仏像と風土

5.  中部地方

 中部地方に伝わった仏教文化の多くは、北陸沿岸に上陸し、内陸に伝えられたもので、かなり早い時期から土着の文化として根付いてきました。
 渡来人は、初めに大和朝廷を支えた秦氏、漢氏、錦織氏などが渡来し、後に王仁系氏族、百済王系氏族、高句麗系氏族などが渡来してきました。全国の「あずみ」・「あつみ」・「あたみ」という地名は渡来人の安曇族の移住地をあらわすなど、地名にも影響を与えています。

 また、全国各地に見られる高良社・高良神社は、特に長野地方に多く残されており、渡来人の高麗(こうらい、こま)神社の関連と思われまする。
 信濃の高井郡にある古墳は、石室の周りに拳大の石を積み上げて円墳としたもので、積石塚古墳と呼ばれていまする。
  積石塚古墳は、通常の盛り土で築造した古墳と違い、石を積み上げて造った古墳であり、我が国では約1500基が知られていますが、信州地方(長野県)と四 国北部にのみに見られる、そのほとんどが、縦横穴式石室を持った、4世紀初頭〜5世紀初頭の古墳時代前期の築造と考えられまする。
 積石塚は、日本の他の地域には見られず、高句麗をはじめ朝鮮半島に多く存在しています。
 このことからも、当地には早い時期から朝鮮半島から渡来人が移住し直接的な文化が伝来していたことが判ります。

  長野善光寺の本尊は誰も見ることが出来ない絶対秘仏として知られています。寺の言い伝えによれば本像は、538年に百済から我が国に伝えられたいわゆる仏 教公伝の際の像で、その後難波の海に打捨てられた後、善光寺に納められたと伝えられています。その真偽はともかく、善光寺式如来像は善光寺お前立三尊像 (鎌倉時代)を初めとして古くから多くの模作が造られており、その本歌は新羅仏に求められることから、当時の渡来人が念持仏として所有していた仏像を本尊 とし事も十分に考えられます。


 また、朝鮮半島から伝わったと考えられる像として、新潟県関山神社・銅造菩薩立像、長野県観松院菩薩像が伝えられています。


 代表的な遺品としては、次のようなものがあります。


○ 長野県 甲斐善光寺 銅造阿弥陀三尊

  信濃善光寺より武田信玄が甲府善光寺に移した像で、中尊は両手首を別鋳して繋いでいます。また、両脇侍は両腕を別鋳して組み立てるなど鎌倉時代の独特の造 像法で造られていますが、造形的には古様に則っています。右足ほぞ正面に「建久6年乙卯」(1195)の銘があり、銘文をもつ善光寺式阿弥陀如来像の中で はもっとも古い像です。

○ 新潟県 関山神社 菩薩立像
 火中して大きく傾き細部を失っていますが、古代微笑をたたえた面長な面相、杏仁形の眼、わらび手の垂髪、天衣・宝飾の形など、法隆寺夢殿・救世観音立像に近い飛鳥時代の特徴を備えています。
 また、眉に線刻を入れる点などから、朝鮮半島からの渡来像と考えられます。

○ 長野県 観松院 菩薩像
 大きな山形宝冠や面長な面相胴をを細く絞った細身の体躯、組んだ右脚を大きく覆った衣など、朝鮮三国時代の像に多く見られる形式で、渡来仏と考えられます。
 観松院は安曇野の一角に位置し、渡来人の安曇族の関連が十分に考えられます。

○ 長野県 清水寺(松代)千手観音菩薩立像
 頭部から足先までを堅い桂材の一木から彫成した、一木造の典型的な像で、四十二臂を持つ千手観音蔵です。
 頭部を比較的小さくつくり、長身ながら穏やかでバランスが整っています。
 像容は、前代の天平様式を思わせるような威厳を持ち、一木造りの仏像では東日本で最も古いと考えられます。

○ 長野県 牛伏寺 十一面観音立像
 天台系でよく見られる、十一面観音に不動、毘沙門天を配する三尊形式です。
 観音は丸みのあるなで肩の曲線、衣文の形式などに藤原後期の特徴を表し、面巾の広い面相には独特の趣を伝えます。両脇侍は中尊より素朴な地方作風を顕著にするもので、制作年代もほとんど違わぬ頃と思われます。

○ 山梨県 大善寺 薬師三尊像
  三尊ともサクラ材の一木造で、中尊は両手先のみ後補により別材が充てられており、裳先に一部補修のあとがありますが、全体的に保存状態は良好です。頭部は 比較的大きく両肩の張った厚みのある体躯に造られ、翻波式衣文が見られるなど、比較的古様を示しており、9世紀末から10世紀にかけての在地仏師による制 作と考えられます。甲斐の古代豪族である、三枝氏の奉納と考えられています。

 




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