呉音と漢音(仏教用語の読み方)

 仏教美術の用語の読み方は、日常使う言葉とは異なることがあり難しい。

 例えば、月光、文書、食堂、彩色、選択、変化、利益などは、仏教用語では、がっこう、もんじょ、じきどう、さいしき、せんじゃく、へんげ、りやくと読み、日常の読み方で読むと、なんと常識のないということになってしまう。

 奈良法隆寺に行った時の事、お昼は、法隆寺の中に食堂があるから、そこで昼食を食べようと言われ、行ってみると国宝の食堂(じきどう)があったという、笑えない実話があった。

 本来、中国語は、漢字一字に対し、読み方は一通りだが、このように音読みに対しても複数の読み方があるのには、歴史的な背景がある。

 中国では、3世紀、魏、呉、蜀の三国時代、呉の国は江南にあって、建業(今の南京)を首都として江南一帯を統治しており、この地方一帯を「呉」の地と呼んでいた。その後の南北朝時代に入っても、南朝は晋、宋、斉といずれも建康(建業を改名)を首都として漢文化を伝えていた。

 日本に最初に漢字を伝えたのは、百済であるが、百済は朝鮮半島の南西部の黄海に面しており、中国との交流は、もっぱら当時の文化の中心であった南朝と盛んに行っており、百済の漢字音も、この地域の言語「呉音」をもとにしていた。日本には、6世紀に百済から仏教が伝来したが、当然漢訳の教典も「呉音」によって読み下していた。

 しかしながら、7,8世紀に入ると、北方の五胡十六国の内鮮卑族から出た北朝(北魏、北周)が、隋ついで唐を建国して中国を統一したため、本来の漢民族は南に追いやられてしまった。北朝の字音は、南朝の「呉音」に対し、「漢音」と名づけられる。

 隋、唐による中国統一後は、日本も、統一王朝である隋、唐に、多くの留学生や留学僧を遣隋使や遣唐使として送り、大唐の文化を受け入れようになり、793年、桓武天皇は遣唐使らの進言を入れて、今までの呉音を改め、北方の漢音を正式の字音とするように勅命を下した。それ以来、今日まで漢文はもとより、公式の用語は漢音で読まれることになった。しかし、当時、社会的に力のあった僧侶達は呉音に慣れ親しんでいたため漢音の使用に反発し、漢音は完全に呉音に取って替わることができなかった。このため、日常生活に定着している字音や、寺院などでは、「呉音」が生き続けて来たのである。

 結局、江戸時代の後期には次のように使い分けられていた。

   儒教     − 漢音

   仏教     − 呉音

   和歌・国学  − 呉音

   詩文雑書   − 漢音・呉音

 字音には、この他、宋代(10〜13世紀)以降、禅宗や貿易によって移入された新しい南方音である、唐音(宋音とも呼ばれる)もある。

 そして「この3つの音の変化の顕著な例として、「明」と「行」という文字が挙げられる。

文字
呉音
漢音
唐音
ミョウ
メイ
ミン
明星、灯明
明暗、黎明
明朝体
ギョウ
コウ
アン
行事、苦行
行動、励行
行脚

 

 呉音と漢音が異なる熟語としては下記が挙げられる。

熟語
呉音
漢音
選択
せんじゃく
せんたく
月光
がっこう
げっこう
日光
じっこう
にっこう
彩色
さいしき
さいしょく
しき
しょく
食堂
じきどう
しょくどう
羂索
けんじゃく
けんさく
境内
けいだい
けいない
利益
りやく
りえき
自然
じねん
しぜん
変化
へんげ
へんか
光明
こうみょう
こうめい
明星
みょうじょう
めいせい
救世
ぐぜ
きゅうせい
礼拝
らいはい
れいはい
上品
じょうぼん
じょうひん
下品
げぼん
げひん

 呉音と漢音が異なる漢字としては下記が挙げられる。

漢字
呉音
よみ
漢音
よみ
建立
こんりゅう
建築
けんちく
荘厳
そうごん
威厳
いげん
祇園
ぎおん
公園
こうえん
兄弟
きょうだい
師弟
してい
体育
たいいく
体裁
ていさい
新米
しんまい
渡米
とべい
上陸
じょうりく
上人
しょうにん
下品
げぼん
下流
かりゅう
人間
にんげん
時間
じかん
解熱
げねつ
解釈
かいしゃく
外科
げか
外国
がいこく
境内
けいだい
内地
ないち
象牙
ぞうげ
毒牙
どくが
黄金
おうごん
砂金
さきん
騒音
そうおん
母音
ぼいん
近藤
こんどう
近代
きんだい
九品
くほん
品位
ひんい
作務衣
さむえ
着衣
ちゃくい
戯作
ぎきょく
遊戯
ゆうぎ
毒気
どくけ
空気
くうき
大地
だいち
大会
たいかい
土星
どせい
土地
とち
天女
てんにょ
女性
じょせい
忿怒
ふんぬ
激怒
げきど
縁日
えんにち
休日
きゅうじつ
功徳
くどく
功績
こうせき
怨霊
おんりょう
幽霊
ゆうれい
延暦寺
えんりゃくじ
還暦
かんれき
 上人(しょうにん)は、仏教用語を漢音で読む数少ない例である。

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