仏像と風土

1.  東北地方

 (古代1)
 古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指しました。平安時代後半頃から蝦夷を「えぞ」と読むようになります。
 7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住み、大和朝廷が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い反乱を起こしました。
  最大の戦いは胆沢周辺の戦いで、朝廷が陸奥の国府に設置した軍事拠点多賀城(たがじょう、たがのき)を780年に一時陥落させた伊治呰麻呂(これはりのあ ざまろ)、789年に巣伏(すぶし)の戦いで朝廷軍を退却させた阿弖流為(アテルイ)らの名が蝦夷の指導者として知られています。
 延暦7年(788)、紀古佐美(きのこさみ)が征東将軍に任じられ、朝廷軍を率いて蝦夷征討へ赴来ますが、胆沢(現在の岩手県奥州市、胆沢郡金ヶ崎町域)の巣伏の戦いで、阿弖流為に壊滅的な打撃を被ります。
  これに対し、蝦夷征伐に活躍したのが坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)です。田村麻呂は、中央で近衛府の武官として立ち、延暦12年(793)に陸 奥国の蝦夷に対する戦いで大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げました。延暦16年(797)に弟麻呂の後任の征夷大将軍になって総指揮をと り、延暦21年(802)大軍で遠征し、それまで頑強に抵抗していた大墓公阿弖流為(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)の二人を配下500人とともに降伏さ せます。
 アテルイの人格に敬意を払った田村麻呂は二人を京へ連れ帰り、朝廷に二人を返して仲間を降伏させるようと進言しますが、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、アテルイとモレは、河内国で処刑されました。
 その後、田村麻呂は胆沢城、志波城を築いてその地を征服し、後に正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿、勲二等、死後従二位を贈られるなど、平安時代を通じて優れた武人として尊崇されました。

 多賀城(宮城県多賀城市)は、陸奥国の国府に軍事的拠点として神亀元年(724)に築城された古代城柵ですが。坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行なった以降は、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移されて、兵站的機能に移ったと考えらます。
 その後、中世の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、南北朝時代には、後醍醐天皇の建武の新政においては、陸奥守に任じられた北畠顕家、北畠親房らが義良親王(後村上天皇)を奉じて東北へ赴き、多賀城を拠点に東北経営を行ないました。

 東北における古代の像としては、次の像が代表的なものです。

○ 黒石寺 薬師如来坐像 貞観4年(862)銘(平安初期唯一の銘記)
 薬師如来坐像は、平安時代の最古の記銘像として知られていますが、大粒の螺髪とつり上がった目尻、よく通った鼻筋、分厚い唇厳しい面相が近寄りがたい森厳さを見せます。また右肩に懸かる衣の端部や膝前の衣文も迫力を感じさせます。
 胎内銘にある貞観4年は、蝦夷の最後の英雄・アテルイの死から60年後の還暦にあたる年で、アテルイを模して制作されたともいわれますが、かつての畏敬の念を現した像といえるのかも知れません。

○ 成島毘沙門堂 兜跋毘沙門天像 一木造 カンバ
  地天女から頭頂部まで5m近い一木で造られているにもかかわらず、幅や奥行きは十分にあり腰を捻る姿勢も自然で破状もなく、木の制限を全く感じさせませ ん。体躯のどの部分も張りがあり、十分な緊張感が感じられます。これはこの地方故に大木も入手できたこともあるでしょうが、作者の並々ならぬ手腕を感じさ せます。
 坂上田村麻呂の姿を写したという言い伝えがありますが、今も残る狭い毘沙門堂に安置されていた当時は、雲を突くような巨像がより一層の迫力を持ち、蝦夷を畏伏させるには十分な存在だったのでしょう。

○ 藤里毘沙門堂 兜跋毘沙門天像 像高 一木造 ヒノキ
  藤里毘沙門堂は、豊田館の東に位置しており、更に東の種山ヶ原(物見山)と共に胆沢城築城後も未だ政情不安であった当地の守り神として信仰されたと考えられます。元は智福寺の毘沙門堂でした。
 本尊兜跋毘沙門天像は、毘沙門天像は両掌の上に掲げる地天女まで含め、全身に横向きの細かい鑿痕を残しています。地天女の両掌に乗り直立して眉を寄せて彼方を見つめる崇高な姿を見せていま。

○ 凌雲寺 十一面観音立像 一木造 カヤ

 当寺に伝わる十一面観音立像などの諸像は、同じ東和町の丹内山神社(たんないさん)に伝わり、明治初年の神仏分離令により凌雲寺に移されたものです。
 丹内山神社は、東和町の東部に位置し、古くは大聖寺権現堂と呼ばれて坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に参籠するなど神仏習合の聖地として信仰を集めていました。
  本堂の脇室に安置される二体の十一面観音立像と薬師如来立像も同様に丹内山神社から移された像です。真ん中の十一面観音立像はほぼ等身大のカヤの一木造 で、大まかながら丁寧な彫り口を見せ、はっきりした目鼻立ちや厳しい体躯の彫りに古様を示しています。
頭部の化仏は幅広の天冠台に別彫りで差し込まれて おり、髪や衣にほどこされた彩色も良く残っており背面には彩色文様が見られます。
本像は、大聖寺権現堂の本尊であったと見られますが、的確な像容の把握 やバランスの良さは、成島毘沙門天像と通じるものがあり、当地の神仏習合の歴史を伝える遺品でといえます。
  丹内山神社は私社殿の裏側の山腹に胎内石と呼ばれている巨石があって、古くから東北地方一帯に見られる民俗信仰アラハバキ神の御神体と信じられています。 アラハバキは、本来は蝦夷の神ですが、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際し当神社に参籠したという言い伝えが示すように、蝦夷をもって蝦夷を制すという政策を 取った大和朝廷側が、蝦夷を封じるために建立された寺院ではないかと考えられます。




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