仏 師

 7.  院覚(いんかく)

定朝様式の忠実な踏襲者
 院覚は定朝の曽孫、覚助の孫、院助の子で、十二世紀前半を代表する正系の 仏師である。
 院覚が活躍した藤原時代後期は、皇室や藤原家、のちに平家一門の造寺造仏がきわめて盛大に行われた時期にあたるが、今 日現存するものは極めて少い。院覚作とみられる仏像は京都花園にある法金剛院に残る丈六の阿弥陀如来像一体が、僅かにその遺作として知られている。院覚の 事績として最初のものは、永久二年(1114)七月、関白藤原忠実の依頼で丈六の阿弥陀如来像を、翌永久三年には京極殿における故関白頼通の法事に同じく 丈六の釈迦如来像を造ったことである。
 保安元年(1120)九月には内大臣藤原忠通の妻の安産祈祷のために不空羂索観音像を、また 同年十二月醍醐釈迦堂中門の二天像を造っている。大治四年(1129)八月には、鳥羽上皇の命で白檀三尺の普賢菩薩像を、同五年には待賢門院璋子(たいけ んもんいんしょうし)の法服地蔵像を造る。この像は裸形の像に法服を着せたものと思われるが、鎌倉時代にみられる裸形像の先駆をなすものであり、また早く に宋美術の影響を反映したものとしても注目される。
 同じく五年十月に供養された法金剛院の造仏の功で、院覚は法橋に叙せられる。天 承二年(1132)には法成寺(ほうじじょうじ)東西両塔の大日如来像各四体を造り、その功で法眼となる。同年六月には賢円とともに白川殿の丈六愛染明王 像と金輪王像を造り、長承三年(1134)六月には院朝とともに西院邦恒堂の名高い定朝仏の法量を測定している。このことは定朝の仏像を手本として造仏の 上に生かさんとしたことを意味し、その忠実な踏襲者であったことを示している。この月、待賢門院璋子の病気平癒を祈って得長寿院(とくちょうじゅいん)の等身 観音像を造る。なお保延二年(1136)に完成した法金剛院三重塔の造仏賞を、助手として手伝った院朝に譲っており、院朝はこれにより法橋に叙せられてい る。
 京都花園にある法金剛院は、鳥羽天皇の中宮待賢門院の発願により大治四年(1129)九月頃から造寺に取りかかり、翌五年二月 に本堂の棟上げをみ、同十月に落成供養が行なわれた。法金剛院に残る院覚作といわれる周丈六の阿弥陀如来坐像(寄木造、漆箔、像高227.6cm)は、宝 相華の文様を刻んだ七重の蓮華座に定印を結んで安座する。この像は面相をはじめ、胸・腹・膝部と穏やかな線で品よくまとめられ、一見して定朝様式を極めて 厳格に伝承していることがうかがえる。藤原末期になると造仏の上では類型法化が目立ち、精神性の稀薄な作品が現われてくるが、本像はそうした崩れや衰弱が まだ見られず、気品ある洗練された造形感覚で貫かれており、さすが上皇の寵妃で崇徳・後白河天皇の生母待賢門院ゆかりの寺院にふさわしい優作といえよう。 なお、本像の作者を院覚とすることに疑問をもつ学者もいる。


法金剛院像阿弥陀如来坐像の写真は、下記ホームページを参照下さい

増田建築研究所ホームページ から、「JAPANESE ARCHITECTURE IN KYOTO」

→ 「右京区」・「法金剛院」 →  「[No.2]阿弥陀如来坐像」へ


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