仏 師

3. 国中連公麻呂 (くになかのむらじきみまろ)

東大寺大仏造立の功労

 天平時代最大の事業であった東大寺の建立は、疫病の流行と政治の乱れに焦慮した聖武天皇が華厳経の教えを広く天下に及ぼし、国土の平安を求めるために、天平十五年(743)、大仏建立の詔を発したことに始まる。当時は、官寺建立の際に、それを統括する造寺司(ぞうじし)という臨時の役所が設けられたことが知られている。東大寺建立の際にも、同様に造東大寺司が設けられたが、これは、東大寺の前身である金光明寺に付随した金光明寺造仏所を発展させた組織であった。この金光明寺造仏所の造仏長官であり、造東大寺司においても、最大の事業であった大仏建立に中心的役割を果たしたのが、国中連公麻呂である。

 公麻呂は、天智天皇二年(663)、百済滅亡に際して日本に亡命した百済人国骨富(くにのこつふ)の孫に当る。のちに大和国葛下(かつらぎしも)郡国中村に移り住み、国中の姓を冠した。当時、渡来人系の人間が役人に登用される例は少なく、公麻呂の技量がいかに優れていたかを知ることができる。大仏の建立は、天平十六年(744)に、近江の紫香楽(しがらき)で始められたが、山深い新都に移り住むことを人々が好まなかったため、翌年、聖武天皇は紫香楽をあきらめ、現在の東大寺の位置に、改めて建立を始めた。公麻呂は、紫香楽で大仏建立が始められたころからその手腕を発揮したらしく、この頃、金光明寺の造仏長官に任ぜられている。大仏の鋳造は、天平十九年に始められ、天平勝宝四年(752)に完了して鍍金を始めるに至ったが、病弱の聖武天皇は完成を待ちきれず、この年に開眼(かいげん)供養が盛大に行なわれた。

 大仏鋳造の間に、金光明寺はほぼその造営を終えて寺号を東大寺とし、造仏所も造東大寺司として活動を始めたものと考えられる。公麻呂は造東大寺司においても造仏に携わり、天平宝字五年(761)には、金光明寺時代からの大仏建立に対する一連の功績により、造東大寺司次官を命じられた。当時の造東大寺司は、もはや東大寺一寺の所轄役所ではなく、奈良を中心とする諸大寺の造寺造仏に関しても指導的立場にあり、公麻呂もまた、造香山寺造仏所次官を兼任して、香山薬師寺や石山寺などの官寺造営の指導するほか、大仏完成後は、光明皇后誓願の法華寺阿弥陀浄土院の造営や各寺の造仏にもあたった。そして、次官職の末期、神護景雲元年(767)には、称徳天皇の東大寺行幸に際して従四位下の高位を賜り、大仏建立の誉を称えられた。

 大仏造営中の天平宝字8(764)年、道鏡に端を発した恵美押勝の乱の後、反藤原仲麻呂派の復権は、造寺司の人事にも及んだが、公麻呂は、信心篤い文化人であり、常に政争の圏外に位置して、技術面の最高責任者として造営事業に注力していた。

 しかし、東大寺の造営もほぼ完了したこの年の八月に、公麻呂は六年間にわたって勤めた次官の職を辞して閑位についた。公麻呂は金光明寺時代から通算して、実に二十余年もの間、東大寺造営に携わってその手腕を発揮したわけである。これらの功績により、翌年には但馬員外介に任ぜられたが、六年後の宝亀五年(774)に閑職のまま、ひっそりと息を引きとった。

 公麻呂の死後十五年たった延暦八年(789)、さしもの造東大寺司もその役目を終えて解散し、奈良の都を飾った天平文化も一応の区切りをつけることになる。

 公麻呂が情熱を傾けて完成した大仏は、像高五丈三尺五寸(約17.8m)と伝え、鋳造方法は、それまでの型(ろうがた)鋳造とは異なって、外型を造った後、原型を削って中型とし、再び外型を合わせてその間に銅を流し込むという方法をとり、像底から像頂までを八回に分けて鋳継いだものと考えられている。創建当初のこの像は、その後二度にわたる兵火に遭い、現在では蓮弁と膝の一部にその面影を残すだけであるが、蓮弁に毛彫りで描かれた蓮華蔵世界の如来像などから、公麻呂の求めた円満具足の大らかな大仏の姿が想像できる。

 公麻呂の監督下に制作された像は、この他、三月堂や戒壇院にも残されている。三月堂の本尊不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像は、威厳に満ち、堂々とした奈良朝の気風を伝え、また、塑像なども、人間の理想を具現したものを感じさせる。公麻呂のこれらの造形感覚は、祖父国骨富からの伝統の上に中国の唐の新様を取り入れたものであることが注目される。

 公麻呂は、技術者として、管理者として、東大寺造営という未曽有の大事業にその半生を捧げたが、それを支えたものは一体何であったのだろうか。それは、東大寺造営、大仏建立を単なる技術者としての仕事ではなく、聖武天皇、光明皇后が目指した仏教世界の建設と考え、心から東大寺を熱愛していた事であろう。

 大仏の開眼供養は、奈良時代を通じて最も豪華な行事であったと『続日本紀』や『東大寺要録』は伝えているが、開眼に臨席し誰よりも感涙したのは公麻呂であったろう。その『続日本紀』と『東大寺要録』は、公麻呂の死に際し、「天平年中聖武皇帝弘願を発して盧舎那銅像を造る、其長五丈、当時鋳工敢て手を加ふる者なし、公麻呂頗る巧恩あリ、竟に其功を成し、労を以て遂に四位を授けられ、官は造東大寺次官兼但馬負外介に至る」(続日本紀)と功績をたたえ、工人として最高の賞賛を贈っている。

 (高見 徹)


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