仏 師

 8.  康 慶(こうけい)

鎌倉様式の創始、慶派の起り

 康慶は、巨匠運慶の父として、藤原時代末葉から前代 の初頭にかけて活躍した仏師で、鎌倉時代の造仏の主流となった慶派と呼ばれる仏師集団の事実上の創始者である。
 藤原時代に一世を風 靡した定朝のあとには、その子覚助と弟子長勢とがあるが、長勢はその子円勢に引きつがれ、いわゆる後に円派と呼ばれる京都を中心に活躍する一派をなした。 覚助はその子頼助と院助に分かれ、院助の系統が院覚・院朝に引き継がれて院派と呼ばれる一派となった。 円派と院派は引き続いて京都を中心に朝廷や藤原貴 族の造仏を行い隆盛をきわめたのに対し、頼助は、主として活動舞台を奈良に移し、専ら興福寺の造仏に携ったことから「御寺仏師」「南京仏師」と呼ばれてい る。頼助の子康朝の正系を継ぐのが成朝(せいちょう)で、文治元年(1185)、源頼朝の発願した勝長寿院の造仏のため鎌倉に下向したことで知られてい る。康慶は、この康朝の弟子にあたる。
 康慶は、正系の仏師の出身ではなく、康朝について造仏の技を修行した仏師と考えられる。当時 仏師の名声及び勢力等の消長の一端を示す『僧綱補任(そうごうぷにん)』の寿永三年(1184)の条には、当時の正系の仏師は、すべて自分の名の上に師父 の名を注記しているのに康慶には書かれておらず、また、既に中年も過ぎた治承元年(1177)に蓮華王院五重塔の造仏賞によって法橋位に叙せられているに 過ぎないことから、彼が正系の仏師の出身でなかったことが伺える。
 おそらく、康慶は興福寺の下級の僧の出で、康朝について造仏の技 を修行した人だったと考えられる。
 しかし正統たる成朝は早世したためか、その後は康慶の活躍が目立つようになる。
  当時は各仏所の背景勢力であった宮延を始め藤原氏一門や南都諸大寺等との関係に於て、いずれかといえば南都にその伝統を有する慶派が、他の仏所に比して軽 視されていたのは止むを得ないことであった。しかしながら、治承4年(1180年)の平重衡による南都焼討ちによって灰燼とかした東大寺、興福寺等の南都 の復興造営を契機として、康慶率いる慶派が多くの造仏を担当し、その地位を確立するに至った。
 康慶の造像としては、記録に残るもの も含めて、次のようなものがある。
仁 平二年(1152)高さ五尺の吉祥天像を造る
安元元年(1175)奈良円成寺大日如来像を実弟子運慶に造らせ、それを監督する。
治 承元年(1177)後白河法皇発願の蓮華王院五重塔の造仏の功により法橋に叙される。
文治四年(1188)から翌五年にかけて興福寺 南円堂本尊不空羂索観音像・四天王像・法相六祖像を造る。
建久二年(1191)興福寺南大門の仁王像の造立について院尊の子院実と争 う。
建久三年ころ 蓮華王院内の一堂に不動三尊像を安置する。
建久五年興福寺復興造営の功により法眼となる。
建 久六年 東大寺供養に際し、その造仏賞を運慶に譲り、運慶は法眼となった。
建久六年ごろ 奈良多武峯平等院の板壁に描かれた六地蔵画 像の願主となる。
建久六年 定慶、快慶、運慶等と共に東大寺入仏の脇侍菩薩像を造始める。
建久六年 東大寺仏殿 の増長天像を造る。
建久七年 東大寺及び神童寺の伎楽面をいくつか補作する。
建久八年 東大寺大仏殿の脇侍、高 さ三丈の虚空蔵菩薩像を運慶と協力して制作する。

 この他、東福寺観音堂の毘沙門三尊 像と、京都光明峯寺金堂の本尊大日如来像と愛染明王像を制作したことが文献から知られる。また近年、静岡瑞林寺・地蔵菩薩坐像(治承元−1177)、鳥取 三仏寺・蔵王権現立像(仁安3−1168頃)が、胎内銘等の研究から康慶の作とする説が出されている。
 この中でも、康慶の代表作と して知られる、興福寺南円堂の不空羂索観音坐像、法相六祖像は康慶が一門を率いて造像に当たったが、興福寺に伝わる天平彫刻の復古をめざしながら、独自の 写実的な新様式を展開している。鎌倉時代の新様式は、その子の運慶が樹立したといわれているが、康慶の初期の遺作とされる静岡瑞林寺・地蔵菩薩坐像や鳥取 三仏寺・蔵王権現立像においても、定朝に代表される藤原様とは一線を画した、次代の写実的な息吹が見て取れる。


興福寺・不空羂索観音菩薩坐 像、法相六祖坐像の写真は、下記ホームページを参照下さい

興福寺ホームページ から、文化財データベース →  仏 像一覧

→ 木造不空羂索観音菩薩坐像木造法相六祖坐像


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