彫眼(ちようがん)・玉眼(ぎょくがん)

 

 仏像の目を、いかに写実的に、現実的に、迫力のある眼とするか、仏師たちは古い時代から苦心を重ねてきた。仏像彫刻の上で、仏像の目を現わす手法を大きくわけると、彫眼すなわち顔面に彫り込んだ目と、玉眼すなわち目の部分をほりぬき、そこに水晶をはめ込んだ目に分けられる。さらに細分化すると、瞳に黒輝石(こくようせき)等を嵌入(かんにゅう)したものや、金属片をあてがったものなどもある。こうした手法は、各時代の特長ともなり、仏像の制作年代を知る上で大きな目安となっている。
黒輝石が使用されるのは、白鳳から奈良時代にかけての塑像(そぞう)、特に天部の像にみられる。奈良東大寺戒壇院四天王像や三月堂執金剛神像、また新薬師寺十二神将像などがそうした例で、いずれも像の表情、迫力を倍加させている。また平安時代初期には、数少いが木彫に黒輝石を使用した例がある。奈良興福寺東金堂四天王像がそうした例である。あるいは唐からの渡来仏ではあるが、京都教王護国寺兜跋毘沙門天(とばつびしもんてん)像にも黒輝石が使用されていることが知られ、大陸からの影響ということを想像させる。
 彫眼は、飛鳥時代・奈良時代末期から平安時代末期にかけての、ほとんどの木彫仏がこの方法によって形成されており、玉眼が全盛期を迎える鎌倉時代や、それ以降の各時代にも行われた木彫の原初的彫法である。
玉眼は、彫り抜いた眼の部分に、凸レンズ状の水晶を、内側からあて、それに瞳を描き、さらに綿や紙をつめ込んで白眼をつくり、これにあて木をあてて竹釘で押えた方法である。この技法は、鎌倉時代から盛んとなった方法で、『吾妻鏡』に雲慶が奥州毛越寺金堂の仏・菩薩の目に玉を入れたという記事のあることから、古くから運慶の創案と伝えられてきた。しかし、奈良長岳寺阿弥陀三尊像(1151)を古い例とし、京都峰定寺ぶじょうじ毘沙門天像(1154)、川端家蔵毘沙門天像(1162頃)、愛知七寺観音、勢至菩薩坐像(1168頃)など、平安時代後期の像にも例がみられることから、鎌倉時代以前から行われていたことがわかった。玉眼はこれ以後の仏像彫刻のほとんどに行われるようになり、日本彫刻の特色の一つともいえるようになった。

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