした。
昭和30年代の前半というのは、「国宝級の仏像の新発見」の当たり年と云えそうです。

戦後、昭和25年に「文化財保護法」が施行され、国宝・重要文化財指定の新制度が出来て以降、丁度この頃が、文化財の調査、保存への取り組みが、精力的に進められた時期にあたるのではないでしょうか。

新たに発見され、「重要文化財」指定になる仏像は、近年でも、それなりにあるようです。
ただし、「国宝」に指定されるほどの超一流の優作仏像が、世に知られることなく秘されているというのは、もう難しいように思えます。


「新発見仏像が、国宝に!」


そんな大発見は、これからは、もう望み得ないことでしょう。





【2017.10.28】


                


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