文化財人名事典(ら行)

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蘭溪 道隆
らんけい どうりゅう
(専門)僧侶
(生年月日)1213
(没年月日)1278
(来歴)鎌倉時代の宋僧(臨済宗)。諡号は大覚禅師。1246(寛元 4)来日。筑前円覚寺・京都泉涌寺(センニュウジ)の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。1253(建長 5)北条時頼によって建長寺が創建されると招かれて開山となる。のち京都建仁寺(ケンニンジ)に住したが、再び建長寺に帰り同寺で没した。
 
隆光
りゅうこう
(専門)僧侶
(生年月日)1649(慶安 2)
(没年月日)1724(享保 9)
(来歴)江戸中期の新義真言宗の僧。大和の人。第5代将軍徳川綱吉とその生母桂昌院の帰依を得る。1688年、江戸神田橋外の護持院を開山。のち大僧正・僧録司(ソウロクシ)。生類憐みの令を進言したといわれている。
 
良寛
りょうかん
(専門)僧侶
(生年月日)1758(宝暦 8)
(没年月日)1831(天保 2
.1.6
(来歴)江戸後期の禅僧・歌人・書家。本名は山本栄蔵・文孝、字は曲(マガリ)、出家して良寛、号は大愚。越後国(新潟県)出雲崎(イズモザキ)の名主 (ナヌシ)兼神職の家に長男として生れる。1779(安永 8)22歳のとき跡継ぎを弟に譲り出家。同年、備中国(岡山県)玉島の曹洞宗円通寺の住職・国仙和尚の巡錫(ジュンシャク)にあい師事して玉島におもむき 十余年修業。九州・四国地方を行脚(アンギャ)しのち出雲崎に帰って付近の寺々に転住、1804(文化元)47歳のときに国上山(クガミヤマ)中腹の五合 庵に定住。1816(文化13)59歳のとき体力の衰えのため山麓の乙子(オトゴ)神社境内の庵に移住。1826(文政 9)69歳のとき島崎の木村元右衛門の邸内に移住、29歳の貞心尼を弟子とする。万葉調の和歌で知られる。著書『蓮(ハチス)の露』・『僧良寛歌集』・ 『良寛漢詩集』など。良寛忌(旧暦 1. 6)。
 
良源
りょうげん
(専門)僧侶
(生年月日)912(延喜12)
(没年月日)985(永観 3
.1.3
(来歴)平安中期の天台宗の高僧・天台宗中興の祖。名は良源、元三(ガンサン)大師・慈恵(ジエ)大師とも呼ばれる。近江の人。 966(康保 3)天台座主(ザス)、さらに行基以来の大僧正となる。焼失した延暦寺を復興。源信(ゲンシン)の師。僧兵を始めた人物といわれる。
 
良忍
りょうにん
(専門)僧侶
(生年月日)1073(延久 5)
(没年月日)1132
(来歴)平安後期の僧・融通念仏宗の開祖。尾張の人。摂津住吉に大念仏寺を建立し、根本道場とした。
 
冷泉 勝彦
れいぜい かつひこ
(現職)大手前女子大学助教授
(専門)日本美術史
(生年月日)昭和19年3月2日
(出身地)兵庫県 旧姓(名)=松尾
(学歴)関西学院大学文学部(昭和43年)卒、関西学院大学大学院文学研究科(昭和48年)博士課程修了
(来歴)昭和53年大手前女子大専任講師となり、58年助教授に就任。冷泉家24代当主為任氏の長女・貴実子さんと結婚して冷泉の籍に入り、同家の古文書・時雨亭文庫の管理にたずさわる。著書に「京都の意匠」「近世大阪画壇など」
(所属団体)美学会、美術史学会
(87.7現在)
 
蓮如
れんにょ
(専門)僧侶
(生年月日)1415(応永22
.2.25
(没年月日)1499(明応 8
.3.25
(来歴)室町中期の浄土真宗の僧。真宗中興の祖。童名は布袋丸、諱(イミナ)は兼寿、諡号(シゴウ)は慧燈大師(明治15年)。京都東山大谷の生れ。本願 寺第七代存如(ゾンニョ)の長男、母は祖父巧如の下女、実如の父。17歳で広橋兼郷の猶子となり、天台宗青蓮院(ショウレンイン)で得度し尊応に学ぶ。父 の伴をして親鸞の遺跡を迎拝する。1457(康正 3. 6.18)父が死去し本願寺第八代となる。1465(寛正 6. 1. 9)比叡山延暦寺の衆徒の襲撃に遭い(寛正の法難)、京都東山大谷の御影堂を追われ近江に逃れる。1471(文明 3. 7.)越前(福井県)吉崎に赴き、御坊を建てる。1474(文明 6)吉崎坊舎が焼失、1475(文明 7)吉崎を退去し、河内出口に至る。1480(文明12)京都山科に本願寺御影堂を上棟、1481(文明13)山科本願寺阿弥陀堂を上棟。1483(文明 15. 8.)天台宗から独立。1489年、世代を第8子5男の実如に譲る。1496(明応 5)大坂に石山本願寺を建立し翌年11月完成。山科本願寺で死去。『正信偈(ショウシンゲ)』・『三帖和讃』・『御文(オフミ)』などを刊行、平易な文章 と耳に入りやすい言葉で宗義を説いた。『領解文(リョウゲモン)』などを著す。蓮如忌( 3.25)。
 
良弁(朗弁)
ろうべん
(専門)僧侶
(生年月日)689(朱鳥 3)
(没年月日)773(宝亀 3
.11.24
(来歴)奈良時代の僧侶(華厳宗)。俗姓は百済氏、通称は金鐘(コンシュ)行者・金鷲菩薩、「りょうべん」とも。日本華厳(ケゴン)宗の第二祖。伝説では 二歳のときに母と桑畑にいて大鷲にさらわれ、大和の春日大社の前の杉(良弁杉)に捨てられた。義淵(ギエン)に救われ、法相宗(ホッソウシュウ)を学ぶ。 のち奈良東山に隠棲(インセイ)し、 733(天平 5)金鐘寺を建立、聖武天皇より羂索院(ケンジャクイン)(三月堂)を賜る。 740(天平12)新羅僧審祥(シンショウ)(華厳宗の開祖)を招き華厳を学び、華厳経を講説。聖武天皇の東大寺建立に尽力し、初代は別当となり、 760(天平宝字 4)僧正に任じられた。 749〜 757頃、近江(オウミ)(滋賀県大津市石山)に石山寺を開基。
 
六角 紫水
ろっかく しすい
(専門)工芸家
(生年月日)1867(慶応 3
.8.20
(没年月日)1950.4.15(昭和25)
(出身地)広島県
(来歴)明治〜昭和期の漆芸家。本名は注多良。1893(明治26)東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。母校の助教授となる。1904(明治37)岡 倉天心とともに渡米、ボストン博物館東洋部に勤め、1908(明治41)ヨーロッパを経て帰国。日本美術院会員・東京美術学校教授・芸術院会員。楽浪漆器 など古代の漆技を研究し、白漆を完成。

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