仏 師

 18.  珂碩・湛海・元慶

   僧侶による強烈な造像活動

  江戸時代の仏像の中で、ひときわ光芒(こうぼう)を放つ像が、僧侶によって制作された像である。熱烈な信仰に裏付けされたそれらの像は、専門仏師による形 骸けいがい化した諸像を凌駕するできばえすらみせている。そうした造仏僧は、正式な得度を受け、居処を定め、一か寺の建立を目的に造像活動を行った僧、珂 碩(かせき)上人や宝山湛海(たんかい)、松雲元慶(げんけい)などと、全国を放浪し、乞われるままに像を刻んだ遊行聖、円空や木喰明満などにわけられ る。
 珂碩上人松露(1618〜1694)は、東京世田谷浄真寺の九体阿弥陀を造像したことで名高い。出生は武蔵で武士の出身であるが、僧侶とし ての修業中に、九つの極楽浄土・九品浄土の教主である九躯の阿弥陀如来の造像を発願したと伝えられている。江戸霊岸寺に移り住んでから、弟子珂憶(かお く)の手助けを受け寛文七年(1667)に九躯の丈六阿弥陀如来坐像を完成した。これらの阿弥陀像は、いずれも正統な寄木造の手法、定朝以来の伝統的技法 によって造像されていることが知られ、古様を踏襲した本格的な像であり、上人の非凡な腕前に驚嘆させられる。九躯の阿弥陀如来は、延宝六年(1678)に 浄真寺が創建されるとそこに移され、現在上品、中品、下品の三堂に、各上生、中生、下生の三躯ずつ安置されている。
 宝山湛海(1629〜 1716)は伊勢の人である。熱烈な密教僧で大和生駒山宝山寺を開いたことで名高い。十八歳の時に出家し、江戸永代寺の僧周行の弟子となった。そののち京 都東寺や高野山をはじめとする密教の霊地で修業を重ね、延宝六年(1678)に生駒山に籠り、やがて宝山寺を創建した。湛海の造像は、密教僧にふさわしく 不動明王を中心とした明王像が多い。元禄十四年(1701)造像の宝山寺厨子入五大明王像(木造、像高17.2cm)や、宝永六年(1709)の不動五尊 像、あるいは奈良唐招提寺不動明王坐像などが代表作である。これらの像は、いたずらに技巧に走る江戸の仏像彫刻の中で、気魄のこもる力強い像として異色で ある。またその彫法や彩色などには本格的な技法がみられることや、宝山寺の伝承その他から、専門仏師の指導があったと推測され、京仏師院達や、人形彫刻で 名高い清水隆慶などが、直接、間接にその指導にあたったと考えられている。
 松雲元慶(1648〜1710)は、東京目黒羅漢寺の五百羅漢像を制 作したことで名高い。もとは京仏師であって、二十二歳の時に大阪瑞竜寺(黄檗宗)の鉄眼禅師の下に参禅し、出家して俗名九兵衛を元慶に改めた。出家後、諸 国を行脚し、大分耶馬漢で石造五百羅漢像をみて、五百羅漢造像の志をたてたと伝えられる。江戸に入ると、浅草寺境内松寿院に仮屋を建てて浄財を集め、元禄 四年(1691)より羅漢像の造像に着手した。やがて蔵前の札差や五代将軍綱吉の母桂昌院などの寄進をうけ、釈迦・菩薩・羅漢像など536躯を、元禄八年 五月に完成した。これらの諸像は、江戸時代初め隠元の招きで来日した明の仏工范道生(1637〜1670)が造像した宇治万福寺の布袋韋駄天・十六羅漢像 などの様式、日本の仏像彫刻にはみられなかったアクの強い、粘着力をもった様式で造像されている。押し広げた胸部の中から仏が顔をのぞかせるなど、強烈な 印象がある。五百羅漢を安置した寺は、当初向島に創建されたが天災などに遇い、羅漢像は移転を繰り返し現在地に安置されるようになった。




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