【第3話】  深大寺・釈迦如来倚像 発見物語




【目   次】


1.白鳳仏の白眉、深大寺・釈迦如来倚像〜ついに国宝指定へ


2.埃まみれで押し込まれていた釈迦如来像
〜思いもかけぬ大発見・明治42年


3.謎に包まれた深大寺・釈迦像の来歴〜中央作か、関東作か?





「近代 『仏像発見物語』をたどって」も、第3話となりました。


第1話「運慶仏発見物語」と、第2話「救世観音発見物語」は、新たに書き下ろして掲載させていただきました。

この「深大寺・釈迦如来倚像発見物語」からは、これまでに、ブログ「観仏日々帖」で、面白そうな「仏像発見物語」を、折々ご紹介させていただいたものを、再掲して、明治以降の主要な仏像発見物語を振り返ることが出来るようにさせていただいたものです。

10余話の物語を、発見年順に並べ直して、「近代仏像発見物語」が、時系列的に通観して頂けるものとなればと、再構成いたしました。

再掲させていただく文章は、「観仏日々帖」掲載時のものを、原則そのままにして、そぐわないところだけを少々、加筆訂正等させていただきました。

新味のない二番煎じの話ということになりますが、お愉しみいただき、お役に立てば幸いです。



1.白鳳仏の白眉、深大寺・釈迦如来倚像〜ついに国宝指定へ



【明治末年に、埃まみれで発見された深大寺・釈迦如来倚像〜国宝指定へ】


深大寺の白鳳仏、金銅・釈迦如来倚像の発見物語です。



国宝指定となった深大寺・釈迦如来倚像



皆さん、まだ記憶に新しいことと思いますが、今年(2017年)、この深大寺・釈迦如来倚像が、「国宝」に指定されました。

東京国立博物館で、4〜5月に開催された特集展示「平成29年 新指定 国宝・重要文化財」で、本館1Fの彫刻室の入り口の最初に展示されていたのを、ご覧になった方も多いのではないかと思います。

いつ観ても、

「若々しい、みずみずしい、清々しい、清明、可憐」

こんな、白鳳彫刻を象徴する修飾語がそのままあてはまる、美しい金銅仏です。

今回の「国宝指定」には、納得という処です。


こんなに素晴らしい、1メートル近くもある金銅仏が、明治末年まで、全くその存在を知られることなく眠っていたという話は、本当にビックリです。

深大寺・釈迦如来倚像が発見されたのは、明治42年(1907)年のことでした。
なんと、あるお堂の須弥壇の下の地袋の処に、埃まみれになって押し込まれていたのが、発見されたのでした。

「白鳳金銅仏の大発見」となった訳ですが、発見後の数年間は、個人の数寄者に売られてしまいそうになるなどの出来事もあったりしました。
その後、文化財指定(旧国宝)を受け、深大寺でしっかりと守られ、祀られてきました。

その仏像が、

「ついに、国宝指定となったのだ!」

と、ある感慨を覚えずにはいられませんでした。


それでは、この「深大寺・釈迦如来倚像」の大発見物語を、しばし振り返ってみたいと思います。



【深大寺蕎麦で知られる、武蔵野の古刹〜深大寺】


皆さんよくご存じのとおり、深大寺は、東京都調布市に在ります。
天平5年(733)、満功上人が、法相宗の寺院として開創したと伝える古刹です。



深大寺・山門



この深大寺、白鳳仏よりも「深大寺そば」の方でよく知られているのかも知れません。
門前は、深大寺そばのお店が軒を連ねていて、いつもお客さんで賑わっています。



門前に並ぶ深大寺そばの店




【白鳳仏の白眉〜深大寺・釈迦如来倚像】


この武蔵野の深大寺に、白鳳仏の白眉ともいえる金銅仏・倚像がのこされているのです。

半眼の細長い目、くっきりした眉と鼻筋、柔らかな唇は、清々しい少年の顔立ちです。
若々しい体つきをして、薄く身体を覆う着衣表現も端麗で、衣文は流れるような美しさです。
まさに「これぞ白鳳仏の典型」といえる美麗な姿です。


この深大寺・釈迦如来倚像を、こよなく愛する方も多くおられるのではないでしょうか。



【今は亡き新薬師寺・香薬師像と、そっくりの深大寺・釈迦像】


そしてこの深大寺像は、これまた白鳳という時代を代表する金銅仏、「新薬師寺・香薬師像」にそっくりの像として知られています。



今は盗難行方不明となっている新薬師寺・香薬師像



亀井勝一郎氏は「大和古寺風物誌」のなかで、この二つの仏像について、このように語っています。

「現存する香薬師如来の古樸で麗しいみ姿には、拝する人いづれも非常な親しみを感じるに相違ない。
・・・・・・・・・・・
ゆったりと弧をひいた眉、細長く水平に切れた半眼の眼差、微笑していないが微笑しているようにみえる豊頬、その優しい典雅な尊貌は無比である。
・・・・・・・・・・・

もし類似を求めるならば、関東随一の白鳳仏といはるる深大寺の釈迦如来坐像(ママ)に近いであろう。
深大寺は私の家からさほど遠くないので、時折拝観することがあるが、ちょうど兄妹仏のような感じを受ける。

香薬師が兄仏で、釈迦如来像が妹仏である。
立像と坐像の差はあるが、面影が実によく似ているのには驚く。」

ご存じのとおり、新薬師寺の香薬師像は、昭和18年(1943)に三度目の盗難に遭い、それ以来、杳として行方知らずになってしまっており、今は、その姿を拝することは叶いません。
昨年、盗難を免れた右手先が発見され、新薬師寺に戻ることになった話は、新聞紙上でも記事として採り上げられたのは、記憶に新しいことかと思います。

(香薬師像の盗難の詳しい話は、埃まみれの書棚から「奈良の仏像盗難ものがたり4・5・6回」を、
右手先発見の話は、観仏日々帖・新刊案内〜「香薬師像の右手〜失われたみほとけの行方」を、ご覧ください。)


香薬師像を拝することが出来ない現在では、この深大寺・釈迦如来倚像が、清々しい少年を思わせるタイプの白鳳の典型仏として、大変貴重、重要な作品となっているといえるのでしょう。




2.埃まみれで押し込まれていた釈迦如来像
〜思いもかけぬ大発見・明治42年



【明治42年、思いもかけず発見された釈迦如来像〜発見者は柴田常恵氏】


さて、そろそろ発見物語を振り返ってみたいと思います。

柴田常恵氏
深大寺・釈迦如来倚像が発見されたのは、もう100年以上前の明治42年(1909年)のことでした。

当時、東京大学の助手であった柴田常恵氏が、元三大師堂の須弥壇の奥に横たえられていた仏像を発見したのです。
発見の4年後には、国宝(旧国宝・現重要文化財)に指定され、関東を代表する美麗な白鳳仏の出現として世に広く知られるようになりました。

発見者の柴田常恵氏は、当時32歳の若さでした。
考古学、古代文化研究者で、その後は慶応大学講師、文化財専門審議会委員などを務めた人物です。

柴田氏にとっても、この白鳳の金銅仏の大発見は、思い出深く、心に残る出来事であったようで、仏像発見を回顧する文章を2度にわたって綴っています。

「釈迦像発見当時の回顧」  宝雲第2冊(1932年) 所収

「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」  深大寺釈迦如来倚像(堀口蘇山編)・芸苑巡礼社1939年刊 所収

この二つの文章は、それぞれ深大寺境内で行われた柴田氏の講演の速記録で、釈迦如来倚像発見当時の有様や、思い出話が、活き活きとした口調で語られています。

この講演録に導かれながら、仏像発見の話を振り返ってみたいと思います。



【元三大師堂の須弥壇地袋に、埃まみれで押し込められていた釈迦如来像
〜驚きの白鳳金銅仏の発見!】


柴田氏が深大寺を訪れたのは、明治42年(1909)10月31日のことでした。

柴田氏の友人が京大図書館に転任するというので、その送別会を兼ねて深大寺にピクニックに3人で出かけたのだそうです。
深大寺では、老僧は病臥されていたので、寺男や小僧さんに手伝ってもらい、梵鐘の拓本をとったり、什物帳を拝見するなどしました。
そろそろ夕刻ということで、四谷での送別宴会に向かうため、帰り支度をし始めるころになり、元三大師堂に寄りました。



深大寺・元三大師堂



この帰りがけに寄ってみた元三大師堂で、なんと白鳳金銅仏の世紀の発見となったのでした。

柴田氏は、元三大師堂の本尊が祀られる壇の下、地袋のようなところに、仏像が横たえられ押し込まれているのを発見します。
取り出してみると、

「これはビックリ、古代の金銅仏に違いない!!」

ということになったのです。



元三大師堂本尊が祀られた檀下から釈迦如来像が発見された




その時の有様について、柴田氏はこのように語っています。

「釈迦像発見当時の回顧」では、

「元三大師の御堂の方へ廻り、狐格子から覗いて見ると、経櫃が見える。
この寺は古いから写経の大般若か五山本でもありはしないかと、老寺男に出して貰ったが、たいしたものではない、もぅ何もないかと訊きますと、この縁の下に金佛様があるといふ。

―― 壇の下を覗いて見ると、一体の金佛があるが俯向きになっていて、衣紋やお顔が見えない。
寺男が壇の下へ這入ったが重くて出せない。
私も中へ這ひ込んで二人で漸く引出すやうにして出した。
どうやらいいようだから、縁の東側のところまで出して見た。

一行は帰り支度をしていたが皆集って来た。
これは大変なものだというわけで大いに亢奮し、そこでまた撮影をしようというので、写真機を片付けていたのを出して経箱を背景にして撮った。

翌日現像して見て―― こんな結構な御像であらうとは思はないし、寺の什物帳にも載ってゐないのだから、こんな立派な佛像が全然忘れられてしまつていたことに、再び驚きを發したわけである。」


「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」では、

柴田常恵氏と香取秀真氏(鋳金家)
「今は之れまでと、いよいよ帰ろうと致しましたが、本尊の両脇は壇が出来て居まして、現在は堂内も立派に整理されて居ますと、其当時は左程でなく基壇の下の地袋と申しますか或は鼠込みと申しますか、兎に角壇から申せば床下に、仏様が位牌や花筒など様なものと一緒に横にして置かれてあるのに気付きました。

始めはお尻の方が見えて居たので仏像とは拝しましても全く予期せぬことゝて、左程に結構な御像とも思はず、寺男に聞くと、
『サァ何ですかネー』
と云つて居りますから、取出して見ようと思いますと挨だらけで却々重い、寺男に手伝って貰って、漸く東側の演椽に出したのであります。
此時に寺男は気付いたのですが、深大寺が法相宗であった時の本尊だと云うことですと云いました。

同行の両君は帰る用意を致して居られたが、珍らしい仏像の出現に、吉浦君は釣鐘の写真を撮る為め持参された写真機を既に仕舞って居られたが、幸に乾板がまだあったので再び取出して写真を撮って帰った追々と夕刻に迫った時で、之れが私としては此像を拝する最初でありました。」

乱雑に押し込まれた壇の下から、突然、金銅の古仏が見つかってしまったという訳です。
想定外の驚きと、亢奮であったようです。
白鳳仏の大発見の瞬間、柴田氏の予期せぬ驚きの様子が、活き活き手に取るように語られています。


柴田氏は、この仏像の写真を、中川忠順氏に見せました。

中川忠順氏というのは、当時、文化財の国宝指定などを行う「古社寺保存会」の中心的役割を果たした、著名な美術史学者です。
余談ですが、中川忠順氏は、美術史において「飛鳥・白鳳・奈良・貞観」の時代区分を提起した人物で、「白鳳美術」という呼称の命名者としても知られています。

中川氏は、この写真を見て、

「深大寺は関東の蟹満寺ともいうべきで、是非一度拝見したい」

という話であったので、柴田氏は、写真と地図を渡したそうです。



【寺外に売られてしまいそうになった、白鳳金銅仏・釈迦如来像】


この後、とんとん拍子で、白鳳仏の国宝指定へと一気に進んだと云いたい処ですが、なかなかそうはいかなかったようです。

この話を知った数寄者などが、仏像欲しさに、買取の交渉を寺に持ちかけるという動きがあったのです。
深大寺の方も、当時は寺の修繕金にも困るような状況で、未指定の仏像でもあることから、危うく売られてしまいかねないような局面もあったようです。

そんな経緯を経て、発見から4年を経たのち、ようやく国宝の指定を受けるに至りました。

柴田氏は、その経緯について、このように語っています。

「写真がどんな所へ廻ったものか、二三の数寄者の眼に触れたと見えまして、私共とは関係なく佛像慾しさにお寺へ交渉に来る者がありました。

・・・・・・・・・・・・

其人(注記:売却を持ちかけた人)の話に依ると、仏像は台帳に載って居ないのであるから、譲って貰うとすれば住職と総代の諒解さへ得れば出来ぬことはない。
本堂は荒果て、雨漏がする程なるが、修繕に困って居るから、寧ろ此佛像を譲って其費用に充てたらと云うことで、総代と交渉して居るとのことであった。

私は意外に驚きましたが、住職の老僧は其後久しからずして亡くなって居り、成るべく早く国賓にせねばならぬものと思ひましたが、中川さんにお尋ねすると台帳にないから其手績き済まねば出来ぬから、東京府の方へ話してあるとのことです。

何んでも其の時には二千円とか三千円とか云ふ様のことであります。
然るに地元の方でも住職が変わったり、何やかの事情があった為めでありましょう。
東京府の社寺関係の方でも棄てゝ置いた訳ではありますまいが、すぐにも国賓の指定を受けて宜しい仏像なるに関らず、未決の儘に敷年を過ごすに至ったは、右様の事情が多分にあった故と思われます。

斯くて大正2年4月に及び始めて国賓の指定を見るに至った次第であります。

仏像としては国宝の指定を見るまでの数年間は、誠に危険な時期でありましたが、幸に当事者の宜しき判然に依って之れを免るゝを得、今日では立派にお寺に安置されて居るといふ事は誠に結構なことだと思ひます。」
(「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」)


もしこの時に、国宝指定を受けずに、個人に売却されてしまっていたら、今はどうなっていたでしょうか。
個人蔵として、めったに観ることが出来ない仏像になってしまっていたかもしれません。
場合によっては、海外に流出してしまうようなことになっていたかもしれません。

幸いにして今も、この白鳳の名品、釈迦如来倚像を、深大寺で拝することが出来ることは、大変うれしいことです。




3.謎に包まれた深大寺・釈迦像の来歴〜中央作か、関東作か?



【謎に包まれた深大寺・釈迦像の来歴】


さて、この釈迦如来倚像の来歴は、どのようなものなのでしょうか?

これだけの名品仏像ですから、古記録や言い伝えが沢山あってもよさそうなのですが、何時、どのような経緯で深大寺に祀られるようになったのか、良く判らないのです。
この仏像の伝来や、造像背景は、謎に包まれているのです。

この像の深大寺との関係を示す最も古い記録が見られるのは、江戸末期、天保12年(1842)のことです。
同年の深大寺「分限帳」に、

「本堂ニ有之、同銅仏 丈二尺余 壱体」

との記載があり、これが本像にあたると思われます。
それまでの古記録などには、見当たらないのです。

その後、明治に入り明治28年(1895)の、「深大寺創立以来現存取調書」に、

「釈迦銅 壱躯 丈二尺余 坐像ニ有ラズ 右ハ法相宗タリシ時ノ本尊ナリ申伝ナリ」

とあり、
明治31年(1898)の「深大寺明細帳」にも同趣旨の記載があります。

これが本像にあたるのは明らかで、明治時代には、釈迦如来倚像の存在自体は、寺としては認識はしていたが、重要な仏像とは考えられずに、壇下地袋に放置されていたということなのでしょう。

明治時代に、この像が、そのような状態でほったらかされていたというのは、こんな話からも明らかです。

明治44年(1911)に、深大寺で出家得度した中西悟堂氏(日本野鳥の会創始者、歌人、文化功労者)は、随想のなかで、

「誰もが貴重な像とは知らず、元三大師堂の須弥壇の裏側に横たえたままで、私は掃除に行くと、折に触れてこの白鳳仏の頭や肩やお尻をハタキで叩いていたものです。
勿体ないことをしていた。」
(「深大寺展図録」調布市郷土博物館2009年刊のコラム所収)

このような、思い出を語っているそうです。


一方で、江戸期以前の、深大寺とこの釈迦如来像との関わりは、全くわからないのです。

深大寺の創建は、天平5年(733)と伝えられており、草創が古代に遡る古刹であることは間違いありません。
また当地は狛江郡の一部で、高句麗系渡来人影響を受けた地域であると考えられて言います。
その古刹につたわる、二尺余(83.9cm)もある古代金銅仏に関する記録が、江戸時代末年の天保年間まで全く存在しないというのも不思議なことです。


白鳳時代の作品であることに間違いない釈迦如来倚像ですが、造像当時から関東の地に在り祀られていたものでしょうか?
それとも、後代になってから、何らかの事情により、当地にもたらされたものなのでしょうか?



【中央作か、関東作か、 誰が何処で造った白鳳仏?】


発見物語とは関係ないのですが、この釈迦如来倚像が、関東の地で製作されたものなのか、関西地方・中央で製作されたものなのかの問題についても、意見が分かれています。

中央作とする根拠としては、

その作り方が、関西・中央の白鳳仏と類似していることが挙げられています。
とりわけ、新薬師寺香薬師像と非常に近い表現であることが、有力な根拠となっています。
頭部の螺髪を表現しないで鏨の痕を残す点や、面相の表現方法が似通っていること、またサイズもほぼ同サイズであることなどの類似点が指摘されています。

また、松山鉄夫氏は、鋳造技術面からの研究により、本像の洗練された高度な技術が当地渡来人の仕事でできるものではなく、蓄積された技術のなせる業で、中央地域で造られたものであるに違いないと推察しています。
(「深大寺銅造釈迦如来像について」松山鉄夫・仏教芸術133号1980.11)

一方、関東地方で造られたとする考えもあります。

当時の関東地方には、朝鮮半島からの渡来人が多く住んでおり、その中には当然工人もいたはずで、本像のような金銅仏が制作されたとしても不思議はないとの見方です。

久野健氏は、コバルト60での透視撮影を実施した結果、深大寺像が同時期の関西中央作の金銅仏像に比べて「鬆(ス)」が多くみられることから、中央作でなく当地方で制作されたものとの見方をしています。
(「深大寺の金銅釈迦如来倚像について」久野健・史迹と美術666号1996.07)



深大寺・釈迦像のコバルト60での透過写真(スが多くみられる)



全体的には、中央作とみる考え方のほうが有力のようですが、この時期、高句麗と百済が新羅に滅ぼされ、7世紀中葉から我が国にやってきた渡来人が、武蔵野国にも移り来て、この美麗な白鳳仏を鋳造したというストーリーも、大変ロマンチックで惹き付けられてしまうものがあります。


いずれにせよ、深大寺の釈迦如来倚像、神秘のベール、謎に包まれた仏像のように思えてきました。

白鳳時代を代表するとも言ってよい名作の金銅仏が、どうして関東の深大寺に在るのでしょうか?

仏像の伝来や造像背景について、何の記録も、言い伝えも残されていたいのは、どうしてなのでしょうか?

中央で鋳造されて関東の地にもたらされたのでしょうか、関東に移り住んだ渡来工人の手によってつくられたものなのでしょうか?

この仏像が、みずみずしく清々しく、白鳳仏の典型といえる美麗な仏像であるだけに、ますます興味が尽きないものがあります。


明治末年に、偶然に発見された仏像は、その後、白鳳仏の代表作品として、彫刻史で語られるようになりました。
よくぞ、売り渡されたり、海外流出せずにとどめ置かれ、また盗難にも遭うことなく、護られてきたものです。


お蔭で、私たちは、深大寺を訪れれば、いつでもこの美麗な白鳳仏を拝することが出来るのです。
現在、釈迦如来倚像は、昭和51年(1976)に新築された釈迦堂に安置され、ガラス越しではありますが、いつでも誰でも拝観が出来ます。



深大寺・釈迦堂



釈迦像は、昭和7年(1932)に吉田包春氏によって制作された、立派な春日厨子(市指定文化財)に静かに坐されています。
(現在は、春日厨子が除かれて、釈迦如来倚像が台座上に祀られているようです。)



釈迦堂に安置されている釈迦如来倚像



私は、この釈迦堂の前に立って、その美しいお姿を拝する時、ついつい明治42年の発見物語のことが頭をよぎってきます。


皆さん、一度は、武蔵野の深大寺まで出かけられて、柴田常恵氏による発見物語を偲びつつ、この謎に包まれた白鳳仏を、拝してみるのも良いのではないでしょうか。




【付 記】


最後に、深大寺・釈迦如来倚像の発見物語の話などが、コンパクトにまとめられた冊子図録を、ご参考までに、ご紹介しておきます。

「深大寺展・図録」 調布市郷土博物館編集発行 2007年刊 【44P】





調布市郷土博物館開館35周年特別企画として開催された「深大寺展」の図録です。

「釈迦如来倚像の発見と柴田常恵」という表題の解説が掲載されています。

釈迦如来倚像の発見の経緯とその後の顛末などが、柴田常恵氏の講演記録を引用しながら、判りやすくまとめられています。
柴田常恵氏の年譜も付いています。




【2017.5.27】


                


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