(2)東寺総合調査で八幡三神像を発見・確認(昭和32年)
〜間違いなく東寺草創期八幡宮の御神体
【【厨子から姿を顕わした三神像〜東寺総合調査】
秘められた、これら4基の厨子が開封され、神像が姿を顕わしたのは、それから3年後のことです。
昭和32年9月、文化財保護委員会、東寺当局、朝日新聞社の三者協力により、「東寺・総合調査」が実施されました。
東寺の霊宝蔵、宝蔵、三蜜蔵、金剛蔵に4宝庫の収蔵品を、約2週間かけて全面的に確認するという大調査です。
この時、総数2600点に及ぶ寺宝が調査され、そのうち、新しく国宝、重要文化財の候補と目されるものが、約30点も確認されました。
この東寺総合調査のときに、待ち望んだ、この厨子の実査が許されることになったのでした。
厨子には、勅封がなされていたため、宮内庁の手で勅封が解かれたということです。
ついに、神像との対面となりました。
厨子開扉に立ち会った倉田文作氏は、初めてその姿に接した時、このように語っています。
「はたして二躰はまさしく女神であって、薬師寺の八幡三神のばあいとおなじであることが判明した。
いよいよ、これら四躯の像が、仮厨子からとり出されてみると、なにしろその大きさにびっくりさせられる。
八幡神は109センチ、女神二躯は、頂に髻があるので、112、114センチと像高はさらに大きい。
外に、武内宿禰像と伝えられるもの一躯があり、これは像高84.8センチで、他の三像にくらべると小ぶりにつくられている。
僧形八幡は、円頂の法躰に袈裟をかけて坐る姿で、女神二躯は、袍衣に背子をかされ、髪を胸前と背に垂れる。」
(「東寺の秘宝」倉田文作・芸術新潮1966年8月号所収)
4基目の仮厨子に納められていた伝武内宿禰像
まさしく、期待に違わぬというか、想定通りというか、平安初期の堂々たる三神像が姿を顕わしたのでした。
「東寺総合調査」を報じる朝日新聞は、三神像発見をこのように伝えています。
「こんどの調査ではとくに工芸と彫刻の部門に大きな成果があげられたが、例えば彫刻では、従来秘仏となっていた御影堂安置の東寺八幡宮のご神体が調査された。
これは平安初期の作品で、日本の神像の最古にして最大の作品と確認されるなど、神像史上重大な発見というべきであろう。」
(1957年10月31日付・朝日新聞〜松下隆章氏執筆)
まさに、「総合調査、最大の発見」というべきものとなったのです。
東寺総合調査を報じる朝日新聞記事
昭和32年(1957)9月の東寺総合調査で、実査が実現した東寺・八幡三神像は、翌年、昭和33年(1958)2月に、すぐに重要文化財に指定されました。
そして、3年後の昭和36年(1961)4月には、「国宝」に指定されました。
伝武内宿禰像も、国宝三神像付けたりとして指定されています。
御影堂・不動明王像と同様、発見後、あっという間に国宝というスピード指定となりました。
この三神像が、その由緒の伝来とともに、如何に平安前期の傑出した優作であるかを物語るものだと思います。
発見された三神像は、昭和40年(1965)に宝物館が出来てからは、そこで保管所蔵されていました。
その後、平成3年(1991)に、東寺の鎮守八幡の本殿、拝殿が再建されたのに伴って、八幡三神像も八幡社に移され、現在は本殿に祀られています。
たまに、一部の像が宝物館に展示されたりすることがありますが、通常は、拝することが出来ないのは、残念なことです。
平成3年(1991)に再建された東寺・鎮守八幡宮
(3) 八幡三神像の来歴と、御影堂安置となったいきさつ
【「東宝記」に伝える、弘法大師在世中の八幡宮の御神体像】
さて、倉田文作氏は、厨子開封前から、
「この神像は、後世のものではなく、東寺八幡宮草創期の当初像なのではないだろうか?」
と想定していました。
果たして、平安前期の制作とみられる姿が顕れ、「想定」は「確信」に変わったことでしょう。
その来歴はどのように考えられるのでしょうか?
「東宝記」は、東寺八幡宮の草創と三神像について、このように記しています。
東寺草創にあたり、帝都鎮護のために八幡宮を勧請したが、この時は神体を安置するには至らず、弘仁年中(810〜824)に社殿を建立して、再び勧請した。
その際、空中に影現した八幡三神所の御影を空海が紙形に写しとり、後に木像に刻んだ。
その木像は、僧形、女体、俗体の三体であったという。
この記事によると、八幡宮の神体は、僧形、女体、俗体という姿であったことになります。
現存三神像は、僧形1躯、女神2躯で、一致しません。
ところが、同じ「東宝記」の八幡宮遷宮についてふれた部分には、
正中2年(1325)に行われた八幡宮修造の際、夜陰におよんで神体を仮殿に遷座したが、その時に、執行厳伊が実見した神体は、僧形と左右女躰であった。
とされており、現存三尊像と一致しています。
このあたりの三神像の像容を伝える齟齬について、倉田文作氏は、執筆論文において、
「この三神像は、遷座の時も余人を寄せ付けないほどの秘され方で、その像容も寺家の言い伝えに過ぎず、八幡宮草創時から僧形1躯、女神2躯であったと考えて差し支えないであろう。
像の構造や造形表現などから、総合的に考えても、
東宝記に、これらの神像を大師在世時の感得像として紹介するのも故なきにあらず、ここにこの一具の像は、わが国神像中の最古最大の作と称すべきものである。」
(「東寺の八幡三神について」大和文華26号1958.6)
このように述べて、現八幡三神像を、「東宝記」が空海在世時の感得像と伝える、当時草創期の神像に間違いないと述べています。
【明治元年、八幡宮の焼失で、御影堂に緊急避難となった八幡三神像】
ところで、東寺八幡宮草創期のご神体であった三神像が、どうして御影堂の不動明王像の横に保管されていたのでしょうか?
八幡宮の建物についての主なる記録をたどると、平安時代の草創期から何度かの修理修復が行われてきましたが、文明18年(1486)の土一揆で伽藍と共に焼失ししました。
翌19年には、再建が開始されました。
ところが再建社殿も、明治元年(1868)に、南大門と共に再び火事に遭い、焼失してしまいます。
明治元年の火災では、南大門の運慶、湛慶作の仁王像は焼失してしまいましたが、八幡宮の八幡三神像がどうなったのかは、不明のままになっていたのです。
西川新次氏は、このように語っています。
「八幡三神像については、文明18年(1486)の土一揆に伴う回禄の際、住僧の決死の行動によって、炎上する鎮守人幡宮から教出されたことは記録で知られていた。
しかし、その後の消息は全く不明で、秘仏(御影堂・不動明王像)に同居してひっそりと伝わっていることなど、誰も思いも及ばぬことだったのである。」
(「重要文化財雑感」重要文化財第1巻・付録月報1972.12)
明治元年の火災で行き場のなくなった八幡三神像と伝武内宿禰像の4体は、仮厨子の中に納められ、御影堂に移されて保管されたのでした。
緊急避難の仮住まいであったのだと思います。
そのことが、世に伝えられることなく秘かに祀られ、80年余を経た昭和29年(1954)に、存在しているのが発見された、というわけです。
(4) 平安前期の第一級の傑作神像彫刻・東寺三神像〜神像彫刻の最古例
現三神像は、倉田文作氏が述べているように、東寺八幡宮草創期、弘法大師在世中(835年没)に造立されたものと見てよいのでしょうか?
【神像彫刻の最古例〜当時草創期の平安前期神像彫刻】
久野健氏は、このように述べて、倉田氏の見方を支持しています。
「八幡神像がこれ(貞観6〜10年・864〜8造立とされる広隆寺講堂地蔵菩薩像)に比べ、古様を示していることは、誰の目にも明らかなところであろう。
そして二女神像の両膝に現れる衣文などは、承和6年(839)の東寺講堂の五菩薩像、また承和7年より12年(840〜845)頃までに真済により発願造立された神護寺の五大虚空蔵菩薩や、さらに古く、天長年間(824〜834)の制作と考えられる広隆寺講堂の阿弥陀如来坐像に近く、
こうした点は、この三神像が、弘仁年中の制作と記す『東宝記』の記事もまた一部の真を伝えていると考えられ、少なくとも空海在世中(835年没)には制作されていたのではないかということが推定される。」
(「平安初期彫刻史の研究・第4章〜東寺草創期の彫像」久野健著・1974年吉川弘文館刊)
私も、この三神像を、東寺宝物館や博物館に、まれに出展された折に、何度か観たことがあります。
弘法大師在世時の像なのかどうかはよく判りませんが、神像を眼前にして
「これは凄い、流石、第一級の平安前期神像だ!」
と、大いに感動した記憶があります。
堂々たる重量感に満ちて、迫力満点のインパクトを強く感じる神像です。
まさに平安前期彫刻の威風、オーラを発散しています。
また、一種妖しげな感覚に惹き込まれていくような引力のようなもの漂わせています。
本像の像容、作風の見方などについて、コンパクトに要約された解説をご紹介すると、このようなものです。
「作風を見ると、三像とも体躯は幅が広く、厚みがあり、膝張りも十分で、きわめて重量感に富んでいる。
丸く張った肩から胸にかけての肉づきは、豊かで弾力性がある。
この体躯にふさわしく、頭部も丸く大きい。
全体に丸く豊かな印象を与えるところが、本神像の造形的特徴のひとつである。
面部は、眼鼻の彫りが比較的浅く、肉づけは起伏に乏しい。
そのため一見平板のようだが、やはり丸く豊かな頬には張りがあり、生気が感じられる。
眉は細く、ゆるやかなカーブを描き、直線的な上瞼にゆるい曲線の下瞼をそえた細い眼は、伏し目がちに前方を見据えている。
鼻は低めで短く、唇は小ぶりで厚みがある。
その表情には、承和12年(845)頃の神護寺五大虚空蔵菩薩像や、これとほぼ同時期の作とみられる観心寺如意輪観音像に通じる、一種官能的といえるムードが漂っている。
本三神像は神像彫刻であるが、以上のような豊満で官能的な作風は、承和6年(839)に開眼供養された東寺講堂の諸像を嚆矢とする、いわゆる密教様の概念でとらえられるものであう。」
(「日本の古寺美術12巻・東寺」松原智美氏執筆1988年保育社刊所収)
三神像の造立が、「東宝記」に伝える、空海在世中、弘仁年間(810〜824)まで遡り得るかどうかは、何とも言えないようですが、東寺講堂諸像が開眼された承和6年(839)をさほど下らぬ頃迄の、平安前期の制作、東寺草創期のものであることは確かで、9世紀制作の神像彫刻の最古例の一つであることには間違いありません。
因みに9世紀に遡る神像彫刻としては、
広島・御調神社の女神像、京都・松尾大社の三神像、奈良・薬師寺の八幡三神像(寛平年間889〜898)を挙げることが出来ます。
東寺三神像が最も古いのかどうかは、これからまだ議論が起こる余地がありそうです。
三神像と共に発見された、伝武内宿禰像について、ちょっとふれておきます。
寺伝に武内宿禰と伝えられる像で、像高84.8cmと、三神像よりやや小ぶりの上半身裸形像です。
一木彫像ですが、やや細身のおだやかな作風で、三神像からはかなり遅れた時期の、平安後期の制作とみられています。
【一本の神木、霊木から彫り出された三神像】
最後に注目しておきたいのは、東寺三神像の制作に用いられた、樹木・用材についてのことです。
材はヒノキといわれていますが、特殊な樹木が使われていると思われるのです。
三つの神像を像底から見ると、共に像の上の方に向けて大きな空洞があるのです。
内刳りではなく当初からの用材のウロ、即ち朽損なのです。
三体とも、この空洞を覆うようにして、面部、胸部、腹部などに別材を矧ぎ付けるという特殊な構造をしています。
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落雷で神が降臨したとされる 霹靂木(へきれきぼく) 京都下賀茂神社
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特別な意味なしに、大きなウロのある不自由で、窮屈な材を、わざわざ用いて彫るということは考えられません。
そんな材に、無理をして彫っているので、大事な顔の部分にも埋木のような矧付けをせざるを得なかったのです。
要するに、一本の朽損した巨木から、三像全ての材をとったとみられるのです。
この巨木が、由緒ある「霊木、神木」であったことに違いありません。
神像彫刻に霊木、神木を用いるということは、古来よく言われているのですが、それを間違いなく確認できる数少ない貴重な作例ということになるのです。
「神の依り代」という言葉が、実感されます。
この三神像が発散する、霊的な威風、オーラの源泉は、こんなところにあるのかも知れません。
因みに、薬師寺の八幡三神像も一材から三体分を木取りしていると見られ、同じく霊木、神木から彫り出された像だと見られています。
思いもかけぬ大発見となった、東寺・八幡三神像の発見物語について振り返ってきました。
神像彫刻の最古例とみられ、また平安前期彫刻の傑出した見事な神像が姿を現したことは、神像彫刻史上、極めて重要で、意義深い発見となったのでした。
4.御影堂不動明王像、三神像発見物語の終わりに
この辺で、東寺西院御影堂から調査、発見された、国宝・不動明王像、国宝・八幡三神像の発見物語のご紹介を、終えたいと思います。
よくぞ、これだけの優れた第一級の彫像が、当初の美しさを残したままで、御影堂に秘されて伝えられてきたものだと、不思議な感動さえ覚えてしまいます。
両像の調査発見に関わった倉田文作氏は、東寺御影堂での「二つの国宝像の発見」を、このように回顧しています。
「これらの御影堂の彫刻の国宝指定は、史料的にいえば、発掘ととなえるのはあたらないとおもうが、これらの、文字どおり平安初期の代表作品に数えられるべき仏像、神像が、こうして近年はじめて公にされ、平安彫刻史の研究にあたらしい光をなげかけたことは、発掘の名にあたいするともいえよう。
この御影堂は、けっして何も大堂宇ではない。
大師の住坊よばれるのに、いかにもふさわしい、簡素で、清らかな一郭であって東寺の大伽藍のなかでは、いたって人目をひかぬひそやかなところなのだが、近年にいたって、この東寺御影堂の名は、とみに日本彫刻史上重きを加えたといわねばなるまい。」
(「東寺の秘宝」倉田文作・芸術新潮1966年8月号所収)
感慨深く語られたこの文章を、最後にご紹介して、発見物語を締めくくらせていただきます。
了
【2017.10.14】