【第8話】  東寺御影堂・不動明王像、八幡三神像 発見物語


〈その1ー2〉



【目   次】


1.はじめに


2.東寺西院御影堂の厳重秘仏・不動明王像の開扉発見物語〜昭和29年

(1)古来、厳重秘仏として守られる御影堂・不動明王像

(2)明治時代に、一度限り開扉された? 御影堂・不動明王像

(3)ついに、開扉・調査された厳重秘仏、不動明王像〜昭和29年

(4)開扉・調査後も、厳重秘仏として守り続けられる不動明王像


3.東寺・八幡三神像の発見物語〜昭和32年

(1)御影堂内に置かれていた4基の仮厨子〜八幡三神像なのか?

(2)東寺総合調査で八幡三神像を発見・確認(昭和32年)
〜間違いなく当時草創期八幡宮の御神体
(3) 八幡三神像の来歴と、御影堂安置となったいきさつ

(4) 平安前期の第一級の傑作神像彫刻・東寺三神像〜神像彫刻の最古例


4.御影堂不動明王像、三神像発見物語の終わりに






1.はじめに



京都、東寺の西院御影堂に長らく秘されてきた不動明王像と、八幡三神像の発見物語をご紹介したいと思います。


厳重秘仏・不動明王像については、仏像好きの方ならご存知ないという方はいらっしゃらないことと思います。
何人も拝観が出来ませんので、写真でしか観ることはできませんが、その見事な造形、堂々たる姿は、超一流の平安前期の優作です。
写真の画像だけでも、見惚れてしまいます。




東寺西院御影堂・不動明王像(平安時代・国宝)
(日本の美術「貞観彫刻」至文堂刊掲載)



八幡三神像は、これまたパワフルで一種妖しげな魅力を発散させる、平安初期の神像です。
僧形・俗体神像彫刻の最古例ともいわれる、超一流の傑作です。





 

東寺・八幡三神像(平安時代・国宝)
(「東寺の歴史と美術」東京美術刊掲載)




【東寺・西院御影堂の秘仏・不動明王像の開扉調査と、堂内から発見された八幡三神像】


この両像が、調査、発見され、その姿が確認されたのは、昭和30年(1955)前後のことでした。

東寺御影堂の不動明王像は、弘法大師空海の作と伝えられ、古来、厳重な秘仏として、人々の眼に触れることなく祀られてきました。
この厳重秘仏の不動明王像が、ついに昭和29年(1954)6月に至り、この時限りということで調査が実現することになり、像容等々が確認されたのでした。

翌年、昭和30年(1955)2月に、即座に重要文化財に指定され、その4か月後の6月に「国宝」となっています。


八幡三神像は、この不動明王像が祀られる御影堂内に置かれた仮厨子に中に収められていました。
不動明王像調査の時に、その仮厨子の存在に気づき、昭和32年(1957)に調査、発見されたものです。
明治初年に火災焼失した東寺八幡宮に祀られていた、平安初期の神像の傑作であることが確認され、昭和33年(1958)2月に重要文化財指定、3年後の昭和36年(1961)4月に「国宝」に指定されました。


不動明王像、八幡三神像共々、調査発見後、
「即座に重要文化財指定から、一気に国宝へ」
とスピード指定されていることからも、
これらの像が日本を代表する優れた傑作であることが、容易に理解できることと思います。

御影堂・不動明王像については、厳重秘仏ながら、明治時代から、平安前期の優れた仏像であろうことが知られていた仏像です。


厳密にいうと、「昭和時代の発見」といって良いのかどうかは判りませんが、東寺御影堂の不動明王像、八幡三神像の発見は、仏教彫刻を愛好するものにとっては、

「世紀の大発見」

といっても過言でない、超一流の仏像、神像の出現でありました。




2.東寺西院御影堂の厳重秘仏・不動明王像の開扉発見物語〜昭和29年



まずは、西院御影堂の不動明王坐像の調査発見物語から始めたいと思います。


御影堂は、金堂、講堂などが立ち並ぶ東寺伽藍からちょっと離れた境内の西北部、西院と呼ばれる一角にあります。




東寺伽藍・遠望


この場所に、空海の住坊があったと伝えられています。
御影堂は、その名のとおり、弘法大師・空海をお祀りするお堂で、鎌倉時代創建の国宝建造物です。



東寺御影堂・北面〜大師像安置側



お堂の北面には、弘法大師・空海の彫像(康勝作・天福元年1233〜重要文化財)が祀られています。



(1)古来、厳重秘仏として守られる御影堂・不動明王像


厳重秘仏・不動明王像は、御影堂の南面の後堂本尊として祀られています。

この像は、空海の自作で、日夜恭敬の仏と伝えられており、弘法大師・空海と密接不離の霊像として守られています。
寺内での、不動明王像への畏敬は、一際ただならぬものがあります。
それ故、古来、絶対秘仏として人目を隔てられてきました。

一般には、秘仏といっても、何十年に一度はご開帳されたり、特別な場合には拝観が可能だったりする秘仏が結構あるのですが、この御影堂・不動明王像は、厳重秘仏として、長らく誰の目にふれることなく秘されてきたのでした。



【東宝記が伝える、畏怖されてきた不動明王霊験譚】


東寺の歴史を記した「東宝記」には、この不動明王が厳重秘仏とされるようになったいきさつや、畏怖の念をもって鄭重に伝えられるようになったことが各所にふれられています。



東宝記(巻第一)


ちょっと、ご紹介したいと思います。

「東宝記・西院」のくだりには、不動明王像についてこのような記事があります。

平安時代末に近い仁平3年(1153)、東寺の長者(寺の代表者・管長職にあたる)寛信の代の時、不動明王の後光(光背)の破損した部分に修理が、2月15日に行われた。

ところが、3月7日に寛信が急に入滅した為、諸人の間に、ご本尊の修理をしたせいだとの噂が立った。

その後には、不動明王の頭上を飾る天蓋が落下して、光背や像の右手に持つ宝剣が折れて損傷した時にも、数代の寺務のあいだ修理に及ばなかった。

平安時代の昔から、この不動明王の威力が畏れられ、像を触ったり、手を入れたりすると

「祟りのある怖い不動様」

とされ、そのような評判が広まっていたようです。


その他のくだりにも、

・寛遍僧正(1100-1166)が寺務の時に、御影堂の修理を二度行ったが、本尊は他所に動かさずに修理を行った。

・文治4年(1188)に、俊証権僧正が事務の時にも、不動堂の修理を行ったが、この際も東廊東門に移坐しただけであった。

・応安元年(1368)に、光背や天蓋にわずかな修理が加えられた。

・康暦元年(1379)、西院が炎上した際には、不動明王像は無事運び出され講堂に仮安置、翌年西院が再興されると、盛大な法会の中、不動堂に戻った。

というようなことが記されています。

御影堂・不動明王像の修理や移坐について、これだけの記録が、わざわざ残されていることをみても、この像がとりわけ畏怖の念をもって、ひたすら鄭重な取扱いがされてきたことが判ります。

こんな謂れのある不動明王像ですから、古来、特段厳重な秘仏として、開かずの扉の奥に祀られてきたのです。


誰の眼にもふれたことはない秘仏であったのですが、この後ふれるように、明治時代に一度だけ扉が開かれ、写真が撮られたことがありました。

その写真により、祀られている不動像は、間違いなく平安時代の古作であろうことは、知られることになったのですが、その後も厳重な秘仏として、誰の眼にも触れることなく秘されてきたのでした。




(2)明治時代に、一度は開扉された御影堂・不動明王像



【何故だか残されている、明治時代の不動明王像の撮影写真】


絶対秘仏であるはずの不動明王像なのですが、何故だか、明治時代に撮られた写真が残されているのです。

日本初の官製日本美術史の書といわれる「稿本帝国美術略史」や、明治の豪華美術書「真美大観」に、この不動明王像の写真が、掲載されているのです。

(「稿本日本帝国美術略史」とは、明治33年(1900)のパリ万国博覧会を機会に出版されたフランス語版の Histoire de l'art du Japonの日本語原稿を、 大正5年(1916)に国内出版した本です。)


 

「稿本帝国美術略史」(大正5年1916刊・東京帝室博物館蔵版)


「稿本帝国美術略史」の解説全文をご紹介しますと、このように記されています。

「此の不動は弘法大師一刀三礼の作と伝えられる。
その刀痕を検するに、仏師の作としては熟練を欠きて鋭利ならざる点あれども、全体の形状は雄偉にして自ら高邁の気象を帯び、真に弘法大師の作として信ずるに足るべきものなり。」

「真美大観」(第1冊、明治32年1899刊)には、像の概説と共に、

「此に出す像は、彼(弘法大師空海)が一刀三礼の彫刻と称して、現に東寺御影堂(弘法の影堂)の南面に秘蔵するものとす。」

と記されて、厳重秘仏とされていることがふれられています。

このように、明治時代に、一度開扉されたことは間違いないのですが、両書の解説と、一枚の写真以上の資料は、何も残されていません。

「稿本帝国美術略史」掲載写真をご覧ください。




「稿本帝国美術略史」に掲載されている御影堂・不動明王像の写真)



この一枚の写真が、残されているだけのようです。
「真美大観」に掲載されている写真も、全く同じものです。


この「稿本帝国美術略史」に掲載の写真は、誰の手で撮影されたのでしょうか?

誰が、この不動明王像を、直接拝したのでしょうか?



【写真は、明治21年、小川一眞が撮影〜「近畿地方古社寺宝物調査」の時?】


この写真撮影や開扉のことについて、はっきり記された資料等は、私が調べてみた限りでは見当たりませんでした。

私は、次のようないきさつではないかと、推測しています。

この写真は、明治21年(1888)の「近畿地方古社寺宝物調査」の際に、写真家・小川一真によって撮影されたものではないかと思っています。

東京国立博物館の情報アーカイブに掲載の「古写真データベース・東博所蔵」を検索すると、この不動明王像の写真が1枚だけ掲載されています。

【撮影者検索:小川一眞の中の、教王護国寺・不動尊〜画像番号:PCDB-000408】

この写真と、「稿本帝国美術略史」掲載写真を較べると、ピッタリ一致するのです。
構図も、ライティングの感じも、同じように思えます。

この不動明王像の写真には、
「撮影者:小川一真、 撮影時期:明治21年(1888)」
と記された付箋が貼られています。

小川一真が、明治21年に実施された「近畿地方古社寺宝物調査」の撮影記録者に任命され、調査に同行しています。
この時に、不動明王像の写真が撮影されたものと思われます。


 

(左)「稿本帝国美術略史」掲載写真   (右)明治21年・小川一真撮影写真 



「近畿地方古社寺宝物調査」は、政府初の組織的宝物調査として実施された本格的文化財調査で、九鬼隆一、岡倉天心、フェノロサ等が参加しています。
撮影時期の明治21年というのは、「近畿地方古社寺宝物調査」の実施年に、ピッタリ一致しています。


この「近畿地方古社寺宝物調査」の時、御影堂不動明王像が開扉されたのではないでしょうか。

岡倉天心、フェノロサ等は、東寺に調査に赴き、
「国家による宝物調査であるから、厳重秘仏もすべて官命により調査する。」
と厳命し、扉を開かせたのではないでしょうか?

あの法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を強引に開扉して、巻き付けられた白布を解いた天心、フェノロサのことですから、東寺御影堂についても無理にでも開扉させ、小川一真に写真を撮影させたのではないだろうかと、私は想像しています。


この時に実見され、写真まで取られているのですから、明治30年に「古社寺保存法」によって制定が始められた「国宝」(旧国宝)に指定されているかと思うと、そうではないのです。
昭和29年(1954)の調査、発見にいたるまでは、いわゆる文化財指定はされていませんでした。
「無指定」だったということです。


明治21年(1888)に、一度だけ開扉され写真が撮られたものの、厳重秘仏で、その後の調査確認が叶わなかったので、(旧)国宝指定もされなかったのでしょうか。

それとも、東寺の側の信仰面の意向により、文化財指定を避けたということなのでしょうか。




(3)ついに開扉・調査された厳重秘仏、不動明王像〜昭和29年



【開かずの扉が開かれた、いきさつを振り返る】


明治時代の開扉の事情がどうだったのかという話はさて置き、その後は一切開扉されることなく、厳重秘仏の掟は厳しく守られ、何人もこの像を拝することが出来た人はありませんでした。
文部省や研究者にとっては、本当の処どのような仏像なのかもはっきりとはせず、是非とも直接調査をする機会を得たいという念願の像であったのでした。

その実像が閉ざされたままとなっていた御影堂・不動明王像でしたが、昭和29年(1954)に至り、ついにそのベールが開かれることになったのです。

明治21年(1888)に、一度だけ写真が撮られてから、66年後のことでした。


不動明王像が開扉され、調査が叶うことになったいきさつを、当時、調査にあたった人たちの回顧文などから、振り返ってみたいと思います。

昭和28年(1953)、文部省文部技官で国宝調査を担当していた丸尾彰三郎氏は、当時の管長・山本大僧正に、その拝観について折り入って願い出ました。

文部省としては、

「この不動明王像は、なんとしても文化財指定をして、保存保護できるようにしておく必要がある」

との認識、念願であったでしょう。

国の文化財指定をするためには、どうしても一度は調査が必要ということで、山本大僧正にお願いしたようです。

ところが、大僧正自身も、

「不動明王像を未だ拝したことも、安置の間に入ったことさえない」

との話でした。

そんな状況では、とても開扉は叶わぬところであったのですが、丁度、御影堂の桧皮が傷んで、葺き替えをしなければいけない時期となっていたのでした。
屋根の葺き替え修理の間は、不動明王像も他堂に移坐しなければなりません。

「御像の移動には、その道の専門家が必要になろうから、その際に一応記録のために、写真も撮影しておく必要があろう」

という話になったのだそうです。

この移坐に際しての、御像の調査了解は、まさに山本大僧正の大英断でありました。


翌昭和29年(1954)6月、ついに移坐の日を迎えました。
明治以来、初めて、厳重秘仏の拝観、本格的調査が叶ったのです。
拝観が叶ったのは、限られた専門家の丸尾彰三郎氏、倉田文作氏、西川新次氏等のようです。

この3氏は、秘仏拝観を振り返る論文、回顧文をいくつか執筆されています。



【秘仏開扉の緊張感、興奮を振り返る〜調査の回顧文、論文から】


のこされた回顧文から、不動明王像拝観の有様を、振り返ってみたいと思います。

倉田文作氏は、このように綴っています。

「御影堂の南面には、当然のことだが、大きな大壇があって、さまざまな法具があって、また供物もたくさんにおかれている。
作業は、この大壇や供物のかたづけからはじまる。
それが終って、扉を開くと、たたみ敷の中ノ問がある。
何もおかれていない。
片すみに、古い大壇が一基仮におかれているだけである。

この中ノ間の正面に、三つの観音開きの頑丈な扉がある。
これを開くのにやや時間がかかった。
扉が、重い音をたてて開かれると、灯をまったく用いない堂内は、文字どおり漆黒の闇で、しばらくは、どこに御本尊があるのかもわからない。
懐中電灯を直接あてるのがはばかられる一瞬である。

わずかに、かいまみたときの、仏・光・座のはなやかな暈繝彩色のあざやかな色あいが、今日も忘れられない。

それにしても、息をころし、進み出る一足ごとに気づかれのする一時であつた。
像は、中ノ間まではこび出されて、前もって用意した電灯が、ここで照らされて、実はあまりはっきりした記憶がないが、たぶんこのとき撮影を行なったのではないかと思う。
記憶がうすれたのではなくて、ともかくこちらが上気していたために、こんがらかっているのである。

そのくらい、この不動さまにお目にかかるということは、私の一生でも何度もない、千載一遇の折だったのである。
何しろ、国宝調査の仕事をしているありがたさが身にしみて感じられたのだから。」
(「東寺の秘宝」倉田文作・芸術新潮1966年8月号所収)


西川新次氏は、このように語っています。

「始めてこの像を拝した時の不思議な感動を、筆者は述べる言葉を知らない。

それは予想外に大きな、静かで、しかも常ならぬおそろしさの溢れる姿であった。

真の秘仏のみが持つ手の切れるような空気にとり巻かれて、それは千古のままの新しさ厳しさを守っていたのである。」
(「東寺西院の秘仏」西川新次・大和文華第35号1961年7月)

厳重秘仏・不動明王が開扉されるという、ただならぬ緊張、興奮に包まれた中で、その姿を拝した様子が、ピリピリと伝わってくる文章です。
永年、強い畏怖感を以て祀られ、守られてきた秘仏の開扉に、一種異様な空気感、不可思議な感動を覚えたことが、ひしひしと語られているのが実感されます。


この緊張と興奮の中での不動明王像との対面の後、御像は、美術院の仏師の方々のご奉仕により、御影堂から灌頂堂に移坐されたのでした。



【紛うことなき平安前期の傑作、不動明王像〜即座に国宝指定】


果たして、実見が叶った不動明王の姿は、紛うことなく平安前期の不動明王像の優作に間違いありませんでした。


像高123cm、ヒノキ材の一木造りの彩色像で、一部に乾漆を併用しています。
長く秘されていたことから、衣と条帛には鮮やかな繧繝彩色、截金が残されています。

空海により将来された「大師様」という不動明王の形式で、東寺講堂の不動明王像と同じ形姿をとっています。

堂々たる安定感ある造形で、忿怒の面相などには、他に類を見ない周りを圧するような、神秘的重圧感を漂わせています。
古来、畏怖の念をもって祀られてきたというのも、誰もが納得という姿です。

弘法大師当時の作と伝えられますが、穏やかでゆったりとした表現からは、9世紀後半の造立と推定されています。

具体的な造立年としては、貞観9年(867)という推定もされています。
宝菩提院蔵の「九徹剣図」が、不動明王像の右手に執る宝剣を図示したものと考えられ、そこに「政官九年歳丁亥十月五日始」と記されており、この年紀が制作時期を推定する最有力の手懸りと考えられているとのことです。

いずれにせよ、承和6年(839)頃の制作とされる講堂・不動明王像に、少し遅れるころの制作とみられています。
講堂・不動明王像は、わが国最古の不動明王彫像ですが、それに次ぐ貴重な古例ということになります。




東寺講堂・不動明王坐像(平安時代・国宝)



この時の調査、発見によって、平安前期の傑作と確認された不動明王像は、調査の翌年、昭和30年(1955)2月に重要文化財指定の後、その4か月後の6月に、即座に「国宝」に指定されました。

この超ハイスピードの国宝指定をみても、この像が日本彫刻史上の傑作といって良い像であることが、納得頂けると思います。



【調査で明らかになった新事実〜「京博保管の天蓋」は不動明王像のもの】


この移坐時の調査、その後の修理により、新発見というか、このようなことも新たに判明しました。

京都国立博物館に寄託されていた平安時代の「天蓋」が、御影堂・不動明王のものだったのです。

「東宝記」に、

「不動明王の頭上を飾る天蓋が落下して、光背や像の右手に持つ宝剣が折れて損傷した時にも、数代の寺務のあいだ修理に及ばなかった。」

と記されていますが、
それが事実に相違ないことを実証するかの如く、不動明王像には損傷の痕が残されていたのです。
そして、この落下した「天蓋」というのは、東寺に別に保管され、京都国立博物館に寄託されている古様な天蓋に違いないことが、判明したのでした。






御影堂・不動明王像天蓋、圏帯に描かれた彩色菩薩像の姿が美しい
(「東寺国宝展」図録1995刊掲載)




御影堂・不動明王像光背(日本彫刻史基礎資料集成掲載)



別保管の古様な天蓋は、その文様、彩色の特色、八葉部の各弁の彫り口が、御影堂・不動明王像の光背のそれとそっくりであったのです。
光背と天蓋は、一具のものである可能性がきわめて大きくなったのです。

さらには、天蓋には、落下した時のものと思われる大きな損傷痕まで残されていました。
一方、不動明王像の宝剣の方も、東宝記に伝えるとおり、柄頭の三鈷形の上のあたりで折損して、竹の副木で応急につないでありました。

まさに、東宝記に伝える、「天蓋落下、宝剣損傷」の有様が、そのとおりの形で遺されていたのでした。

調査にあたった丸尾彰三郎氏は、このように述べています。

「東宝記抄記中『天蓋落而御光并剣破損』とあるのを実状等から想定して見ると、天蓋が何かの故障で落ちた、先づ光背の火炎部が透彫で弱かつたのでこれを散落せしめ、次に沙髻を打ってこれを壊ぼつと、次いで弁髪の中間部、透彫になって弱いところをたたき折り、右手の三指を折り、剣身を打ち落してから膝辺に当って天蓋も一部破損した。

天蓋破損とは応安注記に
『於天蓋者朽損之間不及釣、只御座後邊寄立之 天蓋裏有八葉形 其廻有飛天図像等』
とあるのによつての想定で、墜落して破損したのを旧のように懸けずに置いてあつた間に朽損した、のであると解いて見たのである。」
(「教王護国寺西院不動明王像」丸尾彰三郎・美術研究183号1955.9)


同じく倉田文作氏は、このように回顧しています。

「こうして、私は、この東寺の天蓋は、今日こそ西院の不動像とはなれて保存されているものの、元来一具をなすべきものと考える。
『東宝記』の伝える不動像の損傷は、この天蓋が落ちたときに生じたものであるという。
それなら、天蓋もまたそのときこわれたにちがいない。
この問題の天蓋は、まさしく、八葉と吹返しの一部が欠失して、かなりひどい損傷があった。
こうしてこの天蓋と、御影堂の本尊とは、一具のものとして扱ってよいであろう。

それにしても、この天蓋は、平安初期の天蓋の貴重な作例として尊ぶべきであるとともに、その華麗な彩色は、このころの絵画のすぐれた作品としても注目されればならない。」
(「東寺の秘宝」倉田文作・芸術新潮1966年8月号所収)

この不動明王像の天蓋の方は、たまに博物館の展覧会に出展されることがあります。
ご覧になった方も、多くいらっしゃるのではないかと思います。
落下損傷した痕は、今ではきれいに補修されています。

不動明王像の方は、宝剣や羂索が損傷していたり、矧ぎ目がゆるんだりしていましたので、国宝指定後に美術院で、入念な修理がなされました。




(4)開扉・調査後も、厳重秘仏として守り続けられる御影堂・不動明王像



【その後も、決して開扉されることのない、御影堂不動明王像】


この時の調査、修理の後も、現在まで、御影堂不動明王像は厳重秘仏として守られています。
一度も開扉されたことはありません。

一度だけでもいいので、不動像の見事な姿を、この目で直に拝したいというのが念願でありますが、これからも御開帳されそうな気配は全くありません。

70歳も近くなってきた私にとっては、もう叶わぬ夢で終わってしまいそうです。



【ちょっと付けたり〜昭和29年開扉発見以降にも行われていた、写真撮影と調査】


ここからは、ちょっと付けたりの話です。

「御影堂・不動明王像は、昭和29年の調査、発見以降、誰の眼にもふれていないのだろうか?」

という話です。

私は、

・この調査終了後は、引き続き厳重秘仏とされ、誰の眼にもふれたことが無い。

・不動明王像の写真は、この昭和29年(1954)の調査から一連の修理の時に撮影された写真しか存在しない。

・美術書などの、不動明王像の掲載写真は、すべてこの時に撮影された写真が使われている。

このように、勝手に思い込んでいたのです。

ところが、この発見物語をご紹介するために、いろいろな資料や写真集にあたってみました。
意外にも、昭和29年調査以降にも、不動明王像の写真が、新たに撮影されていることに気がつきました。

間違いなく、新たな撮影写真が使われていると思われるのは、次の2冊です。

「大師のみてら 東寺」東寺文化保存会刊行・土門拳写真 美術出版社制作1965刊

「秘宝・東寺」佐和隆研著・講談社1969年刊

「大師のみてら 東寺」掲載の写真は、いかにも「土門拳の写真」という迫力溢れるものです。


この他に、「日本古寺美術全集〜第12巻・教王護国寺と広隆寺」(集英社・1980年刊)の掲載写真(田枝幹弘氏撮影)も、その後に撮影されたものなのかもしれません。

極々限られたものであると思いますが、何度か新たな撮影が行われていることは間違いないようです。


仏像の実査も、その後、なされたことがあるようです。

「日本彫刻史基礎資料集成・平安時代 重要作品編第4巻」中央公論美術出版1972年刊

には、御影堂・不動明王像が採り上げられています。

その記述をみると、
「実査 昭和46年8月 西川新次 水野敬三郎」
と記されていました。
昭和46年(1973)にも、実査調査がなされたようです。


こんなことに気が付いて驚くほどに、まさに正真正銘、厳重秘仏として守られ続けられている不動明王像と云えるのでしょう。



東寺御影堂の不動明王像の開扉、調査、発見に至る物語について、振り返ってみました。
当時の関係資料などを辿ってみただけなのですが、書き綴るにつれ、こちらの方が、その畏怖感に、何やら息を詰めて緊張してしまうような気持ちになってしまいました。

これも、不動明王の言い知れぬ霊威力のなせる技なのでしょうか?




【その2】では、同じ西院御影堂から発見された、国宝・八幡三神像の発見物語をたどってみたいと思います。



【2017.10.7】


                


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