仏像を科学する

 

 ろう型鋳造

 ろう型鋳造は、蜜ろうを使った鋳造方法である。土で大体の形を造り、その上に蜜ろうとまつやにを混ぜた原料を熱で溶かして塗り固め、原型となる型をつくる。像の細かい部分までこの段階で仕上げておく。この原型の表面に目の細かい鋳型土(砂、粘度、紙の繊維などを混ぜたもの)を塗って乾燥させ、さらに適度な厚みになるまでより粗い粒度の土を塗って乾燥させる。これを800℃程度まで加熱すると、蜜ろうの部分だけが溶け出して空洞となる。これを焼成して鋳型とする。蜜ろうが流れ出た空洞に、溶かした青銅を流し込み、冷却後内部及び外側の鋳型土を壊して取り除くと、原型と同じ型の鋳造品が出来上がる。

 ろう型鋳造は、原型をその都度壊すため、一つの型から一つの像しかできないが、銅鐸などの制作に用いられた、鋳型を2つ割りにしてその間に溶湯を流し込む合せ型に比較して、複雑で精密な造型の作品を生み出すことが出来るのが特徴である。ろう型鋳造は、エジプト、中国等で古くから行なわれており、日本には、飛鳥時代の初期に仏像と同時にもたらされた。日本の古代の金銅仏は、飛鳥大仏、奈良の大仏、鎌倉の大仏など大きな像を除き、ほとんどがこの方式で造られている。ろう型鋳造は、原型や鋳型が残らずその都度制作するため、個性ある作品が出来るが、逆に大量生産に向かず、合せ型(仏像の場合「もなか手」とも言う)の像も後年用いられるようになる。

  しかしながら、近年、ろう型鋳造が持つ、複雑な型を原型に忠実に写し取る事が出来る特徴が見直され、インベストメント法またはロストワックス法として工業的に見直され、ジェットエンジンのタービンや部品など、いわゆる精密鋳造技術として広く工業的に利用されるようになった。密ろうは、パラフィンや樹脂に、鋳型土はセラミックに形を変えてはいるが、手法は全く同じである。この精密鋳造法は、1955年に米国の金属加工会社から、工業用、歯科用、美術用など広範囲な分野に適用する特許が申請されたが、わが国は、技術の着想はろう型鋳造と同じであり、古代から行なわれた既知の技法であるとして反駁した結果、異議申し立てが認められ特許不成立となったという経緯がある。

 鋳造技術一つを取ってみても、古代人の先見性を見る思いがする。

 

 木型原型と土型原型

 日本の古代の金銅仏は、殆どがろう型鋳造により造られているが、蜜ろうが貴重であったため、大きな像の場合は別の方式が用いられた。

 飛鳥大仏、奈良の大仏、鎌倉の大仏などは、土型原型や木型原型が用いられたと考えられる。土型原型の造り方は、まず粘土で原型を造り、原型の上に粘土を被せて外型を型どりした後、一旦外型をとりはずす。原型の粘土の表面を鋳物の肉厚分だけ削って中子(なかご)とし、その外に外型を隙間をあけて置き、隙間に溶銅を流し込む。銅が固まった後、外型を外すと像が出来上がる。完成後、中の原型も壊して取り出す。

 木型原型の場合は、木彫で原型を造り、原型から外型を型どりした後、外型からさらに内型を型どり、この内型を焼成後、原型とは別の場所に組立て、表面を鋳物の肉厚分だけ削って中子(なかご)とする。その外に外型を隙間をあけて置き、隙間に溶銅を流し込む。

 土型原型、木型原型共に、外型は一定の大きさに分割したものを合わせるため、鋳造の際、像の外面に型同士の合わせ目が鋳張りの跡として残る。また、木型原型の場合は、中型も一旦取外して外型と同様一定の大きさに分割することになるため、像の内側にも型同士の合わせ目が鋳張りの跡として残る。しかし、土型を原型とした場合は、中子は原型全体を削るだけなので、像の内側には鋳張りの跡は残らない。

 飛鳥大仏は、像の表面には約40cm角の鋳張りの跡が見られるが、内側には全く見られないことから、土型で造られたと考えられる。また、奈良大仏の場合は、内部に土が残されているため、明確ではないが、文献上からも飛鳥大仏と同様、土型を使用したと思われる。

 これに対し、鎌倉大仏の場合は、内側にも平面部で約60cm角の鋳張りの跡が見られることから、一般的には木型を使用したと考えられるが、土型を使用したという説もある。

 鎌倉大仏の造像に関する古文書は、奈良大仏に比べ少なく、『吾妻鏡』に記載されたものが唯一といっても良い。
 『吾妻鏡』にある、鎌倉大仏造像に関する記事を挙げると、
  嘉禎4年(1238)に僧浄光の勧進により大仏建立が始められ、
  仁治2年(1241)3月に大仏殿が完成、
  寛元元年(1243)6月に開眼供養を行い、
  さらに9年後の建長4年(1252)8月に鋳造を始めたことがわかる。

 建長4年に鋳造を始めたのは寛元元年に開眼供養された像とは別の像であると考えられるが、開眼の前年にこの地を旅した旅行記『東関紀行』には最初の像が木像であることが記載されており、また、古今集秘集に、浄光勧進が日本国中の人に一文銭を課するとされていることから、浄光はふたつの大仏を一貫した事業として計画し、最初の像は金銅像の原型となる木像であったと考えられる。これが、木型原型説である。

 これに対し、原型の完成から9年間も鋳造を始めるのに要することはないはずで、同じく『吾妻鏡』の宝治元年(1247) 9月に鎌倉地方に台風が上陸し仏閣、人家が多く倒壊したという記事があることから、大仏が損傷を受けたため、建長4年に新たに粘土を原型とした大仏を造ったとし、土型であっても、中型を分割したために内側に鋳張りが残ったとするのが土型原型説である。

 寛元元年の開眼から建長4年の鋳造開始までのあいだの事情を明らかにする資料は全く見当たらず、決め手はないが、木型の場合は上記のように工程が多く、鋳造までに時間が掛かるので、原型となる木彫の像の完成後、鋳造開始までに9年も要したのではないだろうか。

 鎌倉時代に何故木型が用いられたかという点に関しては、想像の域を出ないが、鎌倉時代に流行する鉄仏において、より精密な造型を得るために土型より木型が好んで採用されたことが影響しているのではないかと考えられる。

 

 

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