仏像の種類 菩薩(ぼさつ)

図像は、『マンダラ博佛館』(西上ハルオ著 鷺書房刊)から、西上ハルオ氏の許可を得て転載したものです。
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注記無きものは、御室版高雄曼荼羅・胎蔵界(仁和寺蔵)が元図となっています。

 

菩薩(ぼさつ)
 菩提薩(ぼだいさった)を略して菩薩とよんでいる。自らも悟りを求めて修業に励み、かたわら一般衆生の教化にあたり、如来の功徳を与えるという尊である。ふつうこのことを「上求菩提下化衆生」の言葉で説明する。したがって如来ではあっても、修業中の釈迦などは、釈迦牟尼菩薩(しゃかむにぼさつ)とよばれる。.その姿は、古代インドの貴族の姿をかたどったものといわれ、如来とは異なった形で造像されている。螺髪や肉髪のある如来に対して、菩薩の頭部は高い髪に宝冠を頂く。着衣は天衣(てんね)をまとい、腰部には裳(も)、裙(くん)を着けるのが普通である。また身には装身具をつける。耳の耳(じとう)や胸の瓔珞(ようらく)、腕や臂あるいは足首の釧、腕釧、足釧などがこれである。さらに印相は結ばず、蓮華(れんげ)や水瓶(すいびよう)、剣などを持つ。これにも例外があり、地蔵菩薩は、頭髪を剃り頭を丸めた、いわゆる円頂の比丘形で、袈裟を着けた姿に表わされる。また、弥勒菩薩は、如来と菩薩の両方の姿で表わされるが、これは弥勒が釈迦の次にこの世に下生してくる仏であり、現在は兜率天において、菩薩の姿でこの世をいかに救うかを思案しているといわれ、その姿を表わす半跏思惟像も多く造られている。
 わが国の菩薩像の造像は飛鳥時代から始まるが、これには如来の本誓を実行するための補処の菩薩、如来の脇侍像の場合と、菩薩そのものを信仰の対象として、単独または眷属(けんぞく)とともに造像された場合とがある。阿弥陀如来と観音・勢至菩薩の三尊形式は前者であり、千手観音と二十八部衆などは後者の例である。こうした菩薩の中で、その代表的な菩薩が、観音・勢至・弥勒・文殊・普賢・虚空蔵・地蔵菩薩などである。
千手観音

 観音菩薩

 観音菩薩は、観世音(かんぜおん)菩薩の略で、如来も含めた数多い諸尊の中でも、最もよく知られており、その信仰は飛鳥時代より今日まで、絶えることなく続いている。したがって各時代を通じて遺品も多いが、三十三化身で知られるように、その種類も非常に多い。そうした中で観音本来の姿といわれるのが聖観音である。この聖観音に、変化の観音である十一面・不空羅索(ふくうけんじゃく)・千手(せんじゅ)・馬頭(ばとう)・如意輪(にょいり)ん観音、あるいは不空羅索観音の代りに准胝(じゅんてい)観音を加えて六観音とよぶ。これらが代表的な観音菩薩である。聖観音の像は飛鳥時代からみられ、法隆寺百済(くだら)観音、救世(ぐぜ)観音、大宝蔵殿観音像などがいずれもこの観音である。次の白鳳時代にはいると、天武天皇朱鳥元年(686)に諸王が天皇のために観音像を造像したことが記録されるなど、その信仰が盛んであったことが知られる。また仏像の上では、はっきりと観音像であることを示す像が多くなる。その中で、最も古い像が東京国立博物館所蔵法隆寺献納宝物の辛亥年銘像(651)である。頭上にこの時代の特徴である三面宝冠を頂き、その正面には観音の本地仏(ほんじぶつ)、すなわち観音に姿を変える前の仏である阿弥陀如来を陰刻し、この像が観音像であることを物語っている。大阪観心寺像(658頃)や法隆寺夢違(ゆめちがい)観音、島根鰐淵(がくえん)寺像(692)もこうした例である。一方、脇侍像としては、献納宝物山田殿像や、法隆寺押出仏(おしだしぶつ)、橘夫人念持仏などがみられる。またこの時代には十一面観音像が現われる。東京国立博物館蔵那智発掘像がこの例である。天平時代にはいると道慈や玄肪(げんぼう)による密教経典の請来(しょうらい)もあり、多面多臂(ためんたひ)の変化の観音像がしだいに増える。東大寺不空羅索観音や大阪葛井寺(ふじいでら)千手観音像などである。またこのころには、馬頭観音や如意輪観音の尊名も知られている。密教の全盛期を迎えた平安時代初期には、観心寺如意輪観音像など、すばらしい像が造像されている。一番遅れて伝えられた准胝観音は、その最も古い像が奈良新薬師寺像(970)である。平安時代の後半には観音信仰はさらに盛んとなり、以後鎌倉時代、さらに現代まで、現世利益の仏として信仰され、数多くの傑作が残されている。

聖観音            十一面観音           不空羂索観音

馬頭観音             准胝観音          如意輪観音

 勢至菩薩

 勢至菩薩には単独像がほとんどなく、阿弥陀如来の脇侍像として造像されるのが普通である。東京国立博物館所蔵法隆寺献納宝物「山田殿」三尊像脇侍や法隆寺像(白鳳時代)などが古い像である。

 文殊菩薩

 文殊菩薩もまた、釈迦の脇侍として普賢菩薩とともに造像されるが、古い像としては、法隆寺五重塔の維摩居士(ゆいまこじ)と問答をする像(711)などがある。平安時代に入るとこの菩薩は、釈迦から離れて単独の信仰を集め、その種類も増える。記録によれば、最澄が稚児(ちご)文殊を請来(しょうらい)したほか、文殊の霊地とされる中国五台山を巡礼した入唐僧円仁(えんにん)は、比叡山に文殊楼の建立を秦し、円仁遷化(せんげ)後に完成した文殊楼には、七尊形式の五台山文殊が安置された。また文殊菩薩は、戒律を守る修業僧の仏として伽藍の食堂(じきどう)などに安置される。この場合の文殊は、老僧の姿で表され、僧形文殊とよばれている。京都教王護国寺像や法金剛院像などがあり、いずれも平安時代の像である。文殊菩薩が知恵の仏として一般の信仰にまで広がるのは、平安時代末ごろから鎌倉時代にかけてである。このころには、五台山文殊の系統にある渡海文殊(高知竹林寺像、鎌倉時代)などが流行した。また五髻(ごけい)、八髻文殊なども造像され、中村庸一郎氏蔵像(1285)や中宮寺紙造文殊像(1269)などが名高い。いずれもこれらは若々しい像として造られている。

 

 普賢菩薩

 普賢菩薩は、文殊とともに釈迦の脇侍として造像されることが多い。しかし飛鳥から奈良時代までの遺品としては、法隆寺金堂壁画にみられるだけである。単独の信仰対象が生れるのは、平安時代、十世紀ごろであるが造像例は少い。平安時代末ごろの像として東京大倉集古館像や京都岩船寺像などがみられる。またこの尊には、天皇の守護仏としての信仰もあり、二十臂の多臂像、普賢延命菩薩が造像されている。大分大山寺像(平安時代中期)や佐賀竜田寺像(1326)などが代表的である。

 虚空蔵菩薩

 虚空蔵菩薩もまた、釈迦の脇侍として観音とともに造像されることもある。知恵を授ける仏として、独尊で信仰されることも多い。この菩薩の説く虚空蔵求聞時(ぐもんじ)法は、奈良時代には道鏡や空海がこれを修したことが知られている。奈良額安(がくあん)寺像(奈良時代末期)や広隆寺像(平安時代)が古い。さらに平安時代からは、密教の影響により五大虚空蔵菩薩が造像されるようになった。この像では京都神護寺像(836〜845)が名高い。

 地蔵菩薩

 地蔵菩薩は、菩薩の中で唯一、頭を丸くした比丘(びく)形である。この尊は橘寺伝日羅像、古くは天平時代の東大寺講堂に、その巨像が安置されていたというが、現在平安時代以前の遺品はない。奈良融念寺像、京都広隆寺講堂像(平安時代)が古い。しかし平安時代の浄土思想の発達とともに急激に増え、鎌倉時代には六道の救済者として、その信仰は一般民衆にまで広がった。また鎌倉時代には、半跏形式の延命地蔵も現れた。京都禅定寺(ぜんじょうじ)像や滋賀正福寺像などがこうした例である。鎌倉時代も後半にはいると奈良伝香寺像のような裸形地蔵も造像された。このあとも地蔵信仰は盛んで、江戸時代には子安地蔵が造像されるようになる。

 

 日光・月光菩薩

 日光・月光菩薩は、薬師如来の脇侍仏として造像されてきた。奈良薬師寺三尊像や東京国立博物館木心乾漆日光像、東京芸術大学月光像(各奈良時代)が古い例である。

 

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