時代の特徴

6. 藤原時代

 藤原時代とは、寛平六年(894)の遣唐使の廃止から平家が滅亡した寿永四年(1285)までをいう。

 飛鳥時代から平安時代前期までの日本の彫刻は、中国大陸の様式の変化を敏感に反映し、展開してきた。しかし、それまで中国文化の摂取に大きな役割を果たしてきた遣唐使が廃止されると、わが国の彫刻界は、次第に大陸の様式影響を離れ、わが国独自の彫刻様式が成長していった。

 藤原前期すなわち十世紀の遺品は、未だ平安初期の様式を残している。延喜九年(909)制作の醍醐寺上醍醐の薬師堂の薬師三尊像は、体躯は肥満し、顔もがっちりとしており、脇侍の日光・月光(がっこう)菩薩像も、両脚間に旋転文(せんてんもん)がみられるなど、まだ平安初期様式が強い。しかし、天慶九年(946)の銘をもつ京都岩船寺の阿弥陀如来坐像になると、体躯にも面相にも丸さが加わり、衣文線も数を減じて彫りも浅くなっている。この特色は藤原彫刻一般に通じるもので、本像には、その先駆的な要素がみられる。十世紀の最末期、正暦四年(993)ごろの制作と考えられる滋賀善水寺の薬師如来坐像になると、体躯の量感も減じ、顔付も優しくなっている。
 興福寺の薬師如来像は、その体内に納入された経巻の年代から良和二年(1013)ごろの制作と推定される像で、体躯にも、面相にも柔和なところが顕著に出てきている。京都同聚院の不動明王坐像は、寛弘3年(1006)、藤原道長が旧法性寺に建立した五大堂の中尊と伝える像であるが、このような忿怒相の像にも、優美な面が現れてきており、間もなく和様彫刻が生まれる前触れとなっている。

 藤原時代は、藤原道長、頼通親子が摂政として権力を握り、貴族社会として、権力と富が集中した時代でもあった。天台宗と真言宗によって、国家鎮護の思想から、各種修法が行われた一方で、従来の法華経、浄土教も貴族社会に深く浸透しており、特に、末法思想がその流行に拍車をかけて広まった。末法思想は、釈迦の入滅後は、釈迦の教えに従って修行を行い悟りを得ることができる(正法)が、そのうち悟りを得ることが出来なくなり(像法)、やがては修行をするものもいなくなる(末法)という思想で、日本では永承7年(1052)に末法が始まるとされた。
 当初は先祖、父母の追善供養であった阿弥陀信仰も末法思想を機に、来世に極楽往生をとげることを願い、阿弥陀堂の建立と阿弥陀如来像の造立が盛んになった。特に藤原頼通が天喜元年(1053)に建立した宇治平等院鳳凰堂はその典型で、贅の限りを尽くし、西方浄土を現世で具現したものである。

 その後、白河、鳥羽上皇の院政期に移っても、仏像を大規模に多く造ることが作善であり、極楽浄土に生まれ変わる事が出来るという思想は変わらず、一度に数百・数千の像を造ることがしばしば行われた。現存するものでも京都蓮華王院(三十三間堂)の千体千手観音立像や、京都浄瑠璃寺の九体阿弥陀如来坐像などがあり、浄瑠璃寺の阿弥陀像の体内には、さらに沢山の阿弥陀を紙に刷った印仏が多数納入されていた。白河上皇は、生涯に画像5470体、丈六像132体、その他6000体もの仏像を造像したと言われる。

 このような大量の仏像の需要に対し、仏師たちの環境も変化した。それまで寺に所属し、寺毎の需要に応じて造像していたのが、当時の一流の仏師に依頼したい権力者が仏師に直接造像を依頼することこともあり、寺とは独立して工房を設けるものも増えてきた。それは、藤原彫刻の祖といわれる定朝の父康尚の時代から始まったと考えられ、定朝の時代には、100人以上の仏師を擁する一大工房となっていた。また、定朝は仏師として初めて法橋(後に法眼)という僧綱位を与えられ、仏師の社会的な地位の向上にも貢献した。

 この時代の遺品は、阿弥陀如来像が多いが、その像容は、藤原貴族の好みを反映した、円満具足の優しい面相と、襞が少なく浅い衣文線を表す優美な像であった。大仏師定朝の制作とされる宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像などはその典型的遺品である。
 この像は、数個の木を組み合せた寄木造(よせぎづくり)という造像法が用いられている。寄木造は、それまでの木彫像が、頭部・体躯を一本の木から彫出する一木造(いちぼくづくり)で造られているのに対し、沢山の仏像を多くの仏師が分業的に制作するのに便利なように考案された造像法で、定朝が完成させたといわれている。
 この構造や造形は定朝様と呼ばれ、その後も造像の基準として、長い間受け継がれて行った。京都法界寺の阿弥陀如来坐像もその一つである。本像は、その穏和な面相等も鳳凰堂の阿弥陀如来坐像に近い。

 定朝の子孫達は、その後、主に京都を中心に活躍した円勢に代表される円派、院助に代表される院派、奈良を中心に活躍した康慶に代表される慶派に分かれ派を競った。
 大治五年(1130)ごろに院派仏師院覚が制作したと考えられる京都法金剛院の阿弥陀如来坐像は、低い肉髻や膝高など定朝様を踏襲する像であるが、多少意志的な強さが加わり、体躯の造りや衣文の表現にもかたい感じを与える。
 また、安元三年(1177)に円派仏師明円が制作した大覚寺五大明王像は、忿怒像ながら面相や姿勢も穏やかな旧様を踏襲した優美な像である。

 これに対し、慶派の像は、興福寺の再建に関与したことから、天平時代の写実性を目指す新しい試みを感じさせる像が多くみられる。仁平元年(1151)の制作になる、奈良長岳寺の阿弥陀三尊像は、眼の部分を刳り抜いて内側から水晶を当てる、玉眼(ぎょくがん)という新技法を用いて生き生きとした眼を表現している。また、モデリングや面相、衣文線の表現も、量感のある写実的なものになっている。この像の作者としては、康慶の祖父に当たる康助の名が挙げられている。

 また、この時代には、鉈彫(なたぼり)と呼ばれる地方様式も生まれた。鉈彫像は、仕上げをする前の荒彫のように表面に丸鑿(のみ)の痕を残した仏像で、主に平安時代の東国の仏像に見られる。木彫の場合、一旦荒い鑿でおおよその形を整え(荒彫)、その後表面を平滑に仕上げていくのが通例であり、これらの像は一見未完成の像の様に見えるが、時代的にも地域的にも限られているところから、現在では一様式として考えられている。材もカツラ・ケヤキのような硬材を使い、彩色を施さないのが特徴である。神奈川宝城坊の薬師三尊像や神奈川弘明寺の十一面観音立像は、鉈彫のなかでもも古い遺品で、10〜11世紀ごろの制作と考えられる。

 藤原時代の仮面の遺品として舞楽面がある。舞楽も伎楽と前後して伝えられた音楽舞踊で、林邑楽(りんゆうがく)・高麗(こま)楽・渤海(ぼっかい)楽など大陸各地の要素が含まれており、舞を踊る際に被るためのバラエティーに富んだ面が造られた。特に、東大寺や春日神社などには、平安時代の遺品とされる舞楽面が多数伝えられている。
 またこの時代には、阿弥陀信仰の隆盛に伴って、行道(ぎょうどう)という、仏や菩薩の面をつけて行列する仏教行事が行われたが、それに用いる面を行道面は、仏像彫刻に近く和様の特色をもっている。 

 前時代から始まった仏教文化の地方への伝播は全国に広がり、この時代の彫像は東北から九州まで各地に遺品が見られる。特に、奈良大仏建立の際に献上された砂金を基に勢力をのばした奥州藤原氏は、清衡、基衡、秀衡の三代にわたって、中尊寺金色堂を中心として毛越寺や無量光院などを建立した。藤原氏は、京都と全く同じ文化を築こうとして、京文化の徹底的な移植を目指し、全て京都から呼び寄せた技術者により中尊寺金色堂を中心に豪華絢爛な平泉文化を残した。特に、一字金輪坐像と呼ばれる大日如来坐像は玉眼を使用した早い例として知られるなど、中央作と遜色ない技法や様式を示している事が注目される。

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