【第1話】  運慶仏 発見物語

〈その8ー10〉



【目   次】


1. はじめに

2.現在、運慶作と考えられている仏像

3.近代(明治〜現在)、運慶作品発見の歴史

4.明治・大正時代の運慶研究と発見物語

(1)明治前半期、運慶作と考えられていた仏像は?
(2)運慶作と判明した、興福寺北円堂の弥勒仏像、無着世親像 (明治42年・1909)
(3)円成寺・大日如来像の発見(大正10年・1922)

5.昭和時代の運慶作品発見物語

(1)東国の運慶の発見〜浄楽寺・願成就院諸像、驚きの運慶作大発見(昭和34年・1959)
(2)金剛峯寺・八大童子像、運慶作と認定〜願成就院諸像発見の成果(昭和34年・1959〜)
(3)滝山寺・聖観音像、梵天帝釈天像の発見(昭和54年・1979)

6.平成時代の運慶作品発見物語

(1)光得寺・大日如来像、眞如苑蔵・大日如来像の発見(昭和63年・1988、平成16年・2004)
(2)興福寺南円堂・四天王像が、運慶作北円堂諸像と一具像と判明(平成7年・2006〜)
(3)興福寺旧西金堂の仏頭が運慶作であることが判明(平成9年・2007)
(4)光明院・大威徳明王像の発見(平成19年・2007)
(5)浄瑠璃寺伝来・十二神将像、運慶作の可能性が急浮上(平成24年・2012)

7.そのほかの運慶作品と、運慶作候補の仏像について

(1)作風等から、運慶作品とみられている仏像
(2)運慶作かも知れない候補作品

8.おわりに






(2)興福寺南円堂・四天王像が、運慶作北円堂諸像と一具の像と判明(平成7年・2006以降)


この次は、興福寺北円堂の運慶作の弥勒仏像、無着世親像と、セットで造られた四天王像の所在が明らかになったという、運慶仏発見物語です。

現在、興福寺南円堂にある四天王像が、北円堂の弥勒仏像、無着世親像と。元々一具のものであったというのです。



興福寺・南円堂





興福寺南円堂所在・四天王像〜元北円堂所在、運慶一門作とみられる



北円堂に、今、安置されている四天王像は、元々大安寺のにあった像が移されたものであることがわかっています。



興福寺・北円堂


四天王像に残された弘安8年(1285)の修理銘に、延暦10年(791)に造立された大安寺旧像であることが記されているのです。

鎌倉復興期の運慶一門作の北円堂・四天王像は、後世に失われてしまったと、これまで考えられていました。
それが、失われずに、南円堂に移され、安置されているというのです。



【ゆるぎない康慶作と考えられていた南円堂・四天王像】


南円堂に安置されている四天王像は、従来から、本尊・不空羂索観音像、法相六祖像とともに、仏師康慶一門によって、文治5年(1189)に再興造立された像であるされていました。



興福寺南円堂・不空羂索観音像(康慶作)


それは、日本彫刻史の常識といってよいものでした。

奈良六大寺大観の、南円堂・四天王像の解説を見ても、

「その作者は、大仏師康慶とその一門で、『南円堂御本尊以下御修理先例』によると・・・・康慶の弟である仏師実現が担当したことがわかるが、・・・・」

「・・・・奈良朝の古典に倣いながら、しかも独自の表現技法を付加した康慶のオリジナルなものが感じられる。」

と、疑いもなく康慶の制作であると述べられています。



【常識を覆す、興福寺四天王像の諸堂での入れ替わり説〜藤岡穰氏】


この常識を覆す衝撃の問題提起が、平成2年(1990)に、藤岡穣氏により論文発表されました。

その論旨は、

・興福寺のいくつかの四天王像は、元在ったお堂から、後世にセットで入れ替わって安置されていて、本来の南円堂・四天王像は、現在中金堂にある四天王像である。

・現在、南円堂にある四天王像は、東金堂もしくは西金堂にもともとあった像と推定される。

というものでした。
藤岡氏がそのように考えた論拠は、
一乗寺本・不空羂索観音図像

・現存する南円堂本尊像を正確に描写したとみられる兵庫・一乗寺本不空羂索観音像の画面四隅に描かれた四天王像の像容が、南門堂現存の四天王像とはまったく像客を異にすること。

・そして、その細部までが、現在、中金堂の仮堂に安置される、同大の四天王立像(重文)に克明に一致する。

・南円堂四天王を描いた他の絵画遺品をみても、現存像よりは中金堂像に近い姿を描くものが多い。

というものでした。
まさに衝撃的な指摘でありましが、

・現南円堂像が南円堂本来のものではないこと。

・現中金堂(仮金堂)・四天王像が、本来の南円堂・四天王像であること。

は、その後、多くの研究者の認めるところとなりました。





興福寺仮金堂所在・四天王像〜南円堂原所在・康慶作四天王像と考えられる




【南円堂・四天王像の原所在は北円堂都の新説〜伊東史郎氏】


問題は、現在の南円堂・四天王像の原所在が、何処であったのかということでした。

藤岡氏は東金堂もしくは西金堂旧像とみたのですが、その後の研究で、この南円堂・四天王像こそ北円堂にあったもので、運慶を総帥として造立された諸像の一つであったということが、ほぼ、認められるようになったのでした。

これもまた、驚きの「運慶作品の新発見」といってもよいものとなったのでした。


それでは、どうして南円堂像の原所在が、北円堂のものであることが明らかになったのでしょうか?

この考え方を、論じたのは、伊東史朗氏でした。

伊東氏は、平成7年(2006)に、現南円堂四天王像の像容が、「京博本・興福寺曼陀羅図」の北円堂四天王像の姿に比較的近いことから、北円堂旧像である可能性を指摘しました。

 

京博本・興福寺曼陀羅図と(右)北円堂部分拡大図〜現南円堂四天王像の尊容に近い




【決め手は用材〜「杞梓之良材」、カツラ材を使用した北円堂諸像】


その後、北円堂旧像であることの重要な決め手となったのは、南円堂・四天王像に使われていた用材でした。

南円堂・四天王像は、カツラ材で造られていたことが明らかになったのでした。
興福寺の鎌倉復興期の多くの仏像の中で、カツラ材で造られているのは、北円堂の諸像、即ち、弥勒仏像、無着世親像だけなのです。
そのほかの諸仏像の用材は、皆、ヒノキ材が使われています。

北円堂諸像だけが、異例のカツラ材が用いられていることについては、訳があります。

東大寺沙門宗性(1202〜78)が著した「弥勒感応抄」に、北円堂諸像の造立の際に、
「未だ用いることのなかった杞梓之良材」
を用いた旨の記述があるのです。

北円堂造仏に用いられた用材は、なんらか特別の事由のある霊木で、それがカツラ材であったと考えられるわけです。
南円堂・四天王像が、それと同じカツラ材であったことは、北円堂旧像であったと考えられる最有力の根拠となったのです。

伊東氏は、平成9年(2008)に開催されたシンポジウムで、用材がカツラ材であったことからも、北円堂旧像とみるべきものであることを報告し、多くの研究者も、これに賛同しているようです。

当初、南円堂・四天王像を、東金堂もしくは西金堂旧像としていた藤岡穣氏も、その後の論文で自説を訂正し、北円堂旧像であるとの考えを示しています。


実は、南円堂・四天王像は、従来は、ヒノキ材であるとみられていたのでした。

奈良六大寺大観でも、
「各像とも檜材を用い・・・・」
と記されています。

ヒノキ材とみられた訳は、像の後補部分の材にヒノキ材が用いられており、そこをみて、像全体がヒノキ材と判断されたからのようです。
その後、精査して内面などをみると、カツラ材特有の濃い茶色の材であり、カツラ材であることが判ったそうです。

いずれにせよ、この考え方で最終的に確定したというわけではありませんが、
失われてしまったと考えられていた、運慶作(一門作)の北円堂・四天王像が、現存することがあきらかになったのですから、
これもまた「運慶作品発見物語」といってよいものかと思います。



(3)興福寺旧西金堂の仏頭が運慶作であることが判明(平成9年・2007)


此処からもまた、興福寺に遺された仏像が、運慶作であることが新たに判明したという発見物語です。

平成19年(2007)年、今から9年前のことです。
興福寺国宝館に展示されている釈迦如来像の仏頭の作者が、運慶であることは明らかになったのでした。



興福寺西金堂・釈迦如来像(仏頭)


この釈迦如来像の仏頭は、鎌倉の南都復興の際、西金堂の本尊として造立された仏像が、仏頭部分だけ現在も残されているものです。



【仏師成朝作と云われてきた仏頭】


これまで、この仏頭は、成朝作ではないかと云われてきました。

成朝というのは、仏師・康朝の息子、正嫡であった仏師なのですが、比較的若く亡くなったのか、子供がいなかったのか、康朝の弟子であった康慶が一門の総帥となり、その後は慶派と呼ばれるようになるのです。

成朝は、鎌倉・勝長寿院の阿弥陀如来像を制作したほか、興福寺・食堂の千手観音像(成朝存命時は未完成)の担当仏師などであったのですが、現存作品で成朝作であることが明らかな像は、遺されていないのです。
唯一、この旧西金堂の仏頭が、成朝作であろうといわれていたのでした。

「成朝」だろうと思われていた仏頭が、実は「運慶作」であることが判明したのですから、驚きの発見でした。
この発見は、新聞等マスコミでは、さほど大きく報じられなかったように思いますが、仏像愛好者の間では、大ビックリの新発見といってよいものでした。



【中世史研究者が古記録「類聚世要抄」に運慶作の旨の記述を発見〜横内裕人氏】


この仏頭が運慶作であることを明らかにしたのは、横内裕人氏でした。
横内氏は、日本中世史、仏教史の研究者で、京都府立大学・准教授の職にある仁です。

横内氏は、これまで未調査であった「類聚世要抄」という古記録を精査し、そこに興福寺西金堂に係る運慶の事績にふれた記事があることを発見したのでした。

そこには、

「文治2年1月に、この釈迦像を堂内に据える際、『大仏師運慶』が誦経を行わせ、賞として馬一匹を賜った。」

と記されていました。

この記述によって、西金堂・本尊釈迦如仏が、大仏師運慶によって造立されたものであることが明らかになったのです。

「類聚世要抄」というのは、成簣堂文庫(徳富蘇峰の蒐集旧蔵書)蔵で、「大乗院文書」に含まれる、平安末期から鎌倉中期の興福寺の年中行事部類記です。
極めて信頼性の高い古記録で、ここに書かれた事実は、間違いないものと考えられています。

横内裕人氏は、2007年3月に、

「『類聚世要抄』に見える鎌倉期興福寺再建」仏教芸術291号

という論文を発表し、この事実を明らかにしました。

この仏頭は、仏像愛好者ならだれでも知っている仏像です。
この仏頭が運慶作というのは、正直、想定外という処で、「驚きの運慶作品新発見」となったのでした。



【仏頭が成朝作とみられていた訳は?〜作風研究による消去法】


水野敬三郎氏
それでは、この仏頭、それまでどうして「成朝作」とみられていたのでしょうか?

そのいきさつをみると、運慶作品研究の歴史をたどるという意味で、大変興味深いものがあります。


この仏頭について、最も綿密な研究を行ったのは、水野敬三郎氏ではないかと思います。

仏頭が成朝作ではないかと主張したのも、水野氏です。



【もともとは運慶作の可能性を論じられていた仏頭】


ところが、その水野氏も、その昔、成朝作を唱える前は、「運慶作ではないか」と論じていたのです。
このあたりをちょっと振り返ってみたいと思います。

水野氏は、昭和35年(1960)に発表した本仏頭についての論文で、このように運慶作の可能性を述べています。

「さて南都仏所にあって、この年代に興福寺西金堂本尊を造立すべき大仏師たりえた地位にある者、成朝・康慶・運慶のいずれかであろうか。
先にふれた南円堂本尊の作者康慶には、この仏頭造りえないと見る。
成朝の作品は遺っていないから、成朝作でないとはいえない。

しかし、安元2年(1176)運慶作円成寺大日如来坐像に見る運刀の冴えが、この仏頭にも共通すること、前述のように北円堂弥勒像に直ちに引き継がれる要素を仏頭が持っているととから、運慶作の可能性は非常に大きいと思われる。

今まで欠けていた文治ごろの運慶の作例に〜円成寺像と北円堂像とをつなぐものとして〜この仏頭をあてるととはもっともふさわしいのでないかと私は思っている。」
(「興福寺木造仏頭について」ミューゼアム107号1960.03)


これは、願成就院諸像、浄楽寺諸像が、運慶作品と判明する直前に書かれた論文です。
運慶の作風、造形を、円成寺・大日如来像を青年期の起点に於いて、北円堂弥勒仏像等を晩年期の終点近くに置いたときに、西金堂・仏頭は、その造形の系譜、延長線上にある造形とみたということなのだと思います。



【東国の運慶(願成就院、浄楽寺)発見によって、成朝作説が浮上〜作風の違い】


ところが、この論文発表とほぼ同時に、願成就院像が文治2年(1186)、浄楽寺像が文治5年(1189)制作の運慶作品であることが発見されました。
西金堂・仏頭も、願成就院像と同じ文治2年(1186)の完成です。

円成寺・大日如来像から北円堂弥勒仏像という系譜の中では、願成就院像は、「逞しく、荒々しく、都らしからぬ風」で、運慶作とは考えられもしなかったのです。

ところが、願成就院像が運慶作と判明すると、今度は、この仏頭と、願成就院あるいは浄楽寺の阿弥陀如来像との作風が大きく相違するということが問題となりました。
ほぼ同時期に、作風の違うこれらの像を、運慶が制作したとすることは考えにくいとみられ、運慶作であると唱えられなくなったのです。

水野敬三郎氏も、仏頭=運慶作説を撤回し、成朝作との見解に転ずるようになったのです。

水野氏は、このように回想しています。

「私が困ったのは、願成就院阿弥陀如来の耳と≪仏頭≫の耳の印象が異なることでした。
・・・・耳のかたちには仏師ごとにデザインの特徴が現われやすく、比較すると作者の判定に意外な威力を発揮します。
・・・・・・・
(こうしたことから)西金堂の本尊を造るだけの地位にある奈良仏師として、成朝作者説を唱えるに至ったのです。
いわば消去法であって、積極的な証拠があった訳ではありません。」
(「二つの仏頭と悩ましき耳」芸術新潮2009.1月号〜運慶特集号)


水野氏は、その後の諸著作で、成朝作の可能性を説くようになり、
奈良六大寺大観・解説(水野氏執筆)でも
「成朝作の可能性は最も大きい」
と述べています。

この考え方を支持する人は多くて、結構長らく成朝作品とみられてきたわけです。

ところがところが、またまたの再逆転で、仏頭は、運慶作であることが判明したのでした。



【想定どおりの作風展開を裏切る、運慶作仏像の発見】


こうして、明治時代以降の運慶作品の発見の歴史と、運慶研究の歴史を振り返ってみると、

「運慶の作風、運慶様とは、いかなるものなのであろうか?」

と考え、その作風を定義し、作風の発展展開を考証していくことが、いかに難しいものであるかということを、再認識させられます。

この仏頭が運慶作と判明したことは、またまたその難しさを痛感させるものであったのではないでしょうか。

作風、造形から仏像の作者を判定するというのは、なかなか難しいことだと思うのですが、とりわけ、運慶の作品については、その難しさが際立っているようです。


定朝様とか快慶様とかいうと、素人でも、ある程度、作風のパターンというか、イメージがつかめるように思えるのですが、運慶の作風というのは、バリエーションが多様で、専門の研究者も、想定外のことが多く、頭を悩ませてしまうということなのでしょうか。


【2017.1.14】


                


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