[目次]

1. はじめに

2. 宝物献納に至る経緯

3. 献納「四十八体仏」の概要

4. 金銅仏について

5. 「四十八体仏」の造形上の特質と時代についての考察

(1) 渡来系の像
(2) 止利派の像
(3) 準止利様の像
(4) 半跏像
(5) 童子形の像
(6) インド風の像
(7) 初唐系の像
(8) その他の像
(9) まとめと法隆寺現存像との関わり

6. 「四十八体仏」と太子信仰

7. おわりに

     
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【第6回〜6/7〜】

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(9)まとめと法隆寺現存像との関わり


@以上、(長々と)見てきたように「四十八体仏」には様式的、時代的に多種多様な要素が入り込み、しかもそれらが複雑に絡み合っていることがわかる。

従って、これらを系統だって、あるいは整合的に整理していくことは至難の技で、浅学の身で取り組めるものではないことは充分承知しているが、(自分なりに)時代を追って大まかな流れとして簡単に整理し、まとめの代わりとしたい。


 


A日本の仏像(金銅仏)は渡来人、帰化人らの礼拝像として持ち込まれたものを嚆矢とする。のち、これらが寄進され「四十八体仏」の中にも6Cに遡る古い像が残されている。
伝来当初は仏像制作も専ら渡来人系の人たちに依存せざるをえなかったが、徐々に技術を習得し豪族らの注文要請に応じられるようになっていったものと思われる。
以後の流れを、法隆寺の歴史や現存する仏像を中心とする文化財との関係で振り返ってみたい。


B法隆寺の創建の時期は明らかではないが、金堂薬師銘にある推古15年(607)頃に発願され太子の氏寺「斑鳩寺」としてスタートしたというのが一般的な見方であろうか。

7C前半で時代のはっきりしている像としては、いうまでもなく金堂釈迦三尊像(623)や戊子年銘三尊像(628)があり、この時期は止利派全盛期かと思われる。

 

法隆寺金堂・釈迦三尊像


 

法隆寺・戊子年銘三尊像


共通の鋳造技法がみられ工房(専門集団)の存在が想起されるが、様式面は不思議に一様でなく半島経由中国南北の二系統を引き摺っているかのような感がある。
残された像を見ると丸みや柔らかさをもつ百済経由(南朝系)の像が主流のようで、むしろ止利派の代表作といわれる金堂釈迦三尊像の方が異質な感じを受けなくもない。


C7C半ば(大化改新以降)になると、蘇我氏の没落とともに止利派も変身を余儀なくされていったものと思われ、様式面で一部名残りを残しながら変容していく過程の像がみられるようになる。

準止利様として括ったが、この時期の像としては165辛亥銘観音像(651)や救世観音風の166菩薩立像があげられる。

なお、夢殿の救世観音像は一般に7C前半の作といわれ止利様式の像ではあるが、他の前半作例と比べかなり洗練された像と思われるのでむしろ半ば近くに置いてみたいところ。


   

法隆寺夢殿・救世観音像      【166号】菩薩立像(東京国立博物館:所蔵画像)



法隆寺には、もう一つ7C半ばの像として金堂四天王像がある。
650年頃山口大口費によって造られた像として知られ、全体に硬さはあるが側面観や立体イメージが出てきた像として注目される。
なお、この像は後に橘寺より移されたともいわれている。


 

法隆寺金堂・四天王像(増長天)



D7C後半期は大陸や半島情勢に大きな変化があった時代である。

663年の白村江の戦いと百済の滅亡は日本にも大きな影響をもたらし文化面でもそれまで主流の百済ルートと打って変わって新しく多様な要素が次々と入ってくることになる。

後半も早い頃の作例が丙寅銘野中寺半跏像(666)である。
この像になると顔や体の表現、衣の文様などに新しい要素がみられ、それまでの飛鳥様式はほとんど感じられない。

 

野中寺半跏像・丙寅銘



Eこの頃法隆寺は、天智9年(670)に伽藍全焼、その後おそらく680年代天武〜持統の頃に再建に動き出すといった大変革期に遭遇する。

上記@で時代を追って記載した通り、半跏像の一部、童子形の像はほぼ再建期以降の造像であろうし、大陸の影響顕著なインド風の像、初唐系の像は8C初頭にかけて到来した唐からの新外来様式によるものであろう。
いわゆる白鳳文化は法隆寺では伽藍整備が続く中、7C末頃にはかの金堂壁画、8C初頭の五重塔塔本塑像(711年完成)へと続いていくことになる。

また、小金銅仏では橘夫人念持仏を忘れることはできない。この頃の小金銅仏の頂点ともいうべき像で超一流仏師の手によるものであろう。

 

法隆寺・阿弥陀三尊像〜伝橘夫人念持仏



この像は、顔立ちは童子形的、頭髪は145止利派の如来坐像と同様の渦巻き状とするなど古様が感じられるが、橘夫人(三千代)は720年、夫不比等の死後仏門に入ったとのことでもあり、一応8Cに入ってからの作と考えておく。


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