仏像と風土

3.  東北地方

 (古代3)

 藤原清衡と黄金文化

 平安時代後期に陸奥国府多賀城に勤務していた在庁官人藤原経清は、奥六郡を支配し
朝廷と対立していた俘囚(ふしゅう)長の安倍頼時(頼良)に味方して、前九年の役で陸奥守であった源頼義に反旗を翻しましたが敗れ斬首されました。
 その時七歳であった子の清衡は、敵将の嫡男として本来は処刑される運命にありましたが、母が安倍氏と同じ俘囚の長であった出羽仙北の清原武則の長男清原武貞に再嫁することになって危うく難をのがれ、清衡も清原武貞の養子となりました。
 安倍氏の地位を受け継いだ清原氏は後三年の役で滅亡しますが、義家の裁定で清原氏の所領を分割相続した藤原清衡がその地位を継承して奥州藤原氏の祖となり、奥州藤原氏による黄金時代を築き上げます。

 清衡は本拠地を江刺郡豊田館(奥州市域)に構え勢力の拡大を図る一方、寛治5年(1091年)に関白藤原師実に貢馬するなど京都の藤原氏と交誼を深め、また奥羽の統治者としての地位を築きました。
  嘉保年中(1094年-1095年)頃には、磐井郡平泉(平泉町域)に居を移し、政治文化の中心都市の建設に着手、中央の仏教文化を導入して中尊寺を再建 し、金銀螺鈿をちりばめた金色堂をはじめ、平泉に壮大な仏教都市を造り上げました。金色堂の落慶の翌年(大治3年)、当時としては、長命の73歳で没しま す。

 その後の清衡、基衡、秀衡、泰衡の平泉四代100年に亘り、中尊寺、毛越寺や無量光院など、京都、鎌倉を凌ぐ規模の寺院を建立し、中央政権と一線を画した時代を実現しました。

  三代秀衡は、源頼朝と対立した源義経を奥州に匿い、頼朝の義経討伐を拒絶します。また、死去の際に義経を盟主として従うように遺命を残し、子の泰衡も遺命 に従って度重なる義経討伐要求を拒否していました。しかし、朝廷から義経追討令が出たことなどで要求に屈し、1189年(文治5年)2月、義経派であった 弟の頼衡を殺害。そして同年4月、衣川館の義経を殺害し、その首を鎌倉へ送りました。
 一方、義経が死んだ直後、頼朝は勅命を待たずに奥州藤原氏 の討伐軍を起こして平泉に火を放ち、泰衡は平泉から脱出して渡島(北海道)へ逃れようとした逃亡の途中で、家臣の河田次郎(安田とも言われる)の謀反によ り殺害されます。これにより奥州藤原氏四代の栄華は、灰燼に帰しました。

 中尊寺金色堂には、三つの須弥壇にそれぞれ藤原三代清衡、基 衡、秀衡のミイラ化した遺体が安置されており、もがり堂となっていますが、四代の泰衡の遺体(但し、首のみ)も父・秀衡の棺内に保存されています。この首 については、弟・忠衡のものとする説がありましたが、昭和25年の開棺調査にて、その首には晒した際に打ち付けられた釘の痕が明瞭に残っており、「吾妻 鏡」の記述と一致することから、泰衡の首級であると確認されました。

 奥州藤原氏の栄華に関わる仏像としては、次のものがあります。

○ 中尊寺 金色堂諸像
 中尊寺は、金色堂はじめ3000余点の国宝・重要文化財を伝える東日本随一の平安仏教美術の宝庫です。
 金色堂内安置される仏像は、中央壇、右壇、左壇にそれぞれ、阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像)を中心に、左右に3躯ずつ計6躯の地蔵菩薩立像(六地蔵)、手前に二天像(持国天、増長天)
11躯を配し、合計3体の仏像から構成される群像を安置しています。像高は60〜70cmで小振りですが、菩薩・天部像を含め、全て漆塗りの上に金箔を張った豪華なものです。
 菩薩・天部像を漆箔仕上げとする像は、京都・奈良など中央の像にも見られず、産出する金を背景に築き上げた黄金の国の一端を垣間見ることが出来ます。

○ 中尊寺 一字金輪坐像
 密教の修法の1つである「一字金輪法」の本尊で、彫像としては珍しい例です。金剛界大日如来像と同じ智拳印を結びますが、日輪を表わす円形の光背と、頭上に「五智宝冠」という五智如来の姿を刻んだ冠を戴く点が特色です。
 白い彩色が塗られ肉感的なことから、人肌の大日とも呼ばれています。構造は桶を積み重ね、背面部分を切り取ったような特異な構造を持っています。

○ 高蔵寺 阿弥陀如来坐像
 阿弥陀堂の本尊阿弥陀如来坐像は、寄木造に漆箔を施した丈六の巨像です。当時上流階級で盛んに仏像を造ることが行われましたが、これも秀衡の妻が造らせたと伝えられています。後世のものと思われる厚い漆が像容を損ねているが惜しまれますが、偉容には圧倒されます。
 面相は、眉目が切れ長く豊麗です。この像の表情や衣の襞の表わし方は、それまでの優美な感じから、鎌倉時代の強さに変ろうとする時代の作風を示しています。大振りな光脚と透かし彫りの飛雲文が美しい光背も当初のものと考えられます。
  本尊の脇に、もう一体、本尊とほぼ同じ大きさの丈六仏があります。右肩部を失うなど破損が激しいものの、木の寄せ方は平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像に代表 される純粋な定朝様を踏襲しています。円満具足の面相や、像容も藤原彫刻の特徴をよく示しており、あるいはこの像が当初の本尊であったのかもしれません。 また、この他に丈六仏のものと思われる掌も二つあり、往時の隆盛が想像されます。

○ 願成寺(白水阿弥陀堂) 阿弥陀如来坐像
 平安時代末期の永暦元年(1160年)に岩城則道夫人・徳姫(藤原清衡の娘)によって、夫の菩提を弔うために平泉の金色堂にならって建立されました。阿弥陀堂は平安後期に流行した阿弥陀堂建築の代表作でもあります。
 浄土式庭園の美しさにも定評があり、庭園の雰囲気は平泉の毛越寺とよく似て います。
 「白水」の名も平泉の「泉」を二字に分解したと伝えられています。
 建物内部には、寄木造漆箔の本尊阿弥陀如来を中心に、両脇侍の観音菩薩立像と勢至菩薩立像、ならびに二天像(持国天像、多聞天像)の5体の仏像が安置されています。
 本尊阿弥陀如来は、寄木造漆箔の像で、静かに流れる浅い納衣の衣文、透彫の飛天光脊と九重の蓮華座に坐るこの時代の典型的なものです。こま目のよく整った螺髪、円満具足な面相など、定朝様式を忠実に伝えています。

○ 松川二十五菩薩堂 二十五菩薩像
 現在二十四体の菩薩像が遺されていますが、全て頭部を失ってお り、剥ぎ目も緩み、朽損も激しく、両腕を失なって残欠に近い状態になった像も多くあります。
しかし、胸元に表わされた花の文様の飾りや裳裾の文様など精緻で、優美でしなやかで体躯を持っています。
  特に坐像は片膝を崩し腰を捻った自由奔放な姿態を見事に表現しています。ややのけぞって身体を休めているのでしょうか、膝やすねに纏わり付く裳の表現も心 憎い程です。
構造は、木彫の表面に薄く乾漆を置いて細かい麻布を貼り、その上に漆箔を施したあとが所々に見られます。
  松川は陸奥の金の出荷場として重要な位置にあり、これらの像は一説には、この地を治めた平泉藤原氏の一族が建立したとも言われていますが、東北の他の尊像 とは一 線を画す洗練された藤原盛期の本格的な造像であることから見て、都から来た一流の仏師によって制作されたことは間違いなく、平泉文化の中心をなす寺院に安 置されていたものが、後世松川に伝わったと思われます。

 
平泉文化は、現在の岩手県涌谷町から産出し、奈良大仏建立の際に献上された砂金を基に勢力をのばした藤原氏による、東北地方に突然花を開いた文 化でした。藤原氏は、京都と全く同じ文化を築こうとして、京文化の徹底的な移植を目指し、全て京都から呼び寄せた技術者により、清衡、基衡、秀衡の三代に わたって中尊寺金色堂を中心として毛越寺や無量光院などを建立しましたが、四代泰衡が源頼朝に滅ぼされたため、約100年でその幕を閉じることになりま す。
 平泉に突然舞い降りて、突然滅び去った平泉文化が果たして東北地方に根付き伝えられて行ったのか。あるいは、東北地方の仏像の系譜から全く 断絶した文化としてのみ存在したのか。いずれにしろ、その痕跡は、平泉地方以外では、岩手・松川二十五菩薩堂、福島・白水阿弥陀堂と高蔵寺にしか残されて いません。





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