仏像の材質

  と押出仏

 

 仏は、土製の仏像で、主に寺院の堂塔の内壁などを荘厳するために制作された像である。

 形状は半肉のレリーフで、一辺30cm程度で厚さ4〜5cm位の長方形や方形のものが多いが、上部が舟形になった舟形光背形(火頭形)や三重・天華寺出土仏のように菱形の例もある。通常は、一尊あるいは三尊を表すものが多いが、五尊や群像形式のものもある。
 製法は、凹形の型に粘土を押しあて、これを型から抜き取って原型どうりの像を造り、それを焼きしめた後に、金銀泥や金銀箔、あるいは彩色を施して仕上げとする。この方法によれば、押出仏同様一つの原型から多数の像を得ることができる。

 仏は、堂内の荘厳だけでなく、厨子に入れて念持仏として礼拝の対象とされたものもある。その遺品の一つとして、もと法隆寺綱封蔵の本尊として南倉に奉安されていた作例が知られる。

 仏の遺品は、日本ではそのほとんどが白鳳時代の寺院跡から出土しており、制作年代もほぼこの頃に限られている。
 仏の源流は、中国やインドの石窟寺院の内壁に描かれた千仏洞の壁面装飾などの影響によるものそれらのはインドのに求められる。大村西崖の『支那美術史彫塑篇』によると、中国の仏としては、在銘像の中では、大魏(東魏)興和五年(543)銘の観音像が最も古い像であるという。これは火頭形の像で、おそらく金銅仏と同様、礼拝像として造られたものと考えられる。しかし隋、唐に入ると形が方形、あるいは長方形のものが盛行し、わが国の寺院址から発見されるものに近い形のものが認められる。特に、大唐善業の銘を持つ唐代の三尊倚像は、奈良橘寺出土の三尊倚像に酷似しており、また、同じく唐代の如来倚像は、奈良壼坂寺出土の小形方形像と酷似するなど、白鳳時代の早い時期に我が国に唐朝美術の影響が及んでおり、日本の最初期の埠 仏は、その影響を受けて制作されたと考えられる。
 前述のように仏は古代寺院跡から出土するものが大部分を占めており、その出土地である寺院の創建年代などから、制作年代が推定できる。そのうち最も古いころと推定されるのが、奈良川原寺や橘寺の仏である。川原寺は、天智天皇の時代(662〜671)に初めて寺名が知られ、ここで天武天皇元年(673)に一切経が書写されている。また橘寺は聖徳太子七か寺の一つで、その草創は不明な点が多いが、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に聖徳太子の建立と記されている。いずれも白鳳寺院の一つであることが明確である。

 近年、川原寺の裏山遺跡から多数の仏が出土したが、これらのほとんどは方形の三尊である。中央に倚座する禅定印の如来像、そして両脇侍の菩薩立像、背後に菩提樹、上方には天蓋、左右上隅には飛天が配される。これらはほとんどが火災に遭って表面は荒れているが、本来はその表面に金箔を押していたことを示す断片や、頭髪に黒色の彩色を施したことを示す像などがある。丸顔の童形の面貌、あるいは体躯の肉付きなどから、七世紀中ごろの制作と推定される。出土品のなかには面貌や上半身の肉付きなどが奈良当麻寺本尊の弥勒仏坐像に類似した大形のもある。

 橘寺の金堂跡からは、二種類の三尊像の仏が出土している。一つは方形仏である。中尊は垂下した両足を方形の台座においている。もう一つは上部が舟形になった火頭形仏と呼ばれるもので、中尊の両足は踏割蓮華(ふみわリれんげ)の上にのせ、左右の両脇侍はともに真正面を向いて合掌をする。この二種はほぼ七世紀中ごろの制作と考えられる。

 また文献的に、創建年代が七世紀中ごろから八世紀初頭と推定される寺院跡から出土する仏のなかで、その制作年代がわかる遺品は、滋賀崇福寺、当麻寺出土品、壼坂寺出土品、三重夏見廃寺出土品などである。特に夏見廃寺の如来及び脇侍像、天部像は造形的に一段と進んだもので、法隆寺金堂壁画の様式に繋がるものとして注目される。

 仏の遺品は天平時代に入ると急激に少なくなり、平安時代にはみることができないが、鎌倉時代にはいると福島龍興寺の千体観音像の例がある。また江戸時代では出土地が不明であるが、文禄甲午(1594)銘の菩薩像などが知られている。

 

 

押出仏

 押出仏は打出仏、鎚(ついちょう)仏とも呼ばれる。本来鎚像は、像の前面と背面を別々に打出して、合せて丸彫像のようにした彫刻で、法隆寺伝来の押出菩薩像(東京国立博物館)が唯一の遺品として伝わっている。それ以外の押出仏は薄い銅板に仏像を浮き出させたもので、文様、形状等はせん 仏とほぼ同様である。押出仏の技法は、レリーフ状の凸型の雄型の上に銅の薄板を置いて、その上から木槌で叩いて像を浮き出し、さらに木鏨などを用いて、細かい文様等を浮き出させる。この他、凹型の雌型を使って銅板をへこませる方式もあり、雌型の方が、銅板の表になる側の文様が鮮明に表される。他に雄型から、鉛または錫などで簡単な雌型を取り、雄型と雌型の間に薄板を入れて、大きい金槌で雄型を叩いて打出す方法もある。浮き出しが高い像は、板の裏から槌で、叩き出してから型に合せて打出すと切れにくい。
 押出仏の原型と考えられるものが法隆寺や正倉院など、他にも数点残されているが、いずれも凸型の雄型である。
 押出仏は鍍金するか、もしくは鍍金の上に一部彩色したりして仕上げる。

 日本の押出仏は、中国の隋、唐時代の押出仏と、大きさや尊様など共通点が多く、その技術や様式は、六、七世紀にわが国に入ってきた中国様式の影響を受けたと考えられるが、仏と同様、平安時代にはその遺品をみることができない。飛鳥から天平にかけて造られた押出仏は、板にはり厨子に安置して礼拝されていたり、厨子の内部や、堂塔の内壁に、装飾または荘厳にするために造られた。他に光背や鏡につけられた押出仏もある。
 これらの最も古い遺品は、法隆寺玉虫厨子の内部一面にはられた千仏像である。

 押出仏は、仏と同様に一つの型で同じものが大量に造ることが出来る利点があり、法隆寺や東京国立博物館の法隆寺献納宝物の中には、明らかに同じ型から製作されたと考えられる押出仏の例が見られる。

 

 

 

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