【第7話】  岩手県〜黒石寺・薬師如来坐像 発見物語


〈その2ー2〉



【目   次】


1.「9世紀唯一の紀年在銘像」が、何故か東北の地に〜黒石寺・薬師如来像


2.黒石寺・薬師像が、正真正銘の平安初期一木彫と認められるまでの道程


3.薬師像の魁偉な容貌、その訳は〜蝦夷への畏れと威嚇か?


4.地方仏が注目を浴び、魅力が語られる契機となった、黒石寺薬師像の発見






3.薬師像の魁偉な容貌、その訳は〜蝦夷への畏れと威嚇か?



【特異な容貌〜威嚇的で恐ろしいお顔の謎】


薬師像の造形などについて、簡単にみてみましょう。

像高126p、桂材の一木彫で、体幹部から膝前まで一材から彫り出しています。
内刳りは、後頭部中央からと体部背面から大きく刳り、蓋板、背板をあてています。
また、面相部、両肩などに、薄く乾漆が盛られています。

この像を拝して、なんといっても驚くのは、特異な容貌です。


威嚇的で恐ろし気な黒石寺薬師像・顔貌


「荒々しい螺髪、目尻の強烈に吊りあがった厳しい眼、尖るように突き出した唇。」

人を威嚇するような恐ろしげな顔で、周囲を畏怖するのに充分な面貌です。
呪術的というのか、魔力的というのか、魁偉な異貌としか言いようがありません。
この強烈なインパクトは、都の平安初期彫刻とは全く違う、特異なものです。



【蝦夷調伏への祈りが、魁偉な容貌を造らせた?】


どうして、このような威嚇的な顔貌の仏像が、このみちのくの地で貞観年間に作られたのでしょうか?

その訳については、このように考えられています。

当時、東北の開拓にあたり、蝦夷と厳しく対峙した人たちが、その前進基地において、その脅威に立ち向かい、蝦夷を威嚇する頼りになる仏像を、守り神として造ったに違いない。
それ故に、誰もが畏怖するような、恐ろしげな容貌の仏像を造ったのだ。


9世紀の東北開拓は、蝦夷の反乱によって前進基地の柵や城が次々陥落するなど、厳しい状況にありました。

「三大実録」の貞観15年(873)12月7日の条には、このような記述がされています。

「陸奥国では、一応帰順した蝦夷までが、柵の近くに満ちみち、ややもすると反乱をおこそうという気配がある。
そこで、官民ともに、蝦夷を見ること、虎狼の如くにおそれおののいている。
願くは、武蔵の国の例にならい、五大菩薩を造り国分寺に安置し、蛮夷の野心をやわらげ、住民の恐怖をとりのぞいてもらいたい。」

このように、中央政府に申し出ているのです。
黒石寺の薬師像がつくられてから、11年後のことです。

この地の開拓にあたった人々が、いかに蝦夷を恐れ、ひたすら神仏の加護にたより、戦々恐々とした毎日を送っていたかが判ります。
黒石寺のある地は、陸奥の国府よりまだ北辺、前進基地の胆沢城のすぐ近くです。

このような、せっぱつまった限界状況の下で造られた薬師像の像容は、慈悲深い仏像などということは二の次で、まずもって蝦夷に対して威嚇になり、味方にたよりになる像が必要であったのでしょう。
そんな祈りが込められて、この薬師像がつくられたに違いないというのです。

この考え方が、真実なのかどうかは判りませんが、このみちのくの辺北の地に、何故、特異で魁偉な顔貌の薬師像がつくられたのかに思いを致すとき、「なるほど!」と、心よりの共感、深い感動を覚えてしまいます。



【思いのほか扁平な体躯、浅くシンプルな衣文】


ところで、この薬師像の側面にまわってみて驚くのは、面奥・体奥が随分扁平なことです。
正面からみた、堂々たる体躯、厳しい面貌からすると、平安初期彫刻に相応しく、ものすごく分厚く塊量的につくられているに違いないと思うのですが、意外なことに厚みがないのです。



黒石寺薬師如来像・側面〜体奥・面奥共に意外にもに厚みがない


特に頭部は、それが顕著です。
衣文も翻波が鋭く彫り込まれているのではなく、浅くシンプルな刻線になっています。
このあたりを見ると「貞観の年紀」がなければ、平安初期の制作とは、とても思えません。

この点に注目しているのは、倉田文作氏で、このような見解を述べています。

「これほどの正面をつくった作者が、どうしてこうした側面をつくったのだろう。
それは、やはり地方作家の悲しさといわざるを得ない。
・・・・・・・・・・
とかく側面観に彫刻としての造型に欠陥かみとめられるのは、仏像彫刻にありがちのことなのであるが、それにしてもこの像のばあいは極端である。
それだけに、ここに考えられる理由としては、この像の作者がよりどころとしたものが、こうした正面の偉容をもつ図像(絵画の像容)であって、彼はその図像によって正面を彫刻したものの、側面についてはお手本がなかったのではなかろうか。
・・・・・・・・・・
こうした想像をさせるほどに、正面と側面とのちかいがはなはだしいことは事実である。」
(「仏像のみかた〜技法と表現」倉田文作著・1965.7第一法規刊所収)



【化仏は、穏やかな天平風】


もう一つ、大変興味深いのは、薬師像の光背の七仏薬師の化仏が、穏やかで親しみやすい造形に表現されていることです。
化仏の写真のほかに、石膏原型から鋳造した作品をご覧ください。
昭和34年に修理された際、石膏型取りされた原型から鋳造制作されたもので、美術院創立百周年に際して、記念品として造られたものです。



黒石寺薬師如来像の化仏とその石膏型から鋳造した像


明らかに天平風で、奈良様の伝統の系譜にあるのです。
それを裏付けるように、薬師像本体の顔部、両肩などには、乾漆が盛りつけられています。

薬師像を造った仏師は、伝統的奈良様の技法を身につけた仏師であったに違いありません。
ただ、都の第一級の技量をもった仏師ではなかったということでしょう。
その仏師が、みちのく開拓の人々が求める、畏怖感を発散する恐ろしげな像を造ったのだということです。

薬師像の魁偉な容貌と、化仏のおだやかな造形のミスマッチ感は、大変興味深い処です。



【黒石寺の造形表現は「唐の新風」という新たな見方
〜蝦夷調伏の威嚇表現に非ず】


ちょっと付けたりですが、

最近、黒石寺像の魁夷ともいえる風貌について、
「みちのく開拓の人々が求めた、蝦夷を威嚇する、畏怖感を発散する恐ろしげな表現」
という解釈とは、違う見方が発表されました。

西木政統氏による論考です。

「岩手・黒石寺薬師如来坐像と像内銘記」 MUSEUM659号 2015年12月

西木氏は、

黒石寺薬師像の特異な容貌やその造形は、夷狄調伏などといった意図を顕したものではなくて、当時都で流行していた「唐風の新様」を採りいれ、東国に馴化した造形表現になったものではないか。

という新たな考え方が、示されているのです。


その考え方のポイントは、次のようなものです。

薬師像の胎内墨書銘には、夷狄調伏的な造立願意は、どこにも触れられていない。
在地の有力者であろう人物がかかわって造立された、という事実のみが記されているだけなので、氏族繁栄や追善供養のような願意を想定する方が、妥当ではないだろうか。

薬師像の特異な造形は、都で流行していたであろう「唐風の新様」を採り入れた造形と考えた方が良いのではないか。
目頭から目尻にかけてつりあがった眼の表現は、中国・唐代に類例を求めることができ、武周期(7世紀末〜8世紀初め)の龍門石窟にはこうした表現の像が多く、東山・擂鼓台の宝冠如来坐像などに、顕著な例がみられる。



龍門石窟〜東山・擂鼓台の宝冠如来坐像〜目尻を厳しく吊り上げた眼の表現〜



脚部の、下から上に刻まれる「八」の字形に流れる衣文については、金剛峯寺西塔の大日如来坐像(仁和三3年・887頃)など、平安時代前期の造像に類例として見出せる。
東山・擂鼓台の宝冠如来坐像も同様の衣文形式で、こうした表現は、唐の影響を受けたものだと考えられる。




金剛峯寺西塔・大日如来坐像(左)  龍門石窟〜東山・擂鼓台の宝冠如来坐像(右)



これまでになかった新たな見解で、大変興味深い問題提起だと思います。

たしかに、黒石寺薬師像の顔貌を「威嚇的で恐ろしいお顔」として受け止め、蝦夷調伏的な願意に結び付ける考え方は、大変魅力的でロマンに満ちたものですが、確かな根拠資料があるものでないことも事実です。

これからどのような議論や見方がさせていくのでしょうか?
これまた、興味深い処です。




4.地方仏が注目を浴び、魅力が語られる契機となった、黒石寺薬師像の発見


黒石寺薬師像が発見されたことの意義を振り返ってみると、
9世紀唯一の貞観4年銘のある木彫像が、東北地方で見つけられたということが一番ですが、
もうひとつ、中央仏の系譜では考えられない特異な造形の仏像が、みちのくの地で制作されていたのだということが、広く認知されたことだと思います。

それまで、仏教美術史の世界では、専ら奈良、京都を中心とした中央の仏像を中心に語られてきました。
黒石寺薬師像の発見を大きな契機として、東北地方の仏像、あるいは全国の地方仏に、研究者の目が向けられるようになったのではないでしょうか?

地方にも、平安前中期に遡る古仏が残されていることが明らかになり、そうした平安古仏の発掘、研究が進められていくことになったように思います。

また地方仏の、洗練されていない素朴な造形、野趣あふれる造形など、独特の「地方仏の魅力」が語られるようになり、風土論的な議論もされるようになりました。



【地方仏研究をリードした久野健氏】


黒石寺薬師像の発見にかかわった久野健氏は、

「貞観4年という古い時代に、岩手という辺境の地に、こうした彫像が生まれる可能性があるかで議論が分かれた。
この問題を解決するために、私は東北地方の古彫刻を次々に見てまわり、素木ではあるが、エネルギーに満ちた古彫刻にすっかりこころうばわれる結果となった。」
(「東北古代彫刻史の研究」まえがき所収)

このような思いで、東北地方の平安古仏を探して行脚し、東楽寺、成島毘沙門堂、双林寺の諸像、東北の鉈彫り像をはじめ、次々と調査研究成果を発表しました。


その集大成は、

「東北古代彫刻史の研究」 久野健著 昭和46年(1971) 中央公論美術出版刊

  という大著にまとめられました。




これまで、振り返られることの少なかった「地方仏」というものが注目され、その独特の魅力が見出されるようになったと云えるでしょう。



【地方仏の紹介者、丸山尚一氏も、みちのくの古仏の魅力発見からライフワークへ】


研究者だけではなく、評論家の丸山尚一氏も、地方仏の魅力を発見した一人です。

はやくから地方仏の魅力の虜になり、全国各地の平安古仏を求めて行脚しました。
数多い地方仏紹介の著作が残されているのは、ご存じのとおりです。

丸山氏の地方仏についての著作、第一作となったのが、次の本です。

「生きている仏像たち〜日本彫刻風土論」 丸山尚一著 昭和45年(1970) 読売新聞社刊




この本を読まれて、地方仏の魅力にとりつかれたという方も、数多いのではないでしょうか?


丸山尚一氏
地方仏探訪がライフワークとなった丸山尚一氏も、その始まりは「みちのく、北上川流域の古仏探訪」からであったと、本書でこのように語っています。

「土の臭いのもっとも強いと思われる東北地方を、まず選んだ。
辺鄙な山寺を好んで歩いた。

かつて、中央の寺々を歩いたときとは全然違った感激を、ぼくは東北の仏像に見たのである。
岩手の黒石寺の薬師如来であり、成島毘沙門堂の兜跋毘沙門天、吉祥天像である。

それ以来、ぼくは仏像につかれたように東北の寺々を歩き廻った。」


黒石寺薬師如来像は、「地方仏の魅力」を世に広める起爆剤となった、モニュメンタルな仏像であるともいえるのでしょう。



【若き日の忘れ得ぬ想い出、私の黒石寺探訪】


最後に、私の想い出話をさせていただきたいと思います。

初めて、黒石寺薬師如来像を拝した時の話です。

私が、初めて黒石寺を訪れたのは、昭和46年(1971)夏のことでした。
二十歳過ぎ、大学の頃です。
初めての地方仏の旅でした。
それまで、京都、奈良の仏像しか観たことがなかったのですが、同好会の友数人と、東北地方仏像探訪に出かけたのでした。
カバンには、「生きている仏像たち」の本が入っていたのは言うまでもありません。

檀家総代・渡辺熊治翁
黒石寺に行くには、一日数本しかないバスしかなく、なんと夕刻着いて檀家総代・堂守の渡辺熊治さんのお宅に、泊めていただきました。

八十歳近い熊治老は、みちのくの古老そのものという風貌で、「熊んつぁん」と呼ばれていました。
生粋の東北なまりで、何をしゃべっているのかさっぱりわからないのには往生しました。


翌朝、「熊んつぁん」に伴われ、朝露に濡れた夏草を踏みしめながらお堂に向かいました。




私が初めて訪れた昭和40年代の黒石寺の様子
(「写真でたどる奈良国立博物館のあゆみ」2015年・奈良博刊に、昭和40年代の黒石寺の写真が掲載されていました)


朝陽が燦々と降り注ぐ中、薬師如来像の姿を拝しました。

「荒々しき螺髪、目尻の強烈に吊りあがった厳しい眼、その魁偉な異貌」

を眼の前にしたときの、強烈なインパクトは、今もこの眼に焼きつき忘れられません。
  






昭和46年に黒石寺を訪れたとき撮った、薬師如来像と四天王像の写真



この時の、心揺さぶられた鮮烈な感動。
それが、私が仏像好き、平安古仏好きになった「心の原点」になっているのではないかと思います。

黒石寺薬師如来像は、私にとっても、

「記念碑的出会いの仏像であったなあ・・・」

と、懐かしく思い出されます。





【2017.9.9】


                


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