仏像の材質 
漆、乾漆造

 漆は、主成分のウルシオールは学名に日本語を冠し、漆を塗った漆器を英語で「Japan」と呼ぶように、日本を代表する物質である。

 漆はうるしの木から採取する自然の塗料で、漆液は堅牢で美しい塗膜を持つと共に、強力な接着性を持っており、漆は塗料や接着剤として、古くからからさまざまな用途に用いられてきた。近年の考古学的調査によれば、最古の漆塗り製品は、能登半島・田鶴浜町三引遺跡から出土した約6800年前の竪櫛である。16本の櫛歯に横木を渡して、植物繊維でより合わせ、ベンガラ(赤色塗料)が含まれた漆を4層塗り重ねるなど高度な技術が駆使されている。

 日本に自生するうるし属の樹木としては、ヤマウルシ、ハゼノキ、ヤマハゼ、ヌルデ、ツタウルシなどがあり、真っ赤な紅葉で知られているヤマウルシは、中国、チベット、インドなどの高原地帯を原産地とする高さ3〜8mの落葉小高木。ほぼ日本全土の山地および、朝鮮半島、中国に分布する。

 日本産漆の化学的組成は、主成分のウルシオール(C21H32O2):60〜65%、多糖類(ゴム質):5〜7%、含窒素物:2〜3%、酵素:0.2%、水:25〜30%である。このなかのラッカーゼとよばれる酵素が、空気中から水分を多く取り入れて、ウルシオールを酸化させることによって、漆は固まる。通常の塗料等、水分や溶剤の蒸発による乾燥の場合は、湿度が低く温度が高い程乾燥が早いが、漆は適度な湿度がないと固まらず、温度も40℃〜80℃位までは固まらないといわれている。一般的に漆が固まる最適条件は湿度75〜85%、温度25℃前後といわれており、現代の漆器の場合、専用のむろ(風呂)に入れるのが通例である。

 漆を使用した仏像の造像方法が、かつて中国、及び日本で行われており、これを乾漆(かんしつ)造と称する。

 乾漆という言葉は、明治以降に使われたもので、天平時代の古文書には、即(そく)または塞(そく)の字が当てられている。これに対して、中国では夾紵(きょうちょ)と称され、仏像の遺品はほとんど残されていないが、馬王堆(まおうたい)漢墓から出土した耳杯(じはい-小型の容器)などにその例が見られる。

 乾漆造は、主に天平時代から平安時代にかけて多く行われた漆を用いる造像法で、その手法により、脱(だつ)乾漆と次項に述べる木心(もくしん)乾漆に大別される。

 

脱乾漆

 脱乾漆像は、麻布と漆で造られ、内部が空洞になっているのが特徴である。造り方は、まず塑土で大まかな形を造り、ある程度乾燥させた後、塑土の表面に漆で麻布をはりつけてゆく。漆の乾燥をまって再び麻布をはりつけ、同様に麻布を何重にも漆で塗り固める。内部の塑土が完全に乾燥する前に、像底から、あるいは像の一部を切り開いて、内部の塑土を取り出す。するとちょうど張り子のような状態になるが、このままでは麻布が乾燥するにつれて像が収縮し歪がんでしまうので、これを防ぐために、像の内部に木を組んだ心木を入れる。切開部を縫い合わせた後、目鼻立ちや櫻珞(ようらく)・衣文などの像の細部は漆を盛り上げ、竹べらで押さえて仕上げる。ここで用いられる漆は、漆だけでは乾燥しにくく厚く盛り上げることができないため、混ぜ物をして通気性をよくした木屑漆(こくそうるし)と呼ばれているものである。なお、手指や足先、天衣など本体から遊離した細かい部分なども、木や鉄線を芯(しん)にして、直接木屑漆で盛り上げることが多い。像の表面を竹べらで十分押さえ成形した後は、黒漆などを塗り、最後に金箔を押したり彩色を施して仕上げる。

 脱乾漆像は、軽量であるにもかかわらず、非常に丈夫で、奈良・東大寺三月堂不空羂索観音立像等の巨像をはじめ、天平時代に制作された多くの像が、現在もそのままの姿で伝えられている。現代の技術で言えば、駅のベンチや公園の乗り物に使用される、グラスファイバー(ガラス繊維)をプラスティックで塗り固めたFRP樹脂が、その技術を応用したものとして知られる。

 木屑漆の製法は、脱乾漆像が造られた天平時代のものは今日もなお推測の域を出ないが、漆に線香の材料になる栫(たぶ)の粉末と砥粉などを加えたものと考えられ、抹香漆(まっこううるし)と呼ばれている。これに対し、現在乾漆像の修理に用いられている木屑漆は、平安時代初期頃からの木彫の補助として用いられているものと同様で、漆に小麦と檜の鋸屑を加えたものである。

 脱乾漆像に用いられる麻布の大きさや枚数などは、像の大きさや使用する部位によって異なっており、顔や手先などには比較的目が細かく小さな布が、また体部には目が荒く大きな布が用いられている。麻布の枚数は、五、六層が平均的で、厚みは1.5cm程度のものが多い。

 造像工程のうち、心木の組み方は時代を経るにしたがって進歩してきている。例えば、法隆寺西円堂の薬師如来坐像では、心木が像の内面に沿って平面的に組まれているのに対して、天平時代も末期に造立されたと考えられる奈良唐招提寺金堂の盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像では、格子を立体的に組んだような堅固なものになっている。立像の場合は、坐像のように複雑なものは少ないが、肩や腰などに、像の内法うちのりに合わせて切った板を棚のように入れて一像の収縮を防ぐ工夫をしている。天平初期の乾漆像の面相や体躯が概して平坦で抑揚が少なく、唐招提寺の盧遮那仏像などの方が写実味を増して感じられるのは、このような心木の精粗にも起因していると考えられる。心木の構造のユニークな例として、当麻寺の四天王中の増長天像があげられる。本像は脚下から腰にかけて、像の内面に合わせて桐材をちょうど桶のように組み、心木のかわりをしている。心木は、坐像の場合は像底から比較的簡単に組み込めるが、立像の場合は像の一部を切り開かねばならないため、非常に困難な作業であり、像を前後に切り離した例も見られる。また、興福寺の乾漆像の中には、心木に土が付着しているものがあることから、立像の場合、原型の塑土の段階から中に心木を組み込んでいて、塑土を取り出す際に心木を残したという例もあったと考えられる。

 脱乾漆像の遺品はほぼ天平時代に限られており、また地域的にみても、香川願興寺の聖観音像や岐阜美江寺の十一面観音像など、二、三の例を除き、そのほとんどが東大寺.興福寺を中心とした奈良・大阪に限定されている。願興寺の聖観音像も、様式的にみて純粋な中央様式を示しており、奈良で制作されたものと考えられている。このように、脱乾漆像の遺品が時代および地域的に限られている理由としては、当時東大寺の大仏建立のために組織された造東大寺司が、各地の官営寺院の造寺造仏を統括していた時代であり、脱乾漆像の多くも造東大寺司を中心とした官営の造仏所で造られたためと考えられる。特に脱乾漆像は造像の工程が多く、流れ作業的に造るには都合がよいが、一体のみ造るには効率の悪い造像法であること、またきわめて高価な素材である漆を多量に使用することから、私的な工房で造るのは困難であったと考えられる。例えば、興福寺の八部衆・十大弟子像は、もと同寺西金堂に安置されていた像であるが、西金堂造営の際は、堂宇を建立するのに要したのと同程度の費用を、漆を調達するのに要したという。

 天平時代の仏像を多く伝え、天平彫刻の宝庫と呼ばれる東大寺三月堂には、脱乾漆像も多く残されており、中でも本尊不空羅索観音(ふくうけんじやく)像は天平時代を代表する作品である。本像は、4mに近い巨像で八本の手をもつ多臂(たひ)像であるが、形状の破綻(はたん)もなく見事な像容を示している。下半身がやや短く造り出されているのは、像を拝む際に下から見上げることを考慮した結果であろう。

 興福寺の八部衆・十大弟子像も、脱乾漆像の代表的な作品である。特に八部衆の阿修羅像は、戦いの神である阿修羅を、張りつめた表情の若々しい風貌で表わし、三面六臂(ぴ)の複雑な姿を見事にまとめている。また、十大弟子像は、高僧の哲学的な趣きがよく表わされており、金銅仏や木彫では表わしえない、乾漆という素材のもつ暖かさと柔らかさが、これらの像を親しみ深いものにしている。この乾漆のもつ特徴を最大限に発揮しているのは、唐招提寺の鑑真和上(がんじんわじよう)像であろう。本像は、麻布の厚みが薄く、最も少ない箇所では二枚しか重ねておらず、非常に軽い像であるが、穏やかな中にもすべてを悟りきった老僧の迫真の面相も、乾漆という素材をして初めて表わしえたものであろう。

 このように、天平時代の多くの代表作を造り上げてきた脱乾漆像も、延暦八年(789)の造東大寺司の廃止とともに、その姿を消すことになる。脱乾漆像が造られなくなった理由には、前述のように、造東大寺司が廃止されたことにより仏師の多くが私的な工房に分散し、経済的な裏づけがなくなったことと、流れ作業的な要素の強い造法が困難になったことがあげられる。また、脱乾漆像は、原型の塑上の取り出しや乾漆による歪みなどの欠点のため、体から遊離した部分や細かい部分の施工が困難であるが、平安時代初頭、入唐した空海や最澄が相次いで帰朝して多くの図像を伝え、これに基づいて多面多臂(ひ)の複雑な形状の仏像が多く造られたことも、脱乾漆像の衰退に拍車をかけたのであろう。例えば、大阪葛井寺(ふじいでら)の千手観音像は、天平時代も末期に近い脱乾漆像の遺品として知られているが、他の千手観音像と異なって、千本の手を木彫で造り、体躯の後にちょうど光背のように扇形に並べている。これは、作者の卓越したアイデアであると同時に、脱乾漆像としての限界を示す一例とも言えるであろう。

 

木心乾漆

 木心乾漆(もくしんかんしつ)は、脱乾漆(だつかんしつ)と同様に漆を用いた造像法で、その遺品は天平時代から平安初期にかけて多く見られる。

 木心乾漆像は、構造的には脱乾漆像の塑土の部分を木彫に置き換えたもので、木彫であらかじめ大体の形を彫った上に、漆の付着をよくするためと像の補強を兼ねて荒い麻布を張り、これに木屑漆(こくそうるし)を盛り上げて細部を仕上げる。天衣や指先など体から遊離した部分は、脱乾漆像と同様に鉄線などを芯にして木屑漆を直接盛り上げて仕上げることもある。また、最後に金箔を押したり彩色を施すのは、脱乾漆像や他の木彫像と同様である。

 ここで用いられる木屑漆は、脱乾漆像で用いられるものと同じく抹香漆(まっこううるし)と考えられているが、平安時代に入ってからは、現在京都の美術院(国宝修理所)で仏像の修理に使われているものと同様、漆に小麦粉を加えた麦漆に檜の鋸屑と若干の麻繊維を混ぜたものが用いられている。この木屑漆は適当な塑性と弾性を合わせ持っており、一度に厚く塗れる外、乾漆後は木材と同様に切削することが出来るという特徴をもっている。通常の乾漆像は、木屑漆の表面を竹べらで押さえて仕上げるが、平安時代初期の像では乾漆を補助的に用い、木材と同じように鑿(のみ)で仕上げているものが多い。

 木心乾漆像の原型となる木心には、さまざまな種類が見られ、その構造により木骨(もっこつ)木心乾漆像、木寄式(きよせしき)木心乾漆像、一木彫(いちぼくちょう)木心乾漆像、木体(もくたい)木心乾漆像などに分けられる。木骨木心乾漆像は、形状的には脱乾漆像の麻布に当る部分を張り子のように薄く削った木彫に置き換えたものである。内部には脱乾漆像と同様に木心を組んでいるが、この木心は原型の時から組み込まれたものである。本例は構造的に脱乾漆像に最も近く、遺品も法隆寺伝法堂の阿弥陀如来像など、天平時代も早い像に多い。木寄式木心乾漆像は、木骨木心像の木彫部分を厚めにして強度をもたせ、内部の木心を取り除いたもので、高山寺の薬師如来像がその例である。一木彫木心乾漆像は、木心部をほぼ一つの木から造り出したもので、内部には後世の一木造の木彫像と同様、重量の軽減や干割れ防止のために内割(うちぐり)を施す例が多い。前の二法では、木心部は木屑漆で隠されるものとして、木取りや仕上げなども幾分ぞんざいに扱われているが、一木彫木心乾漆像の場合はむしろ木彫像に近く、例えば、天平時代も末期の遺品である唐招提寺の菩薩頭部などでは、木心の段階で目鼻立ちなどの像の細部をある程度彫り出した例もあり、木屑漆の厚みも薄くなっている。木体木心乾漆像は、木心の部分を、いくつかの木のブロックを集めて彫ったもので、一本の木から彫り出せなかった場合の便法であろうが、後世に流行する寄木造とは異なり、木の寄せ方に規則性はない。唐招提寺金堂の薬師如来像などがその例である。

 木心乾漆像の代表的遺品としては、奈良聖林寺の十一面観音像があげられる。本像は一木彫木心乾漆像で、頭部を含めて体部を一木から彫り出し、両脇は別木で造って体部に取りつけてある。体部には前後から大きな内刳を施し、蓋板を当てている。目鼻立ちや衣文などの細部はすべて木屑漆を盛り上げて成形しており、指先や天衣など、体から遊離している部分は鉄線と布を芯にして木屑漆で直接成形されている。木屑漆の厚みは、平均1〜1.5cmで脱乾漆像の場合とほとんど変らない。本像は天平時代も末期の遺品で、顔の表情などにやや緩みがみられるが、手指がしなやかに伸び微妙な空間を造り出している点など、肉身部の表現に独特のものがあり、天平の名作の一つにあげられよう。また、本像の光背は現在一部を残すのみで原形を留めないが、光脚(こうきゃく)部に乾漆を用いていることが知られている。その他の部分は木彫ではあるが、中心に茎を表わし、その周囲に花や葉を配した意匠が見事である。

 木屑漆を使った特殊な例としては、法隆寺百済(くだら)観音像が知られる。本像は、飛鳥時代の遺品でクスノキの一木造であるが、像の上半身には木屑漆が3〜5cmの厚さに盛り上げられている。この木屑漆には、籾殻や荒い麻の繊維が認められ、天平時代のものとは異なっているが、非常に良質で、若干の干割れはみられるものの浮き上がりはほとんどない。本像が、同じく飛鳥時代の木彫である夢殿観音像などと比べて茫洋とした印象を与えるのはこの乾漆のせいであろう。

 天平時代の末期に、天平文化を司った造東大寺司が廃止され、金・銀・銅などの金属仏や塑像、脱乾漆像など、天平彫刻に花開いた多彩な素材の多くがその姿を消した。しかし木心乾漆の技法は平安時代に入っても、京都・東寺や神護寺、大阪河内長野市・観心寺など空海の伝えた真言密教系の寺院に引き継がれ、多くの彫像を残している。これは、乾漆像について言えば、衝撃に弱く複雑な形状を造りにくいという脱乾漆の造像上の欠点を補うものとして、木心乾漆が多く用いられたためであろう。特に密教の影響により複雑な形状の像が多くなるにつれて、その傾向は高まったと考えられる。また、乾漆は人肌の暖か味や柔らかさを表わすのに適した素材であるが、脱乾漆像の場合は乾燥による像の収縮があり、像の痩せが避けられないのに対して、木心乾漆像の場合は像の収縮も少なく、密教系の仏像のように、妖艶なふくよかさを表わすには最適であったと考えられる。

 平安時代初期の木心乾漆像の代表的な像としては、大阪・観心寺の如意輪観音像があげられる。本像は、六本の腕をもつ豊満な体躯に多様な文様を繧繝(うんげん)彩色を用いて描いた、官能的な像である。本心は、いわゆる一木彫本心で、頭部と体部を各腕の上膊部までを含めて一木から彫り出し、肘先や足先を別木で矧ぎつけている。内割りは、背面と像の底部の二か所から行ってあり、内部で繋がっているものと思われる。本像は、同じ一木彫木心でも、聖林寺の十一面観音像など天平時代の像とは異なって、指先まで木彫で造られるなど、構造的には木彫に近く、乾漆の厚みも3〜9mm程度と薄くなっている。

 平安時代初期の木心乾漆像は、密教系の像の方に圧倒的に多くの遺品が残されているが、顕教系の像にもいくつかの例が見られる。例えば、京都広隆寺講堂の阿弥陀如来像は、ほぼ木彫に近い像であるが、全身にかなり厚手の漆下地がおかれ、乾漆の気風を伝える像として注目される。

 木心乾漆像は、この他、愛媛・庄(しょう)部落の菩薩像や、愛知・甚目寺の十一面観音像などにもその遺品が知られるなど、地域的にも拡がりをみせ、また兵庫・大龍寺の菩薩立像の肉身部や、岩手黒石寺の薬師如来像の面相部に乾漆が用いられているように、木彫との中間的な作例も散見され、独自の展開をみせている。しかし、奈良朝の気風を伝えるこれらの木心乾漆像よりも、同じく天平末期から平安初期にかけて造られ始めた純粋木彫像の方が、人々の心に合ったとみえ、木彫像が隆盛になるにつれて、木心乾漆像はその姿を消してしまった。

 

 

 

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