【第4話】  野中寺・弥勒半跏像発見物語とその後

〈その2ー2〉



【目   次】


1.白鳳時代冒頭の在銘基準作となった、野中寺・弥勒半跏像
〜大正時代に新発見


2.野中寺弥勒像の、発見物語を振り返る

(1)大正7年(1918)、塵埃のなかから、偶然発見された金銅仏

(2)野中寺・弥勒像、発見報道の、背景と真相


3.近年の、「偽銘・擬古作の可能性の問題提起」と、その後の論争

(1)野中寺・弥勒像は、近代の偽銘・擬古作か?〜センセーショナルな問題提起

(2)論争問題は、白鳳期、天智5年制作説が有力?





3.近年の、「偽銘・擬古作の可能性の問題提起」と、その後の論争



【発見以来、長らく白鳳の在銘基準作例と位置付け〜大正時代に新発見〜
あったのは刻銘の判読、解釈についての議論程度】


発見の経緯や真相はどうあれ、世に知られていなかった、天智5年(666)の刻銘のある金銅仏が見出されたというのは、「仏教彫刻史上の極めて重要な発見」となりました。

野中寺像は、白鳳時代の劈頭を飾る貴重な基準作例として、また飛鳥白鳳期の半跏思惟弥勒像の造像例として、位置付けられることになった訳です。


どんな仏像の本を読んでも、白鳳時代の処には、必ず野中寺弥勒像が採り上げられています。
天智5年(666)の制作で、白鳳らしい明るくのびやかな造形表現への転換を感じ取れる作品と述べられています。



野中寺・弥勒半跏像



野中寺・弥勒半跏像についての議論があったとすれば、刻銘の判読、解釈にかかわるいくつかの問題でした。

具体的には、

・銘文の「四月大□八日」の□にあたる文字は、「朔」なのか、「旧」なのか、あるいは「」と判ずるのではないか?

・「栢寺」というのは、橘寺のことか、そのほかのいずれかの寺を指すのか、野中寺そのもののことなのか?

・「中宮天皇」とは誰のことをさすのか?

・天皇号が用いられるようになった時期は、いつ頃と考えられるのか?

  

野中寺像台座の「四月大□八日」と刻された□の文字(左)と「栢寺」と刻された栢の文字(右)



このような事柄が、野中寺弥勒半跏像にまつわる問題として議論されていたのではないでしょうか。




(1)野中寺・弥勒像は、近代の偽銘・擬古作か?
〜センセーショナルな問題提起


ところが、近年、センセーショナルな問題提起がなされたのです。

それは、本像の銘文や制作年代そのものに疑問を投げかけるという、驚きの議論でした。

ここからは、この問題提起をめぐる論争や研究を振り返ってみたいと思います。



【刻銘は、明治末年以降の撰文という、疑問を提起した東野治之氏】


平成12年(2000)のことです。

・野中寺弥勒半跏像の銘文は、明治末年以降に撰文された偽銘の可能性がある。

・野中寺像そのものの制作年代にも疑問が生ずる。

と主張する論文が発表されたのです。


これこそ、大正時代の野中寺像の大発見よりも、大ビックリ、驚きの問題提起でした。
この問題提起は、東野治之氏によってなされたものです。

その論旨は、

野中寺弥勒像台座銘の再検討(東野治之) 国語と国文学・77巻11号所収 (2000.12刊)

に、詳しく述べられています。

東野治之氏
東野治之氏は、日本古代史、文化財史料学者で、奈良国立文化財研究所文部技官、大阪大学教授、奈良大学教授を歴任した、大変著名な研究者です。
「正倉院文書と木簡の研究」「日本古代木簡の研究」「日本古代金石文の研究」などの著作で知られています。

その著名な東野氏が発表した問題提起ですから、センセーショナルで注目を浴びる出来事であったのではないかと思います。

東野氏は、それまでにも、

「野中寺像は、その銘文も含め7世紀末ごろに作られた可能性が大きい。」
(「正倉院文書と木簡の研究」1977.9塙書房刊所収)

と述べていましたが、そんなレベルの異説どころではなく、これまでの美術史の定説を根本から覆させるものでした。


大正時代に発見されて以来、制作年代の明らかな白鳳時代冒頭の基準作例として確立されていた野中寺・弥勒半跏像が、

「後世の擬古作かも知れない」
「刻銘は、近代、明治末年以降の偽銘に違いない」

という話ですから、もしそうだとすれば、ビックリの驚きというレベルを超えて、飛鳥白鳳彫刻史の流れの考え方をひっくり返すような凄い話です。



【難し過ぎてチンプンカンプンの、撰文の検証議論】


東野氏は、野中寺像の銘文の記述法などの詳細な検証によって、この銘文は明治末年以降でないと作成し得るものではないと論じたのです。

論文を読むと、近代の擬名であるという論拠に、撰文された銘文について、
「空白符とか十二直」
といった話が出てくるのですが、何のことやらさっぱりわかりません。

私には、古代金石文学とか文字資料学といった話は、カヤの外なので、東野氏の論文の結論部分の処をそのまま転記して、ご紹介しておきます。

このように述べられています。

「造像銘の撰文時に空白符が使われているという特異さと、右述のような特徴を総合すれば、この銘文は古写本や古代の暦注・文章・書風などに詳しい人物によって後代に撰文されたと考える余地もあるのではなかろうか。

・・・・・・・・・・・・・

もしそうであるとすれば、撰文の年代は極めて新しいことになる。
もちろん理屈の上では、古い銘文が伝えられていて古像に追刻されるということも想定できるが、銘文の書風は伝聖徳太子筆『法華義硫』のそれに極めて近い。
このような書風に則って刻銘することが、中世や近世前半になされるとはまず考えられないであろう。
しかも十二直の知識が再発見されるには、明治末年の山田孝雄の研究を俟たねばならなかった。

銘文が新たに撰文されたとすると、その時期は野中寺像が、学界や世間に知られるようになった大正7年(1918)に比較的近い時点とならざるをえない。

私自身、空白符の問題に思い至るまで、本銘文は古代のものとして何ら疑ったことはなかった。
現時点でこれを偽銘と断じる気は更々ないが、これまで説き来たった通り、この銘文に奇異な点が残るのは打ち消しがたい。

仄聞するところでは、美術史研究者の中にも、野中寺像そのものの制作年代を疑う意見があるという。」

また、東野氏は、冒頭の

「丙寅年四月大□八日癸卯開記」

の□を「旧」と読み、元嘉暦(旧暦)と儀鳳暦(新暦)の併用された持統4年(690)以前の銘ではありえないとしました。


これに対して、この後の論争でご紹介する、麻木脩平氏は、

「野中寺弥勒菩薩半迦像の制作時期と台座銘文」(『佛教美術』256号 2001年5月)

で東野氏に反論し、銘文の□(旧)を「朔」と読み、像の作成直後に入れられたものと主張しています。


この論旨、お判りいただいたでしょうか?

私には難しすぎて、理解できないどころか、チンプンカンプンです。
ただ、東野氏が、銘文は明治末年以降の偽名・追刻、仏像は後世の擬古作という疑問を提起していることは、間違いありません。



【美術史の世界でも、基準作例に慎重な見方も】


美術史の世界では、野中寺像の制作年代を、擬古作とか、現代の偽作である可能性について、論じられたものはみたことがありませんが、東野氏の問題提起以降、無条件に基準作例とすることに対して、慎重な見方もされるようになったようです。

2001年刊の「日本仏像史」(美術出版社刊)には、こんな風に記述されています。

「しかし、野中寺像については最近、銘文内容に若干の疑問がもたれ、発見の経緯にも疑問があるなど、なお検討すべき点が残される。」
(浅井和春氏執筆)

「野中寺像については、銘文中の用語や語法の不自然さ、文字が鍍金仕上げ以後に刻まれた可能性などが指摘され、銘文の評価については意見が分かれている。」
(石松日奈子氏執筆)



【盛り上がった制作年代、銘文読解の論争】


この、東野治之氏の論文の問題提起を発端に、野中寺の銘文と制作年代についての論争や検証研究が、大変活発に行われました。

目についた関係論文をピックアップしただけでも、こんなに沢山発表されています。

・野中寺弥勒半跏像の制作時期と台座銘文(麻木侑平)仏教芸術256号2001.5

・野中寺弥勒像銘文再説〜麻木侑平氏の批判に接して(東野治之)仏教芸術258号2001.9

・再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず(麻木侑平)仏教芸術264号2002.9

・野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証(松田真平)仏教芸術313号2010.12

・野中寺菩薩半跏像をめぐって(礪波恵昭)「方法としての仏教文化史」2010.11勉誠社刊所収

・野中寺弥勒菩薩像について(藤岡穣)ミューゼアム649号2014.4

論争もありましたし、詳しい実証研究も行われました。


東野氏の疑問、問題提起を契機として、野中寺弥勒半跏像の研究が、より一層深められることになったといって良いのでしょう。




(2)論争問題は、白鳳期、天智5年制作説が有力?



【白鳳期制作説が有力となった、藤岡穣氏の発表論文】


昨年4月には、大阪大学大学院助教授の藤岡穣氏によって、野中寺像を多面的に検証した研究論文が発表されました。
藤岡穣氏

「野中寺弥勒菩薩像について」(藤岡穣)ミューゼアム649号2014.4

という論文です。

この論文は、野中寺像の伝来をめぐる問題、蛍光X線による科学的組成分析、様式検討、銘文検討などを総合的に検証研究した、30ページに及ぶ、大変充実した論文です。

この論文で、藤岡氏は、野中寺像を、

「銘記の丙寅年を、天智5年(666)と解釈し、それを制作ないし銘記鐫刻の時期とみなすのが妥当」

と結論付けています。

この研究成果によって、「偽銘、偽作(擬古作)」という疑問は、払拭され、白鳳期の仏像と考えてよいとする見方が大勢となったのではないかと思います。


白鳳期とする論拠のポイントは、どんなものであったでしょうか?



【野中寺像の存在は、文献上、何時頃までさかのぼれるのか
〜「河内名所図絵」記載の像は、現存像か?】


野中寺像が、近代の偽作(擬古作)ではないか、という大きな疑問を解いていくには、そもそも

「現在の野中寺像の存在が、記録上、何時頃まで遡れるか」

ということが、最重要問題となります。

先にもふれましたが、江戸後期、享和元年(1801)に刊行された「河内名所図会」の野中寺の条には、

「経蔵  又弥勒佛金像を安置す。これは聖徳太子悲母追福の為に鋳させられし霊尊也」

と記されています。

 

「河内名所図会」の野中寺の条〜詞書の経蔵のところに「弥勒金仏」についての記述がある
この弥勒金仏像が、現存野中寺弥勒象かどうかの議論があった



この「弥勒佛金像」が、現在の弥勒半跏像と同一であれば、江戸後期には当該像が間違いなく存在していたこととなり、少なくとも近現代の偽作(擬古作)とは考えられないことになります。


麻木侑平氏は、東野氏との論争の中で、「河内名所図会」にあえて「弥勒佛金像」と記しているのは、台座銘に弥勒という文字が刻まれていたからと考えるのが自然として、現存像のことを指していると主張しました。

一方、東野治之氏は、「河内名所図会」に記される「弥勒佛金像」に銘文があったのならば、作者は必ずそのことに言及している筈である。
図会に銘文についての記載がないので、現存像とこの「弥勒佛金像」を結びつけることはできないと、主張しました。



【新史料発見で、元禄年間に、刻銘現存像の存在を確認
〜近代偽名説の成立は困難】


やや水掛け論的に膠着していたこの問題に対して、藤岡氏は、新史料を提示し、一つの結論を示しました。

藤岡氏は、これまで未紹介の野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」という文書に、

「弥勒大士金像坐身長八寸聖徳太子為悲母而鋳之 有銘」

と記されていることを見出したのです。
この目録は、元禄12年(1699)に記されたものです。

 

野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」
右から5行目に弥勒大士金像坐身長八寸聖徳太子為悲母而鋳之 有銘」の記述がある



この目録にある「弥勒大士金像」には、はっきりと「有銘」と記されているのです。
銘文が刻されていたということです。
従って目録記載の像が、現存の弥勒半跏像であることは、間違いないと考えられることを指摘しました。

この新史料の発見により、現存像は、元禄年間に存在し、刻銘のあったことが明らかになったのです。

また、大阪府八尾市の「下之太子」大聖勝軍寺の如意輪観音半跏像が、寛文5年(1665)の再興造像時に、衣文、文様などを現存野中寺弥勒像から模刻しているとみられると想定しました。

 

大聖勝軍寺・如意輪観音半跏像



この事実によって、現存像が、少なくとも近現代の「偽銘、偽作(擬古作)」ではないことが、明確になったといって良いと思われます。


2015年に奈良博で開催された「白鳳展」の図録でも、野中寺像について、このように解説し、擬古作説を否定しています。

「刻銘をめぐっては従来さまざまな疑義が呈され、像そのものを近代の作とみるむきもあつた。
これに対し、近年の研究で元禄12年(1699)成立の『青龍山野中律寺諸霊像目録』に『弥勒大士金像』の文言が見出され、大阪・大聖勝軍寺で江戸時代の作とみられる本像の模刻像が再確認されたことにより、少なくとも擬古作との疑念は払拭された。」



【天智5年、白鳳時代制作という見方が、有力に】


藤岡氏は、このほかにも、

・蛍光X線による科学的組成分析の結果、青銅の成分は日本の古代金銅仏として許容範囲内にあること。

・細かな技法的を検討しても、擬古作とは考えられないこと。

・様式的には、随様式を基調としつつ、北斉様式との関連を想定すべきだと思われること。

などを示して、
野中寺弥勒半跏像は、白鳳時代の制作で、刻銘も制作当時、天智5年(666)のものとみて良い、との結論に達しています。


センセーショナルとでも言ってよい、野中寺像擬古作、偽銘追刻問題でしたが、数々の論争、研究を経て、一応の処「白鳳初頭期の基準作例」という、元の鞘に戻ったようです。

この問題提起、大波乱といった様相でしたが、それにより論争が起こり、より深い実証研究がすすめられ、野中寺像についての研究が進展した、また白鳳期の金銅仏研究が深められたという、大きな成果があったのではないかと思います。


近年の擬古作、偽銘問題のいきさつをたどってみましたが、話のまとめ方があまりにも拙劣で、よくお判りにならなかったことと思います。
金石文解読、検証などといった分野は、未体験ゾーンで、研究論文を読んでいても、何が何だか全くわからず、参ってしまいました。

何が云いたいのか、整理できないまま、つまみ食い的にポイントを羅列しただけになってしまいましたが、何卒、ご容赦ください。


こんな問題提起、論争があったことを知っていただければ、それだけで有難く思います。



【おわりに】


駆け足でしたが、野中寺弥勒半跏像の発見物語、発見報道の真相と背景、近年の擬古作・偽銘論争などを振り返ってきました。

このテーマ、調べれば調べるほど、ドラマチックなサスペンスやミステリーになかに身を置いているような思いに駆られてきました。
何やらドキドキ、心ときめくようで、「歴史探偵になったような気分」とでもいうのでしょうか?


この野中寺・弥勒半跏像は、羽曳野の野中寺を訪れると、「毎月、18日の日」に、眼近に拝することが出来ます。

小さなお厨子の前に坐って、そのお姿を拝していると、そんな発見物語や、擬古作論争などがあったことなど、知るや知らぬや、穏やかな表情を、こちらに投げかけています。

我々拝するものを、やさしい雰囲気に包みこみ、親しみを与えてくれるような気がしてきます。




【2017.6.24】


                


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