時代の特徴

8. 室町時代

 

 明徳三年(1392)の南北朝合一から天正元年(1573)の室町幕府の滅亡までを室町時代と呼ぶ。

 室町時代に入ると仏像彫刻は古典復興として著しい発達を見た鎌倉時代に比べると、職業仏師に徹し従来の形式を追うのみでなんら新しい様式を生み出すことはなかった。これは仏教の面からいえば偶像を必要としない禅宗が盛んになったためもあって、絵画の場合と同じく禅宗独特の肖像彫刻に時代の特色を示している。

 禅宗寺院にあっては仏像彫刻はなくとも祖師や開山の像は必ず祀られていた。これら肖像彫刻は前代以来の個性的な写実表現と禅宗的人格表現を基調としたものである。その遺品の代表的なものとしては、神奈川瑞泉寺の夢窓国師像・東京普済寺物外(もつがい)和尚像・神奈川宝戒寺惟賢(ゆいけん)和尚像・神奈川白雲庵東明慧日(とうみょうえにち)禅師像・京都酬恩庵一休和尚像などがある。これらの肖像彫刻は前代以来の個性的な写実表現と禅宗的人格表現を基調にしたもので、仏教布教に生命を賭した人々の生き様を感じることが出来る。

 当代の仏師として名の伝えられているものは、慶派として知られる七条仏所は、正統の七条中仏所のほか、鎌倉時代後半に康誉が興した七条西仏所、室町時代に康祐が始めた七条東仏所に分かれた。また、院派の七条大宮仏所系に院信・院勝らが、円派の三条仏所系に尭円(ぎょうえん)・慶円らがあった。

 奈良仏師としては、正統の慶派である寛慶・順慶らのほか、慶派から分かれ興福寺の椿井郷に仏所を開いた椿井仏所に所属した椿井仏師が活躍する。椿井仏所は、舜覚坊法眼慶秀が開いたとされ、応安8年(1375)に弟子舜慶・湛誉らと共に法隆寺護摩堂弘法大師坐像を制作したほか、応永年間(1394〜1428)には、慶実と共に興福寺南大門金剛力士像を造像した。
 慶秀の弟子舜慶は、康暦2年(1380)に法隆寺護摩堂不動明王像の両脇侍を、永和3年(1378)に、広島浄土寺の騎獅文殊菩薩像を造立した。
 椿井仏師の中では、春慶が最も多くの造像記録を残し活躍した仏師として知られる。南都住舜覚坊春慶と称し、長禄3年(1459)に法隆寺宝珠院五髻文珠菩薩像を造立したほか、寛正7年(1466)に元興寺金堂丈六弥勒仏像、文明5年(1473)に多武峯講堂の阿弥陀三尊像、明応5年(1496)に奈良長谷寺の十一面観音立像を造っている。寛正4年(1463)に法橋、明応5年(1496)に法眼に叙せられ、奈良を中心に多くの造像に携わったが、現存するものは、法隆寺五髻文珠菩薩像のみである。椿井仏師としてほかに、椿井丹波公、椿井次郎、椿井式部などの作者が知られている。

 また、奈良地方では、僧籍にあった仙算、実清や、南都宿院を本拠地としていた宿院仏師と呼ばれる一族など、俗人仏師の造像も見られる。

 このように多くの仏所が開かれて仏師の数も非常に多く、かなりの仏像が造られたが、前代の運慶以下の巨匠の様な仏師は現れなかった。

  仏像彫刻の遺品としては法隆寺上堂四天王像(寛慶および順慶幸禅作、天和四年)、東大寺法華堂不動三尊像(清玄彩色、応安六年)、広島浄土寺の文殊菩薩像(椿井仏師作、永和四年)、三重万寿寺の地蔵菩薩像(寛慶・忍慶作、貞治三年)、法隆寺護摩堂不動三尊像(舜慶作、康暦二年)、法隆寺宝珠院五髻文殊像(春慶作、長禄三年)などがある。

 この時代の仮面(かめん)彫刻としては前代以来の舞楽面や行道(ぎょうどう)面も作られていたが、この時代独特のものとしては、室町時代の彫刻としては肖像彫刻のほかには、能楽の流行に伴って作られた能面がある。この能面が芸術的にもすぐれていて、当代彫刻を代表している。現在伝わる、能面の基本様式は、全て当代に作られたものである。
 有名な能面作家としては十作・六作として知られ、特に十作と呼ばれる、日光、弥勒、赤鶴(しゃくづる)・越智(おち)・氷見(ひみ)・竜右衛門・夜叉(やしゃ)・福原・小牛(こうし)・徳若は、今日の能面の形態を創作した作家と伝えられる。また、六作と呼ばれる、千種(ちぐさ)・三光坊・福来(ふくらい)・宝来・増阿弥・春若は、桃山時代にかけて能狂言を含めた能面を専門に制作した。

  

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