貨 幣 一 覧
(小判、金銀貨は除く)

名 称
発行開始年
 画 像
寸法(mm)
直径
縦×横
解  説
半両銭
(中国)

(青銅製)

221.B.C

直径約30

 わが国貨幣の源流にあたる中国古代の円形方孔貨。
 紀元前221年ごろ、中国北部を統一した秦の始皇帝は、円形で中央に正方形の穴があいた(円形方孔)「半両銭」を作り、貨幣の形をこれに限ることとした。   

 

五銖銭
(中国)

(青銅製)

 

2c.B.C

 

 

直径約25

 中国を統一した漢においても、この円形方孔という貨幣の形態が用いられ、漢の武帝が作った「五銖銭」の大きさや重さはその後の中国銭の標準型となった。この貨幣の形態は、わが国を含む東アジアの各地域に広く伝播した。

 

開元通宝
かいげんつうほう
(中国)

(銅製)

 

 621 

 

 

直径約24

 「開元」とは「開国建元」の略といわれ、建国記念の意。文字は当時著名だった書家、欧陽詢の書によるもので、篆書と隷書が融合したその書体は「篆隷体」と呼ばれる。日本の和同開珎のモデルになったもの。

 

富本銭
ふほんせん

 天武12年
(683)

 

 

直径約24.4

 飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)からが出土したもので、同銭は 日本書紀の天武12(683)年の詔(みことのり)に、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ。」と記されている銅銭にあたり、日本最初の通貨と見られている。また、「無文銀銭」は、これまでの出土状況等から上記詔の銀銭であるという説がある。

 

和同開珎

 

わどうかいほう

 

(銅銭)

 

和銅元年
(708)

 

 

直径約24

  わが国ではじめて公的に鋳造・発行された貨幣。 中国(唐)の文化や制度を積極的に採用していた律令政府(朝廷)は、貨幣も唐銭「開元通宝」をモデルと し、円形方孔で大きさも重さもほぼ同様の「和同開珎」を発行した。当時のわが国の人々は貨幣になじみがなかったため、朝廷は貨幣の使用を強制したり、貨幣 を蓄えた者に位階を与えるといった流通促進策をとって普及に努めた。
 読み方については正式な記録がなく、「珎」を「寶」の略字として「ホウ」とする説と、「珍」の異字体として「チン」とする説とがある。

 

和同開珎
わどうかいほう

 

(銀銭)

 

和銅元年
(708)

 

直径約24

 

開基勝宝
かいきしょうほう

(金銭)

天平宝字4年
(760)

 

直径約25

 日本最古の金銭。天平宝字四年(760)銀銭の太平元宝、銅銭の萬年通宝と同時に発行された。
現在、奈良市西大寺付近で発見された32枚しか現存しない。
 重要文化財に指定されている。

 

太平元宝
たいへいげんぽう

(銀銭)

天平宝字4年
(760)

 

直径約25

 天平宝字四年(760)金銭の開基勝宝、銅銭の萬年通宝と同時に発行された。

 太平元宝が発掘調査で見つかった事例はなく、大正時代には某家と唐招提寺に伝わる2品が現存していた。しかし現在はその2品の拓本が伝わるのみで、現品は行方不明となっている。

萬年通宝
まんねんつうほう
天平宝字4年
(760)

直径約25

 和同開珎以後約250年の間に、律令政府(朝廷)が発行した12種類の銅貨。
 朝廷が発行した貨幣という意味で皇朝十二銭
(こうちょうじゅうにせん)と呼ばれている。
 鋳造方法は幼稚で、模造し易く、偽造する者が多くなったので、政府は銭文を次々と変えて改鋳したが、原材料の銅の不足などから改鋳の度に重さが減って、 品質も悪くなり、新銭1個に対して、旧銭10個というような不当な交換率が決められ、銭貨の退蔵が行われたことなどから、一般の流通は円滑にゆかず、通貨 価値や信用が急速に低下して、民衆の銭離れを引き起こした。
 10世紀末には政府の弱体化もあって皇朝銭はついに乾元大宝を最後として、その後600年間貨幣の鋳造は停止された。

神功開宝
じんごうかいほう
天平神護元年
(765)

直径約25

 隆平永宝
りゅうへいえいほう
延暦15年
(796)

直径約25

 富壽神宝
ふじゅしんぽう
弘仁9年
(818)

直径約22

 承和昌宝
しょうわしょうほう
承和2年
(835)

直径約20

 長年大宝
ちょうねんたいほう
嘉祥元年
(848)

直径約19

 饒益神宝
にょうやくしんぽう
貞観元年
(859)

直径約19

 貞観永宝
じょうがんえいほう
貞観12年
(870)

直径約18

 寛平大宝
かんぴょうたいほう
寛平2年
(890)

直径約18

 延喜通宝
えんぎつうほう
延喜7年
(907)

直径約18

 乾元大宝
けんげんたいほう
天徳2年
(958)

直径約18

煕寧元宝

(中国 北宋)

1068

直径約25

 政府が貨幣を発行していなかった時代に、主に中国から輸入され、わが国で貨幣として流通した外国貨幣。
 皇朝銭の鋳造停止以後、政府が貨幣を発行しない時代が続いたが、平安時代後期(12世紀頃)以降、国内経済の活発化に伴い貨幣の需要が高まるなかで、中 国等との貿易を通じて流入してきた多種類の貨幣(主に宋銭)がそのままわが国でも貨幣として用いられるようになった。この状態は江戸時代初期まで続く。
 日本の皇朝十二銭の初期のものに比べ、鉛の含有量が
20〜45%と多い。
 鎌倉大仏の鉛の含有量は他の金銅仏に比べて極端に多いが、これは浄光上人が、建立に当たり一文銭を勧請したことから、当時流通していた中国の宋銭が材料として用いられたためと想定される。

元祐通宝

(中国 北宋)

1086

直径約25

皇宋元宝

(中国 南宋)

1253

直径約25

永楽通宝

(中国 明)

1408

直径約25

元豊通宝

(中国 北宋)

11〜17世紀

直径約22

私鋳貨幣

(元豊通宝)

11〜17世紀

直径約22

 旧称「水戸銭」。江戸時代、長崎貿易用に鋳造された。

私鋳貨幣

(元豊通宝)

12〜17c

直径約22

 政府が貨幣を発行せず、渡来銭が流通した時代に、豪族や大商人達によって鋳造され、流通した貨幣。明の永楽通宝をまねて私鋳したもので、単なる鋳写ではなく母銭を自作したと思われる。
 室町時代中期以降(14〜17世紀)は、大量に流入した渡来銭だけでは国内経済の拡大により増大した貨幣の需要を満たすことができなかったため、交換手段として私鋳銭も流通した。
 私鋳銭の鋳造方法にはさまざまなものがあるが、多くの場合、渡来銭と比べると品質が劣っていた。また、15世紀になると、渡来銭も、長年にわたる使用の 結果、かけたり、ひび割れしたものがみられるようになった。これらや私鋳銭はともに「鐚銭(びたせん)」と呼ばれた。
 そして、15世紀半ば以降、鐚銭の受け取りを拒否したり、取り替えあるいは割り増しを要求したりする行為(撰銭-えりぜに)が盛んとなり、幕府や大名領主はたびたびこれを規制したが、効果はなかなかあがらなかった。

私鋳貨幣

(永楽通宝)

12〜17c

直径約23

 天正通宝
てんしょうつうほう

(銀銭)

天正15年(1587)

直径約25

 豊臣秀吉は幣制の統一をはかるため銅貨「天正通宝」(1587年)、銀貨「文禄通宝」(1592年)を鋳造発行した。

 永楽通宝
えいらくつうほう

(御紋金銭)

直径約25

 豊臣秀吉が島津征伐の際、戦功のあった大名にあたえたもの。
 現存するのは、日本銀行貨幣博物館に伝来する一枚と、平成15年、港区赤坂の萩藩毛利家屋敷跡の遺跡から発見された二枚のみである。

 慶長通宝
けいちょうつうほう
慶長11年(1606)

直径約25

 江戸時代に発行された。「通寳」字は永楽通宝に酷似し、「慶長」字が2字とも俯している。

 寛永通宝
かんえいつうほう
四文銭

(銅製)

寛永3年(1626年)

直径約25

  徳川幕府は開府当初から貨幣の統一に着手し、金銀貨についてはいち早く統一貨幣を発行したが、流通量の多い銭貨については、しばらく元豊通宝・永楽通宝の ような、平安末期に中国で鋳造された渡来銭や、これらを日本で模鋳した銭貨の流通を認めていた。永楽通宝は日本人にも好まれ模鋳も盛んに行なわれたが、粗 悪な模造が出回ったため、慶長十三年に通用禁止となった。
 その後、寛永年間に徳川幕府は寛永通宝を発行し、その後明治時代まで、約200年間鋳造され、銅一文銭、鉄一文銭、真鍮四文銭、鉄四文銭の銭貨が長い期間にわたって流通した。
 寛永通宝は、全国各地の「銭座」において作られたが、江戸時代中期以降になると増鋳の必要性から次第に素材は劣悪なものになり、真鍮製の寛永通宝四文銭などが発行された。

 寛永通宝
かんえいつうほう

(真鍮製)

明和5年(1768)

直径約31

 

 天保通宝
てんぽうつうほう
 百文銭

(銅製)

 

天保6年(1835)

約50×約33

 天保年間に発行された天保通宝は、他の円形方口とは違い長円形の形をした銅銭で、はじめての百文貨幣であったが、銅一文銭の五文半程度の原料にもかかわらず百文として通用するなど、他の文銭との実価が低く過ぎるため価値を落としていった。

 宝永通宝
ほうえいつうほう
宝永5年(1708)

直径約31

 宝永年間に鋳造された十文の銅銭宝永通宝は一年未満で通用が停止されている。

 文久永宝
ぶんきゅうえいほう
文久3年(1863)

直径約25

 文久年間には銅の四文銭文久永宝が鋳造されるなど、様々な銭貨が発行された。

資料出典:日本銀行金融研究所 貨幣博物館等


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