仏像の材質 

 塑像

 土を材料とした彫刻は、日本では、縄文時代の土偶や古墳時代の埴輪等古くから造られている。これらは土で像を造り、素焼き程度に焼成したものである。このような焼成像は、西洋ではテラコッタ、中国では陶俑と称して同様に古くから造られている。

 これに対し、天平時代に造られた塑像は、土偶や埴輪とは異なり、焼成せずそのまま乾燥させたものである。これらは、古文献では摂・捻などと記している。日本では白鳳時代ごろから始まり、天平時代を中心に流行したが、平安時代にはほとんど制作されず、鎌倉時代に入ってわずかに遺品がみられる。

 塑像は中国で花開いた技法で、秦の始皇帝陵の兵馬俑や敦煌莫高窟の諸像などの傑作があるが、これらの源流は、古代ギリシャ・ローマの浮彫装飾や彫像に使われたストゥッコとされている。ストゥッコはいわゆる漆喰(しっくい)像のことで、本来、石灰石、白堊(チョーク)、貝殻(いずれも主成分は炭酸カルシュームCaCO3)などを約900℃で焼成して出来た生石灰(CaO)に水を反応させて生成した消石灰(Ca(OH)2)を主材料とし、これに大理石の粉や砂を混ぜて練って造形して乾燥させたものである。

 これらの技術は、アレキサンダー大王の東征に伴い東漸し、西アジア、西域を経てインド、中国にもたらされた。ストゥッコ製の仏像の遺品は、北西インドやガンダーラ地方、あるいはアフガニスタン、またシルクロードに沿った中央アジアのオアシスを中心とした諸都市の寺院祉からも発掘されており、これら諸国における遺品から、塑造の技法は二、三世紀ごろより始まったと考えられる。タリバンによって破壊されたバーミヤンの二大大仏も、石彫の上を10cm以上の厚い漆喰で仕上げた一種のストゥッコ像であり、漆喰も石灰に細かい土砂を多量に混ぜたものであることが知られている。これらはほとんどが彩色像であり、漆喰を使用したものの他、土に近い素材のものも見られる。

 敦煌やバーミヤンなど石窟寺院の彫像がわざわざ塑像で造られた理由は、岩質が脆い礫砂岩で、石彫のままでは脆く、また細かい造形には適さなかったためと考えられる。

 中国の塑像技術は、永年の経験で進歩を遂げ、用いられた材料も、石灰を主成分とする漆喰に留まらず、陶磁器に用いられる白土(カオリン Al2Si2O3(OH)4)を始めとする各種の土を目的に応じて使い分けた、いわゆる「塑土」で制作した像として、ストゥッコ像を遥かに凌ぐ造像法として確立された。

 造像法は、まず土台となる心木を制作する。小型の像はおおよその人物にあわせて木を削り心木とする。心木は塑像の動きに合わせ、曲った木などを的確に用いている例もあり、力士像のような躍動感のある大きな像は、大きく湾曲させた木を心木に用いている。また、指先などの細かい部分は像の形に合せて木や銅線で形造って心木を形成する。この心木の上に藁を巻き付け、その上に荒い塑土を付け、ある程度まで乾かし、さらに精選した細かい塑土をかぶせ、しだいに形を整える。塑土には、細砂と粘土に藁、紙など繊維状のすさを加えるが、成形の段階で、荒土、中土、表土と、砂の粒度や割合いを調整した塑土を使い分けて丁寧に成形する。特に、表土に用いる紙すさは細く強靱で、表土に適度な強度を与え、像の干割れや破損を防いでいる。表土の仕上げには箆(へら)を用いるが、この際、粘土細工のように箆を押付けて成形するのではなく、塑土と水分を巧みにコントロールする独特の仕上げを行う。すなわち、湿った状態ですばやく擦るようにして、表面を平滑にしていくが、塑像は乾燥の進行に従って、表面に水分が出てくるため、その湿り具合に応じて表面に皮膜を形成するようにその作業を繰り返す。

 日本の塑像の技術は、唐時代にほぼ完成した中国の技術が直接導入され、かつ官立の造仏所等で造られたため、当初から高度な技術で造像が行われた。

 塑像に使用する土は、日本では良質の石灰石が見付からず、陶磁器に使用する白土が豊富に産出したため、主として白土が用いられた。法隆寺の五重塔や東大寺の塑像には、法隆寺の裏山で採取される白味を帯びた細砂まじりの白土や青土と呼ばれる風化した変成岩の細砂が用いられたと見られている。

 わが国に塑像が伝わったのは、七世紀ごろであり、現存する最も古い例は奈良当麻寺金堂の本尊弥勒仏坐像である。当麻寺は、最初河内国にあってその後、現在地に移され、天武天皇十二年(684)ごろに完成し寺号を当麻寺と改めたと伝えている。本尊もおそらくこのころに造像されたものであろう。当麻寺像の次に制作された現存の塑像が、法隆寺五重塔に安置されている八十余躯の塑像及び同中門の塑造の仁王像二躯である。これらの像は和銅四年(711)に制作されたことが知られている。これらの像は写実的で、奈良時代初期におけるすぐれた彫塑技法を見ることができる。この他、天平時代には、東大寺戒壇院の四天王像、奈良新薬師寺の十二神将像(そのうち一体は補作)、さらに奈良岡寺の如意輪観音菩薩坐像など、日本彫刻史に欠くことができない塑像の傑作が多数制作された。

 心木の構造は、代表的な像である東大寺三月堂の執金剛神像の場合、上半身と両脚の重量を支えるために三材を縦に用いて逆Y字形にし、腰部あたりで三材を釘で止めている。また両腕は、上半身の心木に打ち付けた横木を支えとし、右腕はこの横木に前腰と上膊のそれぞれ別の心木を打ちつけて、左腕はほぼ一材をその横木に固定して心木とする。両腕のそれぞれの心木は、下方に伸びて足下の岩と框の天板を貫いて、框裏の横桟に固定している。この像は長く秘仏であったために、保存状態はきわめてよく、彩色は塑像のなかでは最もよく当初の状態を伝えている。動的の執金剛神像に対して、同じ三月堂内の日光・日光菩薩立像は、二像とも合掌する直立像であり、心木の構造はきわめて簡単である。中心に太い心木を通して頭部・体部・脚部が形づくられ、さらに肩部および腰部にそれぞれ横桟を架して胸部を形づくる。肩部の横桟の両端から下方に上腰部をさげ、腰部の横桟の両端あたりでそれぞれ前膊部の心木を付けて腕前で合わせている。同じく三月堂に安置する弁才天・吉祥天像はともに塑土の剥落がひどく、損傷が著しい。しかしかえって彫塑技法がわかり、貴重な遺品である。

 心木の構造は、上記のように木を組み合わせて造った構造心木が多いが、像のおおよその形を木彫で造った造形木心と呼ばれる例もある。薬師寺には、西塔、東塔に安置されていたといわれる塑像の残欠及び心木が残されているが、これらの像の場合、像の頭部体部のおおよその形を木彫で人型に造り、その上に塑土をかぶせている。また、法隆寺食堂の梵天・帝釈天像の場合、体部及び両手まで木彫でほぼ完成に近いまで仕上げ、その上に服を着せるように塑土を置いており、木胎塑像とも呼ばれる。本像の場合、足先は沓を履いた姿に表されているが、塑土が剥離した足先部分の木心には指先まで彫出されている。東大寺戒壇院・四天王像の場合も、平成14年にエックス線透過撮影調査された結果、造形木心であることが判明した。特に持国天像の場合、腰の部分は塑土の厚みがほとんど無く、通常木心に巻く藁の厚みもないことから、塑土の剥落防止に独特の工夫をしたものと考えられる。

 

 

 

 

 

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