[目次]

1. はじめに

2. 宝物献納に至る経緯

3. 献納「四十八体仏」の概要

4. 金銅仏について

5. 「四十八体仏」の造形上の特質と時代についての考察

(1) 渡来系の像
(2) 止利派の像
(3) 準止利様の像
(4) 半跏像
(5) 童子形の像
(6) インド風の像
(7) 初唐系の像
(8) その他の像
(9) まとめと法隆寺現存像との関わり

6. 「四十八体仏」と太子信仰

7. おわりに

     
法隆寺献納宝物・四十八体仏の全画像は、こちらでご覧ください。
東京国立博物館画像検索にリンクします〉


【第1回〜1/7〜】



1. はじめに


東京国立博物館を訪れる人は多いと思うが、同館正面入口の左手、奥まったところにある「法隆寺宝物館」へ行ったことのある人は比較的少ないかもしれない。

平成11年竣工のモダンな建物とは対照的に、内部には法隆寺から献納された飛鳥〜奈良期の貴重な宝物の数々が展示されている。

 

東京国立博物館・法隆寺宝物館



中でも展示の中心は7〜8Cの小金銅仏群で、古代の仏像やその展開を語る上で欠くことのできない一級の文化財が勢揃いしている。

時代的には正倉院宝物より一時代前のものが主体であり、おそらく首都圏で量的・質的にこれに優る古代の宝物はないのではないか。

 

法隆寺宝物館での四十八体仏展示模様



これらがいかなる経緯、変遷を経てここに展示されているのか、そしてその歴史的、文化的価値やその造形上の特質等について、先学の文献、資料を参考にしながら個人的な想いを巡らせてみることとしたい。



2. 宝物献納に至る経緯


(1) 献納に至る背景


@ これら献納宝物は、明治初期に法隆寺より皇室に献上され、のち国有化を経て現在の東京国立博物館に保管されるに至ったもので、そして献上に至る背景として寺の経済的困窮があったことはよく知られているところである。


A 話は明治維新、新政府の「神仏分離令」とそれに伴う廃仏毀釈へと遡ることになるが、この時期、全国各地の寺院のみならず奈良の大寺院も例外なく危機的状況を迎えていた。

江戸期の各寺院は幕府の統制の下で保護優遇され多額の寺禄を与えられており、奈良の寺の中では興福寺の「二万五千石」を筆頭に、東大寺が「三千二百石」、それに次ぐ法隆寺は「千石」の寺禄を与えられていたとのこと(*)であるが、新政府樹立後は、明治4年に社寺の領地返上(上地令)が、続いて明治7年に寺禄全廃の令(10年逓減)が打出され、特に檀家を持たない法隆寺のような寺院は存亡の危機に立たされることになった。
    (*)『「法隆寺日記」をひらく』高田良信(NHKブックス)

 

明治期の法隆寺の風景



B もともと禄高は寺の経常支出を賄うもので、伽藍の修理等の資本的支出まで賄えるものではなかったと思われ、法隆寺も明治維新以前よりこれらの費用捻出には苦心していたようである。

元禄7年・本所回向院で行った
出開帳の記録

当時その切り札ともいうべき対策の一つがいわゆる「出開帳」で、法隆寺も江戸時代には京都で2回、江戸で2回実施した記録が残されている。今でいう「法隆寺展」の開催である。

江戸での第1回の出開帳は元禄7年(1694)両国回向院で行われ、玉虫厨子、橘夫人念持仏、夢違観音なども出品され、時の実力者桂昌院の後援もあり大盛況のうちに終了し、当時四千両以上の収益を上げることができたといわれている。


第2回目はそれから約150年後の天保13年(1842)、同じく両国回向院で行われ、この時は現在の「展覧会図録」のような刷りものも作られ、それなりに人気を博したようだが、興行的には大失敗(赤字)であったといわれている。
天保13年といえば既に幕末も間近で、この時期に貴重な宝物を江戸まで送るのも大変であった筈で、当時寺が既に財政的に厳しい状況に追い込まれていたことが想像される。

 

天保13年出開帳時の「御宝物図絵・法隆寺蔵版」歌川国直作



C 明治初期の寺院の苦難は無論法隆寺ばかりでなく他の寺も同様で、特に興福寺は神仏分離令に伴うダメージが最も大きく、いわば廃寺同然の状況となり各種宝物の破壊、流出の危機に直面していた。

このような状況下、明治政府内でも一方で貴重な文化財を何とか守れないかという別の動きが出てくることになる。これの推進の役割を担いキーマンとなったのが、のちの帝室博物館初代館長となる「町田久成」という人物であった。


町田久成
D 町田久成は薩摩藩士の子として生まれ、幕末の戦乱にも参戦後、維新に先立つ1865年、藩の留学生として英国ロンドン大学へ派遣され、パリ万博へも参加、また日本人として初めて大英博物館へ行った人ともいわれている。

帰国後は新政府の外交関係等の職を歴任後、明治4年(1871)文部省博物局を設置し「古器旧物保存方」制定や「集古館」(今でいう博物館)建設を提言するなど、新政府による文化財保護の道筋をつけた人物。

当時町田には次のウイーン万博出品対象の選定が念頭にあったものと思われ、翌明治5年に「古器旧物保存法」に基づく各地の文化財調査を実施。第1回調査は、町田久成、蜷川式胤、カメラマン横山松三郎、写生担当高橋由一らによって、奈良ではまず正倉院、次いで法隆寺が対象となった。


E 町田らは明治8〜9年西洋に倣う形で国内で文部省主催の大展覧会(古美術博覧会)を計画。
正倉院や法隆寺の宝物を中心に東大寺大仏殿回廊などで実施されることになるが、この時法隆寺は百四十点余の宝物を出陳、玉虫厨子、橘夫人念持仏なども貸し出されたようである。
かの正倉院宝物や法隆寺宝物が吹きさらしの大仏殿回廊で展示されている情景は今では想像もできないことである。

 

第一回奈良博覧会・物品目録(明治9年)




(2) 宝物献納へ


@ 話を法隆寺に戻すと、前述の寺禄全廃の令はこの博覧会実施に先立つ明治7年に出されたものであり、法隆寺内でもこの頃には(予算の減少に伴う)子院の急減や一部宝物の流出の危機に瀕し、何らかの打開策を講じる必要に迫られていた。

この博覧会が終わるか終らないかの頃であったらしいが、寺内協議により宝物の皇室献上を決議するに至り、明治9年11月「古器物献備御願」に宝物の目録を添付し、当時の堺県令(知事*)に提出することになった。
(*当時まだ奈良県はなかった)

 

法隆寺からの堺県令・税所篤宛「古器物献備御願」



そして明治11年2月政府にて宝物献納の儀が決定され、その賜金として一万円が法隆寺に下賜されることになる。

ただ、実際のところ寺独自で宝物献上という思い切った決断ができたかどうかという点を考えれば、おそらくは寺の窮状を見かね宝物散逸を恐れた町田が献納及び下賜金による財政建て直しシナリオをアドバイスしたものであろう。


A これが大まかな流れであるが、この間の経緯や政府側の対応を細かく見ていくとなかなか興味深いところがある。

献納願いから下賜決定に至る経緯は雑誌「MUSEUM」(*)等に詳しいがあらましは次の通りである。
      (*)95、96(矢島恭介)、282(石田茂作)論稿等

(@)法隆寺より献納願を受け取った堺県令が宮内卿徳大寺実則に上申したところ、後の書簡で「宮内省で聞き届けるわけにはいかないので政府に上申する。代金も検討がつかないので調査、回答せられたい」との返答。
(要は、宮内省では予算もないし最終判断もできないということ)

(A)これに対し県令は「内務省大書記官町田は一万円ほどのものといっている。この額なら寺側も建て直しが図れるので本件は町田ともよく協議してほしい」旨回答。

(B)宮内省は、一方で内務卿大久保利通宛書面にて保存方法につき問い合わせ。大久保より「内務省博物館にて収納、保存するので献納額は聞き届け頂いて結構」との回答がある。

(C)他方、予算面につき太政大臣三条実美宛「酬金を下賜することが適当と思われるので宮内省へ予算措置していただくよう取り計らい願いたい」旨上申。三条は「大蔵卿大隈重信宛にこれを伝え同意を得たので大蔵省より受け取るよう」返答。


B いかにも縦割りの役所らしく根回しも大変であったと思うが、堺県令より上申があってから1年余りにてようやく明治11年2月「願之趣聴届候事」として献納が正式決定に至る。

これを受け献納宝物は法隆寺の手を離れ、一旦正倉院宝庫内に仮納。

明治14年上野にコンドル設計の博物館が竣工するに伴い翌年この新博物館に移送されることになった。

 

コンドル設計・上野の博物館(明治15年開館)


この時の宝物搬送ルートであるが、まず正倉院から堺港へ運ばれ、海路横浜へ回送。更に小蒸気船で浜町に至り、ここで陸揚げして皇室へ運ばれ、解荷して明治天皇の御覧にも供したとのこと。


C ついでながら、この後、宝物の所管につき伊藤博文宮内卿と当時博物館所管の西郷従道農商務卿の間で折衝があり、明治19年博物館は宮内省所管に変更し、のち名を帝国博物館、東京帝室博物館へと改称されていくことになる。

以来、献納宝物は皇室から貸与される形で同博物館に保管されることになったが、一部は明治天皇お手許用として宮内省保管のものもあったようである。


D このように明治の元勲総出演のような流れを経て無事決着することになったが、一連の経緯にみられる通り

・新政府内では、「神仏分離令」に伴う寺院冷遇の一方で、貴重な文化財を何とかして保護しようという、双方の流れがあった

・そして、西洋の文化財保護思想を学んだ町田がそれに重要な役割を果たした

ということがわかる。

まさに町田は今に伝わる法隆寺献納宝物の産みの親的存在であった。


E ところで、法隆寺が下賜を受けた金一万円であるが、明治11年頃の一万円はどれくらいの価値のものであったのであろうか。

寺内では「官軍が京都から江戸へ攻め込んだ総軍事費用相当」と言い伝えられていたらしいが定かではない。
一説によると今の数億円〜10億円に相当するという話もあるが、いずれにしても厖大な金額であったことは間違いない。

記録によれば、寺ではこの1万円の使途として「8,000円で国債を購入し、年利子600円を寺の維持費に、残り2,000円は伽藍の修理に当てられた」という。8,000円が国債ということは(うがった見方をすれば)国も金がなく、大半を借用証の形で支払ったということかもしれない。

ともかく、これが以後の法隆寺の資本金になったもので、当時寺として苦渋の選択であったことは察するに余りあるが、結果的には寺の危機回避と由緒ある宝物の散逸防止という一石二鳥の献納であったいうことができようか。

 

法隆寺にのこる宝物献納「賜金方法書」




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