仏 師

9.  運慶 (うんけい)

鎌倉新様式の完成者
 運慶は鎌倉時代の初頭、南都復興造営に際して多くの優作を造り、鎌倉彫刻といえば直ちに、運慶を思い起させる程の名声を得ている。父康慶によって始められた鎌倉彫刻の新様式を、その様式・手法ともほぼ完全なる形式に造り上げ、完成したといえる。
  運慶の生まれた年は明らかでないが、長子湛慶(たんけい)の生まれた年から逆算して、おそらく十二世紀の中ごろと推定されている。運慶の名が最初に見られ るのは、長寛二年(1164)十二月に落成供養の営まれた京都・蓮華王院(三十三間堂)の千体千手観音の一つに記された運慶の墨書であるが、年齢的にも 10代の半ばにあたり、模作を要求された造像の経緯から見ても、これを運慶の作として評価することはむずかしい。最も確かな最初の遺品は、奈良・円成寺 (えんじょうじ)の大日如来坐像である。この像は同寺多宝塔の本尊として、運慶が二十五歳前後の時、父康慶の指導のもとに制作した像で、体躯は引き締ま り、面相も張りがあり、それまでの藤原彫刻に見られる絵画的彫刻から脱却した写実的要素示しており、天才運慶の片鱗を見せる像であるが、体躯の捉え方や両 膝にかかる衣文はまだ藤原彫刻の特徴を残している。
 その後、運慶は治承四年(1180)の平重衡の南都焼き打ちに遭遇した。東大寺・興福寺を 襲った兵火はたちまちのうちに奈良仏師の本拠地であった興福寺内の仏所も焼失してしまったらしい。運慶は、寿永二年(1182)五月から六月にかけ、自ら 願主となって法華経八巻の写経供養を営み、運慶および慶派の仏師たちが結縁するが(いわゆる運慶願経)、その軸木には焼失した東大寺の柱の残材を使用している。南都を愛し、天平彫刻を愛した運慶の南都復興にかける並々ならぬ決意が伝わるようだ。
  間もなく、平家は滅び、新たに東国に旗あげをした源頼朝が鎌倉に幕府を開く。早くも文治元年(1185)には、奈良仏師の棟梁であった成朝が、頼朝が鎌倉 の地で発願造立した勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の阿弥陀三尊像造立のため鎌倉に下向した。運慶も翌年、北条時政から静岡・願成就院の本尊として阿弥 陀三尊および不動三尊、毘沙門天像の造仏の注文を受ける。慶派一門は興福寺南円堂をはじめ南都の復興に精力を尽くしていた時期ではあるが、運慶は願成就院 の造仏に全力を尽したと思われる。これらの像は、不動・毘沙門天像の体内銘札とともに現在も願成就院に伝わっており、その様式は、藤原時代の彫刻とは全く 違った新様式を示している。本尊の阿弥陀如来像は、体躯は量感に富み、面相も男性的で力に満ちている。体躯を覆うのう衣の衣文は彫りが深く複雑に乱れる様 子を写実的に表している。不動三尊像も、体躯は肉づきよく、それまでの優美な面相とは違って怒りを露わに表現している。また毘沙門天像は、仁王立ちする姿 勢や相手を威嚇するような厳しい面相が、正に武将像に相応しい。これらの諸像により、藤原彫刻とは決別した新様式、すなわち鎌倉様式が誕生したといっても 過言ではない。
 運慶のこれらの仏像は、東国武将が朝夕祈るのにふさわしい考えられたためであろうか、あるいは北条時政発願に刺激されたためであ ろうか、文治五年(1189)には、和田義盛が運慶に阿弥陀三尊および不動・毘沙門天像を造ることを依頼してきた。運慶は小仏師十人を率いてこの造仏にあ たった。現在、神奈川・浄楽寺(じょうらくじ)の本尊であるこれら阿弥陀三尊像や不動・毘沙門天像は、さきの願成就院の諸像と同様、面相や体躯はボリュー ムがあり、運慶の新様式を遺憾なく発揮した像であるが、願成就院の阿弥陀が説法印であるのに対し、浄楽寺の阿弥陀は来迎印につくり、不動・毘沙門天像もそ れぞれポーズを変えるなど変化をもたせている。この不動・毘沙門天像の体内にも、表面に梵字で陀羅尼(だらに)を書き、裏に本像の由緒を書いた銘札が収め られている。この銘札から、この頃運慶が大仏師になっていたこと、また興福寺相応院勾当(こうとう)職にあったことなどがわかる。
 建久四年 (1193)三月には、蓮華王院内の一堂に父康慶が造った丈六不動・二童子像の造仏賞を譲られて法橋(ほっきょう)になったらしい。さらに同六年三月に は、東大寺大仏殿諸像の造仏賞を康慶より譲られられて法眼(ほうげん)となった。同八年五月、康慶・定覚・快慶とともに小仏師八十人を率いて大仏の脇侍如 意輪(にょいりん)観音像と虚空蔵(こくうぞう)菩薩像を造り始めた。この際、彼は父康慶とともに虚空蔵菩薩像を受け持ち、おのおの半身を造り合わせて一 体としたという。同七年には、京都・神護寺の中門の二天像と八大夜叉(やしゃ)を造り、翌年五月から九年九月にかけて、文覚(もんがく)上人の勧進によ り、運慶は数十人の小仏師を率いて京都東寺講堂の五仏・五菩薩・五大尊・梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)・四天王像を修理した。同じころ、東 寺南大門の仁王像を湛慶(たんけい)とともに造り、また同九年和歌山高野山不動堂の二童子・八大童子像を制作した。東寺の仁王像はその後の火災で失われた が、高野山の八大童子中の六躯は幸い今日まで残っており、その生き生きとした童顔や巧みな肉どりから、鎌倉彫刻の傑作の一つに数えられる。建仁二年 (1202)十月には、摂政近衛基通のために運慶は高さ一尺六寸の白檀普賢菩薩像を作り、また文覚上人の請いにより、神護寺講堂の大日如来・金剛薩た (さった)・不動明王像を造った。
 運慶およびその一門の活躍は目覚ましいものがあるが、何といっても運慶の名声を確固たるものにしたのは、東大 寺南大門の仁王像の造立であろう。建仁三年七月から十月にかけて勧進上人重源(ちょうげん)の沙汰により、運慶は快慶をはじめ、大仏師四人と小仏師十六人 により、東大寺南大門の仁王像を造立した。この仁王像は八mを越える巨像であるが、これを運慶らはわずか七十日間で完成した。筋肉隆々としてまさに力に満 ちあふれる像で、この仁王像は運慶様式の完成体を示すものである。のち仁王といえば運慶といわれるほど後世への影響が大きい。
 承元二年 (1208)十二月から、彼は十人の仏師と五人の供養法師を率いて興福寺北円堂の本尊弥勒(みろく)仏、その脇侍法苑林および大妙相両菩薩、無著(むちゃ く)・世親(せしん)および四天王像の造立に従事し、建暦二年(1212)の初めごろ完成した。これら諸像のうち、本尊の両脇侍および四天王像は失われた が、幸い弥勒仏と無著・世親像は今日も残っている。これらの像を制作したころの運慶は、すでに五十歳もなかばで、子息たちも一人前に仕事を身につけ、かつ ては院派・円派に押されぎみであった慶派は、ほかの諸派を圧して名実ともに当代の主流になっていた。運慶の技も円熟し、北円堂の弥勒像にはかつて願成就院 の諸像に見られた激しさはないが、精神的な深みを増している。ことに無著・世親像は、あたりの空気を圧するような緊張感を持ち、その面相は、高僧の精神的 高さを十分に表現している。建仁二年から承元二年までの間に運慶は法印に叙せられている。
 運慶は晩年再び幕府関係の造仏を盛んに行ない、建保六 年(1218)、将軍源実朝の持仏堂の本尊釈迦如来像を造り、同六年七月には北条義時が発願した大倉新御堂の本尊薬師如来像、承久元年(1219)十二月 には、実朝追福のため政子が営んだ勝長寿院五仏堂の五大尊像を造立したが、惜しいことにこれらの像は今日一つも残っていない。運慶は晩年になり自ら一門の 繁栄を願って京都の街中に地蔵十輪院を建立したが、洛中の火災をおそれ、貞応二年(1223)四月、十輪院の仏像を高野山に移安し、その十二月十一日、生 涯を閉とじた。
 以上にように、文献上に知られた事蹟だけでも著しいもので、特にそれ等の大部分が公家を始め南都諸大寺や鎌倉幕府の命を享けてい ることは、運慶が如何にその時代を代表する仏師であったかが知られる。また文治5年(1189)9月の奥州毛越寺本尊像の造顕に際して、藤原基衡が金百 両、鷲羽百尻、水豹皮六十余枚、安達絹千疋、希婦細布2千端、駿馬5十疋、白布3千端及び信夫毛地摺千端、生美絹船三艘等の功物を送り、また後鳥羽天皇が その仏像の優れていることに驚嘆し、これを洛外に運び出すことを止めたと伝えられる事は、運慶の名声を偲ぶに足るものであろう。

 


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