仏 師

11.  湛慶 (たんけい)

情熱的な慶派の活躍

 湛慶(1173-1256)は、鎌倉時代を代表する仏師、運慶の長子である。
 運慶によって確立された慶派仏師の名声は又その長男湛慶に承け継がれて、鎌倉時代の前半はさながら運慶湛慶の父子によって代表された観があり、湛慶の活躍にも極めて著しいものが見られる。

  運慶を棟梁とする慶派一門は、京都教王護国寺(東寺)の諸像の修理、造仏に携わった建久末年(十二世紀末)ごろを境として、その活動の本拠地を南都から京 都に移した。湛慶はこの時の造像に小仏師として参加している。すなわち建久より正治頃に快慶のもとで播磨浄土寺の本尊阿弥陀三尊像を、正治三年 (1201)に父運慶と共に愛知・瀧山寺聖観音・梵天・帝釈天立像を、建久年中運慶及び弟等と共に東寺の仁王及び二天像を、南大門の仁王像のうち西方力士 像を、中門二天像のうち西方像を造像している。
 承元二年(1208)から建暦二年(1212)にかけては奈良興福寺北円堂の造仏に運慶の指揮下 で参加し、四天王像のうち持国天像の造像を担当している。この北円堂の造像については、本尊弥勒仏坐像の台座銘に詳しく墨書されている。さらに建暦三年に は京都法勝寺九重塔造仏の功を運慶から譲られ、法印に叙せられた。これ以降建保三年(1215)には、後鳥羽院存命中に供養した、いわゆる後鳥羽院逆修 (ぎゃくしゅ)の1尺5寸阿弥陀・弥勒像、同六年に御衣木加持(みそぎかじ)の行われた東大寺東塔の四方四仏を四人の大仏師とともに制作している。また貞 応二年(1223)には京都醍醐寺閻魔堂の司命・司録像を快慶らとともに制作し、同年四月、地蔵十輪院の増長天像を造った。この頃まで、湛慶は快慶と行動 をともにすることも多く、快慶の絵画的な写実性を身につけたと思われる。

 貞応二年十二月に巨匠運慶がこの世を去ると、湛慶は運慶の後継 者として慶派の棟梁となり、以後、湛慶はめざましい活動をする。貞応三年(1224)から寛元二年にかけて、明恵(みょうえ)上人が建立した京都平岡善妙 寺の神像等の造像に携わっている。現在、栂尾・高山寺に伝わる善妙神・白光神・狛犬等の諸像がそれに当たり、善妙寺焼失後高山寺に移されたと伝えられてい る。善妙神・白光神像・狛犬は小像ながら細部まで丁寧に彫り出され、彩色は当初のままで、慶派の作風がよく現れている。これらの像は、明恵上人の夢で見た 姿を湛慶に託して彫らせたと言い伝えられており、特に狛犬は、自然や生き物を愛おしく愛した明恵上人との触合いの中で生まれた像と言えよう。
 こ のほか、『土佐国編年記事略』により嘉禄元年(1225)頃に造立されたと思われる毘沙門天三尊像が高知・雪渓寺に残されている。中尊毘沙門天像は、運慶 が壮年時代に造像した静岡願成就院の毘沙門天像と共通する作風をもつ。しかし面相の激しさはなくなり、温和である。脇侍の吉祥天・善膩師童子像もまた小像 ではあるが、愛すべき像である。特につぶらな瞳で見上げる善膩師童子像は、一瞬の動きをとらえた巧みを表現で父運慶の童子像の影響を受けた像であることが わかる。

 嘉禄二年(1226)とその翌年には父母の供養のために京都浄蓮華院の丈六阿弥陀像、高野山大門の仁王像をそれぞれ制作し、寛 喜元年(1229)梅尾高山寺大門の金剛力士像及び三重塔の五尊像、天福元年(1233)高野遍照光院の阿弥陀三尊像、嘉禎2年(1236)高山寺三重塔 の脇侍像4体、嘉禎3年1月4日高野大門の金剛力士像、さらに、嘉禎4年(1238)3月22日、鎌倉将軍藤原頼経が六波羅に仁王八講を修した際に用いた という釈迦如来画像、仁治2年(1241)高山寺羅漢堂の僧形文殊像、さらに宝治二年(1248)、後嵯峨院の最勝講の四天王像を造像するなど、湛慶は精 力的に造像活動を行なった。

 その生涯のなかで一番大きな業績は、建長元年(1249)に焼亡した京都蓮華王院本堂(三十三間堂)復興時の造像といえよう。中尊千手観音坐像(像高334.8cm)の台座には、修理大仏師法印湛慶が八十二歳の建長三年(1251)、 小仏師法眼康円・法眼康清を率いてこの像を造像したことが墨書されている。また本堂内には湛慶の手になった等身大の千手観音立像が九躯現存する。この蓮華 王院の造像において、慶派一門に限らず、他に京都の院派・円派の仏師たちに応援を求めており、このことは、各々等身大の千手観音立像の像内銘によりわか る。湛慶が蓮華王院の復興にこのように情熱を傾けていたのは、康助以来蓮華王院の大仏師を務めていた慶派の棟梁としてその責任を果すためであろうか。建長 八年(1256)東大寺講堂の本尊2丈5尺の千手観音像の造像なかばで、遂にその功を見ず八十三歳の生涯をとじた。

 蓮華王院中尊像は非常にまとまりの良い湛慶の非凡な手腕を感じることが出来るが、一方で運慶に代表される慶派の力強さは影を潜め洗練された写実性を見ることが出来る。

 運慶には長男湛慶のほか、二男康運、三男康弁、四男康勝、五男運賀、六男運助の6人の息子がおり、このうち遺品が残されているのは、康弁、康勝の二人である。

  二男康運は、記録上では建久年中父運慶に従って東寺の仁王及び二天像を造り、承元2年の興福寺北円堂諸像の造像銘中に法橋康運の名を記し、又父や兄弟等と 共に六波羅蜜寺地蔵十輪院旧仏の高山寺等身四天王像中の広目天像を造っている。一説には康運は後に定慶と改名したと伝えられているが明らかでない。

  三男康弁は、建久九年(1198)ころ、父運慶のもとで長兄湛慶とともに東寺南大門の仁王像、中門の二天像を造像した。承元二年(1208)には興福寺北 円堂の四天王像のうち、広目天像を造像している。 現存する遺品は、興福寺西金堂の壇上に安置され、現在興福寺国宝館に安置する天燈鬼、龍燈鬼像である。 龍燈鬼像の像内納入紙片により、二躯の像が建保三年(1215)に造像されたことがわかる。この二鬼像のうち、天燈鬼像は口を大きくあけた阿形(あぎょ う)像で、燈籠を左肩に負い、右腕を力強く伸ばして、全体の釣り合いを保っている。これに対して、龍燈鬼像は口をしっかり結んだうん形像で、肩に巻き付け た龍の尾を持って両腕を腹前で組み、両足をわずかに開いて、うわ目を使い、頭上で燈籠を支えている。このようなモチーフは従来の仏像にはなかった特異な形 であり、その卓越した発想には驚嘆させられる。表情豊かな写実的手法は、慶派の伝統を受け継いだ像といえる。
 
 四男康勝の遺品としては、天福元年(1233)に制作された東寺御影堂の弘法大師像、京都六波羅蜜寺の空也(くうや)上人像及び法隆寺金堂の銅造阿弥陀如来坐像が知られている。
  空也上人は、つねに念仏を唱えながら民衆を教化して歩き、阿弥陀聖とか市聖とか呼ばれて親しまれた。この像は弥陀の名号を唱え、右手の撞木(しゅもく)で 胸にかけた鉦鼓をたたき、左手に鹿角の杖をついて遊行(ゆぎょう)する姿を表している。口の中から出る六体の化仏は、南無阿弥陀仏の六字の名号を具象化し たものである。痩身の空也上人像の全体にみなぎる雰囲気は、三十三間堂の二十八部衆のうちの婆藪(ぱすう)仙人像によく似ている。
 また、法隆寺 金堂の銅造阿弥陀如来坐像光背には貞永元年(1233)造像の銘があり、この像が康勝によって造像されたことがわかる。この阿弥陀像は鎌倉時代に興った復 古主義の一つの表れとして、同じ堂内に安置される推古天皇十五年(607)の銅造薬師如来坐像を模した像である。面相は推古朝の薬師如来像に比べて温和に なり、衣文は流麗でいずれも鎌倉新様式がよく表れている。
 文献的には、建久末年ごろ、父運慶に従って長兄湛慶・康運・康弁らとともに東寺・南大 門および中門の造像に携わったほか、承元二年には、興福寺・北円堂四天王像のうち多聞天像の造像に携わった。また貞応二年(1223)四月、高山寺に移さ れた地蔵十輪院の四天王像を湛慶とともに造像した。
 康勝は一説にはかつて康海と称したと伝えられ、嘉禎三年
(1237)以前に没している。

 五男運賀、六男運助は共に建久年中の東寺・仁王二天像及び承元二年の興福寺・北円堂諸像の造顕に携る。

 運慶の息子たちは、長男湛慶を中心に運慶の築き上げた慶派の工房を守り発展させ、鎌倉時代の仏教彫刻の屋台骨として支えていったことが分かる。


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