仏 師

1. 鞍作止利 (くらつくりのとり)

   飛鳥彫刻の巨星

 鞍作止利は、飛鳥時代を代表する仏師で、法隆寺金堂釈迦三 尊像をはじめとして、いわゆる止利様式と呼ばれる多くの仏像を残している。

 止利の名が正史に初めて見られるのは、『日本書紀』の飛鳥元興寺の造像に関する記述である。こ れによると推古天皇十三年(605)、飛鳥元興寺において丈六の金銅仏と繍仏(布に刺繍したもの)の制作を鞍作鳥が命じられ、翌年金銅仏を完成したが、像 が大きすぎて、扉を壊さないと安置できそうもなかった時、止利の工夫でうまく堂内に安置できたという。止利はこの時の功績により、推古天皇から「汝が献 (たてまつ)る所の仏本(ほとけのためし)、則ち朕が心に合(かなえ)えり」という詔勅をおくられ、さらにその功により大仁位と近江国坂田郡の水田二十町 を賜り、これをもって天皇のために金剛寺(南淵坂田尼寺)を建立したと記されている。この時、止利が天皇より賜った詔の中で、止利の父が多須奈(たす な)、祖父が司馬達等(しばたつと)であることがわかる。書紀によると司馬達等は蘇我馬子が豊浦(とゆら)寺を開く際に、馬子の求めに応じて自分の娘嶋女 を弟子二人と共にわが国最初の尼僧として出家させ、自分自身も仏舎利を献じて崇仏の心を深めたという。また多須奈は、月明天皇のために坂田寺の建立と丈六 仏の造仏を発願し、後に日本最初の僧として出家、徳斉法師と名のったと伝えられる。

 司馬達等は『扶桑略記』によると坂田寺の縁起に、継体天皇十六年(522)に中国・南梁(なん りょう)から来朝した人と伝えるという。しかし、他に多須奈が百済の仏工だったとする記述もあり、また、『興福寺官務牒疏』には司馬遠等が百済国の人とあ ることなどから、鞍作部は継体朝より以前に渡来した百済系渡来人の一族と考えられる。鞍作部は、その姓が示すように馬の鞍を造っていた一族であろうが、達 等の時代には金工や鋳造・木工・繍工・革工をも含めた技術者を統括する立場にあったと考えられる。また、達等らは前述のように仏教に対する信仰も深く、そ の中に育った止利が、仏教に帰依し、造仏に関係するようになったのも自然の成行だったのであろう。雄略七年条にみえる新漢(いまきのあや)の鞍部堅貴、 『元興寺縁起』に引く塔露盤銘に記された鞍部首加羅爾(からに)も同じ鞍作部の一族と考えられる。

 飛鳥元興寺は、崇仏を背景に絶大な勢力を持っていた蘇我馬子が建立した寺であるが、馬子の子、 入鹿は『日本書紀』に、「更の名は鞍作」「鞍作臣」と記されており、また入鹿の乳母は鞍作部の出身者と伝えられる等、鞍作部と蘇我氏は非常に密接な関係に あったと考えられている。

  止利が制作した最初の仏像は、先に述べた飛鳥元興寺(飛鳥寺)の丈六釈迦如来像であるといわれている。しかし、『元興寺縁起』に引く飛鳥寺本尊光背の銘で あると考えられる「丈六光銘」及び塔露盤の銘である「塔露盤銘」には止利の名が見えないことや、飛鳥寺の金堂は推古四年(596)にはすでに出来上がって いたにもかかわらず、本像が出来たのは推古十七年(609)ごろで、その間本尊がなかったとは考えにくいという点からこれを疑問視する向きもある。また、 飛鳥大仏の衲衣のつけ方が、止利仏師の制作である法隆寺の釈迦如来像とは全く違っている事も指摘されている。

 すなわち、上半身を覆う大衣の端が、飛鳥大仏では、最後に 左上膊から左前膊部に懸けられて背面にもその端が正しく表わされているのに対し、法隆寺金堂の釈迦如来像では、大衣の端を左前膊部にのみ懸けているにも拘 らず背面にも衣の端を表わす等、大衣の着衣法を正しく理解していなかったものと思われ、同一人物の造像とは考えられないというものである。

 現在の本尊釈迦如来像は、鎌倉時代の初めに火災に遭ってお り、顔の一部や右手指などごく一部を除いて後補のものにかわっているが、独特な僧祇支の付け方など、かつての百済の都、韓国の扶余に近い瑞山磨崖仏等にそ の例が見られることから、後補の部分に関しても造立当初の服制を踏襲しているものと考えられる。

 確かに止利によって制作されたことがわかるのは、法隆寺金堂釈迦三尊像である。本像は、大きな 舟形光背で三尊を覆う、いわゆる一光三尊形式の金銅仏で、この光背の裏に刻まれた銘文により、制作経緯を知ることができる。銘文は十四字十四行にわたる長 文で、次のように要約できる。

 推古天皇二十九年(621)に聖徳太子の母后間人(はしひと)皇后が亡くなられ、翌年太子と太 子妃も病床につかれたため、王后や王子、諸臣たちは太子の姿を写した等身の釈迦像の造立を発願して病気平癒を祈願した。しかし、その甲斐なく、太子妃、太 子と相次いで亡くなられたため、翌年本願のごとく釈迦三尊像を司馬鞍首(しぱくらのおぴと)鳥仏師に命じて造らせた。

 すなわち、この銘文により本像は推古天皇三十一年 (623)に止利仏師によって造られたことがわかる。

 本像は、アルカイックスマイルと呼ばれる特異な微笑を浮がべた仰月形(ぎょうげつけい)の唇や 杏仁形の眼、ふかぶかと両肩を覆う服制などに、典型的な止利様式を示している。背面の衣文はほとんど省略されているが、側面や正面にははっきりとした衣文 を表わし、特に正面は、台座から大きく垂れた懸裳(かけも)に左右対称の図式的な衣文を刻んで、釣合いのとれた像容を示している。また、側面は、懸裳を弓 形に大きく前面に反らせ、シャープな面を見せている。両脇侍は、本尊と異なり背面を全く省略されてレリーフ像のように造り出されているが、天衣の先端を左 右に強く張り出した造形は十分な立体感を与えている。

 この像は、ろう型鋳造による制作である事が知られるが、鋳造の際に各所に鋳損じの部分を鋳掛け したり象嵌した痕がみられ、止利をしてもこの大きさの鋳造は困難を伴ったものと思われる。

 この他に、止利あるいは止利を長とした工房で造られたと考えられる像には、法隆寺戊子(ぽし) 年銘の釈迦如来及び脇侍像がある。本像は、光背の裏に刻まれた戊子年の銘により、推古三十六年に造られた像と考えられる。本像は印相や衣文のつけ方など、 金堂釈迦三尊像に非常に近いものをもっており、一光三尊形式の光背も線彫であるが、ほぼ同様の文様を示している。止利派の仏像は、この他法隆寺宝蔵殿の金 銅菩薩像や、四十八体仏中のいくつかに見ることができる。止利派の造立と考えられる金銅仏の技法的な特徴は、像底から頭部まで空洞になっており、銅の厚み も薄手で均一に仕上がっていること、また鋳造の際に中型を固定するのに使用した鉄心を鋳造後に取り去ってあることなどで、他の金銅仏に比べて卓越した技法 が感じられる。

  止利派の仏像の祖型となった形式については、厚手の服制や面長な面相などから、中国で460年ごろに開墾(かいさく)された雲岡石窟の中期以後の諸像にそ の源流が求められていた。雲岡石窟の第十六窟の本尊や中期以降の諸像のとる、僧祇支(そうぎし)の上に厚手の天衣を両肩を覆ってつけ、衣の端を左腕にかけ る着衣法は、かつては北魏皇帝の服制をとり入れたものと考えられていた。しかし、近年に至って、四川省茂県で発見された南斉の永明元年(483)銘の如来 像にもすでにこの着衣法が見られることから、これは北魏特有の形式ではなく、あるいは南朝で工夫され、北魏に伝えられたものと考えられている。

 また、当時日本に仏教文化を伝えた朝鮮の百済は、高句麗と の敵対関係から、北魏よりもむしろ海路を通じて南斉や梁などの南朝と密接な交流を行っており、梁から寺工や仏工を招いていることも知られている。このよう に、飛鳥彫刻すなわち止利派の仏像の祖型は中国の南朝に始まり、一方では北魏に伝わり、また一方では百済を経て日本に伝わったものと考えられる。

 止利は、これらの多様化した様式を、卓越した造型感覚に よって統一的に完成させ、法隆寺釈迦三尊像に至ってこれを極めたと言えるであろう。しかしながら、日本の仏教文化の中に優れた造型感覚で一時代を築いた止 利の造仏も、大化の改新の前後を境としてその遺品をみいだせなくなる。これは、中国の様式の変遷により、北魏様式とは異なる北斉・北周・隋などの様式が伝 えられたことに加えて、遣唐使がそれまでの外交的な活動から一歩進んで文化面でも実質的な交流を行ない、半島からの渡来人系のルートとは異なった様式の展 開があったためと考えられる。また、止利一族が朝廷から重んぜられていた裏には、仏教を擁護し政界に大きな影響がを持っていた蘇我氏との深いつながりがあ り、その蘇我氏が大化の改新で失脚したことも、止利様式が歴史の舞台からその姿を消す一因となったのであろう。その意味でも大化の改新は、政治史上だけで なく、文化史上も大きな改新をもたらしたと言えるであろう。

法 隆寺 戊子年銘釈迦三尊像の写真は、下記ホームページを参照下さい
戊子年銘釈迦三尊像奈 良文化財研究所 飛鳥資料館  から、「Expert Data Series 」→「蘇我三代」→「飛鳥寺」→「戊子年銘釈迦三尊像」

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