時代の特徴

9. 桃山・江戸時代

 

 天正元年(1573)の室町幕府の滅亡から元和元年(1615)の大坂城落城までを桃山時代、それから明治元年(1868)までを江戸時代という。

 桃山時代は仏像彫刻はますます不振となり、むしろ俗体の肖像彫刻や建築装飾としての浮彫彫刻に、時代の特色を発揮した。当代の造仏として最も注目すべきものは秀吉・秀頼により天正から慶長にかけて行われた方広寺大仏の造像であり、奈良の大仏をしのごうとした当時の雄大な気魄を偲ばせている。ついで慶長七年から九年にかけて大仏師康正らによって行われた教王護国寺金堂の薬師三尊および十二神将像がある。これに対して肖像彫刻としては京都隣華院棄丸(すてまろ)像と京都善正寺の豊臣秀頼像とがあげられる。これらは可憐な表現によって従来の肖像彫刻に見られない近世的感覚を示しているが、肖像彫刻というよりも、むしろ人形に近い。

 江戸時代の彫刻は、遺品はきわめて多いが、職業的仏師の制作した仏像は、型にはまった生命力の弱いものが多い。

 運慶以来の正系仏師としては、康正の子と伝えられる康猶(こうゆう)がいる。彼は、元和五年(1619)には、徳川秀忠の寿像を、寛永八年には日光東照宮の釈迦・大日・多宝如来等を造立した。現在寛永寺五重塔の初層に安置されている諸像は、恐らく、康猶の制作と推定される。この他運慶二十五代の孫と称した大仏師民部は八丈島に多数の遺品がある。

 僧籍にありながら、造仏を行った例として、東京浄真寺の九品阿弥陀像を制作した珂碩(かせき)上人がいる。上人は元和四年に江戸に生れ、九歳で出家し、十六歳より造仏と称名(しょうみょう)に専念した浄土教の僧である。また、宝山寺に数体の遺作のある湛海(たんかい)も、精神性豊かな作風の造仏を行った。さらに松雲元慶(しょううんげんけい)も江戸の地で精力的に鑿(のみ)を振い、五百数十躯の羅漢像を制作した。元慶は本来京都の仏師であるが、のち出家して鉄眼(てつげん)禅師の弟子となった。彼の遺作は東京目黒の五百羅漢寺に残っている。

 しかしこれらの仏師の制作した像よりもはるかに新鮮な特色をもつのは、円空、木喰といった、全国を遊行しつつ民衆の求めに応じて造仏を行った。
 円空は、美濃国(岐阜県)の生まれで、今までの仏教彫刻の様式を打破り、現代彫刻にも通ずる前衛的で創作的な彫刻を行った。一生に12万体造像の誓いを立て、一日に100体の彫像を行うなど、各地を遊行しながら、精力的な造像を行い、北海道から九州まで、約5千体の仏像彫刻を残している。
 木喰は木の実のみを食べる聖僧の別称であり、仏像彫刻で知られる木喰上人は、木喰満願である。彼は円空に遅れる事20年、甲府塩山に生まれ、円空の研ぎ澄まされた鋭い造形とは異なり、丸みを帯びた温かみのある仏像を残した。木喰満願に付従う弟子もおり、弟子木喰白道は、甲府から多摩地方にかけて大黒天、吉祥天二天像など多くの仏像を残している。
 これらの彫像は、仏教美術という枠を越えて、今でも多くの人に愛されている。

 

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