文化財人名事典(た行)

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行


大覚
だいかく
(専門)僧侶
(生年月日)1297(永仁 5)
(没年月日)1364(<南>正平19
.4.3、<北>貞治 3.4.3
(来歴)南北朝時代の僧侶(法華宗)。名は妙実。はじめ真言宗の僧であったが、のち改宗して日像の弟子となる。
 
高楠 順次郎
たかくす じゅんじろう
(専門)仏教学
(生年月日)1866(慶応 2
.5.17
(没年月日)1945.6.28(昭和20)
(出身地)広島県
(来歴)インド哲学者・仏教学者。本姓は沢井、号は雪頂。オックスフォード大学卒業。1931(昭和 6)東洋大学学長。
 
高島 嘉右衛門
たかしま かえもん
(専門)実業家
(生年月日)1832(天保 3)
(没年月日)1914(大正 3)
(来歴)実業家・易者。号は呑象(ドンショウ)。常陸国(現:茨城県)の人。はじめ実業に従事、横浜で土木・建築の請負に活躍。米人R=P=ブリッジェン スや清水喜助(二代目)と組み、1866(慶応 2)ナマコ壁の西洋建築イギリス仮公使館を完成。京浜間の鉄道敷設にも尽力。木材の買占めや不正取引きで入牢。事業を易で占ううち本業以上に占いが大当り し、財界から退いて呑象と号して高島易断の開祖となる。著書『高島易断書』。埋立地の横浜市高島町は彼の名に由来する。
 
高嶋 米峰
たかしま べいほう
(専門)宗教家
(生年月日)1875. 1.15(明治 8)
(没年月日)1949.10.25(昭和24)
(来歴)宗教家(仏教)・教育家・随筆家。
 
高須 芳次郎
たかす よしじろう
(専門)評論家
(生年月日)1880. 4.13(明治13)
(没年月日)1948.2.2(昭和23)
(出身地)大阪
(来歴)評論家・水戸学研究家。号は梅渓(バイケイ)。大阪船場生れ。1898(明治31)上京、1905(明治38)早稲田大学英文科卒業。晩年、水戸学を研究し文学博士の学位を得、日本大学教授。戦時下は皇道主義を鼓吹した。
 
高田 修
たかだ おさむ
(現職)
(専門)仏教美術史、インド美術史
(生年月日)昭和年月
(出身地)三重県
(学歴) 東京帝大印度哲学科卒 文学博士
(興味)
(受賞)59年に学士院賞、60年に学士院恩賜賞
(来歴)連合国軍総司令部(GHQ)美術顧問、東京国立文化財研究所美術部長、東北大学文学部東洋・日本美術史教授
(主な著作) 『仏像の起源』(岩波書店) 1967年刊、『仏教美術史論考』(中央公論美術出版) 1969年刊、アジャンタ壁画」(NHK出版)2000年刊
2006年10月27日死去
(所属団体)
(08.11現在)
 

高田 良信
たかだ りょうしん
(現職)法隆寺長老
(専門)僧侶
(生年月日)昭和16年月
(出身地)奈良県
(学歴) 龍谷大学大学院修士課程修了(昭和38年)
(興味)
(受賞)
(来歴)法隆寺塔頭実相院住職。1982年、法隆寺執事長、法隆寺文化財保存事務所所長、法隆寺昭和資材帳編纂所長等に就任。1992年、法隆寺副住職。住職代行。1995年5月から法隆寺住職に就任。
(主な著作) 『法隆寺のなぞ』(主婦の友社)『法隆寺の秘話』(小学館)『世界文化遺産 法隆寺』(毎日新聞社)
(所属団体)
(08.11現在)

高橋 健三
たかはし けんぞう
(専門)評論家
(生年月日)1855.9(安政 2)
(没年月日)1898. 7.22(明治31)
(来歴)官吏・ジャーナリスト。号は自恃居士。岡倉天心と美術雑誌「国華」を創刊。
 
高橋 新吉
たかはし しんきち
(専門)仏教研究家
(生年月日)1901. 1.28(明治34)
(没年月日)1987.6.5(昭和62)
(出身地)愛媛県
(来歴)詩人・美術評論家・仏教研究家。愛媛県八幡浜市生れ。
 
高橋 隆博
たかはし たかひろ
(現職)帝塚山短期大学助教授
(専門)東洋美術史(工芸史)
(生年月日)昭和20年
(出身地)山形県
(学歴)関西大学大学院(昭和46年)修了
(来歴)奈良県立美術館学芸員を経て、帝塚山短期大学助教授。著書に「韓国史跡と美術の旅」「高麗・李朝の螺鈿」(共著)
(88.9現在)
 
高見 順
たかみ じゅん
(専門)評論家
(生年月日)1144(明治40)
(没年月日)1965.8.17(昭和40)
(出身地)福井県
(来歴)小説家・詩人・評論家。本名は高間芳雄(ヨシオ)、俳号は水馬。福井県三国町生れ。府立一中・一高を経て1930(昭和 5)東京大学英文科卒業。1933(昭和 8)治安維持法違反の容疑で検挙、転向により半年後、起訴保留で釈放。永井荷風の従兄弟(実父が荷風の父永井久一の実弟)、阪本越郎(サカモト エツロウ)の異母弟。母は高間古代(コヨ)。実父は阪本(「金」偏+「彡」)之助は当時福井県知事だったが、順の誕生の翌年転任。古代は祖母コトとともに 三人で上京し麻布に転居したが、実父と義絶。そのため片親の手で育てられ父に生前に会うことはなかった。転向文学から出発し、知識人の内面の苦悩を描く。 日本ペンクラブ理事・文芸協会理事。
 
高村 光雲
たかむら こううん
(専門)彫刻家
(生年月日)1852(嘉永 5
.2.18
(没年月日)1934.10.10(昭和 9)
(出身地)東京
(来歴)明治・大正期の彫刻家。はじめ中島光蔵、通称は幸吉。江戸浅草生れ。高村光太郎(コウタロウ)・高村豊周(トヨチカ)の父。1863(文久 3)仏師高村東雲に入門。東雲の姉えつの養子となり、光雲と号する。1886(明治19)東京彫工会創立に参加。1887(明治20)皇居造営に装飾彫刻 を担当。1889(明治22)東京美術学校創立に際し、彫刻科教授。1890(明治23)楠公銅像、1892(明治25)西郷隆盛像を制作。上野公園に西 郷隆盛像が、1898.12.(明治31)建立。
 
高村 光太郎
たかむら こうたろう
(専門)彫刻家
(生年月日)1883. 3.13(明治16)
(没年月日)1956.4.2(昭和31)
(出身地)東京
(来歴)詩人・歌人・彫刻家。本名は光太郎(ミツタロウ)、号は砕雨。東京下谷生れ。東京美術学校卒業。1914(大正 3)長沼智恵子と結婚。高村智恵子の夫、高村豊周(トヨチカ)の兄。父高村光雲(コウウン)は木彫家で上野の西郷隆盛像の作者。光太郎忌(連翹忌)( 4. 2)高村光太郎記念会の主催で追悼会。連翹(レンギョウ)はアトリエの庭に咲く光太郎が愛した花。高村祭( 5.15)岩手県花巻市太田山口の高村光太郎記念館と山荘で。
 
高村 智恵子
たかむら ちえこ
(専門)画家
(生年月日)1886. 5.20(明治19)
(没年月日)1938.10.5(昭和13)
(来歴)洋画家。旧姓は長沼。1914(大正 3)高村光太郎と結婚。1931(昭和 6)ごろから精神分裂症に悩む。「青鞜(セイトウ)」創刊号の表紙絵の作者は長沼智恵子。
 
高村 豊周
たかむら とよちか
(専門)彫金家
(生年月日)1890. 7. 1(明治23)
(没年月日)1972.6.2(昭和47)
(来歴)彫金家・歌人。高村光雲(コウウン)の三男、高村光太郎(コウタロウ)の弟。
 
高群 逸枝
たかむれ いつえ
(専門)評論家
(生年月日)1894. 1.18(明治27)
(没年月日)1964.6.7(昭和39)
(出身地)熊本県
(来歴)詩人・評論家・女性史研究家。父は熊本県の小学校校長。熊本師範女子部中退。20歳のとき辺地の代用教員になり、間もなく他校の代用教員橋本憲三と恋仲となり、1919(大正 8)結婚。1938(昭和13)『母系制の研究』、1953(昭和28)『招婿婚の研究』などを刊行。
 
高山 樗牛
たかやま ちょぎゅう
(専門)評論家
(生年月日)1871. 2.28(明治 4)
(没年月日)1902.12.24(明治35)
(出身地)山形県
(来歴)明治時代の評論家・思想家。本名は林次郎(リンジロウ)、旧姓は斎藤(実父斎藤親信の兄高山久平の養子)。別号は高斎林良・九皐生(キュウコウセ イ)。山形県鶴岡町高畑生れ。少年時代、養父と共に山形・酒田・福島など転住して、1884(明治17)福島中学に入学。1886(明治19)養父に伴わ れ上京、本所に住み一時英語学校に学ぶ。1888. 1.(明治21)仙台に赴き第二高等中学に入学、1893. 7.(明治26)同校卒業し東京帝国大学哲学科に学ぶ。1894.12.(明治27)帝国文学会が組織され、上田敏・姉崎嘲風らと機関誌「帝国文学」の編 集委員になる。1896. 7.(明治29)卒業。1897.12.(明治30)博文館に入社、法学博士杉亨二(スギ コウジ)の次女里子と結婚。斎藤野の人(ノノヒト)の実兄。
 
滝口 修造
たきぐち しゅうぞう
(専門)評論家
(生年月日)1903.12. 7(明治36)
(没年月日)1979.7.1(昭和54)
(出身地)富山県
(来歴)昭和期の詩人・美術評論家・造形作家。
 
滝沢 秋暁
たきざわ しゅうぎょう
(専門)評論家
(生年月日)1875. 3. 3(明治 8)
(没年月日)1957.2.27(昭和32)
(来歴)詩人・評論家。本名は彦太郎、別号は残星・読不書生。
 
沢庵 宗彭
たくあん そうほう
(専門)僧侶
(生年月日)1573(天正元
.12
(没年月日)1645(正保 2
.12.11
(来歴)江戸初期の僧侶(臨済宗)。通称は沢庵和尚。但馬国の人。大徳寺宗弼に参じ、1605(慶長10)大徳寺の第一座(首座)、堺(サカイ)の南宗寺の住持。1629(寛永 6)大徳寺の後継問題(紫衣<シエ>事件)で幕府と争い、出羽国上山(カミノヤマ)に流され、1634(寛永11)赦免。のち徳川家光の信頼を受け、1639(寛永16)江戸品川に東海寺を開く。
 
田口 卯吉
たぐち うきち
(専門)経済学者
(生年月日)1855(安政 2
.4.29
(没年月日)1905.4.13(明治38)
(来歴)明治時代経済学者・史論家・政治家。名は鉉、字は子玉、通称は卯吉、号は鼎軒(テイケン)。日本のアダム=スミスと称される。木村鐙(トウ)の異 父弟。佐藤一斎の外曾孫。父は大久保彦左衛門の末裔。江戸生れ。幕臣出身。蘭学を修める。1874(明治 7)大蔵省翻訳局上等生徒の業を卒え、大蔵省に出仕し翻訳に従事、経済学を研究。1878(明治11)退官し、同年沼間守一(ヌマ モリカズ)が創立した自由民権思想の見地に立つ政治結社嚶鳴社(オウメイシャ)発起人の一人となる。1879. 1.(明治12)「東京経済雑誌」を創刊。保護貿易を排するアダム=スミス的自由主義経済を唱導、政府の経済政策を批判し、実業界にも活躍。東京府会議員 になり、1894(明治27)以降は衆議院議員。『日本開化小史』・『支那開化小史』などを著し、雑誌「史海」を発行、『国史大系』・『群書類従』など古 典を復刻。『大日本人名辞書』・『日本社会辞彙』を編纂。
 
田口 掬汀
たぐち きくてい
(専門)評論家
(生年月日)1875. 1.18(明治 8)
(没年月日)1943.8.9(昭和18)
(出身地)秋田県
(来歴)小説家・劇作家・美術評論家。本名は鏡次郎。秋田県仙北郡角館町生れ。東京杉並区荻窪で死去。
 
竹居 明男
たけい あきお
(現職)同志社大学文学部文化学科助教授
(専門)日本文化史
(生年月日)昭和25年6月15日
(出身地)京都市
(学歴)同志社大学大学院文学研究科(昭和54年)博士課程修了
(興味)地獄絵・六道絵の宗教文化史的研究
(所属団体)美術史学会、日本思想史学会、密教図像学会、文化史学会
(88.3現在)
 
竹越 与三郎
たけこし よさぶろう
(専門)評論家
(生年月日)1865(慶応元
.10.14
(没年月日)1950.1.12(昭和25)
(来歴)明治・大正・昭和期の政治家・史論家・評論家。本名は与三郎、旧姓は清野(キヨノ)、竹越は伯父の姓、号は三叉(サンサ)。越後国生れ。慶応義塾 卒業。「大阪公論」、「時事新報」、「国民新聞」などの記者を勤めながら、『新日本史』・『二千五百年史』を著述。西園寺公望に認められ、公望の求めで、 1894. 7.(明治27)雑誌「世界之日本」発行・主筆。第三次伊藤内閣の西園寺文相のもとで文部参事官。1902(明治35)政友会に所属し以後衆議院5回当 選、1922(大正11)貴族院議員に勅選。1940(昭和15)枢密顧問官。
 
武田 恒夫
たけだ つねお
(現職)大阪大学文学部美術科教授
(専門)東洋美術史、日本美術史(日本障壁画)
(生年月日)大正14年12月5日
(出身地)京都
(学歴)京都大学文学部学科卒 文学博士
(来歴)京都国立博物館美術室長を経て、大阪大学教授。文化財保護審議会専門委員も務める。著書に「洛中洛外図」「桃山の花鳥と風俗」「近世初期障壁画の研究」など
(88.8現在)
 
田中 喜作
たなか きさく
(専門)日本美術史
(生年月日)1885. 2. 7(明治18)
(没年月日)1945.7.1(昭和20)
(来歴)美術史家・浮世絵の研究家。
 
田中 萃一郎
たなか すいいちろう
(専門)東洋史
(生年月日)1873. 3. 7(明治 6)
(没年月日)1923.8.13(大正12)
(出身地)静岡県
(来歴)明治・大正期の歴史学者。静岡県生れ。慶応義塾大学卒業、法学博士。1905(明治38)イギリス・ドイツに留学し東洋史・欧州政治史を学び、 1907(明治40)帰国後、慶応義塾大学教授、政治学・東洋史学を講義。1910(明治43)慶応義塾大学に史学科創設に尽力、三田史学会を創立。ドー ソンの『蒙古史』を翻訳。
 
田中 智学(田中 智學)
たなか ちがく
(専門)宗教家
(生年月日)1861(文久元
.11.13
(没年月日)1939.11.17(昭和14)
(来歴)宗教思想家(仏教)。本名は巴之助。江戸生れ。多田玄龍・里舞子の3男。日蓮宗に帰依したが、1884(明治17)立正安国会(のちの国柱会)を結成。1922(大正11)国柱文芸会を創立。
 
田中 豊蔵
たなか とよぞう
(専門)東洋美術史
(生年月日)1881(明治14)
(没年月日)1948(昭和23)
(出身地)京都
(来歴)大正・昭和期の美術史家。号は倉琅子。東京大学卒業。はじめ中国文学を専攻し、のち東洋美術史に転じる。京城帝国大学教授。
 
田中 久夫
たなか ひさお
(現職)千葉大学名誉教授
(専門)日本仏教史(鎌倉仏教)
(生年月日)大正2年6月27日
(出身地)東京都
(学歴)東京帝国大学文学部国史科(昭和11年)卒業
(来歴)千葉大学教授を経て、名誉教授。著書に「鎌倉仏教」「明恵」など
(88.8現在)
 
田中 美知太郎
たなか みちたろう
(専門)評論家
(生年月日)1902. 1. 1(明治35)
(没年月日)1985.12.18(昭和60)
(出身地)新潟県
(来歴)哲学者・評論家。京都大学卒業。1945. 5.(昭和20)東京大空襲の際、焼夷弾で重傷を受ける。1947(昭和22)京都大学助教授、1950(昭和25)同大教授。日本文化会議理事長。
 
田中 恵
たなか めぐむ
(現職)岩手大学教育学部助教授
(専門)仏教美術史
(生年月日)昭和23年11月11日
(学歴)和光大人文学部芸術学科卒、成城大大学院文学研究科美学美術史専攻修士課程修了
(来歴)論文に「観心寺草創期の造仏と真紹」「和歌山県日高郡の仏教彫刻について」など
(所属団体)美術史学会
(87.2現在)
 
田中 義恭
たなか よしやす
(現職)東京国立博物館情報調査研究室長
(専門)仏教美術史
(生年月日)昭和9年11月8日
(出身地)東京
(学歴)東京教育大学教育学部芸術学科卒
(来歴)文化庁美術工芸課、奈良国立文化財研究所、奈良国立博物館、東京国立博物館資料第一研究室長を経て、現職。主著に「名宝日本の美術『東大寺』」 「日本の美術『誕生仏』」「日本の美術『鎌倉地方の仏像』」「日本の美術『飛鳥の仏像』」、共編著に「目でみる仏像〈4〉大日・明王」
(所属団体)美術史学会
(89.1現在)
 
田辺 勝美
たなべ かつみ
(現職)(財)古代オリエント博物館研究部長
(専門)東洋美術史
(生年月日)昭和16年12月11日
(出身地)静岡県天竜市
(学歴)東京大学教養学部(昭和40年)卒、東京大学大学院美術史学専攻(昭和44年)修士課程修了
(興味)仏像の起源
(来歴)昭和42〜53年パキスタン、ソ連、イラン、イラクなどで考古美術調査を行う。48〜53年東京大学助手を経て、現職。共著に「ペルシア美術史」「ターク・イ・ブスターンIV」など
(所属団体)日本オリエント学会、美術史学会、東洋学会
(88.10現在)
 
田辺 三郎助
たなべ さぶろうすけ
(現職)武蔵野美術大学教授
(専門)仏教美術史
(生年月日)昭和6年5月23日
(出身地)東京都
(学歴)東京大学文学部卒、東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退
(来歴)国立歴史民俗博物館教授、文化庁文化財鑑査官を歴任して、昭和62年3月退官。現在、武蔵野美術大学教授
(所属団体)美術史学会、古文化財科学研究会
(89.1現在)
 
谷 信一
たに しんいち
(現職)ブリヂストン美術館運営委員
(専門)日本美術史
(生年月日)明治38年5月8日
(出身地)三重県 本名=谷信一(たにのぶかず)
(学歴)東京帝国大学大学院美学美術史学修了
(来歴)東京帝大副手、京城帝大助教授を経て、昭和24年東京芸大教授、27年神戸大教授、41年共立女子大教授を歴任。主著に「室町時代美術史論」「日本美術史概説」など
(所属団体)歴史学会(委員)
(88.1現在)
 
谷口 鉄雄
たにぐち てつお
(現職)石橋美術館長 九州大学名誉教授
(専門)東洋美術史
(生年月日)明治42年11月23日
(出身地)福岡県北九州市
(学歴)九州帝大法文学部美学美術史学科(昭和8年)卒
(来歴)昭和30年九大文学部教授。同文学部長、学長事務取扱を歴任し、48年退官、名誉教授となる。その後北九州市立美術館長を経て、57年石橋美術館長に就任
(87.12現在)
 
谷口 治達
たにぐち はるみち
(現職)九州造形短期大学教授
(専門)日本美術史
(生年月日)昭和7年8月24日
(出身地)広島県
(学歴)東京大学文学部国文学科(昭和31年)卒
(来歴)昭和31年西日本新聞社入社。文化部次長、編集委員、文化部長、60年専門職論説委員を経て、九州造形短期大学教授
(89.6現在)
 
種田 山頭火
たねだ さんとうか
(専門)俳人
(生年月日)1882.12. 3(明治15)
(没年月日)1940.10.11(昭和15)
(来歴)俳人。本名は正一(ショウイチ)、法名は耕畝。1924(大正14)熊本の報恩寺で出家。1925(大正15)山林独住に耐えかねて行乞流転の旅に出る。九州・四国・中国路の各地を行脚し句と酒と旅に生き、1940(昭和15)松山市の一草庵にて酔頓死。
 
田村 栄太郎
たむら えいたろう
(専門)日本近代史
(生年月日)1893. 9.25(明治26)
(没年月日)1969.11.29(昭和44)
(来歴)歴史家。家業は人力車宿であった。震災直後、群馬共産党事件で検挙。農民運動史・近世交通史・やくざ研究など。
 
田村 円澄
たむら えんちょう
(現職)九州歴史資料館長 九州大学名誉教授
(専門)日本仏教史
(生年月日)大正6年1月2日
(出身地)奈良県橿原市
(学歴)九州帝国大学法文学部国史学科(昭和16年)卒 文学博士(昭和43年)
(興味)日本古代仏教史
(受賞)従七位(昭和19年)、西日本文化賞学術文化部門(昭和58年)
(来歴)昭和17年海軍入隊。20年復員し、23年京都市立西京高校教諭、32年九大助教授、43年同教授、55年熊本大教授。九大名誉教授。56年九州 歴史資料館長。日本仏教史研究の権威。著書に「日本仏教史」(全5巻・別巻1巻)、「古代朝鮮仏教と日本仏教」「法然とその時代」など
(所属団体)史学会、山岳修験学会(会長)、宗教文化懇話会(代表理事)
(89.10現在)
 
湛慶
たんけい
(専門)仏師
(生年月日)1173(承安 3)
(没年月日)1256
(来歴)鎌倉時代の仏師。運慶の長男。没年には1256(建長 8、康元元)との異説がある。
 
近角 常観
ちかずみ じょうかん
(専門)宗教家
(生年月日)1870.12.23(明治 3)
(没年月日)1941.12.3(昭和16)
(来歴)宗教家(仏教)。(3)誕生日は12.23。(9)誕生日は 4.24。
 
辻 潤
つじ じゅん
(専門)評論家
(生年月日)1884.10. 4(明治17)
(没年月日)1944.11.24(昭和19)
(出身地)東京
(来歴)大正・昭和期の評論家。号は風流外道、筆名は水島流吉。開成中学校中退後、国民英学会・自由英学会などで英語を、アテネ・フランセでフランス語を 学ぶ。1909(明治42)上野高等女学校に勤務、教え子の伊藤野枝(ノエ)との恋愛事件により退職。野枝が1916. 4.(大正 5)家出し、大杉栄(サカエ)と同棲するに至り、放浪の生活を送る。1928(昭和 3)「読売新聞」パリ特派員としてフランスに渡り、翌年帰国。1932. 2.(昭和 7)精神が錯乱し斎藤茂吉(モキチ)の診察を受け入院。
 
辻 善之助
つじ ぜんのすけ
(専門)日本仏教史
(生年月日)1877. 4.15(明治10)
(没年月日)1955.10.13(昭和30)
(出身地)兵庫県
(来歴)歴史学者。東京大学国史科卒業。日本仏教史を専攻。
 

辻 惟雄
つじ よしお
(現職)MIHOMUSIUM館長、東京大学・多摩美術大学名誉教授
(専門)日本中世・近世絵画史
(生年月日)昭和7年月
(出身地)愛知県
(学歴) 東京大学文学部博士課程中退 文学博士
(興味)
(受賞)
(来歴)東京国立文化財研究所美術部技官、東北大学文学部教授、東京大学文学部教授、国立国際日本文化研究センター教授、千葉市美術館長、多摩美術大学学長などを歴任
(主な著作) 『奇想の系譜 又兵衛―国芳』(美術出版社) 1970年、『戦国時代狩野派の研究―狩野元信を中心として―』(吉川弘文館) 1994年、『遊戯する神仏たち』(角川書店)2000年、『日本美術の発見者たち』(共著)(東京大学出版会)
(所属団体)
(08.11現在)

津田 左右吉
つだ そうきち
(専門)日本古代史
(生年月日)1873.10. 3(明治 6)
(没年月日)1961.12.4(昭和36)
(出身地)岐阜県
(来歴)歴史学者。本名は親文(チカブミ)、左右吉は通称。東京専門学校(現:早稲田大学)卒業。満鉄調査部・東洋協会学術調査部の研究員として満洲・朝鮮の歴史・地理を研究。1919(大正 8)早稲田大学教授。1940(昭和15)『古代史の研究』など4著書が発禁となる。1942(昭和17)皇室の尊厳を侵害したとして有罪。
 
土田 杏村
つちだ きょうそん
(専門)哲学
(生年月日)1891. 1.15(明治24)
(没年月日)1934.4.25(昭和 9)
(出身地)新潟県
(来歴)哲学者・評論家。佐渡生まれ。本名は茂(ツトム)。東京高等師範学校博物学部を経て、京都帝国大学に学び更に六年間を大学院で過ごす。専攻は生物学と哲学。土田麦僊(バクセン)の弟。
 
角田 柳作
つのだ りゅうさく
(専門)日本文化史
(生年月日)1878. 9. 8(明治11)
(没年月日)1964.11.29(昭和39)
(来歴)日本文化研究家。1928(昭和 3)コロンビア大学に日本文化研究所を創設。
 
坪井 清足
つぼい きよたり
(現職)(財)大阪文化財センター理事長 NHK解説委員
(専門)考古学
(生年月日)大正10年11月26日
(出身地)大阪市
(学歴)京都大学文学部史学科(昭和23年)卒業
(受賞)NHK放送文化賞(第35回)(昭和59年)
(来歴)昭和30年奈良国立文化財研究所に入る。平城宮跡発掘調査部長、49年埋蔵文化財センター長、50年文化庁文化財鑑査官を歴任して、52年4月奈良国立文化財研究所所長に就任。61年3月退官。「古代追跡」「埋蔵文化財と考古学」など著書多数
(所属団体)日本考古学協会、東洋陶磁学会
(89.9現在)
 
出口 王仁三郎
でぐち おにさぶろう
(専門)宗教家
(生年月日)1871. 8.27(明治 4)
(没年月日)1948.1.19(昭和23)
(来歴)明治〜昭和前期の宗教家。宗教法人大本教(オオモトキョウ)の聖師(セイシ、教祖)。本名は上田喜三郎。上田吉松と「よね」の長男、開祖出口なお の末娘(5女)すみ(2代教祖)の婿。京都府桑田郡曽我部村大字穴太(アナオ)(現:亀岡市)の生れ。1899(明治32)なおと金明(キンメイ)霊学会 を組織。1916(大正 5)皇道大本と改称、機関紙「神霊界」を発刊。1900(明治33)出口すみと結婚。1921. 5.(大正10)第1次大本教弾圧事件で起訴され、1927(昭和 2)大赦。1934. 7.22(昭和 9)昭和神聖会を東京九段の軍人会館で結成、統管は王仁三郎、副統管は内田良平・出口宇知麿(3女八重野の夫)が就任した右翼団体であった。 1935.12. 8(昭和10)第2次大本教弾圧事件、不敬団体として治安維持法違反で幹部61人が検挙され本部は爆破され、昭和神聖会は解散。保釈出獄中に敗戦を迎え無 罪となる。戦後、愛善苑(アイゼンエン)として新発足。
 
出口 すみ
でぐち すみ
(専門)宗教家
(生年月日)1883. 2. 3(明治16)
(没年月日)1952.3.31(昭和27)
(来歴)大本教の2代教主。出口政五郎と「なお」の5女(末娘)。京都府何鹿郡本宮町(現:綾部市)の生れ。1900(明治33)上田喜三郎(出口王仁三郎<オニサブロウ>)と結婚。1918.11.(大正 7)母なおの死去により教主に就任。1935.12.(昭和10)第2次大本教弾圧事件で6年間投獄される。戦後、愛善苑(アイゼンエン)として王仁三郎と再建。
 
出口 なお
でぐち なお
(専門)宗教家
(生年月日)1837(天保 8
. 1.22
(没年月日)1918(大正 7
.11.6
(来歴)宗教法人大本教(オオモトキョウ)の開祖。丹波国(京都府)福知山生れ。祖父政五郎は藩の御上大工、父も大工。19歳で豊助を婿にむかえ、夫は祖 父の名の政五郎を名乗る。夫が土地と田畑を売ってしまい、貧乏暮らしをする。11人の子供を生み、3男5女を育てる。娘の「ひさ」と「よね」が発狂する。 1892(明治25)なおは神がかりをおこす。初め金光教に仕えるが(当時、明治政府に公認されていた教派神道十三派に属さなければ宗教として合法化され なかった)、のちに対立して独立し布教所をひらく。1898. 8.23(明治31)上田喜三郎と出会う。世継ぎの「すみ」と結婚した喜三郎と対立する。(23)生年は1837. 1.22(天保 7.12.16)。
 
出口 延佳
でぐち のぶよし
(専門)神道家
(生年月日)1615(元和元
. 5.25
(没年月日)1690(元禄 3
. 2.25
(来歴)江戸前期の神道家。名は初め延良、通称は与三次郎・愚太夫、号は直庵・講古堂、姓は渡会(ワタライ)。伊勢神宮外宮の神官。当時儒教が生活と行動 の規範として支配的になったのに対応し、渡会神道(伊勢神道)に儒教の説も取り入れ、それまでの仏教的な習合神道から儒学思想を中心とした体系的な神道を 主張した。著書『陽復記』・『大神宮神道或問』など。
 
天海
てんかい
(専門)僧侶
(生年月日)1563(永禄 6)
(没年月日)1643(寛永20)
(来歴)江戸初期の僧侶(天台宗)。号は南光坊、勅諡号は慈眼(ジゲン)大師。会津の人。1589(天正17)徳川家康の知遇を受け、内外の政務に参画。 川越喜多院と日光山を授けられる。家康の没後、崇伝(スウデン)と争って失脚させ、権現(ゴンゲン)号の勅許を乞い久能山(クノウザン)から日光山に改 葬、輪王寺(リンノウジ)を建立。また秀忠・家光にも信任され、幕政に参与。1625(寛永 2)上野東叡山寛永寺を開山。1637(寛永14)から寛永寺に経局を設け、天海版といわれる日本最初の大蔵経を刊行、没後の1648年完成。
 
天秀尼
てんしゅうに
(専門)僧侶
(生年月日)1609(慶長14)
(没年月日)1645(正保 2)
(来歴)江戸初期の尼僧。豊臣秀頼(ヒデヨリ)の娘、母は成田助直の娘。大坂落城の後、徳川家康の上意により鎌倉東慶寺の尼になる。
 
土居 次義
どい つぎよし
(現職)美術史家 京都工芸繊維大学名誉教授
(専門)日本美術史(近世絵画)
(生年月日)明治39年4月6日
(出身地)大阪市
(学歴)京都大学美学美術史(昭和6年)卒業 文学博士
(興味)鶴沢派の研究
(受賞)紫綬褒章(昭和49年)、勲三等旭日中綬章(昭和55年)、京都市文化功労者(昭和62年)
(来歴)京都市文化課長、京都博物館長、京都工繊大教授を歴任。著書に「山楽と山雪」「近世日本絵画の研究」「長谷川等伯」など
(所属団体)美術史学会
(87.11現在)
 
土居 淑子
どい よしこ
(現職)成城短期大学教授
(専門)東洋美術史
(生年月日)昭和10年11月23日
(出身地)東京都
(学歴)早稲田大学大学院美術史(昭43)博士課程中退
(興味)古代中国の画象石
(所属団体)日本美術史学会
(84.5現在)
 
土居 淑子
どい よしこ
(現職)成城短期大学教授
(専門)東洋美術史
(生年月日)昭和10年11月23日
(出身地)東京都
(学歴)早稲田大学大学院美術史(昭43)博士課程中退
(興味)古代中国の画象石
(所属団体)日本美術史学会
(84.5現在)
 
登石 健三
といし けんぞう
(現職)物理学者 東京国立文化財研究所名誉研究員・元保存科学部長
(専門)文化財保存科学
(生年月日)大正2年9月5日
(出身地)広島県江田島
(学歴)大阪帝国大学理学部物理学科(昭和11年)卒 理学博士(昭和25年)
(来歴)昭和11年(財)理化学研究所に入ったが、17年応召、サハリンで敗戦、シベリアに抑留され24年復員。理研に復帰し翌年「元素の微量分光分析」 で理学博士。27年東京国立文化財研究所保存科学部に入り、物理研究室長、保存科学部長を務め50年退職。この間、コバルト60を用いたγ線照射による金 属製彫像の調査、X線による木像文化財調査などで鎌倉大仏、中尊寺の修理に指導的役割を果たした。また無紫外線蛍光燈、密閉梱包内湿度調節の開発で、美術 館、博物館の施設、展示、文化財輸送に大きく貢献した。主著に「基準スペクトル表」「古美術保存の知識」など
(87.8現在)
 
道鏡
どうきょう
(専門)僧侶
(生年月日)生年不詳
(没年月日)772(亀宝 3)
(来歴)奈良末期の法相宗(ホッソウシュウ)の僧。弓削(ユゲ)連氏。河内国若江郡弓削郷(現:八尾市弓削町)の人。良弁(ロウベン)の弟子。 762(天平宝字 6)孝謙上皇(女帝)の病気を治療し、天皇の寵愛を受ける。淳仁天皇は藤原仲麻呂(恵美押勝<エミノオシカツ>)の意を受けて上皇に道鏡のことで忠告するが、上皇は立腹して法華寺に入り出家する。この結果、仲麻呂は権力を失い、道鏡が台頭する。 764(天平宝字 8. 9.11)藤原仲麻呂の乱で、仲麻呂は敗死し、淳仁天皇が廃されて淡路島へ流される。同年 9.20、道鏡は大臣禅師となる。 765(天平神護元.閏10.)上皇は称徳天皇として再び即位(重祚<チョウソ>)、道鏡は太政大臣禅師に任ぜられる。翌年10月更に法王の位を得て専横を極め、のち 769(神護景雲 3)宇佐八幡の神職習宜阿曾麻呂(スゲノアソマロ)と結び神託と称して皇位を窺ったが、和気清麻呂(ワケノキヨマロ)らによって妨害される。 770(神護景雲 4. 8. 4)天皇が崩御。同年八月、下野国(栃木県)薬師寺別当に左遷。配所で没し、葬儀は庶人扱い。
 
道元
どうげん
(専門)僧侶
(生年月日)1200(正治 2
. 1.19
(没年月日)1253(建長 5
. 8.28
(来歴)鎌倉初期の禅僧。日本曹洞宗(ソウトウシュウ)の開祖。号は希玄(キゲン)、孝明天皇から仏性伝東国師・明治天皇から承陽(ジョウヨウ)大師の勅 諡号を受ける。内大臣源(久我)通親の子、母は太政大臣藤原基房の娘。京都木幡(コバタ)の松殿山荘生れ。1212(建暦 2)養父で伯父の藤原師家の制止を振り切り、比叡山の叔父良顕を訪ねる。翌年出家し、仏法房道元と名乗り、天台宗を修める。1217(建保 5)建仁寺に赴き、栄西の弟子全明(ゼンミョウ)に師事。1223(貞応 2)全明とともに入宋、曹洞宗天童山で如浄より印可を受ける。1227年帰国。建仁寺で著作と学問に専心するが、1230(寛喜 2)ころ寺を追われる。京都深草に興聖寺を開き法を弘める。比叡山の圧力を避け、波多野義重の招きで1243(寛元元. 7.)波多野氏の所領の越前志比荘に移り、1244(寛元 2)大仏寺に入り、1246(寛元 4)大仏寺を永平寺(エイヘイジ)と改め、僧名も希玄に改名。のち1247年、北条時頼に請われて鎌倉に行くが、寺院建立を辞して越前に帰る。京都の宿で 病死。『正法眼蔵(ショウボウゲンゾウ)』を著す。道元忌(曹洞宗開山忌)( 8.25)。
 
道深
どうしん
(専門)僧侶
(生年月日)生年不詳
(没年月日)没年不詳
(来歴)百済の僧侶。『日本書紀』によれば、 554(欽明15. 2.)に百済から曇慧(ドンエ)ら9人が来朝、前に渡来していた道深ら7人と交代したという。
 
土岐 善麿
とき ぜんまろ
(専門)国文学者
(生年月日)1885. 6. 8(明治18)
(没年月日)1980.4.15(昭和55)
(出身地)東京
(来歴)歌人・随筆家・国文学者。本名は善麿、筆名は試作時代は湖友のち哀果(アイカ)、1918(大正 7)以降は善麿。東京市台東区松清町の真宗大谷派等光寺に次男として生れる。府立第一中学校を経て、1908(明治41)早稲田大学英文科卒業。1918(大正 7)東京朝日新聞社に入社。1926年、都立日比谷図書館長。
 
徳富 蘇峰(徳冨 蘇峰)
とくとみ そほう
(専門)評論家
(生年月日)1863(文久 3
.1.25
(没年月日)1957.11.2(昭和32)
(出身地)熊本県
(来歴)評論家・政治評論家・史論家。本名は猪一郎(イイチロウ)、号は蘇峰・蘇峯・蘇峰学人・大江逸・大江逸郎。肥後国(熊本県)益城(マシキ)郡杉堂 村の母の実家に生れる。徳富蘆花(ロカ)の実兄、横井小楠(ショウナン)の後妻津世子(母久子の妹)の甥、矢島楫子(カジコ)の甥、横井時雄・海老名弾正 (エビナ ダンジョウ)の従兄弟。熊本洋学校を経て、同志社中退。1887(明治20)民友社をおこし「国民之友」を発刊。1911(明治44)貴族院議員に勅選せ られる。太平洋戦争では帝国主義の宣揚に努めたとして、戦後戦犯甲の罪に問われたが無罪になったが公職追放。
 
戸坂 潤
とさか じゅん
(専門)哲学
(生年月日)1900. 9.27(明治33)
(没年月日)1945.8.9(昭和20)
(出身地)東京
(来歴)哲学者・評論家。京都大学哲学科卒業(数理哲学専攻)。1932.11.(昭和 7)岡邦雄と唯物論研究会を創立、月刊「唯物論研究」を発刊。日中戦開始直後の1937(昭和12)左翼思想の持ち主として内務省より執筆を禁止され、 1944(昭和19)下獄、栄養失調などにより長野刑務所で獄死。著書:『科学論』、『技術の哲学』、『日本イデオロギー論』など。
 

百橋 明穂
どのはし あきお
(現職)神戸大学大学院文化学研究科教授
(専門)日本・東洋古代中世美術史
(生年月日)昭和23年5月
(出身地)県
(学歴) 東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(昭和49年) 文学博士
(興味)
(受賞)
(来歴)1974年奈良国立文化財研究所、奈良国立博物館を経て、1981年神戸大学文学部助教授。1985年大学院文化学研究科担当、1995年教授
(主な著作) 『仏教美術史論』(2000、中央公論美術出版)、『飛鳥・奈良絵画』(1983、至文堂)、『世界美術大全集東洋編4隋唐』(1997,小学館)「キトラ古墳の四神図ー朱雀の出現ー」(仏教芸術258、2001)
(所属団体)美術史学会 、 密教図像画会 、 仏教芸術学会 、 東方学会 、 建築史学会 、 文化財保存修復学会 、 古文化財科学研究会
(08.11現在)

冨岡 大二
とみおか だいじ
(現職)古陶磁評論家
(専門)東洋美術史(とくに中国、朝鮮、日本の古代史)
(生年月日)昭和4年2月6日
(出身地)愛媛県松山市
(学歴)寝屋川工業専門学校(昭和20年)中退
(興味)近世初頭の豪商有来新兵衛論(桃山陶芸界のリーダーとしての)
(来歴)昭和22年より美術品の蒐集を始める。各地古窯址の調査と作陶実験を行い、陶磁史の研究に専念。著書に「備前古窯集成」「古陶磁みかたのコツ」他
(所属団体)日本陶磁協会、東洋陶磁学会
(88.8現在)
 
富永 次郎
とみなが じろう
(専門)評論家
(生年月日)1939(明治42)
(没年月日)1969.7.14(昭和44)
(来歴)美術評論家。富永太郎の弟。
 
富本 憲吉
とみもと けんきち
(専門)工芸家
(生年月日)1886. 6. 5(明治19)
(没年月日)1963.6.8(昭和38)
(来歴)工芸家。
 
友松 円諦
ともまつ えんたい
(専門)仏教学者
(生年月日)1895. 4. 1(明治28)
(没年月日)1973.11.16(昭和48)
(出身地)愛知県
(来歴)大正・昭和期の仏教学者。名古屋出身。慶応義塾大学卒業。慶応義塾大学・大正大学教授。
 
土門 拳
どもん けん
(専門)写真家
(生年月日)1909(明治42)
(没年月日)1990(平成 2)
(来歴)昭和期の写真家。山形県生れ。日本大学中退。
 
曇恵(曇慧)
どんえ
(専門)僧侶
(生年月日)生年不詳
(没年月日)没年不詳
(来歴)百済の僧侶。『日本書紀』によれば、 554(欽明15. 2.)に百済から曇慧ら9人が来朝、前に渡来していた道深(ドウシン)ら7人と交代したという。
 
曇照
どんしょう
(専門)僧侶
(生年月日)1187(文治 3)
(没年月日)1259(正嘉 3
.2.21
(来歴)鎌倉中期の僧侶(律宗)。名は浄業、字は法忍、号は曇照。1214(建保 2)宋に渡り、鉄翁守一から律を学び、1228(安貞 2)帰朝。戒光寺を建立。1233年、再び入宋、1241(仁治 2)帰朝。
 
曇徴
どんちょう
(専門)僧侶
(生年月日)生年不詳
(没年月日)没年不詳
(来歴)飛鳥時代の高麗(高句麗)の帰化僧。 610(推古18)高麗王の命により来朝。五経に通じ、彩色画が得意で、紙・墨・碾磑(ミズウス)を伝えたとされる。

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