仏 師

17.  康正・康猶その他慶派仏師

   近世の七条仏所の名匠たち

 一般に慶派の名で知られる七条仏所 は、本流ともいうべき七条中仏所(しちじょうなかぶっしょ)のほか、鎌倉時代後半になって康誉が興した七条西仏所、室町時代に康祐が始めた七条東仏所に分 けられる。この三仏所の中で、桃山から江戸時代にかけて、もっとも力をもっていたのが七条中仏所である。
 康正(こうしょう)(1534〜 1621)は、定朝より二十一代と称した京都東寺(教王護国寺)大仏師で、中仏所中興の祖とされる桃山時代の代表的仏師である。よく知られた作例として は、秀頼の発願により慶長七年(1602)から九年にかけて造像した教王護国寺金堂の薬師三尊並びに十二神将像がある。三尊(像高各243cm)は巨像 で、丈六の中尊坐像、半丈六の脇侍立像など、法量は、平安以来の古式を基準とするほか、中尊の台座は宣字形の裳懸座もかけざで、奈良以前の古様を模してい る。体躯の構造は、各部材を柄ほぞや掛金具などで寄せ、これ以後の巨像制作の範例とされたことが知られている。中尊のやや面長の面相は重厚である。台座の 回りに配された十二神将像(像高約91cm)は、小像ではあるが忿怒の面相や形姿に作者の非凡な技巧がみられる。他に天正十三年(1585)の滋賀日吉神 社神像、十五年の大阪四天王寺如意輪観音像、十九年の教王護国寺塔本四仏の造像が知られる。そのほか慶長九年(1604)には弟康理と共同で高野大門の仁 王像を造像したほか、同十一年には高野御影堂愛染明王・不動明王の造像、さらには京都蓮華王院本堂の諸像や教王護国寺講堂五大尊像の修理などもあり、広い 活躍を知ることができる。

 康猶(こうゆう)は康正の嫡子と伝えられている。父と同様に東寺大仏師で、大仏師左京法眼康猶とよばれる。寛 永八年(1631)に徳川家康十七回忌の本尊、栃木日光東照宮釈迦・大日・多宝如来像のほか、本地堂本尊像などを造像している。このほか、徳川幕府の命に より東京上野東照宮の神将像をはじめとする諸尊を造像した。また五重塔塔本四仏も康猶の造像と考えられている。江戸時代の中仏所は徳川幕府の仕事を中心に 活躍した。
 康猶の跡を継いだ左京法眼康音(こうおん)は、その子法眼康知とともに、正保四年(1647)に、日光東照宮で営まれた家康三十三回 忌のため、その本尊虚空蔵菩薩像を造像している。さらに慶安三年(1650)には、上野東照宮随身及び五大尊像を造像したほか、明暦四年(1658)に は、京都長講堂の後白河法皇像などを造像した。この系譜からは他に、京都東山大仏の復興や蓮華王院の諸仏修理に携わった左京法眼康祐、三重新大仏寺本尊丈 六盧舎那仏を復興した法橋祐慶、寛文十三年(1673)に長野長雲寺等身愛染明王像を造像した大仏師久七らがいる。

 七条西仏所からは、康温・康音などの名が知られており、京都南禅寺山門上の本尊宝冠釈迦如来像や、十六羅漢像の造像が名高い。いずれも室町時代以来の禅宗様式を色濃く伝える像である。西仏所は京都を中心に活躍していたことがわかっている。



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