【第5話】 千葉県〜龍角寺・薬師如来坐像 発見物語
ここからは、昭和に入ってからの仏像発見物語です。
千葉県印旛郡栄町にあるにある龍角寺の薬師如来坐像の発見について振り返ってみたいと思います。
昭和7年(1932)に、発見されました。
【関東でたった二つだけの、大型古代金銅仏〜龍角寺・薬師像と深大寺・釈迦像】
龍角寺の薬師如来坐像は、関東に残る数少ない白鳳〜奈良時代の金銅仏として知られています。
像高91pで、金銅仏としては結構、大型像です。
残念ながら、首から下は江戸時代、元禄年間に後補されたものに変わっており、頭部のみが白鳳〜奈良時代のものが遺されています。
龍角寺・薬師如来坐像(頭部のみ白鳳〜奈良時代)
関東の寺社に伝わる飛鳥〜奈良時代の金銅仏は、5躯が遺されているにすぎません。
そのうち3躯は、小金銅仏です。
八王子市・真覚寺・薬師如来倚像、三宅島・海蔵寺・観音菩薩立像、横浜市・松陰寺・阿弥陀如来坐像(平安時代との見方もあり)です。
大型の金銅仏の遺作は、この龍角寺・薬師如来坐像と、先に発見物語をご紹介した深大寺・釈迦如来倚像の、たった2躯だけなのです。
それも、共に白鳳時代の金銅仏とみられ、関東の古代彫刻を語るうえでは、極めて重要で、貴重な作例となっています。
【千葉県印旛郡の片田舎から、驚きの発見となった龍角寺・薬師如来像】
龍角寺の薬師如来坐像は、昭和7年(1932)に発見されました。
仏像そのものが、新たに出現して発見されたというものではありません。
昔から龍角寺のご本尊として、秘仏として祀られていました。
この仏像の頭部が、古代の金銅仏であるということが判明し、白鳳仏であることが発見されたのが、昭和7年(1932)のことというものです。
倉庫や納屋の片隅から、仏像が見つけ出されたというわけではありませんので、この発見は
「美術史上の大発見」
と云えるものでしょう。
龍角寺は、印旛郡栄町という処にあるのですが、千葉県のなかでも、本当に田舎という処です。
成田線の「安食」という駅から2キロほど歩いた、辺鄙なところにあります。
昭和初期には、本当に、草深い山村にひっそりと在る、荒れるに任せた古寺であったに違いありません。
この古代金銅仏が、誰にも知られずにいたというのも、うなづける処です。
そんな、印旛郡の鄙の地から、関東に稀にみる白鳳時代の大型金銅仏が発見されたのです。
まさに、想定外、驚きの「白鳳仏像の大発見」となったのでした。
【最初に薬師像に注目した人〜第一発見者・氏家重次郎氏】
龍角寺・薬師如来像の第一発見者は、氏家重次郎という人でした。
氏家重次郎氏は、建築家ということです。
氏家氏は、「史蹟から見た龍角寺」(史蹟名勝天然記念物第9集10号・1934.10)という執筆文の中で、薬師如来像発見のいきさつに簡単に触れています。
昭和6年10月、氏家氏は、他の所用で当地を訪れ、偶然の動機から龍角寺を訪ねました。
龍角寺境内と本堂
龍角寺は、和銅2年(709)創建と伝えられ、境内には塔心礎や礎石が残されているという古刹です。
龍角寺境内に遺る塔心礎
龍角寺・仁王門址礎石
住職に面会し、本尊・金銅薬師如来像を拝した処、仏身は後補であるものの、頭部はすこぶる古調を帯びたものであることに気づいたのでした。
また、塔の心礎が奈良朝のものと見られること、本堂の建築が優れているのに心を止め、昭和7年の1月末、再度、龍角寺を訪ねます。
本堂は、江戸時代、元禄10年の建立で、氏家氏は、この本堂が特別保護建造物に指定できないかと思っていたようです。
残念なことに、この本堂は、昭和初期に火災により焼失してしまいました。
龍角寺・薬師像が安置されている収蔵庫〜本堂火災焼失後に建築
氏家氏は、この時に、本尊の薬師如来像の写真を撮影しました。
また、寺近くの雑貨店、椎名寅吉氏が収集所蔵の、当地出土の古代の鐙瓦も預かったのでした。
昭和7年当時に撮影された龍角寺・薬師如来坐像(左)龍角寺出土の古代鐙瓦(右)
氏家氏は、
「鐙瓦は、創建時のものではないか?」
「薬師如来像・頭部も、相当古く、創建期に遡る可能性があるのではないか?」
と、感じとったのではないかと思われます。
氏家重次郎氏は、帰京後、文部省に関野貞博士を訪ね、この仔細を報告するとともに、薬師如来像の撮影写真も見せたのでした。
ご存じのとおり、関野貞氏は、建築史、仏教美術史の大重鎮です。
多分、文部省でも、出土瓦が奈良時代以前に遡るものであることや、薬師如来像の写真が大変古様なものであることに注目したのでしょう。
文部省・宗教局から、2回にわたって、実地検分調査が行われる段取りになったようです。
【文部省から調査に赴いた、丸尾彰三郎氏〜白鳳仏と確信(昭和7年4月)】
最初に実地検分に赴いたのは、当時、文部省・国宝監査官であった丸尾彰三郎氏でした。
丸尾彰三郎氏(1892〜1980)という人は、仏像彫刻史にご関心のある方なら、名前を御存じのことと思います。
文部省で、文化財保護行政に長らく携わった仁で、戦前は国宝鑑査官を長らく務め、戦後は、1956年文部省退官後、文化財専門審議会専門委員を務めた仏像彫刻の専門家です。
今も刊行が続く「日本彫刻史基礎資料集成」の編集者でもありました。
丸尾氏も、この仏像写真を見て、強い関心を抱いたようです。
早速、その年(昭和7年)の4月に、龍角寺に調査に出かけたのです。
丸尾氏は、発見の年の8月、雑誌「宝雲」(第3冊)に、龍角寺・薬師像のことを採り上げ、このように記しています。
「本年の始でしたか、この像の発見者建築士氏家重次郎氏からその話を聞き、其後その小さな写真を見せられて『おや』と思い、この4月17日それを実査して『これは』と認めた次第、その後関野先生も実査されて新聞にも報道されることとなったのです。」
(「龍角寺薬師如来像」宝雲第3冊、1932.8刊所収)
文中、
「『おや』と思い、・・・『これは』と認めた」
というのは、丸尾氏は、薬師像の頭部の写真に注目し、実査した処、白鳳時代の制作と考えたということでした。
「厳然として、奈良朝前期と言いますか、天平時代より早い頃の、即ち奈良薬師寺や蟹満や、この辺では深大寺の諸銅像の時代の様式が存しております。」
このように語っています。
丸尾氏も、この仏像の存在は、それまで認識していなかったのでしょう。
龍角寺は、古代伽藍があった場所とは知られていたとしても、そんなに古い仏像が遺されているなどとは、考えられもしていなかったのだと思います。
また、薬師如来像は、首から下は江戸時代の後補ですから、仏像全部が江戸時代(龍角寺再建の元禄年間)に制作された仏像だと思われていたのでしょう。
文部省の丸尾氏が龍角寺を訪れて、「奈良朝前期」の仏像と認めたということなのですが、この時点では、「白鳳仏像の発見」として、世に大きく発表されるとか、新聞報道されるということはなかったようです。
【学会の重鎮、関野貞氏が、自ら龍角寺調査に(昭和7年5月)】
丸尾氏の龍角寺調査の翌月、昭和7年(1932)5月、第2回目の調査には、関野貞氏自身が調査に訪問します。
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関野貞氏
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きっと、丸尾彰三郎氏からの実地調査の報告を聞いて、これは自身で出向いて実見する必要があると判断したのだと思います。
関野氏は、龍角寺調査のいきさつについて、このように述べています。
「龍角寺は千葉縣印幡郡龍角寺に在り、成田線安食駅より約一里、今すこぶる衰微すれども昔時は有名の大伽藍であつた。
近頃建築家氏家重次郎氏偶然寺に詣り、其本堂と本尊の写真と境内出上の古瓦片とを余に示された。
余は其本尊と古瓦片の寧楽時代初期の者たるに驚き、去る5月15日文部省国宝建造物保存室の諸氏と往訪し、仕職及び有志諸氏の好意により調査かつ必要の撮影を為すことができた。」
(「龍角寺銅造薬師如来像及古瓦片」歴史教育7巻4号1932年刊所収)
関野貞氏も、調査の結果、丸尾氏と同様に、薬師如来像頭部は白鳳期の制作と認めます。
仏教美術好きで、関野貞氏(1868〜1935)の名前を知らない人はいないでしょう。
「明治期の古建築の文化財指定」「法隆寺再建非再建論争の非再建論者」「平城宮址の発見」「天竜山石窟寺院の発見」
などで知られています。
建築史、仏教美術史の研究者、文化財保護行政の大御所として余りに著名です。
龍角寺・薬師像発見当時は、65才、東京帝国大学名誉教授、古社寺保存会委員という重鎮です。
【「国宝的仏像の大発見」との新聞報道】
その大重鎮、関野貞氏が、お墨付きを与えたからか、重鎮・関野氏出馬の調査ということで新聞記者の取材対象になったのか、関野貞氏が龍角寺を調査した1か月後、
「龍角寺薬師如来坐像の発見」「白鳳期大型金銅仏の大発見」
が新聞紙上に大々的に報じられたのでした。
「奈良の大仏より古い国宝的佛像発見さる
1250年を経た寧楽初期の傑作 関東最古の珍しいもの」
「大昔の千葉県に驚異の伽藍
国宝と史蹟の価値は充分 鑑定した関野博士談」
6月4日付の都新聞には、このような大見出しで白鳳仏像の発見が報じられ、龍角寺の薬師像は、広く世に知られることになりました。
都新聞というのは、現在の東京新聞の前身です。
新聞記事は、ご覧のとおりです。
龍角寺・薬師像の発見を報じる都新聞記事(昭和7年6月4日付)
都新聞は、龍角寺・薬師像の発見を、このように報じています。
「従来、学者、専門家にも全く知られずにいた国宝的佛像が発見された。
千葉県印旛郡安食町近傍龍角寺の従来殆ど扉の鎖された薬師堂内にある一躯の薬師如来の坐像がそれである。
発見の端緒は、数年前建築家氏家重次郎氏が偶然ここへ来合せて、寺の建築の優れているのに心を止め、今春3月再び同寺撮影に行きついでに古色蒼然たる仏像も写して文部省の関野貞博士に鑑定を乞うたところ、寺の建築は元禄時代のものだが、仏像は稀に見る古い。
早速、5月中旬から同博士が龍角寺に出張調査すると、これは丈4尺の銅造りの薬師如来坐像で、残念にも胴体は当寺が元禄5年に全焼した際破損し、元禄10年本堂再建の際に継足したもののようであるが、頭部は正しく美術史上の寧楽時代初期(白鳳期)の傑作で、すでに1250年を経、奈良の薬師寺の東院堂の聖観音、法隆寺の夢違観音等と同時代であり、有名な奈良の大仏より古いというのである。
従来寧楽時代初期の彫刻は、関東には府下北多摩郡神代村の深大寺釈迦如来像唯一つであったのだが、この深大寺像より多少古いとみられる仏像がここに新たに発見せられたわけである。」
この龍角寺・薬師像発見のニュースは、都新聞のスクープだったのか、当時の他の有力紙は報道していないようです。
【「寧楽時代初期の稀にみる傑作」と認められ、(旧)国宝に、超スピード指定へ】
奈良とか京都とかではなくて、関東地方、それも千葉の田舎から、白鳳の大金銅仏が発見されたわけですから、全く想定外の大ビックリだったのだと思います。
「本当に、本当? 嘘じゃないの?」
と疑ってしまいます。
しかし、当時、撮影された龍角寺・薬師像の写真を見てみると、その頭部は、
「誰が見ても堂々たる白鳳〜奈良期の金銅仏」
です。
発見の年・昭和17年当時の龍角寺薬師如来像の写真(「宝雲」第3冊掲載)
切れ長の眉目、鎬線が立ち美しいカーブを描く鼻筋、ふくよかさを示す頬など、いわゆる白鳳仏の特長を備えています。
それも、小金銅仏というのではなくて、等身ほどの大型金銅仏であったのですから。
実際に、この薬師像を目の前にした人達は、本当に、びっくりしたのだろうなと思います。
関野貞氏も、この発見の調査報告的に書かれた
「龍角寺銅造薬師如来像及古瓦片」(歴史教育7巻4号1932年刊)
という文章で、このように語っています。
「要するに其様式手法は、明かに寧楽時代の初期の特色をあらわし、薬師寺東院の聖観音に次ぎて法隆寺の夢違観音や新薬師寺の香薬師如来及び深大寺の釈迦如来と殆んど同時代に成つたもので.稀れに見る所の傑作である。
唯惜むべきは 頸以下の体躯は全部後世の補修であることである。
頭部は人災に遭った形跡が明かに,膚が處々荒れている。
・・・・・・・・・
要するに龍角寺の其本尊は寧楽時代初期の傑作でみる。
其当初屋上に用ひられた巴瓦唐草瓦亦同様寧楽時代初期の代表的優作で、共に寺伝の創立と称する和銅までは下るものとは考えられぬ。
蓋し和銅創立説は恐らぐは後世の附會で、寺はそれよりも前に既に建立せられでゐだのであろう。
兎に角従来あまり世間に知られていなかつた大伽藍が、其本尊と新たに発見された瓦當とにより、寧楽時代の初頭に都を遠く離れたかヽる僻遠の地に建てられたことが明かになったことは, 極めて興味あることに属する。」
関野貞氏も、龍角寺・薬師像頭部を
「寧楽時代初期の稀にみる傑作」
と称賛するとともに、都から僻遠の、それも千葉の印旛郡という鄙の地から発見されたことに、大いなる驚きを語っています。
この龍角寺の薬師如来坐像、美術史上の重要な作例であると認められたのでしょう。
発見のその年、昭和7年11月25日に、早速、国宝(旧国宝・現重要文化財)にスピード指定されました。
以上が、龍角寺・金銅薬師如来坐像の発見物語です。
【「第一発見者は、氏家 重次郎氏 に非ず」とする執筆文を、最近発見
〜別人、氏家 賢次郎氏 が発見者?】
ところが、ごく最近、この薬師如来像の第一発見者は、
「氏家重次郎氏ではない!」
と書かれた執筆文を見つけたのです。
大野政治氏執筆の
「竜角寺薬師如来発見の端緒」 と題する文章です。
房総風土記の丘友の会刊行の「印波」13号(1983.7)に掲載されていました。
大野政治氏は、当時、成田市文化財審議委員会委員長の任にあった仁です。
大野氏の執筆文には、第一発見者は、氏家重七氏の子息、氏家賢次郎氏で、
「名も父子の名からか、氏家重次郎と記された書もあるが、これはあやまりである。」
と記されているのです。
執筆文を抜粋すると、以下のとおりです。
「関東稀にみる白鳳仏を発見したのは、現印旛郡栄町須賀新田の氏家重七、賢次郎父子であった。
重七は利根川への排水機場に勤めていた。
賢次郎は、・・・・・・東京帝国大学を優秀な成績で卒業し、のちに現在の神戸商科大学に勤務。
一時文部省の社会教育局長の関屋竜吉主宰の『日本青年協会』などに関係していたが、昭和20年3月17日硫黄島で戦死した。
彼らが初めて銅造薬師如来坐像を拝観したのは昭和6年(1931)10月と伝えられている。
・・・・・・・
この礎石を見て、彼は当時の住職刀根堯詮氏に懇望して薬師如来像を拝見して驚いたのである。
・・・・・・・・
賢次郎は早速これを文部省に報告し、昭和7年関野貞博士の出張調査となり、同年11月には国宝に指定されたのである。
・・・・・・・
一地方の民間人によって、古代下総文化研究の端緒を作ったわけで、氏家賢次郎氏の功績は誠に大なものである。」
龍角寺・薬師像発見後50余年経った、昭和58年(1983)に書かれた文章です。
第一発見者は、「氏家 重次郎氏? 氏家 賢次郎氏?」いずれが正しいのでしょうか?
この二人は、ひょっとして同一人で、使われた名前が混同されただけなのかと思ったのですが、私がNET情報や資料検索で調べた限りでは、それぞれ別人のようです。
氏家重次郎氏は、建築家で、先にご紹介した
「史蹟から見た龍角寺」(史蹟名勝天然記念物第9集10号・1934.10) の他、
「妙藏寺寳珠院光堂」(建築雑誌47号・1933.11)
という執筆文が残されていますし、NET検索上も、建築(史)家として登場します。
一方、氏家賢次郎氏については、
昭和15年(1940)に、神戸商科大の予科長で修身の教授も兼務をしていた。
東大ではボート部の選手で、良き人柄で、硫黄島で戦死した。
といった趣旨の、思い出話が語られているNETの文章を見つけましたが、建築や文化財関係にかかわっていたような情報は見つけられませんでした。
私の判る情報では、どうも別人のようです。
大野氏は、賢次郎氏と重次郎氏が、共に実在で別人であることを承知の上、真の発見者は、賢次郎氏であるということを主張されているのでしょうか?
ただ、氏家重次郎氏は、先にご紹介したように、薬師如来像発見の2年後に「史蹟から見た龍角寺」という論考を執筆し、その中で自ら発見のいきさつの思い出を語っています。
氏家重次郎氏が、第一発見者であったと思えるのですが、如何なものでしょうか?
いずれにせよ、ちょっと、細かすぎる話に入ってしまいました。
【おわりに〜龍角寺像は、当地の制作か? 制作年代は?】
龍角寺は、千葉県印旛郡という結構辺鄙なところにありますので、お寺を訪れて、薬師像を拝された方は、そう多くないかもしれません。
2015年に、奈良国立博物館で開催された「白鳳展」に出展されましたので、その時にご覧になった方も多いのではないでしょうか。
白鳳展では、展示された周りの立派な白鳳仏を較べると、首から下が江戸時代の後補なので、全体的には、ちょっと見劣りしてしまうような気もしますが、頭部だけに目を凝らして、じっくり見てみると、大変完成度の高い優作であることが判ります。
この金銅仏像、奈良などの中央で造られたのでしょうか?
それとも、関東の当地で造られたのでしょうか?
制作年代は、7世紀後半の白鳳期なのでしょうか?
それとも8世紀和銅年間に入って以降のものなのでしょうか?
薬師像の前に立ち、そのお顔を眺めていると、そんな疑問が、ちょっと湧いてきます。
制作地が中央か関東かは、未だ確たる見方は定まっていないようで、その点に言及した論考は少ないようです。
松山鉄夫氏は、
「龍角寺を中心とする一帯は、たしかに古代文化の十分な厚みをにおわせるところであるが、ただそれだけで本像が当地において造られたと考えるのは、早計であろう。
・・・・・・・・
ひとまず中央からの移坐と想定しておきたい。」
(「龍角寺銅造薬師如来像について」松山鉄夫・仏教芸術135号1981.3)
と記しています。
制作年代については、白鳳期の作との考えが多いようですが、これまた確たる見方は定まっていないようです。
龍角寺縁起では、寺の創建を和銅2年(709)と伝えています。
ところが、出土瓦の編年は650年から660年代のものとみられ、龍角寺の創建年代はもっと古く、白鳳時代に遡るのではないかとも云われています。
龍角寺出土の軒丸瓦〜白鳳期のものと見られる(早稲田大学会津八一記念館蔵)
寺伝の創建時の像とみれば、天平初期の制作ということになりますが、当麻寺弥勒坐像(天武10年・681)、興福寺仏頭(天武14年・685)の作風などと比較して、680年前後の白鳳時代のものとの見方が多いようです。
龍角寺・薬師像の制作時期の問題についても、興味深いところです。
皆さん、どのようにみられるでしょうか?
私は、これまでなんとなく8世紀に入ってからの制作なのかなと感じがしていたのですが、奈良博開催の「白鳳展」で、じっくりとその顔部の造形表現を観てみて、白鳳期に造られた像のように思えてきました。
感覚的な話ですが、龍角寺薬師像には、大陸風というか渡来系の造形の空気感が、より漂っているように強く感じました。
そのあたりの処は、発見物語のテーマから外れていってしまいますので、この辺にしておきたいと思います。
今回は、龍角寺・薬師如来坐像の、昭和7年(1932)の発見のいきさつを振り返ってみました。
了
【2017.7.16】
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