秘仏

絶対的秘仏と御開帳

信仰上の理由から厨子に納め、固く扉を閉ざして人に見せることのない仏像を秘仏とよんでいる。これには将来に亘っても絶対に人に見せることのない絶対的秘仏と、一年毎、三年目、七年目あるいは三十三年目、五十年目に開扉(かいちよう)、いわゆる御開帳によって人目にふれる秘仏がある。御開帳は、開扉(かいひ)、啓籠(けいがん)ともよばれ、経済上の理由から寄進を集めるため、江戸などの繁華街で開扉された出開帳(でがいちよう)もある。
絶対的秘仏としては、長野善光寺本尊や東大寺二月堂本尊、東京浅草寺本尊などがある。年月を定めて開帳する秘仏としては、東大寺三月堂執金剛神像や大阪観心寺如意輪観音像、滋賀石山寺本尊如意輪観音像、岐阜谷波山華厳寺本尊などが知られている。こうしたふだんは人目にふれることのない秘仏の場合、その厨子の前に秘仏を模刻したと思われる身代りの像が安置されることがあり、これをお前立(おまえだち)とよんでいる。善光寺の場合は、本来の本尊は百済より伝来した釈迦三尊像といわれる絶対的秘仏であるが、そのお前立もまた平素は秘仏とされ、お前立の御開帳が盛大に行われている。
さて、こうした秘仏が初めて人の目に触れたとき、その秘仏が素晴しい仏像であることがある。明治十七年に、数百年の禁を破って開扉された法隆寺夢殿救世観音の話はあまりにも有名である。明治政府の委嘱を受け、日本の古文化財調査にあたっていたフェノロサは、寺僧の反対にあって夢殿の大厨子を開扉できなかった。しかしあきらめず、最後には政府の命令書をもって強引に開扉させたところ、中からは木綿を幾重にも巻きつけた仏像が現れた。恐れおののく寺僧を尻目に木綿をとると、中から金色燦然と輝く仏像が現れた。この観音こそ、飛鳥時代の代表的傑作として知られる救世観音ある。今でも損傷が少く、当初の金箔や彩色をそのまま残しており、絶対的秘仏として、長い間密封状態で保存されてきたものであろう。
こうした秘仏の風習が始まったのは、八、九世紀のころと考えられている。十三世紀の法隆寺住僧顕真は、その著作『聖徳太子伝私記』の中で、夢殿の救世観音がどのような姿をしているのか、今も昔もわからないということを記している。また不空訳『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経(しちぐていぶつもしょせつじゅんていだらにきょう)』、善無畏訳『虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)』などの経典は、八・九世紀のころに日本へもたらされたが、この経の中には、像を秘密に供養し、清浄な布などによって覆い隠し、人には見せないようにすることを記している。これらを考え合わせると、秘仏の風習が八、九世紀に起ったと考えられる。また秘仏は、ほとんどが信仰上の理由、霊験あらたかな像であるがために秘仏とされるが、鎌倉時代に現われた地蔵菩薩像や弁財天像のように、裸形像であるがために秘仏とすることもある。あるいは聖天(しょうてん)像のように男女合体像であるため、本来の神秘性が曲げられ、淫靡に見られることを避けて秘仏とされることもある。そのほか、仏尊が損傷したため秘仏とすることなどもある。しかし近年の文化財保護政策の発達や、寺を初めとする管理者の文化財保護に対する理解と情熱から、秘仏、とくに絶対的秘仏は少なくなっている。また御開帳の年をきめた秘仏も、その回数を増している傾向にある。

 

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