時代の特徴

1. 飛鳥時代

 日本に仏教が公式に伝わった欽明天皇7年(538)から孝徳天皇の大化元年(645)までを飛鳥時代と呼んでいる。仏教公伝の年については、日本書紀には、欽明天皇13年(552)と記されているが、「元興寺伽藍縁起并流記資材帳」、「上宮聖徳法王帝説」では欽明天皇戊午年とあり、これは538年の事と考えられ、これが通説になっている。

 仏教伝来当初の仏像については、遺品が少ないが、日本書紀にいう仏教公伝の際には、百済の聖明王が金銅製の釈迦仏像を献じたとされ、各地に残る遺品や伝説を見ても、小金銅仏が多く伝えられた事が想像される。金銅仏以外では、敏達天皇13年(584)に百済から渡来した鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒石仏を請来し、蘇我馬子が仏殿を建立してそこに安置したと伝えている。

 これらは、史実として日本書紀等に記されているものであるが、仏教は公伝よりも早く、渡来人によって日本に伝えられていた。新潟・関山神社の菩薩立像、宮城・船形山神社の菩薩立像、長野・観松院の菩薩半跏思惟像、奈良神野寺菩薩半跏思惟像、和歌山・極楽寺の菩薩半跏思惟などは、公伝のものとは別に一部の渡来人が秘かに将来し、仏教を信仰して安置していたものと考えられる。

 我が国の最初の本格寺院は、渡来人と密接な関係にあった蘇我馬子が、崇峻元年(588)に建立した法興寺(飛鳥寺)である。本像は、何度も火災にあっており、頭部の鼻より上の部分と右手以外はほとんどが後補であるが、服制等は当初のものを踏襲していると思われる。また、その顔は面長で、耳が大きく長く、唇には微笑をたたえている。

 本像のように厚手の衣を通肩にまとった服制や面長な面相などは、中国で460年ごろに開墾(かいさく)された雲岡石窟の中期以後の諸像にその源流が求められていた。雲岡石窟の初期のものは、曇曜石窟(どんようごくつ)と呼ばれ、石窟のうち最末期と考えられる第十六窟の大仏を除いて、いずれも薄手の法衣を体に密着して纏うインド風の着衣をつけている。しかし、第十六窟の本尊や中期以降の諸像はこれとは異なり、僧祇支(そうぎし)の上に厚手の天衣を両肩を覆ってつけ、衣の端を左腕にかける着衣法をとっている。この着衣法は、かつては北魏皇帝の服制をとり入れたものと考えられていた。しかし、近年に至って、四川省茂県で発見された南斉の永明元年(483)銘の如来像を初め、中国南朝の仏像が発見され研究が進むにつれて、南朝の仏像にもすでにこの着衣法が見られることから、これは北魏特有の形式ではなく、あるいは南朝で工夫され、鮮卑(せんぴ)族の建てた北魏が漢民族の優れた文化を学びとった際に、北魏に伝えられたものと考えられるようになってきた。

中国南朝の遺品としては、

元嘉14年(437)金銅如来坐像 劉宋 永青文庫蔵
元嘉28年(451)金銅如来坐像 劉宋 フリア美術館蔵
永明元年(483)石造如来坐像
普通4年(523)石造釈迦及び諸尊 梁 四川省成都万仏寺址出土
中大通5年(533)石造釈迦及び諸尊 梁 四川省成都万仏寺址出土
中大同元年(546)石造釈迦三尊及び二羅漢像 梁
中大同3年(548)石造観音及び諸尊 梁 
中大同7年(541)如来三尊像 梁 上海博物館蔵

等が知られるが、いずれの像も飛鳥寺本尊と同じ服制に造られている。また面相は面長が面相や、長く大きな耳、杏仁形の目や微笑をたたえた仰月形の唇等の特色も中国の南北朝の仏像や朝鮮三国時代の仏像と共通点が多い。

 飛鳥寺の建立以降、聖徳太子が推古天皇の摂政となり、仏教文化を積極的に取り入れたことから、仏教は益々隆盛の一途をたどった。推古十五年(607)頃、太子が斑鳩の宮の隣に法隆寺を建立してからは、皇族や貴族の間で積極的に寺院建設が行われた。推古三十二年(624)には、寺四十六ケ所、僧八百十六人、尼五百六十九人を数えたという。これに伴い、造仏も盛んになった。

 この時代の造仏に従事した工人の多くは渡来人であったと考えられる。例えば、敏逹天皇六年(577)には、百済から造仏工、造寺工が来朝し、日本最古の寺院である飛鳥寺の建立に際し、崇峻天皇元年(588)には、百済から寺工(建築家)、鑪盤博士(塔相輪部の工人)、瓦博士(瓦技師)、画工等が来朝している。

 法隆寺金堂釈迦三尊像の作者として知られる止利仏師(鞍作止利)の祖父、司馬達等(しばたつ)は、『扶桑略記』によると継体天皇十六年(522)に来朝した南梁からの渡来人と伝え、継体朝またはそれ以前に渡来した馬の鞍を制作する技術者集団であったと考えられる。馬具の制作には、皮加工、鋳造、彫金、彫刻等総合的な技術が要求され、その中から、仏像制作の技術を磨いていたものであろう。同じく法隆寺金堂の四天王像の光背に名前を記す山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたえ)らも渡来人の子孫である。

 日本書紀の推古13年(605)の条には、飛鳥寺の本尊(飛鳥大仏)及び繍仏(布に刺繍で仏像を描いたもの)は、鞍作鳥によって造られたと記されているが、「元興寺縁起」に引く飛鳥寺本尊光背の銘であると考えられる「丈六光銘」及び塔露盤の銘である「塔露盤銘」には止利の名が見えないことからこれを疑問視する向きもある。また、久野健博士は下記のように、止利仏師説を否定している。

 『飛鳥大仏の衲衣のつけ方が、一枚の大きな布を体にまき最後の端を腕にかけているが、法隆寺の釈迦如来像は、これとは全く違っている。釈迦如来像では、体にまいた布の端は左腕にかかり、ここで完結しているはずなのに、左肩にも衣端が現れており、これは、中国・朝鮮仏にも例をみない不合理な着衣法である。止利は、推古十三年ごろに造った飛鳥大仏では理にかなった着衣法を知っていたのに、推古三十一年に造った法隆寺の釈迦では、不合理な着衣法になってしまった、いうことは考えにくいからである。恐らく飛鳥大仏の作者は、朝鮮からの新しい渡来人で、止利仏師は、それらの仏像を学びつつ造ったのであろうが、着衣法は充分理解できなかったものであろう。』(日本史小百科「彫刻」)

 飛鳥時代の彫像の多くは金銅仏と呼ばれる、銅と錫(スズ)の合金の鋳造品に鍍金を施したものである。

 この時代の金銅仏のほとんどは、ろう型鋳造による制作であるが、飛鳥大仏は、東大寺大仏と同じ、土製の原型を用いた鋳造方法であると考えられている。すなわち、土で像の原型を造って乾燥させ、その上に土を被せて外型を造り、外型を一旦外した後、原型を銅の厚みの分(飛鳥大仏の場合、8〜10mm)だけ削って中型とする。中型の外の外型を組み合わせて置き、その隙間に溶融した銅を流し込み鋳造する。外型は一旦取外すため分割するが、飛鳥大仏の表面に残る鋳張りの跡から、外型一片の大きさは約40cm角と推定される。

 この他、銅板を型に当てて叩き出す押出仏(おしだしぶつ)や、中宮寺弥勒半跏思惟像や法隆寺救世観音像などの木彫仏も造られた。

 木彫仏は、そのほとんどがクスノキによって彫られている。これは、古来クスノキが大木になることから神木として尊ばれていたことや、樟脳の原料になることでも判るように香木である等の理由から、中国から伝わった檀木の代用として用いられたものであろう。

 しかし、飛鳥時代の木彫像の中で一体のみ、広隆寺の菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)は、アカマツが用いられており、かつ、彫刻技法的にも他の像と異なった彫り方を行っている。木彫の場合、等身大像であれば、大きな木を縦に四分割してその一つを使って彫ることが多いが、通常は木の表面側を正面として彫る木オモテという使い方をするのに対し、この像の場合は、この中心側を正面とする木ウラから彫っている。このように、用材、技法が他の木彫仏と異なることから、本像は、あるいは、朝鮮からの渡来仏でないかと考えられている。

 また、中宮寺弥勒半跏思惟像はクスノキではあるが、一木ではなく、いくつかの木を複雑に寄せて造られている。クスノキは日本では大木の調達に不自由はなかったはずで、特別な神木等を使うといった理由があったのかも知れない。

 尊像の種類としては、仏教伝来の初期だけに、種類は多くないが、如来像の外、弥勒菩薩像、観音菩薩像、四天王像など主だった尊像が造られていた事が判る。また、法隆寺献納宝物(東京国立博物館蔵)の摩耶夫人及び天人像(まやぶにんおよびてんにんぞう)は、釈迦誕生の仏教説話をあらわすものとして興味深い。

 飛鳥彫刻の一般的な特徴としては、天衣や、肩にかかる垂髪(髪の毛)が左右に広がるようにあらわされ、正面観照性が重んじられることが挙げられる。法隆寺金堂釈迦三尊像の脇侍が半肉彫りの様に造られているなど、背面は省略したり全く彫られない例もある。法隆寺百済観音像、金堂四天王像など、飛鳥時代も後期の像になると、天衣の先を大きく前方に広げ、側面観を見せるようになるが、今だ動きも少なく立体感も乏しい。衣文は左右対称で、顔は面長で、眼はアンズの実に似た杏仁形(きょうにんぎょう)、唇は三日月状の仰月形(ぎょうげつけい)で微笑みをたたえる姿にあらわされ、アルカイックスマイルと呼ばれている。

 

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