特選情報(2006年)


● 中国・河南省に、中国文字博物館を建設(2006年12月30日)
 中国・河南省安陽市に中国文字博物館が2008年末に正式にオープンすることになった。
 中国文字博物館は、古代の漢字や符号の展示を通して、中華文明と中国の言語・文字に関する研究成果を紹介するための専門的な博物館で、総面積3万3000平方m。
 河南省安陽市はこれまでに、商や周の時代のものとみられる、文字が刻まれている甲骨や、金、陶磁、玉などが数多く出土したことから、中国古代文字の発祥地と呼ばれている。

● 高松塚古墳の発掘の第1段階終了(2006年12月28日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、石室解体に向けて発掘が進められ、石室の上方70cmまで盛り上がった白色層を残して発掘の第1段階の作業を終えた。
 同古墳は、土を何層も薄く突き固める版築工法で築かれており、最後の白色層には白い長石が使われて他の層の2倍以上の硬さがあるという。
 造営時は白色層まで突き固めた段階で石室内に壁画を描き、納棺したと考えられている。
 発掘は来年1月に墳丘上に空調設備の整った断熱覆い屋を建設、2月ごろに第2段階として石室を露出させる予定。
 今回の発掘で墳丘から過去の地震でできたとみられる多数のひび割れが見つかり、調査や保存用の型取り作業に時間がかかったため、石室解体は当初の予定より約2週間遅れの3月下旬から始めることになった。
 3月下旬〜5月中旬に、天井石や壁画の描かれた壁石をクレーンで順次つり上げ解体し、その後床石に着手し、作業終了は6月中旬にずれ込むという。

● 京都市上京区で平安京の大極殿の緑釉瓦出土(2006年12月26日)
 京都市上京区千本通で平安京の大極殿の屋根を飾っていたとみられる大量の緑釉瓦が出土した。
 大極殿の東南隅にあたると推定される箇所を調査した結果、大量の瓦が江戸時代のごみ穴に埋められていたのが見つかった。
 瓦は唐草文などが刻まれた軒平瓦や丸瓦、棟に積み上げられた熨斗(のし)瓦のほか、棟の両端を飾ったとみられる鴟尾(しび)や鬼瓦の破片もあった。鴟尾と鬼瓦には褐色の彩色もみられることから、唐三彩の影響を受けた三彩瓦とみられる。
文様の形などから平安時代前期の瓦とみられ、当時政務の中心だった建物の壮麗な姿をうかがわせる。

● 大安寺・東塔跡で石敷参道発掘(2006年12月22日)
 奈良市東九条町の大安寺東塔跡で石敷きの参道が見つかった。
 石敷きは東塔跡の南側で長さ約14m、幅約0.6mが見つかり、幅を確認するため調査区を広げたところ、巾約80cmであることがわかった。
 しかし、正式な参道としては七重の東塔に対してバランスが悪く、装飾的な参道の可能性もあるという。

● 愛知県蒲郡市の永向寺で愛染明王像戻る(2006年12月21日)
    愛知県蒲郡市丸山町の永向寺で、解体修理を行っていた県指定文化財「木造愛染明王坐像」が1年2カ月ぶりに戻された。   
 愛染明王坐像は、像高121cmのヒノキの寄木造で、鎌倉末期から南北朝にかけて制作になる。鮮やかに彩色されていることから、繊維産地として発展してきた同市では、染色業者の参拝が多かったという。

● 平城宮跡大極殿復に27億円(2006年12月21日)
 政府予算の財務省原案で、奈良市の平城宮跡で進められている大極殿の復元関連事業費が盛り込まれた。
 大極殿の復元関連事業費は、27億8800万で、「平城遷都1300年記念事業」開催の2010年までの完成を目指しており、2007年度は木材購入や塗装工事などが実施される。
 また、史跡関連ではほかに高松塚古墳壁画の保存・活用費に2億5600万、キトラ古墳の保存修理費などに1億1700万がそれぞれ認められた。

● 北野天満宮鬼神像公開検討(2006年12月20日)
 京都市上京区の北野天満宮で、2002年に発見され今年6月に重要文化財に指定された木造鬼神像13体の一般公開を検討している。
 鬼神像は、菅原道真公の没後1100年を記念した2002年の大萬燈祭の折り、屋根の修復事業が行われた本殿の内陣から4つの唐櫃に分けて発見され、高さ60〜71cmで平安時代中頃の制作とみられる。
 いずれも憤怒の表情をし、ずきんのようなものをかぶったり、片手や片足を上げたりしている。これらの像は「ふなどのかみ」「ちまたのかみ」と呼ばれ、平安京の辻々に置かれ、邪気を払ったといわれるが、これほどまとまって見つかった例はないという。
 現在は修理が行われており、公開は早くても作業の終わる2008年秋以降になる。

● 東大寺長老が「誰も知らない東大寺」を出版(2006年12月20日)
 奈良市雑司町の東大寺の筒井寛秀長老が、東大寺にまつわる裏話をまとめた「誰も知らない東大寺」(小学館発行)を出版した。
 筒井長老は、祖父から三代にわたって別当(住職)を務め、昭和28年から同41年まで、鎌倉時代に大仏殿を再建した重源上人が復興事業で歩いた足跡を、父英俊さんらと踏査した。重源上人や二月堂のお水取りなど、東大寺にまつわる裏話をまとめたという。

● 袋井市の可睡斎で奥の院、全焼(2006年12月18日)
 静岡県袋井市久能の秋葉総本殿可睡斎の奥の院から火が出て木造平屋建の建物92平方mを全焼し、建物内にあった不動明王像、仏具一式を焼失した。
 奥の院に出火当時、奥の院に人はおらず、普段非公開で鍵がかかっていたという。
 可垂斎の付近では11月にビニールハウスや枯れ草を焼く3件の不審火があり、修行僧が境内の見回りを行うなど警戒を強化していた。
 同寺は応永8年(1401)開創。奥の院は明治6年(1873)に静岡市の秋葉山秋葉寺から遷座された秋葉三尺坊大権現のご神体ともに龍頭山から移転し、大正2年に再建された。

● 中国・楽山大仏、劣化進む(2006年12月15日)
中国四川省の楽山大仏が、著しい劣化に襲われている。
 楽山大仏は唐代の713〜803年にかけて、四川省楽山市の崖を刳り抜いて建立された高さ71mの弥勒坐像。1996年に四大仏教名山の一つ峨眉山と共に世界遺産に登録された。
 近年、全身のあちこちに亀裂が走り、くぼみや穴が多く見られ、顔には上下に黒い線が染みつき、鼻は黒く染まり、体部も岩がはげ落ちる現象が起こっている。
  大仏を形造る砂岩には炭酸カルシウムの量が多いうえ鉄分も含まれており、長年の風化に加え、経済発展に伴って深刻化している酸性雨により化学反応を起こし てカルシウムが溶け、強度が落ちて剥落しやすくなってきているという。また、剥落個所に粉塵などの汚れが付着し、さらに鉄分も溶け出し、汚れが付着して黒 ずんだらしい。
 地元の管理部門は劣化状況の実態調査を始め、保護対策を強める意向だ。

● 奈良・大安寺で東塔の基壇跡発掘(2006年12月15日)
 奈良市の大安寺旧境内で、東塔の大規模な基壇跡が見つかった。
 東塔の基壇跡は西塔跡の東約130mにあり、周囲を取り囲む石の跡から南北方向の長さは約21mで、西塔の基壇の一辺と同じ長さだった。
 基壇の北、南、西の3カ所に階段の跡があり、一番下の段に当たる凝灰岩の石が残っていた。
 東塔の基壇跡は、既に発掘が済み高さ約70mの七重の塔だったと推測される西塔の基壇と同規模で、東塔が七重だったとする平安時代の文献が裏付けられたとしている。
 また、基壇の南側では、地表から十数cmに鎌倉時代の瓦を多く含む土の層があり、永仁4(1296)年に東塔が雷で焼失したとの文献の記述に合うという。

● キトラ古墳で寅の剥ぎ取りに成功(2006年12月15日)
 明日香村阿部山のキトラ古墳で、東壁に描かれた十二支像「寅」の剥ぎ取りに成功した。
 寅は今年1月にヘラで剥ぎ取る予定だったが、厚さ3〜4mmの漆喰が石壁に固着しており、へらでは損傷する恐れがあったため作業を中断していた。
 東京文化財研究所では新たにダイヤモンド粒子を付着させた直径0.3mmのワイヤーを高速で動かして切る電動糸のこ装置「ダイヤモンドワイヤー・ソー」を開発し、これを使って縦約17cm、横約13cmの大きさで寅を約40分かけて剥ぎ取った。
 四神のうち最後まで石室に残る南壁の「朱雀」(縦22cm、横47cm)も来年2月新装置を用いて取り外す予定だが、極細のワイヤは、長くなればなるほどたわみやすく、漆喰を壊す可能性があるため、慎重な作業が必要となるという。

● 奈良1300年祭主会場発泡スチロールで保護(2006年12月14日)
    奈良県や関西経済連合会などが2010年開催をめざすテーマ博「平城遷都1300年記念事業(奈良1300年祭)」で、パビリオンなどを建設する主会場の平城宮跡を盛り土や発泡スチロールなどで覆う計画が進んでいる。
 盛り土が必要なのはパビリオンの建設予定地など、平城宮跡会場のほぼ3分の1にあたる10ヘクタール弱で、数十センチの厚さで土砂を盛るほか、特に地盤が軟弱な場所には、緩衝材として厚さ30cmの発泡スチロールを並べた上に板を載せ舗装するという。
 文化庁は盛り土で景観と埋蔵文化財を保護できるのであれば許可できるとしている。
 しかし、考古学者など専門家の間では、埋蔵文化財の損傷リスクを冒してまで世界遺産にパビリオンを建てる必然性が理解できないと批判する声が上がっている。

● 韓国の国宝文書、HPで一般公開開始(2006年12月14日)
 韓国の文化財庁は、国宝などに指定された古典籍や、一般人の閲覧が事実上不可能だった古典籍や文献の原文をなど、国家記録遺産ホームページ(htp://www.memorykorea.go.kr)でPDFで公開する。
  国または地方が典籍文化財に指定した古典籍・古文書など、国宝51件、宝物(日本の重要文化財に相当)565件、重要民俗資料(日本の重要有形民俗文化財 に相当)10件、市道(地方)有形文化財271件などを含む1,033件の古典籍や文献の原文をPDFで閲覧できるのはもちろん、キーワード検索すること も出来る。
 また、草書体などの難しい漢字を楷書体で入力した原文情報や史料の解説を盛り込んだ解題も掲載されている。

● 韓国の文化技術でデジタルアンコール・ワット復元(2006年12月13日)
 韓国の文化技術を使ってカンボジアのアンコール・ワット遺跡が3次元デジタル映像で復元された。
 アンコール・ワットは12世紀中盤に建立されたヒンズー教の寺院で、高さ65mの中央塔を中心に構成された東西1500m、南北1300mの雄大壮厳な石造建物である。
 長い間密林の奥深くに埋もれていたことに加え、カンボジア内乱中に破壊された箇所も多く、現在日本、ドイツ、フランス、中国などで損壊された部分を修復しているが、遺跡全体がデジタルで蘇るのは初めてという。
 アンコール・ワットの現場で3次元スキャナで多くの彫像の形態を取り、遺跡地全体を3万枚の写真で再構成した。
 デジタルアンコール・ワット(angkorwat.culturecontent.com)は来月中旬、正式公開される。

● 平城宮東院地区未調査東側に中枢施設か(2006年12月8日)
 奈良市法華寺町の平城宮東院地区で、中枢施設を区画するとみられる塀跡や建物跡が見つかった。
 東院は即位前の聖武天皇が過ごし、奈良時代後半には称徳天皇の玉殿や光仁天皇の楊梅宮が設けられたとされるが、造営当初は西半分を一体的に利用して、後半は東西に二分する掘っ立て柱塀が設けられ、東院全体を四等分した可能性が強いという。
 今までに発掘された遺構は5期に分けられ、2期までが奈良時代前半、後半の3期以降は聖武天皇が平城京に都を戻した745年以降の施設とみられが、いずれも東院の中軸線から西側にあたっており、中枢施設は未調査の東側に眠る可能性が強まった。

● 青森で平安期仏像の腕など出土(2006年12月9日)
 青森市の新田(1)遺跡で、平安時代中期から晩期の井戸跡から、木製の仏像の腕の一部や、古代の「駅」との関連を想起させる「笠蓑竿」の文字が書かれた曲げ物などが出土した。
 発掘された仏像の手は、長さ約13.6cm、直径約4cmで、制作途中のものだったとみられ、土師(はじ)器などとともに出土した。
 同遺跡からはこれまでにも、十一世紀以前のものとみられる仏像が一体発掘されており、当時、国家の支配が及んでいた地域で信仰されていた仏教が、中央から伝わっていた可能性があるとみられている。
 また、曲げ物の側板に書かれていた「笠」や「蓑」は、律令制度下で街道沿いに設けられた「駅」に常備すべきものとされていた。今まで本県は古代、国家の統治が及ばない地だったとされるが、中央、国家とのつながりを思わせる遺物の出土は、研究者の注目を集めている。


● 小浜・西縄手下遺跡で若狭国府跡出土か(2006年12月9日)
 福井県小浜市太興寺の西縄手下(にしなわてしも)遺跡で、奈良時代末期から平安時代中期の層から、若狭地方を治めた国府跡と推定される遺構や出土品が見つかった。
 見つかったのは塀、柱、柵の跡などで、いずれも東西南北に規則正しく並んでいたほか、盛り土をしてその上に礎石を並べるなど、一般の集落跡とは考えにくい造りになっている。
 また、4cm四方、厚さ7mmの玉製と、横2.8cm、縦1.9cm、厚さ5mmの銅製のベルトの装飾品「巡方(じゅんぽう)」計2点や円面の硯片、和同開珎など皇朝12銭も7点見つかった。
 特に玉製の巡方は、国を治める国司クラスの役人しか持ち得ないもので、国府の可能性を裏付ける出土品として注目される。
 国府の存在を示す墨書土器等が確認されていないため、断定はできないが、遺構や出土品を見る限りその可能性は高いといえるという。


● 出雲で立て掛けの大刀出土(2006年12月9日)
 出雲市国富町の中村1号墳で、金銅板で飾られた装飾大刀が出土した。
 大刀は、長さは97cmで一部残った鞘に金銅板の飾りが付いており、玄室の東北角で柄の一部がのぞいていた状態で発掘された。
 中村1号墳は、横穴式石室を備えた古墳時代後期(6世紀後半)の豪族の墓とみられ、未盗掘だった。
太刀は家族などを追葬した際に石室角に立て掛けられたとみられ、全国でも例のないケースという。


● 鹿児島で埋蔵文化財報告書が偽造(2006年12月7日)
 鹿児島県川辺町の教育委員会が2002、2003年度に発行した埋蔵文化財発掘調査報告書3件が、町内の他の遺跡の出土品などを載せた虚偽の内容であることが分かった。
  虚偽の報告が見つかったのは川辺町の九玉・塘池上遺跡、荒田・上桑持野遺跡、津フジ遺跡の3つの報告書で、これらの報告書の一部には2000年度に発行さ れた土器薗遺跡、2002年度発行の背野平遺跡の報告書と同じ実測図などが掲載されており、過去の資料を転用していたことが発覚した。この他土器薗遺跡と 背野平遺跡の報告書も出土品の説明文などに不備があったという。
 報告書は県教委や他の市町村教委などに配るため各300部印刷することになっていたが、3件は100〜200部しか印刷しておらず、余った費用は印刷業者にプールさせていた。
 編著者の町教委職員は唯一の考古学の専門職で、89年に採用後、12件の報告書作成を担当している。町教委は残り7件についても外部の専門家に調査を依頼する予定。


● 仏像写真展 西条市で開催(2006年12月6日)
 西条市教育委員会が撮影した地元の仏像の写真や、全国の仏像を掲載したカレンダーなどを集めた仏像の写真展が、西条市周布の市立東予郷土館で12月27日まで開かれている。
 市内の仏像としては、県や市の文化財指定を受けている旧東予市内の7点が紹介され、33年に1度しか開帳されない鎌倉初期の作とみられる実報寺の地蔵菩薩像や、鎌倉中期作の特徴を示す寂光寺の阿弥陀三尊像などを取り上げている。
 全国では薬師寺の薬師如来、平等院の阿弥陀如来、東大寺の仁王など各地の著名な仏像の写真が並び、尊像の違いなどについても解説している。


● 京都府井手寺跡で僧房の柱や溝跡出土(2006年12月4日)
 京都府井手町井手の井手寺跡で、同寺跡北側から伽藍内の僧房跡とみられる礎石つきの柱跡や雨落ち溝跡などの遺構が見つかった。
 柱跡は約3m間隔で,13カ所にほぼ完全な形で約50〜60cm大の礎石が残っていた。建物は縦約6m、横約21mの規模で、出土した土師器などから僧房跡とみられる。
 雨落ち溝は幅約90cm、深さ約10〜30cmの石築で、一部は完形で出土した。溝は建物を囲むつくりで、建物北側には屋根つきの渡り廊下「軒廊(こんろう)」があったとみられ、別棟の建物があったと推定される。
 付近の瓦破片の出土量は少なく、屋根は一部に瓦を用いた桧皮葺とみられるが、平城京大極殿から出土した瓦と同じ刻印入りの瓦破片2点も新たに見つかった。
 同寺の規模は約100m四方と考えられてきたが、同寺中心部の北東約90mから遺構が見つかったことで、同寺が約200m四方を超える平城京の大寺に準ずる大規模な寺院であった可能性が高まり、当時の橘諸兄の権力の強大さがうかがえるという。


● 和歌山・岩橋千塚古墳で2つの顔の人物埴輪が初出土(2006年12月1日)
 和歌山市の国特別史跡・岩橋千塚古墳群の大日山35号墳で、前後両面に顔のある人物埴輪(はにわ)の頭部が出土した。
 昨年度の発掘調査で同古墳の西側くびれ部に張り出した「造出(つくりだし)」で破片が散乱した状態で出土した破片十数点をはり合わせて復元したところ、頭部のみで高さは約19cmの前後に顔がある人物埴輪であることがわかった。
  一方は目尻が上がり険しい表情で上唇の中央で縦に切り込みがある。もう一方は目尻が下がり、口をわずかに開けて穏やかな表情をしている。いずれも顔立ちは 鼻が高く、ほおと額に葉や矢印などの形の入れ墨らしい線が彫られ、下げ美豆良(みずら)と呼ばれる両耳へ垂らす男性の髪形をもつ。
 同古墳は、国内でも有数の岩橋千塚古墳群にあり、全長約100mと和歌山県で最大級の前方後円墳。紀伊地方の豪族・紀氏の墓とみられ、これまでにも翼を広げて飛んでいる姿の鳥や、珍しい形の冑をかぶった武人などユニークな埴輪が見つかっている。


● 青谷上寺地遺跡データベース公開( 2006年11月28日)
 鳥取県埋蔵文化財センターは、鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で出土した建築部材などのデータベースを作成し、インターネットで公開を始めた。
  同遺跡からはこれまでに弥生人の脳が発見されたほか、木製品約一万点、鉄器365点、骨角器1427点などが出土しているが、建築部材全約7000点のうち現在約470点の画像、スケッチ、詳細寸法などを公開しており、発掘場所や時期、樹種など毎に検索が出来る。
 今後随時データを追加していくほか、ほかの出土物のデータベース化も検討していくという。
 ホームページアドレスは下記の通り。
 http://db.pref.tottori.jp/aoya-iseki.nsf


● 山城町の高麗寺跡で鴟尾出土(2006年11月27日)
 京都府山城町上狛高麗(こま)寺跡境内入り口の南門跡の遺構が見つかり、門の屋根を飾った鴟尾(しび)の破片が出土した。
 高麗寺は7世紀初頭、奈良へ向かう交通の要衝を押さえていた渡来系氏族・狛(こま)氏の氏寺とされる国内最古級の寺院で、伽藍は7世紀中期に配備され、8世紀後半に改築されたとされる。
  鴟尾の破片は南門跡の東端から出土し、7世紀後半の破片3点と、改修があったとされる8世紀末の破片約30点で、最大で縦約30cm、横約60cm、表面 に赤い粘土を塗って焼いた鮮やかな仕上がりで、鴟尾の大きさは幅約90cm、奥行き約40cm、高さは1m以上と推定される。
 見つかった南門遺構は、直径約60cmの礎石と、南門に取り付く築地塀の基壇。
 高麗寺は金堂が西に、塔が東に並列する法起寺式の伽藍配置のため、金堂と塔の間に南門が位置するはずだが、発掘された南門の中心線は金堂の中心線と合致することから、金堂に付属する門である可能性が出てきた。
 7世紀初頭から8世紀後半の鴟尾は全国で約300例確認されているが、門の跡では、飛鳥寺跡、桧隈寺跡に次いで3例目という。


● 石清水八幡宮童子形神坐像4体 重文指定に(2006年11月22日)
 京都府八幡市八幡石清水八幡宮所蔵の童子形神坐像が国の重要文化財指定となったことを受け、普段は未公開のこれら宝物を公開する記念展が11月23日から26日まで、八幡宮研修センターで開かれる。
  今年6月に重要文化財の指定を受けたのは、平安−鎌倉時代の作と思われる童子形神坐像など、いずれも童子形神坐像の4体。1991年に八幡宮の校倉から発 見された8体の神像のうちの4体で、記念展では8体とも公開する。ほかに、同じく国の重要文化財指定の石清水八幡宮縁起や、「異国の剣」として奉納された 可能性がある16〜17世紀のインドネシア製のクリス剣(全長約42.2cm)など約30点を並べる。

● 恭仁宮跡から大極殿院回廊柱跡出土(2006年11月22日)
 京都府加茂町恭仁宮跡から、朝廷の正殿、大極殿を取り巻く大極殿院回廊の柱の土台跡が出土した。
 土台跡は大極殿跡の中心部の西約70mで、直径1.2〜1.5mの円形の穴4か所が見つかった。深さ約10cmで、柱を支える礎石を据え付けた穴とみられる。
  土台跡は南北一直線に4.6m間隔で均等に配置されており、平城宮の大極殿院回廊の柱の間隔と一致することがわかった。四つの土台跡の配置が平城京の大極 殿院回廊とぴったり一致し、天平15(743)年、聖武天皇が平城京の大極殿と回廊を移築させたとする続日本紀の記述が裏付けられたという。
 恭仁京は740年に平城京から遷都されたが4年で廃され、これまで大極殿や朝堂院の遺構が見つかっている。

● 清凉寺で重文級の仏像発見(2006年11月21日)
 京都市右京区嵯峨釈迦堂の清凉寺で、平安時代前期の10世紀前半の作とみられる如意輪観音像は発見された。
  佛教大アジア宗教文化情報研究所が、未指定の仏像を中心に約50体を昨年7月から1年がかりで調査した結果見つかったもので、如意輪観音像は平安前期に多 用されたのカヤ材の一木造で、一部に乾漆を使用している。顔の形や鋭い衣紋、体のくびれなどに古様であるが、穏和な表情や表現などから、10世紀前半の制 作と考えられるという。
 表面の金箔(きんぱく)や持物(じもつ)は後世の修理によるとみられるが、保存状態は極めて良いという。
 京都市右京区嵯峨広沢西裏町の同研究所で11月6日から12月2日まで開催中の特別展示「清凉寺の知られざる仏たち」で、如意輪観音像(平安時代、10世紀)の他、毘沙門天像(平安時代)、地蔵菩薩像(鎌倉時代)など6体を初公開している。

● 茨城県で如意輪観音立像など、県文に指定(2006年11月21日)
 茨城県は、那珂市福田の木造如意輪観音立像など五件を指定有形文化財とし、常陸太田市小島町の星神社古墳を指定史跡とした。
 木造如意輪観音立像は、平安時代後期(十二世紀)の制作とされ、腕が四本ある四臂の立像。如意輪観音は、通常腕が二臂か六臂で、足を崩した坐像がほとんどであり、立像としても、福岡県の如意輪寺に六臂像があるものの全国的にも貴重な例である。
このほかに有形文化財に指定されたのは、▽木造十一面観音坐像(石岡市田島)▽絹本著色聖徳太子(東海村石神外宿)▽中村彝(つね)筆の油絵「カルピスの包み紙のある静物」(県近代美術館所有)▽風返稲荷山古墳出土遺物(かすみがうら市所有)。

● 西大寺食堂院跡から木簡出土(2006年11月21日)
 奈良市西大寺本町の西大寺食堂院跡で、井戸から木簡が出土した。
  出土場所の井戸は、長さ2.47〜2.69m、幅23.5〜60cm、厚さ6.1〜12cmの大きなヒノキ板20枚を5段重ねにし両端にほぞを切って組み上げた巨大なもので、平城京では最大の井戸である。
 この板を年輪年代法で測定すると、うち3枚が西大寺造営が始まって2年目の767年に伐採された木材とわかった。
 食堂院跡からは塩を作った土器や食器なども出土しており、今回出土した木簡からも、荘園や菜園から食糧が運ばれ、それを寺内の事務局がきちんと管理していたことがうかがえるという。

● 在韓米軍、初めて文化財を返還(2006年11月20日)
 在韓米軍が保管してきた韓国の文化財が韓国側に初めて引き渡された。
  これら遺物はキャンプを閉鎖した後、大邱(テグ)の米軍部隊に保管されていた。今年8月に閉鎖された釜山(プサン)の米軍基地・ハヤリアキャンプに保管されていた文化財4点(仏像3点・碑石1点)が韓国側に引き渡された
  これまで文化財当局は、軍部隊という特殊性から、在韓米軍基地への体系的な資料調査ができずにいた。仏像などが制作された年代は不明。統一新羅(三国を統 一した676年以降の新羅)から朝鮮(チョソン、1392〜1910)時代に至るまで、学者ごとに意見が異なる。ただし制作技法や形が似ていて、同一の人 物が作ったものと推定されている。

● キトラ壁画はぎ取り再開(2006年11月16日)
 奈良県明日香村のキトラ古墳で特製カッターによる漆喰層のはぎ取りが始められた。
  キトラ古墳では、これまでヘラを使って壁画のはぎ取りが行われてきた。しかし朱雀などのしっくいが、場所によっては、厚さ約1.5mmと極めて薄く、従来 の方法では壁画を損傷する可能性があるため、ダイヤモンドの粉が付着した極細のワイヤを用いた特製カッターを開発した。
 今回は石室内に残る四神図「朱雀」と十二支図「寅」を切り外す前のカッターのテストで、寅図周辺や朱雀図の下部で行う。作業で安全性などを確認し、年内に寅図、来年2月までに朱雀図のはぎ取りに着手する予定。

● 飛鳥寺跡で講堂の礎石出土(2006年11月13日)
 奈良県明日香村の飛鳥寺跡で、講堂の土台となる礎石が出土した。
  今回出土した礎石は講堂の南西隅の4個で、花崗岩製。大きいものは長径1.2〜1.6mで土を突き固めた基壇に埋め込まれ、3.85m〜4.5m間隔でL 字形に並んでいた。上部は直径80cmの平面に加工されており、上に立つ柱は直径60〜70cmと推定され、法隆寺金堂の柱の直径(約70cm)と同規模 で、当時としては極めて大きかったことがわかる。
 飛鳥寺跡では1956〜57年の調査で東西と北端の礎石や礎石の痕跡が確認されており、今回の調査で南端が分かったことから、講堂の規模は東西35.15m、南北18.7mと確定した。
古代飛鳥の寺院では最大級の礎石。造営したと伝えられる蘇我氏の権勢の大きさが改めて裏付けられた。

● バーミヤン大仏から胎内経発見(2006年11月11日)
 バーミヤン遺跡で破壊された東西2体の大仏立像のうち、東大仏の残骸の中から6〜7世紀の文字で書かれた「胎内経」とみられる経典の一部の経文が見つかった。
  経文は破壊で崩れ落ちた大仏の残骸の中から短冊状の樺の樹皮に書かれ、仏舎利(ブッダの遺骨)に見立てたと考えられる泥玉とともに、布に包まれた状態で見 つかった。花の模様をあしらった円形の金属板も一緒に見つかったため、筒状の容器に入っていたとみられる。仏教大の松田和信教授が解読したところ、7世紀 にバーミヤンを訪れた中国の僧、玄奘三蔵が漢訳、日本にも伝わった「縁起経」のサンスクリット原典に相当するものと判明した。仏像に納められた経文は日本 などでも例があるが、アフガンで見つかったのは初めてという。

● 青谷上寺地遺跡で楼閣の柱発見(2006年11月10日)
 鳥取市の青谷上寺地遺跡で、1999年に見つかった長さ7m以上の木材が弥生時代後期の建物の柱だったことが分かった。
 発見された木材は遺跡北側にある弥生時代後期の水路跡で出土したもので、長さ7.2m、直径17cm。先端が欠けており、水路の護岸材に転用されていたが、根元から約6mの部分に床を支える木材を差し込んだ貫穴があることから柱だったことが分かった。
 現存する弥生時代のものでは最長の建物の柱で、これまで唐古・鍵遺跡(奈良県)や吉野ヶ里遺跡(佐賀県)で、土器に描かれた絵や、柱穴などから推測して復元されている楼閣が(物見やぐら)が実在したことを裏付ける初めての物証となる。

●生駒・長弓寺円生院で、絹本著色楊柳観音像公開(2006年11月9日)
 生駒市の長弓寺円生院に伝わった絹本著色楊柳観音像の保存修理が終わり、来年1月、半世紀ぶりに同寺で里帰り公開される。
 楊柳観音像は縦約1.1m、横約0.5m。絹地に楊柳観音と善財童子、僧侶などが描かれている。
 奈良国立博物館で無数にあった折り目を修理したが、その際僧侶を布袋像に描き直すなど加筆の痕跡も明らかになった。

● 山形市で多くの文化財発掘(2006年11月9日)
 山形市が行った市内の寺院の調査で平安時代の仏像など重要な仏像等が多く見つかり、有形文化財指定へ向け専門家と調査、鑑定を進める。
 山形市では、今まで文化財の調査が進んでおらず、2003年度から2年かけて、市内190カ所の寺院にあった30体を時代ごとの「基準作」に選んで、素材や年代を詳しく調べた。
 この結果、同市平清水の平泉寺の木造仏像4体は、平安時代の制作で、特に大日如来坐像(ケヤキの一木造、高さ110.9cm)は補修の跡も少なく貴重な像とわかり、4体を市の有形文化財に指定するよう答申する。
 また、今年度内に新たに3体、3年以内に17体を指定する方針。
 今回の調査では、仏像等の彫刻が中心で、絵画や工芸品などは含まれておらず、まだ貴重な文化財が残っている可能性はあるという。

● 湖南三山今秋も同時公開(2006年11月8日)
 「湖南三山」の名称で昨秋初めて同時に公開された湖南市の常楽寺(同市西寺)、長寿寺(同東寺)、善水寺(同岩根)の三寺院が、今年も19日から秋の同時公開を行う。
 三寺院はいずれも天台宗の古刹で、県内の国宝建築物22件のうち4件を持ち、紅葉も美しい。旧甲西、石部町の合併で同じ湖南市内となったため、湖東三山にならって「湖南三山」として売り出した。
 昨年は16日間の公開期間中、それまでの年間拝観者の3倍以上の2万5000人が訪れたという。
 今年は寺側の受け入れ体制などのため、期間は11月19日から28日までの10日間。期間中、常楽寺と善水寺は普段公開していない国指定重要美術品の掛け軸などを特別公開し、長寿寺は住職らの法話を予定している。

● 斑鳩・藤ノ木古墳石室公開へ (2006年11月7日)
 奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳で、内部公開に向けた整備工事の起工式が行われた。
 昭和60年の第一次調査以来、横穴式石室内から朱塗りの家形石棺や金銅製馬具類などの豪華な副葬品が見つかっており、未盗掘の貴重な古墳として石室内の公開も望まれていた。
 町では、保存と活用の観点から、調査を進める一方、内部公開に向けた周辺整備事業の計画がまとまり、初めての調査から21年目にして、ようやく整備工事が開始されることになった。

● 鎌倉市で、市有形文化財新たに5件指定(2006年11月7日) 
 鎌倉市では、建長寺の釈迦(しゃか)三尊図(掛け軸)一幅など五件を市有形文化財に指定した。
【絵画】
▽絹本著色釈迦三尊図一幅(建長寺)=縦141cm、横91cm余。南北朝時代の作で釈迦如来を中央に文殊、普賢両菩薩を描く。技法が中国・元時代の作例と共通しており中国仏画の影響を受けている。
【彫刻】
▽木造・釈迦如来坐像一躯(覚園寺)像高56cm余で鎌倉時代の作。存在したと推測される極楽寺と縁が深い奈良西大寺派の寺院が、鎌倉に進出したことに伴う仏像制作との関連を示す。
▽木造・聖観音菩薩立像一躯(浄智寺)像高109m余で鎌倉時代の作。髪を高く結った細身の菩薩像。中国の宋風彫刻といわれる姿。単独でまつられる観音像として貴重。
【考古資料】
▽笹目遺跡出土の埋納品(市所有)白磁水注、白磁皿、天目茶碗(わん)など五点。14、5世紀ごろ地鎮に使われたとみられる。文化財埋蔵調査で18年前に出土。
▽北条時房・顕時邸跡出土の墨壷(市所有)縦19cm、横10cm、高さ5.6cm余の中世の大工道具。完全な形で残り、全国的にも資料価値が高い。

● 唐招提寺金堂で上棟式(2006年11月2日)
 奈良市西の京の唐招提寺で、平成の大修理が進む金堂の上棟式と工事の無事を祈る法要が営まれた。
 2001年に始まった金堂の大修理は全体の約85%まで進み、上棟式では長さ約5mの棟木を引き上げ固定した。今後、屋根を葺く、本尊盧舎那仏坐像(国宝)などを納め、2009年6月ごろ完了予定。

● 大津・瀬田廃寺遺跡で奈良時代の寺の南門発見(2006年10月31日)
 滋賀県大津市野郷原の瀬田廃寺で、奈良時代の寺院の南門とみられる遺構が見つかった。
  瀬田廃寺遺跡では、1959年に金堂跡や塔跡が発見され、四天王寺式の伽藍配置が確認されている。今回発見された遺跡は、塔の真南37mの地点に東西に並 ぶ4つの穴で、中央の柱跡の間隔は5.1m、両側はそれぞれ4.5mの間隔で、穴の断面の様子から最初は掘立柱を建て、後に権威付けのために礎石をもうけ たと推定できるという。
 瀬田廃寺遺跡の南西約700mの地点には奈良時代の近江の政治の中心地だった国庁跡があり、西側に隣接する野畑遺跡から は「国分僧寺」と書かれた墨書土器が出土していることから、従来から同遺跡が国分寺跡である可能性が指摘されていたが、大型の南門が発見されたことから、 国分寺だった可能性が高まった。
 また、近江国庁跡や周辺の関連遺跡から出土している「飛雲紋(ひうんもん)」の瓦や、唐草が変形したような模様の金銅製の飾り金具(長さ19cm、幅11cm)も出土した。

● バーミヤン西方で13の仏教石窟を発見
(2006年10月30日)
 アフガニスタン中部バーミヤン遺跡の西約100kmにあるヤカウランの南東近郊の渓谷で、8世紀ごろの仏教石窟群が新たに発見された。
 龍谷大の仏教遺跡学術調査隊が発見したもので、場所はヤカウランの南東約10kmにあるダライアリ渓谷の川岸2カ所で、8世紀ごろから勢力が強まったイスラム期の望楼跡が残る絶壁に掘られたクシャ・ゴラと、南東に約1キロの岩壁に掘られたムシュタックの各石窟。
 クシャ・ゴラでは少なくとも6つの石窟が確認され、うち1つは奥行き、幅がそれぞれ約4m、高さ約2.7m。内部の天井部分はかまぼこ形で、仏像を安置したとみられる仏龕(がん)もあった。
 ムシュタックでは7つの石窟が確認され、うち中央の1つでは仏龕がほぼ原形をとどめ、わずかに壁画の一部とみられる顔料も確認された。
  ヤカウランの西では昨年、同大が、7世紀に中国の僧、玄奘三蔵が「大唐西域記」で記した仏教国「掲職国」の可能性もある石窟群を確認しており、今回の複数 の石窟群発見により、アフガンの仏教文化の西端とされていたバーミヤンより西に大規模な仏教文化圏が存在した可能性がさらに高まった。

●ハーバード大所蔵木造仏像の左手、快慶作の可能性(2006年4月15日)
 米国・ハーバード大学が所蔵する仏像の手が、鎌倉時代に東大寺を復興した高僧、重源上人によって造営された新大仏寺(三重県伊賀市)の本尊で、快慶作の阿弥陀如来立像の左手である可能性が高いことが分かった。
 この仏手は、同大学のサックラー美術館が所蔵しており、木造で全長約67センチ。表面を金ぱくで仕上げてあり、親指と中指で輪を作る。
  重源は東大寺復興の拠点として、現在の浄土寺(兵庫県小野市)や新大仏寺などを建てたことが知られており、共に本尊は快慶によって造られたことが胎内銘に よって判明している。浄土寺の像は現存しているが、新大仏寺の像は江戸時代に土砂崩れで倒壊し、造営当時の頭部だけが修復され本尊の一部として伝わってい る。
 通常阿弥陀如来立像は右手を上げ、左手を下げる印相をとるが、浄土寺の本尊は通例と逆に左手を上げている。今回見つかった左手は、くぎ跡な どから手のひらを上に向けていたと考えられ、大きさや指の曲げ方を含めて浄土寺の像の左手とほぼ一致しており、新大仏寺の像の左手の可能性が高いとみられ る。
 本仏手は、古美術商を経て、1931年にハーバード大所蔵となったとされる。

● 仏教美術史研究者の高田修さん死去(2006年10月28日)
 仏教美術の研究者で、東北大名誉教授の高田修氏が死去した。
  高田氏は、東京帝大印度哲学科を卒業後、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に美術顧問として雇われた。京都・醍醐寺五重塔の壁画研究を共同で進めたほか、 インド西部・アジャンタ石窟群の研究に40年以上取り組み、2002年に「アジャンタ壁画」(NHK出版)としてまとめた。
 仏像発生を解説した大著「仏像の起源」(岩波書店)などの研究によって67年度の朝日賞を受賞した他、59年に学士院賞、60年に学士院恩賜賞。東京国立文化財研究所美術部長や東北大教授、成城大教授を歴任した。

● 高松塚古墳石室上に円弧状の地割れ(2006年10月26日)  
 奈良県明日香村高松塚古墳の墳丘で、過去の南海地震の痕跡とみられる新たな円弧状の地割れが見つかった。
 地割れは、墳丘の中心付近から深さ約1.5mのところで、長さ約2m、幅約30cmの大きさで確認された。4枚ある石室の天井石の北側から2枚目の真上にあり深さは40cm以上あるとみられ、石室そばまで達している恐れがあるという。
  地割れは、流入した土砂の調査などから、仁和3(887)年、正平16(1361)年、明応7(1498)年の地震によるものではないかと想定されてい る。これまでにも多数の亀裂が見つかっているが、石室直上の大規模な地割れは初めてで、奈良盆地を繰り返し襲った同地震による地割れが雨水や虫の侵入経路 になって、壁画を劣化させる一因となった可能性が高いと考えられるという。

● 甲賀の北脇遺跡で平安時代の鍛冶工房跡出土(2006年10月25日)
 滋賀県甲賀市水口町北脇の北脇遺跡から、平安時代の掘っ立て柱の鍛冶工房跡が見つかった。
 遺跡からは、工房や関連施設とみられる建物跡9棟が見つかった。うち2棟は縦約10m、横約2mの完全な形で出土。送風管の先に付ける羽口、炉壁、鉄くず、製品の仕上げに使う砥石のほか、近隣から持ち込まれた緑釉陶器や須恵器なども見つかった。
 鍛冶炉跡は確認できなかったものの、遺構の状況から、複数の工人が農具や刀子(とうす)など小型の鉄製品を各棟で生産していたと見られる。
 同様の遺構では10棟以上が確認されている大津市瀬田の近江国庁跡の鍛冶工房(11世紀)に次いで県内2例目。

● 高松塚古墳ではく落防止へ天文図の一部剥ぎ取り(2006年10月24日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で来年3月に始まる石室解体に向け、石室天井の天文図のうち、剥落の恐れがある一部が剥ぎ取られた。
 剥ぎ取った対象は、天井の石と石の境目にまたがる星座の金箔と朱線で、長さ5cm、幅1cmの範囲。このほか石室全体で、しっくい層が浮き上がるなどしている約90カ所も取り外した。
 また解体しやすくするため、天井石や壁石の接ぎ目に入っているしっくい層に切れ目を入れ、天井部分はレーヨン紙を張るなどして補強し、解体の振動でしっくいが落ちないようにした。

● 赤彩古墳を公開(2006年10月23日)
 岐阜県本巣市上保の赤彩古墳(舟来山272号墳)が2006年11月3日(金)から11月5日(日)まで公開される。
 赤彩古墳は、東海地方最大級とされる約1000基の古墳群「船来山古墳群」から見つかった珍しい赤彩棺を納める古墳で、長さ約5m、幅約2m、高さ約 1.8mの玄室の内部が赤色顔料「ベンガラ」で赤く彩られている。酸化を防ぐために年2回のみ公開されるが、期間中はライトアップによって鮮やかな赤色が一面に広がる。
「宝珠古墳」(同市文殊)の出土品も展示する。


● 北上市国見山廃寺跡で完全な形の八稜鏡が出土(2006年10月19日)

 平安中期の大規模寺院跡である北上市稲瀬町の国史跡・国見山廃寺跡(くにみさんはいじあと)で、10世紀末から11世紀前半のものとみられる八稜鏡(はちりょうきょう)が完全な形で見つかった。
  同史跡では2003年にも八稜鏡が出土しているが、完全形での出土は初めて。八稜鏡は、直径10〜10.8cm、厚さ3〜4mmの八角形の銅鏡で裏面に鳥 や草の紋様が刻まれている。上部には小さな穴が2カ所あり、つり下げたり、くぎなどで打ち付けたりしていたとみられる。つり下げるなどの鏡としては国内最 古と見られる。
 また、廃寺跡の最も奥まった場所からは、建物の柱の土台となる礎石建物群も確認され、南向きに建立された鎮守社など他の建物跡との向きの違いや構造などから、寺が開かれた時に建立された廟(びょう)や堂の可能性があるという。


●佐賀・東名遺跡で日本最古の木製櫛出土(2006年10月19日)

 佐賀市金立町の東名(ひがしみょう)遺跡で、日本最古とみられる縄文時代早期(約7000年前)の木製櫛(くし)が見つかった。
 木製櫛は貝塚で発見され、長さ11.5cm、最大幅7.2cmで、形状から歯の部分が14本あったとみられるが、発見時は10本がほぼ完全に残っていた。
 長さ20cm前後の7本の植物のツルのようなものを直径2〜3mm程度に削って細くし、水につけるなどしてU字形に折り曲げ、繊維で束ねて作ったらしい。歯先には、腐敗防止のための焦がし跡を示す黒い変色が確認された。
 当時の櫛は、髪に差す装身具として使われており、歯の結束には漆や粘土が用いられるが、当時の九州地方には漆の木が自生しておらず、出土品は布のようなものが使われていたとみられる。
 年代は出土した地層から割り出されたもので、これまで、石川県の三引遺跡から1996年見つかった縄文時代前期(約6000年前)の木製櫛が最古とされてきたが、それを約1000年さかのぼるという。


● 文化財を触らずに記録できるスキャナー開発(2006年10月19日)

 壁画やびょうぶなどの大型絵画の文化財に触れることなく、精密な画像をデジタルデータとして記録できるスキャナーを、京都大のグループが開発した。
 スキャナーの大きさは高さ約2.5m、幅約1.2m、奥行き約1m。絵の手前約6cmの場所に光源を固定し、縦約1.6m、幅約1.6mもあるびょうぶ絵を1回のスキャンで、4分足らずで読む。
 現在、絵画の記録はカメラによる写真が主流だが、レンズの作用で画像にゆがみが生じたり、撮影角度により色合いに微妙な違いが出たりする問題がある。新開発のスキャナーは正確に垂直方向から光を照射するため、色を忠実に再現できるという。
 また、読み込んだ色のデータから、絵の具の材料を特定するプログラムも合わせて開発。色あせた作品の制作時の色を再現することも可能という。


● 平安京跡から謎の巨大池(2006年10月19日)

 京都市中京区壬生で、平安時代初期の池跡が見つかった。
  池跡が見つかったのは、平安京のメーン道路・朱雀大路に面した区域で、池跡は石を敷き詰めた洲浜が南北2カ所で確認された。いずれも下に粘土を敷き、石の 大きさをそろえた丁寧なつくりで、深さは最大約30cm。9世紀前半の平安京造営時の邸宅に設けられた庭園の池で、わき水を利用していたとみられる。
  池跡は中央部を東西に貫通する平安時代の「五条坊門小路」にあたる仏光寺通の部分が未調査のため全容は不明だが、北と南の池は構造が良く似ており、もし一 つの池だったとすれば、南北154mに及ぶ巨大な池だったことになり、五条坊門小路をまたぐ南北二町(約240m)以上の大邸宅があったことになる。

● 川崎・影向寺で豪族の館跡出土(2006年10月14日)

 川崎市宮前区野川の影向寺境内から、創建に携わった豪族の館のものとみられる柱の跡などの遺跡が見つかった。
 遺跡は、住居跡とみられる楕円形の柱穴(縦約1m、横約70cm)や、創建当初の講堂があった位置を示す柱穴四基(長さ約1.2m、幅約1m、深さ約 30cm)、当時の境内と外部を区切る北側の溝(幅約2.4m、深さ約9cm)などが発掘され、また、古墳時代や弥生時代の竪穴住居跡や、土器の破片、柱の基礎にしていたとみられる瓦の破片なども見つかった。
 影向寺は、南関東屈指の古刹で、当時の役所である橘樹郡衙(が)をつかさどっていた豪族が、当時先端だった仏教文化を取り入れるため住居敷地に創建したことが、今回の発掘で裏付けられた。奈良の大和朝廷とのつながりの深さや、豪族の力の大きさを示す重要な史跡という。


 ● 石川県県指定文化財に4件 審議会が答申(2006年10月13日)

 石川県文化財保護審議会は、七尾市海門寺の千手観音坐像など4件を県指定文化財に答申した。
 木造千手観音坐像は、平安時代後期の作。像内側の墨書から保元三年(1158)作と 判明しており、制作年代が分かる仏像では県内最古となる。大ぶりの頭部や幅広で低い膝高は安定感に富んでおり、衣文などの表現には鎌倉時代への過渡期の様相がみられる。


● 大阪・難波宮跡で万葉仮名の最古の木簡出土(2006年10月13日)

 大阪市中央区の難波宮跡で、7世紀中頃のものとみられる、日本最古の万葉仮名文が書かれた木簡が見つかった。
 出土した木簡は、長さ18.5cm、幅約2.65cm、厚さ5〜6.5mmで、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯■(■は判読不能)の12文字が墨で書かれていた。
 文字は「はるくさのはじめのとし」と読め、「春草の」は万葉集で枕詞として使われた句で、行政文書などでは使われないことや、五七調の調子から、和歌の冒頭部分だったとみられる。
 木簡は一緒に出土した土器や地層の状況から、大化の改新後に飛鳥京から遷都した前期難波宮の完成(652年)直前のものとみられる。
  これまで、万葉仮名文が書かれた古い木簡としては、古今和歌集の和歌の最初の五・七部分「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈(難波津(なにわづ)に咲くやこの 花)」が書かれた観音寺遺跡(徳島市)出土の木簡(689年以前)や、飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)出土の木簡(672〜686年ごろ)が知られていた が、一般に天武朝(673〜686年)以降に成立したとされていた万葉仮名文の成立が、今回の発見で20〜30年、さかのぼることになる。
 木簡は大阪歴史博物館(大阪市中央区)で14〜23日まで公開される。14、15日は入城無料。
 (写真右は、赤外線写真)


● 鹿児島で武人埴輪の頭部出土(2006年10月12日)

 鹿児島県大崎町横瀬の神領10号墳から5世紀の武人埴輪の頭部が出土した。
 見つかった埴輪は、高さ、直径とも約20cmで、ひさしのついた冑かぶとをかぶり、はっきりした目鼻立ちで、口には上下の歯に見立てて、石などを装飾的に差し込んだとみられる溝があった。
 胴体は見つかっていないが、全身を復元すると高さ70〜80cmになるという。霊的なものや外敵を防ぐ目的で古墳の周りに並べられたとみられる。
 同種の武人埴輪は6世紀に主に関東で作られているが、5世紀のものは全国でも珍しいという。
 埴輪は、鹿児島大学郡元キャンパス(鹿児島市)で10月17日から11月17日まで開かれる特別展「発掘!鹿児島の古墳時代」で公開される。


● 奈良・新沢千塚出土の器に白虎鮮やかに再現、(2006年10月6日)

 奈良県橿原市の新沢千塚126号墳(5世紀後半)で1963年に見つかった漆塗りの器に描かれた四神の一つ「白虎」の発掘当時の写真を、県立橿原考古学研究所付属博物館などが画像処理され、当時の色彩や描線が鮮やかによみがえった。


 白虎図は全長約10cmで顔は2cm。黒漆の下地の上に描かれており、器は木製で既に腐食し、表面に塗った漆の膜だけが残っていた。
 同博物館で10月7日から11月26日まで行われる秋季特別展「海を越えたはるかな交流―橿原の古墳と渡来人」で写真パネルにして展示される。

● 宇治市の広野遺跡で飛鳥時代以降の堀が見つかる(2006年10月6日)

 京都府宇治市広野町の広野遺跡の発掘調査で、飛鳥時代以降のものとみられる堀が見つかった、
 地中4mの2カ所で急な角度で削り込まれた深さ約2mの溝を確認され、出土した須恵器の形や大きさから、7世紀前半の飛鳥時代と推測されるという。
 堀が四角に曲がっていることから、当時の豪族の館を囲んだ堀の一部と見られ、北側を流れる三軒茶谷川と南側の名木川の合流地点の間に館が広がっていたとみられる。
 付近では、これまでに古墳から奈良時代の集落跡や7世紀末に建立された広野廃寺などが確認されている。


● 西大寺食堂院の全容が明らかに(2006年10月6日)

 奈良市西大寺本町の西大寺旧境内で、食堂院と見られる8世紀後半の建物跡が南北に並んで見つかった。
 確認された建物跡は3カ所で、伽藍の北東角にあたり、西大寺の財産を記録した「西大寺資財流記帳」(780年)と規模が一致し、これによると、北から倉庫の「甲双倉(こうならびぐら)」、調理場の「大炊殿」、盛り付けを行った「檜皮(ひわだ)殿」とみられる。
 大炊殿と檜皮殿は、それぞれ東西約27m、南北約15mで、両電を幅約5m、長さ約15mの渡り廊下で連結し、両殿の間に平城京では最大級の井戸(約2.3m四方)も見つかった。
  これまでの調査で檜皮殿の南に「食堂」とみられる建物跡、東側に食糧貯蔵用の須恵器を埋めた跡や料理の下ごしらえのための「東檜皮厨(くりや)」の基壇も 見つかっており、数百人いたとみられる僧侶の食事や供物を作ったとされる勅願寺にふさわしい壮大な施設だったことが裏付けられた。


●島根・山持遺跡で古代女性描く板出土(2006年10月6日)

 島根県出雲市の山持(ざんもち)遺跡で、中国風の服装をまとった女性像や吉祥天とみられる仏像を描いた8−9世紀初頭の板絵4枚が見つかった。
  板は幅約8cm、長さ約23〜65cm厚さ〇・五から一・四センチで、いずれも劣化して描線は不明瞭(めいりょう)で、赤外線撮影で調べたところ、絵は墨 で1枚に1体ずつあり、髷(まげ)を結って左右に髪を垂らし、袍(ほう)と呼ばれる詰め襟に似た丸い襟に筒袖、スカート状の裳をまとった女性の全身像や、 背後に頭光をつけた吉祥天と見られる像が描かれていた。
 平安時代初期以前の女性の全身像が見つかったのは高松塚古墳(奈良県明日香村)壁画に次ぎ2例目で、地方での仏教文化の広がりや当時の風俗を考える上で貴重な史料として注目される。
 板絵の用途については、何らかの祭祀に用いられたか、人物像の習い書きをした可能性などが考えられるとしている。
 県埋蔵文化財センターは8日から、出雲市里方町の発掘調査事務所で出土品を一般公開する。



● 大津・関津遺跡で「仲麻呂の乱」の舞台田原道の遺構確認(2006年10月5日)

大津市関津1丁目の関津遺跡で8世紀半ばから9世紀半ば(奈良時代−平安時代前期)にかけての大規模な道路跡が見つかった。   
 道幅は約18m、両側には幅約1〜3m、深さ10〜30cmの側溝があり、南北に約250m延びていた。都の大路に匹敵する大きさで、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764年)の舞台になったとされる田原道(たわらみち)の跡ではないかと見られる。
 田原道は、城陽市付近から京都府宇治田原町を抜け、瀬田川沿いを北上し、東国へ向かう道とされ、恵美押勝の乱の際、討伐軍が通ったと「続日本紀」に記されているが、田原道の遺構が確認されたのは初めて。
 道に沿うようにして約30棟の建物群が確認され、都の遺跡などから出土する龍(りゅう)のような形をした硯(すずり)1点や土器類なども見つかった。 


● バーミヤン遺跡で新たな壁画確認(2006年10月2日)

 アフガニスタン中部のバーミヤン遺跡で、7世紀前半の唐草模様とともに描かれた人間の上半身と猿の図柄の壁画が新たに確認された。
 今回の壁画は、同遺跡の保存・調査活動に当たる日本の独立行政法人文化財研究所のチームが発見しもので、旧政権タリバンが破壊した東西の大仏立像跡の間に位置し、今年7月の調査でペルシャ神話の霊獣「シームルグ」の壁画が確認された石窟「N窟」で見つかった。
  シームルグと同じく、天井の一部を区切る縦4cm、横46cmの梁を模した三角形の側面部分で確認された。左手を口元にかざす猿と、右手をかかげ猿と向き 合う人間の図柄が赤い背景に、錫(すず)を主成分とする金属箔で描かれていた。人面と猿はいずれも、下半身は唐草文に取り込まれてつながっていた。
 仏教美術としては類例のない特殊なもので、イランなど異なる複数の文化の混在を示すという。

● サムスン文化財団 盗掘遺物の舎利箱を懸燈寺に返還(2006年9月28日)

 韓国京畿道加平郡懸燈寺の舎利箱が、元の所在地である懸燈寺に戻ることになった。
 この舎利箱は、1981年にサムスン文化財団が購入し所有しているもので、銀でつくられた鉢、水晶でつくられた舎利壷と2つの舎利からなっている。舎利箱の表面には「懸燈寺」という文字とともに1470年に舎利鉢を制作した背景などが記録されている。
 その後、盗掘された遺物であることが明らかになり、ソウル西部地方裁判所の1審判決で、現在の所有者であるサムスン文化財団の「善意の取得」が認定され返還の必要がないとされていたが、サムスン文化財団は無条件で舎利箱を懸燈寺に返還することを明らかにした。


● 奈良・藤原宮の東第4堂跡発見(2006年9月28日)

 奈良県橿原市の藤原宮跡で、政務の中心だった朝堂院の東第四堂跡で建築開始後に建物規模を縮小した形跡が見つかった。
 朝堂院(南北約320m、東西235m)は、太政大臣や役人らが入る朝堂が東西対称に6棟ずつ計12棟並んでいた。東第四堂は確認された遺構としては5棟目で、身分秩序を管理した「治部省」として使われたと考えられている。
 東第四堂は礎石上に柱を立てた東西11.5m、南北63mの建物で、戦前の調査では柱穴の並びは5列だったが、今回の調査でさらに6列目の柱筋が確認された。建設途中に6列から5列に変更され、東西を約3m縮小したとみられる。
  朝堂院の建物のうち、大臣らが国政を審議した東第一堂は、中国式の豪華な土間でいすを使い、、大納言クラスの席がある第二堂や、一般の役人が詰める第三 堂、第四堂はむしろ敷きの床に座っていたとみられている。東第三堂でも規模を縮小した形跡が見つかっており、官位差を明確にするため、第三堂、第四堂を縮 小したと考えられるという。


● 鳥取・座光寺で「因幡薬師如来縁起絵巻」、貞信寺で古仏像公開(2000年9月26日)

 長野・善光寺の阿弥陀如来、京都・清涼寺の釈迦如来とともに、日本三如来の一つとされる京都市の平等寺(因幡薬師堂)の薬師如来像の由来を描いた絵巻物が鳥取市菖蒲の座光寺で公開される。
  この「因幡薬師如来縁起絵巻」は、天徳3年(959)に難病を患った因幡の国司・橘行平が、夢の中のお告げ通りに賀露の海にあった薬師如来を引き揚げ、の ちの座光寺にまつったところ完治。その後、京都へ帰った行平の後を追って薬師如来が飛んで来たため、因幡堂を建ててまつったことが描かれている。巻末の記 録から1697年に寺が京都の絵師に頼んで描かせたものといわれている。
 座光寺には、飛来した薬師像のものとされる台座残されており、同時に公開する。

 また、鳥取市福部町蔵見の貞信寺では、豊臣秀吉に焼かれたとされる仏像9体が公開される。
 豊臣秀吉が二上山城(岩美町岩常)を攻めた際、近くにあった薬師堂も焼かれ、損傷した仏像が、同寺の前身、湖江寺に保存されたという記録が寺に残っており、2000年に寺のお堂を建て替えた際にこれらの仏像が発見された。
 薬師如来像と考えられる長さ36cmの頭部と、像高1.2mから65cmまでの仏像八体。すべて顔などが分からない状態で、黒く焼け焦げたものや割れているものもあるという。
 一般公開は座光寺が10月4日から6日、貞信寺は10月9日から11日。


● バーミヤンで5〜6世紀の仏塔跡発見(2006年9月24日)

 アフガニスタン中部のバーミヤン遺跡で、五〜六世紀の「塔院」跡や、高さ3mはあったとみられる十体以上の立仏像のひざ下部分が発見された。
 塔院跡があったのは、旧タリバン政権が破壊した東大仏立像跡の東約100m付近で、中心部に主仏塔(ストゥーパ)の一部が残っており、この仏塔を囲むように、小型の仏塔(奉献ストゥーパ)や立仏像のひざ下部分が配置されていた。
  塔院は仏僧の礼拝などの場として使われていた施設で、一帯にあった大規模な仏教施設の一部と考えられ、付近では一連の調査で、今回の立仏像と別に大小三十 以上の仏頭も見つかっていることから、玄奘三蔵(三蔵法師)が『大唐西域記』の中で見たと記した幻の涅槃像が付近で見つかる可能性が出てきたという。

● 宇治・平等院で修理中の天蓋一般公開 (2006年9月20日)

 京都府宇治市の平等院で、修理中の鳳凰堂の天蓋(国宝)の一部垂板と吹返を平等院ミュージアム鳳翔館で公開している。
 天蓋は本尊阿弥陀如来坐像の頭上笠状の装飾で、花形の円蓋(えんがい)と、それを囲む箱形の方蓋(ほうがい)からなる日本唯一の二重天蓋とされ、本尊と同時期の制作。通常は本尊の頭上、地上6mの位置ににあるが、現在は修理中のため取り外されている。
 公開されるのは約5m四方の方蓋の一部で、方蓋の側面にはめ込まれた高さ90cmの24枚の内7枚と、方蓋の上部側面に庇状に伸びる吹返垂板。
 ともにヒノキ製で、極楽浄土に咲くという宝相華文を透かし彫りで表し、金箔が施されている。
 展示は12月11日まで。

 

● 木津の内田山古墳群で家形埴輪出土 (2006年9月20日)

京都府木津町木津内田山の内田山古墳群で、古墳時代中期前半(5世紀前半)の家形埴輪がほぼ完全な状態で出土した、
 家形埴輪は胴体部分が高さ約30cm、幅約30cm、奥行き約20cmの切妻型で、前面に入り口と窓とみられる穴がくりぬかれている。屋根部分には、雨水の浸入を防ぐために実際の建物に設けられる「押縁(おしぶち)」を表す線刻も施されている。
 この周溝からは完形のほか、半分ほど砕けたものや多量の埴輪片も見つかっており、家形埴輪は計5点に上るという。


● 天理大付属天理参考館で、天平時代の伎楽面発見 (2006年9月19日)

 奈良県天理市の天理大付属天理参考館で、奈良時代に東大寺で使われたとみられる古代の仮面劇「伎楽面」が見つかった。
 面は麻布と漆で作られた乾漆製で、高さ約30cm、幅約18cm。鼻や耳、あごの一部が欠け、彩色もはげているが、ぽってりとした唇や口ひげ、つり上がったまゆと目など怒ったような表情が生き生きと見て取れる。
 表情や馬の毛を髪の毛として張りつける特徴などから、酔っぱらって登場する胡(中国の西域)人の家臣「酔胡従(すいこじゅう)」の面だったらしい。
  同館は約40年前に個人から伎楽面の寄贈を受けていたが、今回調査したところ、江戸時代後期に松平定信が編纂した「集古十種(しゅうこじっしゅ)」に、東 大寺所蔵として図入りで掲載されており、確認したところ損傷個所や特徴が全く同じだった。明治時代以降、何らかの理由で東大寺から流出した可能性が高いと いう。
 伎楽面は正倉院に171点、東大寺にも36点伝わっているが、新たに見つかるのは珍しいという。9月20日から12月4日まで同館で開催中の特別展「正倉院宝物のルーツと展開」で公開する。


● 湖東三山で初の本尊同時公開にぎわう(2006年9月18日)

 滋賀県愛荘町の金剛輪寺、甲良町の西明寺、東近江市の百済寺の湖東三山で、天台宗の開宗1200年を記念した秘仏の本尊の一斉公開が始まり、大勢の人が訪れた。
 百済寺は55年ぶりに十一面観世音菩薩像を、西明寺は52年ぶりに薬師瑠璃光如来像(重文)を、金剛輪寺は6年ぶりに聖観世音菩薩像(重文)をそれぞれ公開した。
 公開は10月27日まで行われる。

● 渡岸寺・十一面観音像、新築の収蔵庫へ(2006年9月17日)

 滋賀県高月町渡岸寺の渡岸寺観音堂で国宝十一面観音像が新築した収蔵庫に移された。
 本像は1972年に本堂にから旧収蔵庫に移されていたが、老朽化が進んだことや手狭になったため、新たに建て直していた。
  新収蔵庫は国や県の補助を受けて昨年9月から建設。広さは約120平方メートル。建物は耐火耐震構造で、十一面観音像を載せる台座には、震度7の揺れを震 度3程度に軽減する免震装置を設けた。また、内壁などにはキリ材を用い、外気が直接入らないように二重扉にするなど、万全の保存環境を維持したという。


● 鎌倉・長谷寺「アジサイの道」無断で拡幅(2006年9月16日)

 神奈川県鎌倉市の長谷寺(長谷観音)が、裏山の道を無許可で拡幅・整備した疑いがあるとして、県が調査を始めた。
 長谷寺では、2002年ごろから、アジサイを周囲に植えて、斜面を眺望散策路に拡幅整備しており、現在は長さ約200m、幅1〜2mにわたって石段やウッドチップが敷かれている。
長 谷寺は、古都保存法に基づく「歴史的風土特別保存地区」、県条例に基づく「風致地区」に指定されており、土地を造成したり、工作物を新・増改築したりする 場合に必要な知事の許可等を受けなかった疑いがあるという。県は市と連携して寺関係者から事情を聴いており、元通りにするよう求める可能性もあるという。


● 重源の遺徳しのび没後800年法要30日から(2006年9月16日)

 奈良市雑司町の東大寺は、鎌倉時代に同寺の再建に尽くした重源上人の没後800年法要について関連行事を発表した。

9月30日(土)

 「西日本バンドフェスティバル・たそがれコンサート」大仏殿中門前


10月1日(日)

 「西日本バンドフェスティバル・ルシャナ奏楽」鏡池舞楽台

10月5日(木)

  
 俊乗堂扁額除幕式(俊乗堂)
  
 放生会(大仏殿前鏡池)


10月13日(金)

  
 南大門扁額除幕式
  
 蜂起之儀
  
 盧舎那仏燃灯供養
10月14日(土)
 臨済宗大本山建仁寺厳修「重源上人800年御遠忌法要」
  
 高野山真言宗総本山金剛峯寺厳修
「重源上人800年御遠忌・理趣三昧法会」
 東京スカパラダイスオーケストラin 東大寺

10月15日(日)
 華厳宗大本山東大寺厳修「舞楽法要」
  
 鶴岡八幡宮執行
「重源上人800年御遠忌顕彰祭」

 東大寺慶讃能
 鏡池舞楽台
10月16日(月)
 真言宗醍醐派本山醍醐寺厳修
 「重源上人念仏法要」
  
 華厳宗大本山東大寺厳修
 「法華経講讃舞楽法要」

10月19日(木)
 PUFFY in 奈良東大寺
 大仏殿特設舞台
10月21日(土)
 東大寺現代仏教講演会
   
 「東大寺の建築大仏様」
伊藤延男氏(神戸芸術工科大学名誉教授)
 「重源上人の人となり」

筒井寛秀師(東大寺長老)  
 谷村新司 NATURE LIVE〜夢人ユメジン〜 in  東大寺 with 千住 明
 大仏殿特設舞台
10月12日〜21日(国宝)重源上人坐像開扉
俊乗堂


● 滋賀・百済寺毘沙門天像から室町時代の古文書(2006年9月15日)

 東近江市百済寺町の百済寺本堂内に安置されている毘沙門天像(像高約100cm)の胎内から室町時代の古文書が見つかった
 百済寺では、天台宗開祖1200年記念のご開帳(9月18日〜10月27日)に際し、本堂内の仏像や荘厳具などを市教委と共同調査し、毘沙門天像の胎内から筒状の古文書を発見した。
 古文書は、縦26.6cm、横46cmで、室町中期の永正9年(1512)に記されたもので、文亀3年(1503)の戦乱で百済寺の曼荼羅院が焼け多くの仏像が焼失し、毘沙門天像は大津市坂本の大仏所で、仏師の源康法眼父子によって造られたことが記されている。
 これまで百済寺では織田信長の焼き討ちや火災などが度重なり、難を逃れたのは本尊の十一面観音像のみとされ、他の仏像などは江戸時代以降の作品とみられていた。
 本尊のご開帳に併せて毘沙門天像も拝観できる。


● 高松塚石室34年ぶり公開 黒ずみ劣化進む(2006年9月15日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳1972年の壁画発見以来、34年ぶりに石室内が報道各社に公開された。
 10月から石室解体に向けた作業が本格化するのを前に、解体前の最後の姿が公開され、記者ら約10人が防護服を着用し、カメラなどの機材を消毒した上で、石室南壁に開いた盗掘坑から内部を観察した。   
 カビなどによる被害を繰り返し受け、壁画を含めた石室全体が黒ずんだ印象。四神図「白虎」は輪郭がほとんど消えて、描かれた位置すら確認できず、危機にある壁画の深刻な状況があらためて浮き彫りになった。
  文化庁が公表した最新の精密画像によると、白虎図は輪郭や胴体のしま模様、口を大きく開けた顔など勇猛な姿がほとんど消えていた。鮮やかな緑色の胴体と 真っ赤な長い舌が印象的だった東壁の青竜も全体が薄れた状態。額にある2本の角は消えかかり、1本はほとんど見えなかった。
 「飛鳥美人」と呼ばれる東壁と西壁の女子群像では最近、顔などに黒カビが広がっていることが相次ぎ判明。特に東壁の女子群像は劣化が激しく、発見当初と今回の画像を比較すると、ふっくらとした顔の輪郭や目鼻立ち、上衣の合わせ目が分からなくなっていた。

● 「平泉」を世界遺産に推薦(2006年9月14日)

中尊寺などから成る「平泉ム浄土思想を基調とする文化的景観」をユネスコの世界遺産(文化遺産)に推薦することが正式に決まった。
 来年1月にユネスコ世界遺産センターに推薦書を提出し、平成20年7月ごろ開かれる第32回世界遺産委員会で決まる。
 平泉は12世紀に奥州藤原氏が仏教的な理念に基づいて造った中尊寺や毛越寺、無量光院跡などで構成され、面積は周辺地域も含めると約8800ヘクタール。
 国内の世界遺産は「法隆寺地域の仏教建造物」など10件の文化遺産と、「屋久島」など3件の自然遺産が登録されている。平泉のほか、石見銀山遺跡も今年1月に登録推薦書を世界遺産センターに提出している。

● 高松塚壁画女子群像周辺7カ所に黒い染み(2006年9月14日)

 文化庁は、明日香村平田の特別史跡高松塚古墳の石室東壁に描かれた女子群像周辺7カ所に、カビとみられる黒い染みを確認したと発表した。
7カ所のうち5カ所が壁画の上にかかり、女子群像中央に位置する女性の顔の右ほほ付近に縦約2cm、横約3cmの範囲に黒い染みが発生。このほか、右側に立つ女性の着物すそや左肩などに直径約2〜3mmの同様の黒い染みが広がっていたという。


●    キトラ古墳定期点検で東壁などにカビ(2006年9月12日)

  文化庁は8日に実施した明日香村阿部山のキトラ古墳の定期点検で、東壁南側上部の余白部分に横約5cm、縦約2cmの範囲で黒い粒状のカビらしきものが無 数に点在しているのを確認。また北壁中央の天井との境界部分にも横約15cm、縦約1cmの帯状の範囲で黒いカビらしきものが確認されたという。


● 平城京跡で唐三彩発見-藤原仲麻呂の屋敷地か(2006年9月9日)

 奈良市大安寺西一丁目の平城京左京五条二坊で平成13年に出土した陶器片が、中国・唐から伝わった「唐三彩」とみられることが分かった。
 県立図書情報館の建設に伴う調査で、井戸脇の窪みから土器と一緒に透明感のある釉薬がかけられ一辺約1cmの陶器片が出土した。
調査地は奈良時代に権力を誇った藤原仲麻呂(恵美押勝)の屋敷地とする説があり、補強材料の一つとなりそうだ。

● 千葉・那古寺で奈良時代の観音経写経発見(2006年9月6日) 

 千葉県館山市の那古寺で、奈良時代に書き写された観音経の写経が見つかった。
 観音経は奈良期に浸透していたとされる観音信仰の中心教典。しかし、当時の写経は、奈良の唐招提寺のものなど数点しか知られていない。唐招提寺のものが一部分なのに対し、今回の写経は全文が完全な形で残っており、その点でも価値が高いという。
 写経は16日から館山市立博物館で公開される。

● 滋賀県内製鉄遺跡からの鉄滓を文鎮に加工(2006年9月4日)  

  滋賀県教委が、県内の製鉄遺跡から出土している鉄鉱石のかす「鉄滓(てっさい)」を、文鎮に加工する試みを始めている。
 鉄滓は、古墳時代以降の各地に製鉄所跡から見つかっているが、滋賀県は平安時代には全国トップクラスの製鉄地帯だったとみられている。発掘を行うたびに、毎回50トン以上の大量の鉄滓が出ており、保管場所の確保が課題になりつつある。
 文鎮に加工する案は、大量に出てくる鉄滓の保管場所の確保も狙い、有効活用の一環で発案した。加工した文鎮は文化財関連講座などの出席者にプレゼントしているが人気も上々。
 今後も文鎮を作っていくほか、文鎮以外にもアイデアをひねり出していくという



● 「美術院」100周年 東大寺で法要(2006年9月3日)

 岡倉天心(1862〜1913)の提唱で1906(明治39)年にできた日本美術院第二部(現・財団法人美術院)の創立100周年を記念する法要が2日、発祥の地である奈良市の東大寺で営まれた。
  日本美術院は、前年制定の古社寺保存法をうけて新しい美術作品の制作と古美術の修理の場として天心が創設。第二部は東大寺の勧学院内に事務所を置き、その 後「美術院」に改称、拠点が京都に移った。しかし活躍は全国に及び、東大寺南大門の仁王像解体修理(1989〜93年)を始めとする国宝・重文などの修理 を多数手がけてきた。
 2日は天心の命日にあたり、毎年ゆかりの寺で法要を営んでいたが、今年は、100周年の節目で、美術院の故地ともいえる東大寺で行われた。
「世界遺産高句麗壁画古墳展」「世界遺産高句麗壁画古墳展」
 西川杏太郎理事長は「今後も堅実な仕事を続けたい」と話していた。

● 遺跡の石器片がヤフーのオークションに出品( 2006年9月3日)

 インターネットの競売サイト「ヤフーオークション」に、国指定の遺跡の石器片や土器片と銘打たれた品が出品されたことが分かった。
  出品リストには、「国指定高山城跡の遺物(石器・成川式土器・焼き物)」「薩摩神之市遺跡の出土品(時代層別・土器・石器)」「堅田集落の出土品(成川式 土器・弥生式土器・流出品)」など大隅半島の遺跡からの出土品とあり、事実であれば届け出を定めている文化財保護法違反にあたる恐れがある。
また、同じ人物から出品された「国指定塚崎古墳の遺物(前方後円墳・石器・石棺・焼き物)」とされる品は、既に8月27日に920円で落札されたという。
 県文化財課は、ヤフーに削除および中止をメールで申し入れ、3日に他の出品を含めてリストから外された。

● 京都・大原野が長岡京北西限(2006年9月2日)

 京都市西京区大原野で、長岡京期の邸宅とみられる建物跡が見つかった。
 建物跡は、一辺40〜60cmの方形の柱穴が1.8m間隔で南北に平行して並んでおり、掘っ立て柱跡とみられる。長岡京西限の西京極大路推定地からは、わずか約30メートル東の位置だった。


● 唐招提寺金堂の最大の改修は江戸時代(2006年9月2日)

 奈良市西の京の唐招提寺で、金堂は江戸時代に建物の骨組み全体が組み替えられ、大規模な改修が行われていたことがわかった。
  これまで金堂は鎌倉、江戸、明治時代にそれぞれ大掛かりな改修工事が行われたとみられていた。しかし、部材に残る改修の痕跡や発掘成果などから、鎌倉時代 の改修は須弥壇など、本尊周辺の造り替えにとどまっていたことが判明。これに対し、江戸時代の改修では建物の骨組み全体が組み替えられ、屋根が約3メート ル高くなるなど大規模で、現在の外観はその時の改修によってほぼ整えられたことが分かった。



● 正花寺の重文・菩薩立像、東京で公開 (2006年9月1日)

  香川県高松市西山崎町の正花寺・菩薩立像が今秋、東京・上野の東京国立博物館で開催される特別展「仏像 一木にこめられた祈り」で公開されることになり、輸送作業が行われた。
 同立像は、天平時代の作で、奈良・唐招提寺の伝衆宝王菩薩立像とうり二つの像として知られており、研究者や愛好者の注目を集めている。素材は従来、ヒノキとされてきたが、近年の科学的調査でカヤ材であることが判明している。
 長く門外不出とされてきたが戦後、ヨーロッパ三カ国で半年間、特別公開。国内でも三度公開され、東京での公開は1971年以来となる。


● 渡岸寺の国宝十一面観音立像収蔵庫完成(2006年8月19日)

 滋賀県高月町の渡岸寺観音堂の国宝十一面観音立像の新収蔵庫が完成した。
 観音像は、9月16日に収蔵庫へ移し一般公開を再開する。10月22日に落慶法要が行われるが、観音像は11月初旬から約1カ月間、東京国立博物館での展示を予定している。



● 高槻・闘鶏山古墳で石室の内部画像を公開(2006年8月30日)

 大阪府高槻市の闘鶏(つげ)山古墳で、石室2基の内部の画像が公開された。
 闘鶏山古墳は、全長約85mの前方後円墳。2002年2月に未盗掘の竪穴式石室2基が見つかったが、内部の詳細が不明で、今年3月に改めてデジタルカメラを石室内に入れ内部を撮影した。
 この結果、 石室内には、魔よけや長寿の薬とされた朱を一面に塗った石室全体がほぼ完全な状態で残っていることが判明し、うち1基から三角縁神獣鏡2枚や鉄刀などさまざまな副葬品14点と被葬者の頭蓋骨が確認された。
 また、一方の石室では、琴柱(ことじ)形や紡錘車形の石製品や、奄美諸島以南に生息する巻き貝のゴホウラ、冑(かぶと)とみられる鉄製品などの副葬品が見つかった。
 三角縁神獣鏡2面のうち、1面は京都府山城町・椿井大塚山古墳出土のものと同じ鋳型で作られものと判明した。


● 福島・慧日寺で金堂復元へ工事に着手(2006年8月2日) 

 福島県磐梯町の国指定史跡慧日寺(えにちじ)跡で、金堂復元工事の起工式が行われた。
 慧日寺は大同年間(806〜810)に法相宗の高僧徳一が磐梯山ろくに開いた山岳寺院で、最盛期には一帯に3800余りの堂塔を数えたとされる。戦国時代、伊達政宗の会津侵攻などで完全に焼失したとされ、明治時代の廃仏毀釈によって廃寺になった。
 2008年3月の完成を目指している。


● 九州国立博物館で重文の仏像修理場公開(2006年8月29日)

 福岡県太宰府市の九州国立博物館で、国の重要文化財指定の仏像など木の修復作業を公開した。
今まで、国宝、重文などの貴重な文化財の修復は、財団法人美術院によって、主に京都と奈良で行われているが、今回、九州における修復の拠点として九博に修復作業室が設けられ、同じく美術院が修復事業に当たる。
  現在、奈多宮(大分県杵築市)所有の国指定重文「僧形八幡神坐像」「女神坐像(2体)」のほか、小武寺(おたけじ)(同)所有の同「倶利迦羅竜剣(くりか らりゅうけん)」の修復作業が行われており、今後も、峯高寺(ほうこうじ)(福岡県みやこ町)の阿弥陀如来坐像(県文)の修復も行う予定。


●  瑞巌寺本堂創建以来初めて大改修(2006年8月29日)

 宮城県松島町の瑞巌寺が、国宝本堂の解体修理を行う。
  本堂は、伊達政宗が1609年に創建して桃山建築の代表的寺院として国宝に指定されている。2003年に相次いで起きた三陸南地震と宮城県連続地震で壁に 亀裂が入るなどの被害が発生し、建物にゆがみがあることなどが判明した。2009年には創建400年を迎えることもあり、修理は2008年度からは約10 年間かけて行われ、創建以来初の大改修となる。

● 奈良・唐招提寺
金堂扉 金具下に文様天平の極彩色(2006年8月24日)

 奈良市西の京の唐招提寺で解体修理中の金堂(国宝)の正面扉から、8世紀後半の創建当初のものとみられる極彩色の宝相華文の彩色文様が鮮やかに残されているのが見つかった。
 文様は、金堂正面に5組10枚ある扉板(高さ4.4m、幅1.1〜1.4m)の東端と西端の計3枚の金具の下から見つかった。文様は最大横20cm、縦12cmで、外気にさらされなかったために色彩がほぼ保たれている。
 彩色にはには、ベンガラ(赤)、緑青(緑)、鉛丹(橙)などの顔料が使われたとみられ、立体感を生み出すために色に濃淡をつける繧繝(うんげん)彩色法がみられるなど、当時の技法を駆使。
また、すべての扉板上部の江戸時代に描かれた文様の下から、直径約70cmの円形にまとめられた2種類の宝相華文の痕跡も見つかり、扉全面に交互に描かれていたらしい。文様は堂内に安置されていた薬師如来立像の光背の文様などとも一致するという。
 古代建築の扉の外部に彩色文様が残る例はなく、華やかな天平文化に彩られた金堂の姿をうかがわせる貴重な資料になりそうだ。
 


● キトラ古墳で天文図柳宿など5カ所にカビ (2006年8月22日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳の石室内に描かれた天井天文図柳宿(りゅうしゅく)など計5カ所に黒い粒状のカビらしきものが見つかった。
 黒い粒状のカビらしきものは、18日に実施された定期点検で確認され、柳宿付近の赤道そばの縦約3cm、横約2cmの範囲と、八穀(はっこく)、紫微垣(しびえん)、奎宿(けいしゅく)のそれぞれ余白部分に発生していたという。


● 鳥取・三仏寺の「投入堂」90年ぶり修理(2006年8月21日)

 開山1300年を迎えた鳥取県三朝町の三徳山三仏寺で、平安時代後期の建造物とされる国宝「投入堂」が約90年ぶりに修理された。
 投入堂は三徳山(900メートル)中腹にある標高約500メートルの絶壁に、引っ掛かるように建っている。
 1914〜16年に一度解体修理されているが、岩のすき間からにじみ出す雪解け水などで檜皮ぶきの屋根が黒く腐食したために、一部をはがしてふき替えることになり、真新しい茶色のヒノキの皮を重ね、竹くぎで屋根に打ち付けられた。
 絶壁での工事だけに、屋根修理だけなら約二週間で終わるのに、足場建設や材料運搬などを含め計約4カ月半かかり、8月中旬に完了した。

● 壁画のない部分12カ所でカビ-キトラ古墳定期点検  (2006年8月24日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、定期点検の結果、石室内東壁中央の余白部分に直径約1〜5mmの緑綿状のカビらしきものを3カ所確認。北壁中央下部や南壁西側の粘土上など計12カ所で、最大で横約1cm、縦約5cmの白い綿状のカビらしいものが確認された。

● 「樺崎寺跡」を自費出版 発掘成果、伝説などを収録(2006年8月20日)

 栃木県足利市の文化財保護課長などを務めた長太三さんが、「史跡 樺崎寺跡」を自費出版した。
 樺崎寺(法界寺)は鎌倉時代初頭、源性足利氏の二代目足利義兼によって創建されたと伝えられる、市内では鑁阿寺と並ぶ中世寺院で、昭和59年から発掘調査が行われており、平成13年に国の史跡に指定された。
 長さんは祖父が樺崎町出身で、また自身が文化財保護課長当時、樺崎寺跡の発掘調査に関係したこともあって、樺崎寺跡に興味を持って研究を続け、古希を記念してまとめ上げた。これまで市が実施した発掘調査の成果や地元に伝わる伝説や伝承をまとめた。
 「史跡 樺崎寺跡」はA5判、127ページ。「まぼろしの樺崎寺」「眠りからさめた樺崎寺」など大きく九項目で構成されている。


● 網干善教氏の遺骨、発掘調査の「祇園精舎跡」に分骨(2006年8月20日)
 先月29日に78歳で亡くなった関西大名誉教授、網干善教(あぼし・よしのり)氏の遺骨の一部が、網干氏が発掘調査したインドの仏教遺跡「祇園精舎跡」に分骨されることになった。
 網干氏は奈良県明日香村の高松塚古墳壁画を発見したことで知られるが、僧籍を持ち、生前は「仏教の源流を突きとめたい」と1986年から3年間、日印共同学術調査団の日本側責任者としてインド北部の仏教遺跡の発掘にあたり、祇園精舎の場所を確定する成果を残した。

● 太宰府政庁跡を大規模発掘調査 (2006年8月19日)

 福岡県太宰府市の太宰府政庁を中心とした太宰府条坊の大規模な発掘調査行われている。
 調査は、西鉄二日市駅の操車場跡の再開発に先立ち、約2万m2の規模で昨年4月から6ヶ年計画で行われている。
 条坊の解明は20年前から行われており、条坊の東端、南端などは明らかになっているが、全体の正確な位置などは不明な点が多い。
 現在までに約半分の発掘を終えており、86m間隔の道路跡と奈良時代から平安時代後期までの15棟の建物跡が出土しており、ほぼ90m間隔で設けられたとされる街造りの様子が裏付けられている。
 年内には、現地説明会を開き、中間報告を行うという。

● 守山・弘前遺跡で井戸枠に転用された丸木船を出土(2006年8月18日)

 滋賀県守山市赤野井、矢島両町のる弘前(こうまえ)遺跡で、丸木舟を再利用した円形の井戸枠のある古墳時代後期の井戸跡が見つかった。
  井戸枠は直径約0.6m、深さ約1.6m。断面がU字型の2枚を含む計6枚の木材を、筒状に組み合わせていた。U字型木材の先がすぼんでいることなどか ら、1隻の丸木舟の船首と船尾に近い部分を利用したとみている。転用されたと見られる舟の全長は推定5〜6m。U字型木材の内側の側面には左右対称のくぼ みや穴があった。手すりの棒やしきりの板などを渡したとみられ、琵琶湖で交通や物資運搬などに使用した舟が使えなくなり転用したとみられる。

● 桃山時代の金箔瓦の破片出土(2006年8月18日)

 京都市中京区で桃山時代の金箔瓦の破片が見つかった。
 金箔はほとんど失われていたが、表面にかすかに残る金粉が残されていた。
  同じ穴から茶の湯などで使われた桃山期の陶器や生活で用いられたとみられる木製品が大量に見つかり、当時三条通沿いに並んでいた陶器店のものとみられる。 金箔瓦を葺いた建物が周辺にあったとは考え難く、豊臣秀吉の聚楽第が破却された後、拾ってきて陶器店が珍重したのではないかと考えられるという。

● 亀岡の国分古墳群で八角墳発見(2006年8月17日)

 京都府亀岡市千歳町の国分古墳群で、地元の有力者を埋葬したとみられる飛鳥時代中期の八角形の古墳(八角墳)が見つかった。
 発見された八角墳は半分ほどが欠損していたが、縦、横約15mと推定され、全長9.1mの横穴式石室があった。遺体を安置する玄室からは、銀装を施した鉄刀や木棺に使われたくぎなどが出土した。
 八角墳は、これまでに全国で14例確認されているが、府内では天智天皇陵のみで、地方の氏族が築いた小規模古墳が群集する中で発見されるのは珍しく、埋葬者が大王家と親密な関係にあったことがうかがえるという。

● 唐招提寺で金堂扉絵の保存処理開始  (2006年8月11日)

 奈良市五条町の唐招提寺で、解体修理中の金堂に描かれた扉絵の保存処理が始まった。
 扉板は金堂の正面に10枚あり、2種類の花の彩色文様が描かれている。内側は朱塗り。花文様は顔料のはく落が激しく、図柄がほとんど判別できなくなっているが、元禄6(1693)年の修理で描き直された可能性が強いとされる。

● 五條の荒坂瓦窯群遺跡で新たに窯跡2基発見 (2006年8月11日)

 奈良県五條市西河内町の荒坂瓦窯群遺跡で、新たに窯跡2基などが見つかった。
  荒坂瓦窯群遺跡は金剛山の南東麓、関屋川沿いの丘陵地帯に位置する遺跡で、昭和8年の調査以来、これまでに12基の窯跡や瓦工人らの住居とみられる建物跡 が見つかっている。出土した瓦の様式などから、7世紀後半の天武朝に造営された奈良県明日香村の川原寺の創建瓦などを生産した瓦窯群地と見られている。

● 藤原定家写本の「俊頼髄脳」 冷泉家で発見(2006年8月10日)

 京都市上京区の冷泉家で平安後期の歌学書「俊頼髄脳(としよりずいのう)」を、鎌倉前期の歌人藤原定家(1162〜1241)が写した写本が見つかった。
 見つかった写本は、縦16.5cm、横15.9cm、486ページで、巻頭と奥書は定家の直筆、本文は側近の筆と見られ、定家による訂正の跡があった。
 「俊頼髄脳」は金葉和歌集を選んだ歌人源俊頼が、鳥羽天皇の后となった関白藤原忠実の娘泰子に献上したもので、和歌にまつわる故事や伝承を記し、代表的な歌学書として広く読まれた。これまで、江戸中期の写本しか残っておらず、今回の発見されたものが最古の写本になる。


● キトラの朱雀に白い粒 粘性の物質変化か(2006年8月7日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳石室で、南壁の四神図「朱雀(すざく)」の尾羽に、ねばねばした白い粒状の物質が多数確認された。
  文化庁によると、確認した粒は直径1mmで縦6cm、横17cmの範囲に密集していた。昨年7〜8月にも同じ場所で、バクテリアとカビの混合物とみられる 薄い膜のような粘性物質が発生していたが、除去を繰り返すと壁画を傷つける恐れがあるとして、除去しておらず、これが変化した可能性があるという。文化庁 はサンプルを採取、物質を特定し原因を調べる。


● 長崎県の海岸に仏像が漂着(2006年8月3日)

 長崎県天草郡苓北町の四季咲岬付近の海岸で木製の仏像が見つかり天草署に届けられた。
 この像は、高さ約60cmの菩薩坐像で、今年7月24日に海岸の漂着物を調査していた同町職員が見つけた。一木造で髪形から菩薩坐像とみられるが、両腕が折れており、詳しい尊名は分からない。貝殻も付着しており、長期間漂流していたらしい。
 問い合わせは天草署会計課(0969-24-0110)まで。


● 書籍や文化財、Wikipediaを横断検索できるサイトを公開(2006年7月28日)

 国立情報学研究所(NII)は、単語や文章をキーにして、書籍データベースや文化遺産データベース、Wikipediaなどを横断検索できる検索サービス「想−IMAGINE Book Search」
http://imagine.bookmap.info/imagine)を公開した。
 文章をキーに検索できる検索エンジン「GETA」を活用した。複数のデータベースを横断的に検索でき、結果はソースごとに並べて表示する。検索結果をキーにして、絞り込み検索することもできる。
 検索対象は、書籍データベース「Webcat Plus」、新書データベース「新書マップ」、Wikipedia日本語版、古書データベース「Book Town じんぼう」、文化財データベース「文化遺産オンライン」、書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」。
 運営は、NPO法人・連想出版が行い、今後、報道写真や学術情報、闘病記ブックガイド「闘病記ライブラリー」など、検索対象を順次増やし、また商用コンテンツを検索対象に加えることも検討している。


● 高野長英の肖像画を破損(2006年5月22日)

 岩手県奥州市の高野長英記念館が所蔵している国の重要文化財、高野長英の肖像画が職員の不注意から破損していたことがわかった。
  破損したのは椿椿山が描いた国の重要文化財・高野長英の肖像画で、羽織りの左襟の部分が直径およそ3mmほど破れ、裏打ち紙が露出している。破損したのは 去年の8月19日で、特別貸し出しのため高野長英記念館から肖像画を持ち出す際、職員が壁に小さい釘が突き出ているのに気づかず壁に肖像画を強く押しつけ ながら巻き上げたことが原因と見られている。
 この肖像画は縦106.7cm、横42cmの絹布に描かれたもので、後藤新平が明治時代に愛知県内で発見入手し、1972年に後藤家から旧水沢市に寄贈され、高野長英記念館で管理している。

● 平城京、九条大路より南で溝跡出土 (2006年8月4日)

 奈良県大和郡山市藺町で、平城京内と同じ規格の溝が見つかり、平城京の区域が従来の想定よりも南に広がっていた可能性が高くなった。
  平城京の正門である羅城門の南西で7月、九条大路から約200m南の地点を発掘したところ、幅約70cm、深さ約20cmの溝が南北に8m以上延びている のが見つかった。昨年、左京南端付近の下三橋遺跡でも道路跡が見つかり、平城京の区域が従来の想定よりも南に広がっていたことが判明しているが、右京も南 に拡大する可能性が高くなった。


● 高松塚壁画の発見者・網干善教教授が死去(2006年7月29日)

 奈良県明日香村、高松塚古墳の極彩色壁画を発見、調査した、網干善教関西大名誉教授が死去された。
  専門は考古学、古代史、仏教史で奈良県明日香村出身。1972年に高松塚古墳を発掘中に極彩色壁画を発見し、空前の古代史ブームを巻き起こすきっかけをつ くった。また、インドで祇園精舎跡や近傍の都市遺跡、舎衛城の発掘活動などを行い、仏教考古学、北インドの考古学研究にも多大な功績を残した。
 高松塚古墳の石室解体保存に関しては、文化庁による管理体制の不備、官僚的な事後対策を糾弾し、考古学者の立場から遺跡の破壊する行為であるとして一貫して反対の姿勢を貫いていた。

(所感)
 私が中学生の頃、明日香の板葺宮跡を訪ねた時、発掘作業中のおじさん(網干教授だった!)が現地を説明しながら、「手弁当で汗水垂らして発掘調査を行っても、教科書には一行載るだけです」としみじみと語っておられた姿が眼に浮かぶ。ご冥福をお祈りします。

● 高松塚古墳の石室、南西に傾く 3D計測で判明(2006年7月27日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室が南西に傾いていることが、レーザーを使った3次元計測で判明した。
  奈良文化財研究所が石室の現状を知るために昨年12月、石室床面の2カ所にレーザースキャナーを設置し、約147万ポイントのデータを採取、解析した。そ の結果、南西角の床が北東角より6.5cm低く、1.6度傾斜していた。天井も南西角が北東角より7.9cm低く、四方の壁が少しずつ傾くなど、石室が反 時計回りにねじれていることが分かった。
 変形の原因は、地震などの影響とみられるが、来年春には石室の解体が予定されており、傾いた石壁に負荷がかからない方法を検討する必要が出てきた。(写真の赤い線が基準線で、手前-南-に傾いていることがわかる)


● バーミヤンで7世紀ごろの図像発見(2006年7月25日)

  アフガニスタンの世界遺産、バーミヤン遺跡で石窟内から、獅子や犬、クジャクなどを合成した想像上の動物「シームルグ」を描いた7世紀ごろの図像が発見された。
  文化財研究所が先月から今月にかけて、タリバンに爆破された西大仏から約300m東にある石窟で壁画の洗浄作業を実施した結果、それまで住民が石窟内で煮 炊きした際に出たススなどでほとんど見えない状態だったが、シームルグのほか、色鮮やかなだいだい色の法衣をまとった仏画、インド風の唐草文様などが姿を 現した。
 シームルグは古代ペルシャの国教ゾロアスター教の教典に記載された動物であるが、シルクロードの要衝だったバーミヤン遺跡ではこれま で、ゾロアスター教徒の墓とみられる遺構が出土するなど、仏教国でありながらペルシャや中央アジアの影響が見つかっており、今回の発見もそれを裏付けるも のと考えられる。


● 高松塚古墳石室解体後に墳丘埋め戻し(2006年7月24日)

  奈良県明日香村の高松塚古墳の国宝壁画保存問題で、文化庁の恒久保存対策検討会は、石室の解体後、壁画を修復する間の約10年間について、墳丘内の石室のあった場所を土で埋め戻したままの状態にする整備方針を決めた。
 石室は来年3〜4月に解体され、埋め戻し作業は来年度内に終える予定という。
 古墳南側にある壁画保存のための空調施設も撤去するため、墳丘は1972年の発掘前の姿に戻ることになる。

● 藤原氏の史跡「平泉」を世界遺産に推薦(2006年7月21日)

 中尊寺金色堂などの文化遺産で知られている岩手県の平泉(岩手県平泉町、奥州市、一関市)が「平泉−浄土思想に関連する文化的景観」として、世界遺産条約の「文化遺産」に推薦されることになった。
 平泉は11世紀末〜12世紀にかけ、奥州藤原氏が金資源や交易などを背景に造営した政治・行政の拠点で、四代で滅亡したが、開発による大きな影響を受けておらず、多くの遺跡が地下に良好な状態で保存されている。
 対象地域は、藤原氏三代の遺体などを納めた中尊寺、浄土庭園で知られる無量光院跡、同氏の政庁跡と考えられる柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡、金鶏山などで、国宝1件、重要文化財5件、特別史跡3件、史跡4件、特別名勝1件、名勝1件、重要文化的景観1件が含まれる。
 文化庁は来年2月1日までに国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出。評価機関の国際記念物遺跡会議による審査の後、2008年のユネスコ世界遺産委員会で登録が決まる。日本政府が過去に推薦した遺産は、すべて登録されているという。
 登録されれば、国内の「文化遺産」は、「姫路城」「日光の社寺」などに続き、11件目となる。



● 高松塚古墳合成樹脂で壁画補強の方針(2006年7月21日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の国宝壁画保存問題で、文化庁の恒久保存対策検討会が石室解体後に壁画や石材を合成樹脂などで補強しつつ修復する方針を確認した。
 文化庁は壁画を約10年がかりで修復した後、古墳内に戻すことを決めているが、樹脂が劣化するため、20〜30年に1度は石室解体を伴う定期的な措置が必要となるという。
 仏堂の壁画などの場合、100年に一度の部分修理と300年に一度の解体修理が必要といわれるが、高松塚はこの10分の1程度の頻度で再発掘、解体修理を繰り返さなくてはならないことになり、石室の劣化が心配される。
 また石室解体後に行う墳丘の仮整備について、部会メンバーが3案を提示。墳丘を可能な範囲で復元し、石室のレプリカを本来石室があった場所に設置した上で公開する案を軸に協議した。



● 奈良・桜井市の安倍寺跡、最古級の彩色壁画を確認(2006年7月16日)

 奈良県桜井市の安倍寺跡で11年前に出土した壁土が国内最古級の彩色壁画片だったことがわかった。
 壁画片は縦4〜9cm、横2.5〜8.5cmの5点、いずれも土壁の上に漆喰を塗りベンガラなどで彩色したもので、高温で焼けて変色していた。
 絵柄は不明だが、一部の壁画片には型紙をあててへらなどで下絵の線を刻んだと見られる放射線状に引かれた2本の下書きの線刻があることがわかり、彩色壁画片と断定された。
 鳥取・上淀廃寺で発掘された壁画片(7世紀後半から8世紀初頭)より古く、先日壁画の断片が出土した法隆寺の若草伽藍(7世紀初め)に次ぐ、最古級の壁画とみられる。
  安倍寺跡は、古代豪族・安倍氏が7世紀半ばから後半ごろに創建された寺で、金堂・講堂・塔・中門・回廊などの建物跡が確認されており、伽藍は南面し、法隆 寺式あるいは川原寺式に近いと考えられている。鎌倉時代に火災で焼失しており、今回の壁画片も1995年に境内の鎌倉時代の溝から焼けた土器などととも出 土したもので、桜井市立埋蔵文化財センターで展示されていた。

● 唐招提寺薬師如来立像が6年振りに帰寺(2006年7月14日)

 金堂の解体修理に伴い奈良国立博物館で展示されていた唐招提寺の薬師如来立像が、保存修理のため寺へ戻ることになった。
 薬師如来立像は高さ3.7mの木心乾漆像で、2000年に始まった金堂の解体修理に合わせ、平安時代の造立以来初めて堂外に出され、同博物館で公開されてきた。
 本尊の盧舎那仏坐像や、千手観音立像(共に国宝)とともに境内の修理所に移され、金箔の剥落止めなどの修理がおこなわれる。

● 奈良で最古級の馬具出土(2006年7月7日)

 奈良県平群町の剣上塚古墳で、5世紀後半とみられる馬具の飾り金具が見つかった。
 飾り金具は、竪穴式石室からよろいの一部などとともに出土した「剣菱形杏葉(けんびしがたぎょうよう)」3点で、いずれも長さ約11cm、最大幅約6cm。鉄板に金銅板をかぶせ鋲で留めており、全体的にさびているが保存状態は良いという。
 日本で出土した馬具としては最古級で、似たタイプが朝鮮半島南部で発掘されていることから朝鮮半島からの輸入品とみられる。


● 奈良博の国宝 十一面観音頭上面を追記か(2006年7月6日)

 奈良国立博物館所蔵の仏画十一面観音像が、同館と東京文化財研究所の調査で、頭上面が10面から11面に描き加えられていることがわかった。
 本像は、斑鳩町の法起寺に伝来したもので、縦169cm、横90cm。平安時代を代表する仏画として、絵画の十一面観音像としては唯一、国宝に指定されている。
 今回、2200万画素の高精度デジタルカメラによる撮影や、近赤外線撮影、蛍光X線分析など総合的な科学調査が行われた。
  蛍光X線分析では、銀を使ったと思われていた条帛や水瓶、台座の宝珠から銀は検出されず、カラー画像から黒と青の顔料が確認でき、当初から青黒色だったこ とが判明、また近赤外線による調査では下描き線が確認され、頭頂面には正面を向いた下描き線が確認され、最終的な描起しの段階で視線を右下に落とした表情 に変更されたことなどがわかった。
 これらの結果は、奈良国立博物館にパネル展示される他、「国宝 絹本著色十一面観音像」として中央公論出版から発行されている。
 
 十一面観音像は、7月22日から8月20日まで奈良博で開催される「探検!仏さまの文様」に展示される


● 埼玉の反町古墳で古墳時代後期の水晶工房跡発見 (2006年7月4日)

 埼玉県東松山市高坂の反町遺跡から、古墳時代前期(4世紀)とみられる水晶の玉造り工房跡が見つかった。
 工房跡は4.1m×3.8m、深さ0.41mの竪穴遺構で、床面に多数の水晶や碧玉の破片、砥石などと共に長さ約3cmの角柱状の水晶の原石が3個並んだ状態で見つかり、また10mほど離れた溝からも水晶や碧玉の破片が見つかった。
 出土した水晶は山梨県甲州市で産出される「草入り水晶」と特徴が似ているという。
 玉は装飾や副葬品用と見られ、弥生時代の水晶の工房跡としては、島根県や京都府などで見つかっているが、関東では初めてという。


● 愛知・彼岸田遺跡で日本最古級の横櫛が出土 (2006年7月5日)

 愛知県安城市の彼岸田遺跡で、4世紀末から5世紀前半につくられたとみられる日本最古級の木製横櫛が出土した。
 横櫛は縦5.5cm、横7.7cm、歯数19本で、朝鮮半島から渡来した鉄のこぎりで歯を削り出し作られたと考えられる。材質とみられるイスノキは当時西日本に分布しており、横櫛は地域交流によって持ち込まれた可能性もあるという。
 大阪府八尾市の小阪合遺跡でも同様の形態の横櫛が出土している。


● 奈良・東大寺南大門に「大華厳寺」額(2006年7月4日)

 奈良市・東大寺は、鎌倉時代の復興に尽力し、南大門などを再建した重源上人の800年忌法要を記念して南大門に「大華厳寺」の額をかけることを明らかにした。
 額は幅4.5m高さ1.65mで、東大寺を創建した聖武天皇が残した写経から「大華厳寺」の文字を集め、黒文字で黄色地の額に配置し、南大門の1層目の屋根に置く。
 大華厳寺は、華厳宗大本山である東大寺の異名で、現在、境内に寺名を示す額はないが、鎌倉末期の華厳宗凝然が南都六宗の歴史を叙述した『三国仏法伝通縁起』に、弘法大師の筆になる大華厳寺の額が南大門にあったと記されている。


● 高松塚壁画修復施設を一般公開へ(2006年6月29日)

 奈良県明日香村の特別史跡、高松塚古墳の国宝極彩色壁画について、文化庁は来年春の石室解体後に期間限定で一般公開することを決めた。
 古墳がある国営飛鳥歴史公園内に建設予定の保存修復施設の修理作業室にガラス窓を設け、見学者には施設の廊下からガラス窓越しに解体壁画を見てもらう。
 石室解体はこれまで来年2月に開始予定だったが、今年4月に発覚した壁画損傷事故などの影響で1カ月ほど遅れる見通し。
 石室は16個の石壁に解体され、約2カ月がかりで施設に搬入。10年ほどかかるとみられるが、石室解体の2〜3年後から作業の節目ごとに順次、公開する方針という。
実現すれば1972年の壁画発見以来初めての一般公開となる。

● 奈良・西大寺で8世紀の食堂跡出土(2006年6月28日)

 奈良市西大寺の西大寺の旧境内で、食堂跡と見られる8世紀後半の大型建物跡が見つかった。
 建物跡は、東西8.4m以上、南北21m以上。東側に柱穴跡より間隔の狭い穴跡が並んでおり、ひさしが付いた立派な建物だったらしい。
 また建物跡の約30m東で、須恵器のかめを埋めた直径約20〜40cmの穴の跡13カ所も確認された。かめの現物や中身は残っていなかったが、底の痕跡などからかめの高さ、直径とも1mほどと推定される。
 西大寺では、2002年にも現地の北側で同様のかめ跡28個分を発見しており、未調査地も含めると、かめは東西6m、南北30mの範囲に80個以上並んでいた可能性が高い。
 平城宮(8世紀)の役所「造酒司」跡でも36個のかめ列跡が見つかっており、食料貯蔵用とみられるが、これほど多数の埋めがめ跡は珍しい。寺の経済力の大きさをうかがわせる。

       
● キトラ古墳で業者が無許可掘削 文化庁公表せず(2006年6月28日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で2003年、史跡指定地内の地面を業者が許可を受けずに掘削したことが判った。
 2003年2月、極彩色壁画を守るため同庁が保護施設を建設した際、墳丘から約15mの史跡指定地内で業者が車両回転スペース確保および排水タンクを設置するため地面を勝手に掘削。立ち会っていた明日香村職員が発見、中止させたという。
 文化庁は当時の記念物課長ら3人を口頭で厳重注意していたが、これまで公表していなかった。

       
● 南丹・城谷口古墳群で6世紀の「蛇行剣」出土(2006年6月28日)

 京都府南丹市八木町の城谷口(じょうだにぐち)古墳群で、古墳時代中期(5世紀)から後期(6世紀)にかけての古墳計11基が確認され、6世紀のものとみられる鉄製の「蛇行剣(だこうけん)」などの副葬品が見つかった。
 古墳は方墳で最大のもので縦横各約20m、円墳は、最大で直径12mあり、横穴式石室が確認された。
 蛇行剣は長さ約70cmで、比較的大きい円墳の横穴式石室の奥壁付近から人骨や刀とともに出土。他の古墳では、須恵器や耳環、管玉など多数の副葬品が見つかった。
 蛇行剣は祭祀に使われたとみられる。西日本を中心に5〜6世紀のものとされる剣が約60本確認されているが、京都府内では、綾部市の奥大石古墳群出土のもの(5世紀)に次いで2例目。


● 法隆寺の若草伽藍で新たな壁画片発見 (2006年6月28日)

 斑鳩町の法隆寺で、創建時の若草伽藍跡から樹木などを描いた7世紀初めの焼け焦げた壁画片や壁土、瓦などが大量に見つかった。
 現場は南大門につながる塀の内側で、若草伽藍の塔跡から約90m西。壁画片などは、推定幅1.5mほどの溝の中に、細かく割れた約270点の壁材が堆積(たいせき)していた。 
 このうち、約80点で壁画を確認。大半が一辺4cm以下と小さく、樹木を描いたとみられる破片(縦4cm、横3cm)や、暗褐色のしま模様、玉を連ねたような飾りが描かれた破片もあり、仏画の一部だった可能性があるという。
 一緒に出土した軒丸瓦と軒平瓦は黒く焼けただれ、壁土や解けた銅が付着していた。文様から塔に葺かれていた可能性が強い。
 現場近くでは2004年に、同時期の焼けた壁画片が出土。670年に法隆寺が焼失したとの日本書紀の記述を裏付け、現在の伽藍が再建されたことを証明する資料と考えられている。
 一昨年の出土地にも近く、伽藍の焼失後、一カ所に廃棄されたものと考えられる。


● 高松塚教訓に専門家集め文化財カビ対策(2006年6月28日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室でカビが大量発生した問題を受け、文化財や美術品などのカビ対策全般を検討する文部科学省の専門家会合が開かれた。
 会合では、カビの生態や、研究施設でのカビ防止策などについて現状を説明し、
今後、美術館や図書館の担当者からカビ対策の課題などを聞き取り調査し、カビ発生のメカニズム解明や効果的な対応策について、来年3月までに報告書をまとめる。

       
● 京都・金戒光明寺の文殊菩薩騎獅像の頭部に金属製容器(2006年6月27日) 

 京都市左京区・金戒光明寺(黒谷文殊堂)の文殊菩薩騎獅像(市文)の頭部に、金属製の容器が納入されているのが分かった。
 本像は、2004〜5年度、美術院が割れ目や欠損部を修理した際に、エックス線透過撮影で内部を調査したところ、後頭部付近に直径10cm、高さ10cm程度の円筒形の容器を確認、ほかに仏舎利を収めたとみられる小さな容器もあった。
 よく似た納入品の例としては、叡尊の十三回忌に造られた奈良・西大寺の文殊菩薩像が知られており、同像の容器には仏舎利を収めた水晶の五輪塔が入っていた。
 本像は体のボリューム感や衣紋の写実性などから、13世紀の鎌倉時代の作とみられており、普段は同寺三重塔に安置されているが、6月28日(水)〜9月18日(月・祝)まで京都国立博物館の平常展示館で常設展示される。納入品は取り出さない。

● 大峯山寺で藤原道長奉納の大量の灯明皿出土(2006年5月29日)

 奈良県吉野郡天川村の大峯山寺で、藤原道長とひ孫の師通の参詣に伴うと見られる、大量の灯明皿や鉄製の綱が見つかった。
  防災工事に伴う発掘調査で、本堂南側の斜面から、直径10〜15cmの灯明皿が、幅3〜4m、厚さ約60cmの層状に堆積しているのが発見され、内側に灯 心の焼けた跡があった。形などから十一世紀の初めと終わりに大別でき、日記に記された道長、師通の参詣時期と一致する。確認した層だけで約千点(約一ト ン)あり、さらに斜面の上へと続いていた。
 鉄綱も灯明皿に混じって大量に見つかり、鉄線や鉄板をよじって直径4〜8mmのワイヤ状にし、鉤(かぎ)形に曲げた先端で接続したものもあった。
  道長の日記『御堂関白記』には、寛弘四年(1007)の参詣に際し「御明百万燈」を奉納したとあり、また寛治四年(1090)に参詣した師通の日記『後二 条師通記』には「鉄綱二十條」の奉納が記録されている。師通は、道長に倣って日記にも同じ奉納品を書写しており、同じ場所で燃灯供養を行ったとみられてい る。
 調査地は役行者が蔵王権現を感得した「湧出岩」に近く、山上ヶ岳の頂上直下で道長奉納の経筒(国宝)も同じ斜面で出土したと伝えられている。灯明皿は湧出岩付近から投棄された状態で堆積しており、道長、師通の燃灯供養が湧出岩付近で行われた可能性が強いという。

● キトラ古墳定期点検で6カ所にカビ (2006年6月13日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳の定期点検の結果、朱雀の尾羽の付け根付近で薄い楕円状の白いカビらしきものが見つかったのをはじめ、計6カ所に黒、または白のカビらしきものが確認された。
  カビは、天井天文図尾宿(びしゅく)の余白部分に直径5〜10mmの範囲、、心宿(しんしゅく)と房宿(ぼうしゅく)の間の漆喰割れ目部分に長さ5mmの 範囲で、それぞれごく小さい黒い粒状のカビらしきものが発生。また、南壁の四神・朱雀の尾羽の付け根付近では、極めてわずかで薄い楕円状の白いカビらしき ものが見つかった。

● 高松塚古墳で新たに4カ所を独断補彩(2006年6月9日) 

 奈良県明日香村の高松塚古墳の国宝壁画損傷問題で、文化庁美術学芸課の元主任文化財調査官だった林温・慶応大教授が、平成14年、壁画の4カ所を補彩するなどの処置を行い、報告もしていなかったことが新たに判明した。

● キトラ壁画で朱雀頭上余白にカビ(2006年6月8日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳の定期点検で、南壁に描かれた四神・朱雀の頭上から2〜3cmの余白部分に、長さ約2cm、幅約1cmの帯状の白いカビらしきものが新たに発生していることがわかった。
また、前回の定期点検で確認された場所と同じ、南壁・盗掘口側天井付近にも環状の白いカビらしきものが見つかった。

● 高松塚壁画で飛鳥美人まゆに「しみ」(2006年6月7日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の国宝壁画の西壁女子群像の中央に位置する赤衣像の右まゆに、カビとみられる新たな黒いシミが見つかった。
大きさは直径約2mmで、今月2日に行われた点検時に撮影した画像を拡大して分かった。
 一方、同じ女子群像の額と胸、西壁の白虎の頭上に発生した黒いカビについては5月17日と6月2日の2日間、除去作業を行い、一部除去できたという。

● キトラ古墳朱雀にカビ見つかり除去(2006年6月2日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室南壁に描かれている四神図「朱雀(すざく)」の表面など3カ所に白い綿状のカビのようなものが見つかった。
 カビ状の物質は長さ最大約5cmの縦長の輪のような形で発生し、朱雀の尾羽にかかっていた。また絵のない部分で、同じ南壁の盗掘坑付近に直径約8cm、北壁に長さ約13cmのものが見つかった。
 キトラ古墳では、カビ対策として週2回ほど点検しているが、5月29日の点検の際には確認されなかった。


● 月夜田遺跡で奈良時代の山陽道の溝跡見つかる(2006年6月1日)

 京都府八幡市八幡の月夜田遺跡を奈良時代の溝跡が見つかった
 見つかったのは、幅2.7m、深さ1mの溝状の遺構。北西から南東方向に流れ、調査した長さは約4.5m。自然河川を粘土などで埋めて造っており、出土した瓦や土器類から8世紀前半の奈良時代に造られたとみられる。
 調査場所は、都と九州・大宰府を結んだ官道「山陽道」のルート上とされる地点で、溝跡はこれまで言われている山陽道の向きと同じであることから、この溝に沿って山陽道が走っていた可能性があるという。



● キトラ古墳盗掘口付近の石室床面にカビ(2006年5月30日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、石室床面の盗掘口付近に、白と緑の綿状のカビらしきものが見つかった。
 カビらしきのものは、南壁の盗掘口を中心に半径約1mの範囲に、最大で長さ1mm程度のものが5、6カ所点在し、虫の死骸も確認されたという。


● 甲斐善光寺三尊像に非破壊で鏡を発見
(2006年5月27日)

 甲府市善光寺の甲斐善光寺で阿弥陀三尊像(重文)の脇侍、観音菩薩像と勢至菩薩像の胎内に平安時代後期の和鏡が納められていたことがエックス線調査で分かった。
  鏡は観音菩薩像のひざ下部分と勢至菩薩像の頭部から一枚ずつ見つかった。鏡の模様は、ハギやススキなどの秋の草や2羽の鳥の文様が描かれた秋草双鳥鏡(観 音菩薩像)と水草や川、2羽の鳥が描かれた水草流水双鳥鏡(勢至菩薩)。直径はともに約8cmであるが、文様から、鏡の鏡縁部の界圏(かいけん)と呼ばれ る部分を切り取ったと見られる。
 仏像胎内からの鏡の発見は全国で十二例あるが、エックス線調査で仏像を解体することなく確認された例は全国で初めて。
 阿弥陀三尊像は平安時代後期の制作時であることから、鏡も像の制作時に胎内に納入されたとみられるが、通常鏡は胸部に納められることが多く、観音菩薩像のものも胸部に納めたものが落下した可能性がある。
 同三尊像は、山梨県立博物館が2005年10月のオープン間直後に善光寺からこの仏像を借り受け特設展示した後、今年3月からは常設展示「信仰の足跡」コーナーでで公開している

● キトラ古墳またカビ (2006年5月26日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、石室天井に描かれた天文図の太陽を表す「日像」の部分に小さな黒いカビらしきものが、南壁の余白部分に白綿状のカビらしきものが、それぞれ新たに見つかった。
 いずれも絵の線からは外れ、壁画そのものは無事だったが、石室内で断続的にカビの発生が続いていることが改めて浮き彫りになった。


● 正倉院の経は韓国国宝と同時期、統一新羅の写経伝来か (2006年5月23日)

 奈良県東大寺・正倉院の宝物「大方広仏華厳経」は、これまで日本で未確認だった統一新羅時代(677―826年)の朝鮮半島で写経した可能性が高いことが分かった。
「大方広仏華厳経」は、幅26cm、長さ30.8mの経典で、当時の日本では使用例のないコウゾでつくった55枚の紙をつなぎ合わせており、力強い楷書で書かれている。 
 調査の結果、端正な鋭い筆跡が新羅の特徴を伝えており、現存する朝鮮半島最古の写経とされる韓国の国宝「新羅白紙墨書大方広仏華厳経」(755年)とほぼ同時期と見られ、さらに古い可能性もあるという。




● 正倉院は最初から倉3つだった  (2006年5月23日)

 奈良県東大寺・正倉院の北、中、南3倉のうち中倉の壁材壁材を、年輪年代法で測定した結果、765年前後とされる創建より前の伐採とみられることが分かった。
 測定は壁材3点を用いて行われ、内2点から679年などの年輪パターンが確認された。製材の段階で100年分以上削ることは考えにくく、壁材は8世紀中ごろの伐採と推定された。
 正倉は床材の年輪年代調査から、一つ屋根の下に3倉を同時に建てたとする説と、中倉だけは当初床だけで、後世に増築したという見方もあったが、今回の調査結果は最初から3倉そろっていたとする説を裏付ける結果となった。


● 高松塚古墳でまたカビ?黒い染み  (2006年5月20日)

 奈良県明日香村阿部山の高松塚古墳で、西壁に描かれた四神図「白虎」の頭から数cm上にカビのような黒い染みがあるのが確認された。
 染みは直径約5mm。ほかにも西壁の数カ所で同じような染みが見つかったが、いずれも壁画のない余白部分という。


● 史跡・名勝19件指定へ(2006年5月19日)

 文化審議会は、史跡・名勝・天然記念物として大谷の奇岩群など19件、重要文化的景観として1件、登録記念物として3件を答申した。
 文化審議会の主な答申内容は次の通り。かっこ内は所在地。
【史跡の新指定】
 ▽浜尻屋貝塚(青森県東通村)
 ▽仙台郡山(こおりやま)官衙(かんが)遺跡群(仙台市)
 ▽和台遺跡(福島県飯野町)
 ▽藤本観音山古墳(栃木県足利市)
 ▽黒浜貝塚(埼玉県蓮田市)
 ▽花輪貝塚(千葉市)
 ▽仏法寺跡(神奈川県鎌倉市)
 ▽小島陣屋跡(静岡市)
 ▽久留倍(くるべ)官衙遺跡(三重県四日市市)
  久留倍官衙遺跡は、発掘調査で多数の掘立柱建物跡が確認され、古代の役所「伊勢国朝明郡衙(ぐんが)」跡の可能性が高い。政庁や正倉院など施設の規模や配 列が明確に把握でき、古代国家の地方支配体制を解明する上で貴重な遺跡。壬申の乱(672年)の際、後に天武天皇となる大海人皇子が朝明郡に立ち寄った史 実との関連も注目されている。
 ▽徳島藩松帆台場跡(兵庫県淡路市)
 ▽山陽道野磨駅家(やまのうまや)跡(兵庫県上郡町)
 ▽宇陀松山城跡(奈良県宇陀市)
 ▽大口筋(鹿児島市、鹿児島県姶良町、加治木町)
【名勝の新指定】
 ▽大谷の奇岩群(宇都宮市)
 大谷の奇岩群は、大谷寺背後の御止山と越路岩からなり、田園地帯にそびえ立っている独特の姿は「陸の松島」とも呼ばれている。今回の指定答申で大谷磨崖仏を本尊とする大谷寺の一部は、特別史跡、重要文化財と三重の指定になる。
 ▽男神岩・女神岩・鳥越山(岩手県2戸市、一戸町)
 ▽二見浦(三重県伊勢市)
【名勝および天然記念物の新指定】▽下地島の通り池(沖縄県宮古島市)
【天然記念物の新指定】▽尚仁沢上流部イヌブナ自然林(栃木県塩谷町)
【重要文化的景観の新選定】▽一関本寺の農村景観(岩手県一関市)
【登録記念物(遺跡)の新登録】
 ▽立山砂防工事専用軌道(富山県立山町)
 ▽雲原砂防関連施設群(京都府福知山市)
【登録記念物(名勝地)の新登録】
 ▽喜屋武海岸および荒崎海岸(沖縄県糸満市)

● キトラ壁画天文図に黒い斑点(2006年5月18日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、石室天井に描かれた天文図にカビとみられる黒い斑点が発生しているのが定期点検で見つかった。
 黒い斑点は、天文図の西側にある星座「畢宿(ひつしゅく)」近くの朱線(赤道)にかかるようにして直径2〜3cmの範囲で発生しているという。


●  高松塚壁画損傷補修は文化庁が決定(2006年5月13日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で平成14年、国宝の壁画を修復担当者が損傷した問題で、文化庁が損傷の3日後、庁内の会議で損傷個所を石室の土で塗り固め、補修する方針を決めていたことを明らかにした。
 補修は関係者だけで行い、事実関係は公表しなかったという。作業関係者を指導する立場にありながら壁画の損傷を隠したことに対し、批判がさらに強まる。


●  キトラ白虎初公開(2006年5月13日)

 奈良県明日香村の特別史跡「キトラ古墳」の石室からはぎとって修復された白虎が、奈良文化財研究所飛鳥資料館で初めて一般公開され、初日だけで普段の約10倍の約2500人の入館者でにぎわった。
 奈良文化財研究所飛鳥資料館で開かれているの特別展「キトラ古墳と発掘された壁画たち」(55月日から6月25日)の期間中の目玉として、5月12日〜28日まで17日間だけ展示される。
 キトラ古墳の壁画が公開されるのは、1983年の発見以来初めて。

●  奈良・高松塚古墳
壁面補彩、他に3か所(2006年5月12日)

 奈良県明日香村、高松塚古墳の壁画損傷事故に関連し、発表されていた損傷部分のほかに壁面の漆喰部分3か所が補彩されていたことを明らかになった。
  補彩が行われたのは、損傷部分の補彩を行った2か月後の2002年5月23日。東壁・女子群像の左脇、北壁・玄武の下部、天井部分の3か所で、表面が剥落 したり、防カビ剤などの実験のために不自然に白くなった部分について行われ、いずれも水で溶いた土を用いて、自然に近い状態に戻したという。
 一方、損傷部分の補彩については、事故の3日後の1月31日に、担当の美術学芸課内で早くも傷を目立たなくするための方法が検討されていたことを示す内部資料も報告された。極めて早い段階で補彩の決断がなされたことも、今後問題となりそうだ。


●  損傷「高松塚」報道対応で文化庁隠ぺいメモ(2006年5月12日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳壁画の損傷問題で、文化庁が損傷当時、その事実を隠ぺいしようとしたと受け取れる内部メモのあることがわかった。
 問題のメモは報道機関に最新の画像を提供して損傷に気付かれた場合は「経年による自然劣化と説明」するとしており、当時の文化財部長も了解していたという。


●  高松塚古墳、防護服未着用が常態化(2006年5月12日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で、東京文化財研究所の担当者が壁画を点検した際、雑菌の侵入を防ぐ防護服を着用せずに石室の蓋を開けるなどの作業をしており、文化庁担当者も防護服を着ないで石室近くにいたことが分かった。
  高松塚壁画損傷問題などの調査委員会が公開した作業状況の写真などによると、平成元年12月20日に東文研の担当者1人がトレーナーとポロシャツのような 軽装で、顔や手は露出したままで石室の蓋を大きく開けており、人体や服に付着した雑菌が石室内に入る可能性も考えられる状態だった。
 さらに平成11年6月22日には文化庁担当者が私服のような半袖姿で石室のすぐ手前に立っていた。この時は蓋は閉まっていた。
  東京文化財研究所が作成した壁画保存点検報告書では、石室前の墳丘盛り土強化工事(平成13年2月)の際、工事業者の防護服未着用が判明し、「この作業が カビ発生の原因。カビに対する配慮が少なく、カビ発生の要因が持ち込まれていたことになる」と指摘していたが、東京文化財研究所や文化庁担当者自身も防護 服未着用が常態化していたともみられ、批判が一層強まりそうだ。


●  高松塚のカビで文化庁の対策不十分(2006年5月11日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳でシンボルともいわれる女子群像に黒いカビ状の染みが新たに確認されたことから、冷却装置の効果について疑問の声が出ている、
  高松塚古墳では石室内のカビ繁殖などが止まらないことから、昨年6月に石室解体の方針が決定し、解体までの最も有効なカビ対策として、石室の周りに冷却パ イプを通して石室内の温度を下げる冷却装置を昨年夏に設置した。これによってカビの発生がかなり抑えられるはずだったが、今回の新たなカビ被害で、わずか 8カ月でその効果が疑問視される結果が出てしまった。これから夏に向け、外気が最も高温になる季節を迎えるだけに、新たなカビの発生が懸念される。


● 高松塚壁画にまた黒い染み(2006年 5月11日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の国宝壁画の定期点検で、「飛鳥美人」と呼ばれる西壁の女子群像の顔付近など2カ所にカビのような黒い染みがあるのを確認した。
 染みが見つかった女性像は、4体のうちの右から2番目で、今年2月に目尻や肩付近で黒い染みを確認したのと同じ人物像の額付近と、胸の少なくとも2カ所で、それぞれ直径1〜2cmの大きさ。定期点検の際に撮影した写真を精査して気付いたという(写真の○印)。
 除去が可能かどうかなどについて今後、微生物の専門家に調査を依頼する。


●  キトラ古墳天文図の黒カビほぼ除去(2006年5月2日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳で石室天井の天文図に発生した黒カビのようなものは、薬品を使ってほとんど除去された。
 カビ状の物質は天文図東側の星座「尾宿(びしゅく)」にかかるように広がっていたが、修復技術者2人がエタノールを付けた筆を使い、直径約4cmの範囲を1時間半かけて除去し、目に見える部分は全部取れたという。
 5日に行う定期点検で、再発生がないか確認する。


● 大津、坂本地域で社寺巡り( 2006年5月1日)

 滋賀県大津市の坂本地域一帯や延暦寺で、恒例の「社寺巡り」が開かれている。
 今年は、西教寺の塔頭「聞證坊(もんしょうぼう)」と「実成坊(じっじょうぼう)」が初めて公開され、宗祖・真盛直筆の掛け軸や華やかな刺しゅうを施した七条袈裟(けさ)などを展示している。
 また、延暦寺は昨年に続いて、弁慶が担いだと伝わる西塔地域の「にない堂」を特別公開している。


● 滋賀・春日神社で県内最古の流造本殿確認(2006年5月2日)   

 滋賀県野洲市冨波乙の生和(いくわ)神社の末社で、流造の春日神社本殿(重文)が、県内で最古の流造本殿であることが、解体修理工事に伴う調査で分かった。
春日神社本殿は、生和神社本殿の東に隣接し、正面の幅(桁行)は約1.6m、側面の幅(梁間)は約2.8mの流造。
  老朽化に伴い、2004年から修理工事が行われてきたが、建築技法や神社の歴史から現在の地に移った1262年ごろの建立と推定され、これまで県内最古の 流造本殿とされてきた鎌倉後期の栗東市の大宝神社境内社・追来(おいき)神社本殿よりも古く、全国的にみても最古の部類という。


●  キトラ古墳 カビの専門家が天文図調査(2006年5月2日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳で、定期点検で石室天井の天文図にカビとみられるものが発生した件で、石室に入ってカビのようなものを採取し調査を行った。
 今後分析し、カビと確認されれば種類を特定、除去方法などを検討する。

● 聖武天皇1250 年御遠忌法要・慶讃行事

2006 年5月1日(月)〜5月3日(水)
 天平勝宝 8(756)年、56歳で亡くなった聖武天皇の没後1250年御遠忌法要が東大寺で行われる。

5 月1日 開白法要光明宗法華寺厳修「法華経講讃舞楽法要」
 南都諸大寺厳修「最勝王経講讃舞楽法要」
 慶讃奉納行事「シルクロードの詩」(大仏殿特設舞台・無料)金井英人

5月2日 中日法要
 華厳宗東大寺厳修「最勝十講」(東大寺天皇殿)
 華厳宗東大寺厳修「練供養・伎楽法要」
 慶讃奉納行事「慶讃能」(鏡池舞楽台)
 慶讃奉納行事「舞楽・還城楽物語」(大仏殿特設舞台・無料)

5月3日 結願法要
 「山陵祭」(佐保山御陵)
 華厳宗東大寺厳修「華厳経講讃法要」19:00から
 慶讃奉納行事「瀬戸内寂聴 東大寺清宵法話」
1部:夏川りみコンサート
2部:瀬戸内寂聴師法話会

5月4日 19:00
 ゴダイゴ特別コンサート『轟き』in 東大寺
 
東大寺能・狂言会 「狂言の夕べ」
5月5日   狂言 「二人袴」「三番叟」
 野村万作・萬斎 ほか
5月6日(土)能「安宅-勧進帳」
 観世銕之丞・野村萬斎 ほか
 狂言 「鐘の音」 野村萬斎 ほか
 舞囃子 「東方朔」 片山九郎右衛門
5/16(火)19:00
 レナート・ブルゾンバリトン・リサイタル 
 東大寺大仏殿

5月19日(金)
第22回 東大寺文化講演会
会場:東京有楽町 朝日ホール
瀧浪貞子京都女子大学文学部教授
保立通久東京大学史料編纂所長

10 月14日(土)〜10月16日(月)
 鎌倉期再興重源上人800年御遠忌法要・慶讃行事(大仏殿)【詳細未定】

10 月21日(土)
第25回 東大寺現代仏教講演会 
会場:東大寺金鍾会館【詳細未定】

12月9日(土)〜12月10日(日)
第5回「ザ・グレイトブッダ・シンポジウム」 
会場:東大寺金鍾会館【詳細未定】

御遠忌800年記念特別展「大勧進 重源」
 東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出
2006年4月15日〜5/28(日)
奈良国立博物館

● キトラ古墳、天井天文図にカビ(2006年4月29日)

 奈良県明日香村の特別史跡キトラ古墳で、石室内にある天井天文図に、黒いカビらしきものが発生していることがわかった。
 カビは28日午後の定期点検で見つかったもので、直径は約7cm、天文図の東側にある星座「尾宿(びしゅく)」にかかるように発生していた。
 文化庁では、1週間に2度のペースで定期点検を実施していたが、前回25日の点検では異常はなかった。
 同古墳では、2004年3月にも南壁の朱雀の下で白いカビが発生しているのが確認された。

 

● 平成18年 京都春季非公開文化財特別拝観(2006年4月29日)

期間:平成18年4月29日(土・祝)〜5月8日(月)

○上賀茂神社
 本殿・権殿(国宝)遥拝(直会殿より)
 高倉殿(重文)にて神宝展示 

○下鴨神社
 本殿(国宝)遥拝(新拝所より)
 大炊殿内部、御車舎、河合神社境内鴨長明の方丈(復元)他 

○南禅院
 方丈、木造亀山法皇座像(重文)、瑠璃燈、史跡名勝庭園、他

○南禅寺三門
 三門(重文)二層内陣、宝冠釈迦如来像、十六羅漢像、藤堂高虎像他(初公開)

○大寧軒
 書院、池泉庭園他

○知恩院三門
 三門(国宝)二層内陣、釈迦牟尼坐像、十六羅漢像、白木の棺

○建仁寺本坊
 大方丈(重文)、枯山水、茶席「東陽坊」、法堂、浴室他

○建仁寺久昌院
 客殿、茶室、庭園、宇喜多一惠筆「長篠の合戦図」他

○建仁寺両足院
 書院、茶室「水月亭」「臨池亭」、伝如拙筆「三教図」(重文)、長谷川等伯筆「松に童子図」、伊藤若冲筆「雪中雄鶏図」他

○ 妙法院
 庫裏(国宝)、ポルトガル印度副王信書(国宝)、大書院障壁画(重文) 普賢菩薩像(重文)他

○ 勧修寺
 書院(重文)、庭園、障壁画土佐光起・光成筆「龍田川紅葉図」「近江八景図」(重文)他

○ 隨心院
 本堂、木造阿弥陀如来像(重文)、「愛染曼荼羅」(重文)(初公開)
 本尊如意輪観音坐像、表書院「能の間」、卒塔婆小町像、奥書院障壁画、密教法具他

○東寺五重塔
 五重塔初層内部(国宝)、如来・菩薩像計12体

○仁和寺
 金堂(国宝) 阿弥陀三尊像 四天王像 帝釈天像他
 観音堂(重文) 千手観音像 不動明王像 二十八部衆像他

○醍醐寺三宝院
 表書院(国宝)、表書院障壁画(重文)、純浄観(重文)、新居間障壁画呉春筆「泊舟図」(市指定)(初公開)、松月亭他

○ 伏見稲荷大社
 御茶屋(重文)、松の下屋、池泉庭園、史跡荷田春満旧宅(初公開)

 

● 奈良・石神遺跡で杭列や石組み出土(2006年4月28日)

 奈良県明日香村飛鳥の石神遺跡で、7世紀前半の杭列や溝とみられる石組み遺構が見つかった。
 杭は東西22mと西端から北へ5.5m、東端から北へ11mに延びるコの字形の列。直径6〜8cmの杭が20〜30cmの間隔で打ち込まれていた。垣を設けたか土留めのための杭だった可能性があり、周囲と隔絶させるため全体を四角に区画していたと推定される。
 同遺跡の北側は施設が存在しないと考えられていたが、推古天皇の小墾田宮推定地と隣接することから小墾田宮に関連する施設の可能性もあるという。

 

● 重要文化財に青森県・高照神社本殿など12件答申(2006年4月21日)

 文化審議会は、青森県弘前市・高照神社本殿など12件を重要文化財(建造物)に新たに指定するように答申した。
 また、群馬県六合村赤岩地区など五地区について重要伝統的建造物群保存地区への選定を答申した。同保存地区は78地区となる。

 重文に答申されたのは次の通り。

▽高照神社(青森県弘前市) 
 津軽藩四代藩主・津軽信政公をまつる。江戸時代の神道「吉川神道」の思想に基づいて建てられた神社としては、国内でも唯一現存するもので、全国的にもほとんど類例がない。
 指定を受けるのは「本殿」「中門(ちゅうもん)」「拝殿及び幣殿」など、神社を構成する主要な建造物八棟と、津軽信政公墓二基。築造年代は、すべて江戸時代中期に当たる。

▽長福寺本堂(大分県日田市)
 長福寺本堂(1669年建立)は、九州では数少ない17世紀にさかのぼる浄土真宗の建築物。建立当初の古風な形式を残している。

▽広島平和記念資料館(広島市)
▽那須疏水(そすい)旧取水施設(栃木県那須塩原市)
▽旧富岡製糸場(群馬県富岡市)
▽旧徳川家松戸戸定(とじょう)邸(千葉県松戸市)
▽旧堀田家住宅(千葉県佐倉市)
▽松城家住宅(静岡県沼津市)
▽旧日向家熱海別邸地下室(静岡県熱海市)
▽旧京都中央電話局西陣分局舎(京都市)
▽布引水源地水道施設(神戸市)

 重要伝統的建造物群保存地区
▽六合村赤岩(群馬県)
▽塩尻市木曽平沢(長野県)
▽宇陀市松山(奈良県)
▽鹿島市浜庄津町浜金屋町(佐賀県)
▽鹿島市浜中町八本木宿(佐賀県)

 

● 滋賀・彦根城の重文の柱に落書き(2006年4月20日)

 滋賀県彦根市の彦根城で、国指定重要文化財の「太鼓門櫓(たいこもんやぐら)」の柱に落書きが発見された。
  太鼓門櫓は城内合図の太鼓が置かれた櫓で、幅約13m、高さ10m。落書きは、太さ約30cmの柱の高さ約1.2〜1.5mのところに約7cm幅で、くぎ のようなもので「横」「井」「一」などと書かれており、3月上旬にはなかったという。彦根署は文化財保護法違反と器物損壊の疑いで調べている。

 

● 国宝・法隆寺東大門で落書き(2006年04月19日)

 奈良県斑鳩町の法隆寺の国宝「東大門」の柱に落書きがされているのが見つかった。
 落書きは直径約40cmの8本の柱のうち、北西の柱で見つかった。地上から約42〜99cmの部分に約8cmの幅で硬いもので擦りつけるように「みんな大スき」などと書かれていた。3月26日に同出張所の作業員が撮影した写真には落書きはなかったという。
 西和署が文化財保護法違反と器物損壊の疑いで捜査している。
 東大門は奈良時代の建立で「八脚門」とも呼ばれ、1952年に国宝に指定されている。 

 

● 吉備塚古墳の象眼大刀 神仙思想を反映(2006年4月20日)

 平成16年に奈良市高畑町の吉備塚古墳(6世紀初め)で出土した大刀の文様について、奈良教育大学の山岸公基助教授(美術史)が、中国・南朝の壁画と図像が共通することを明らかにした。「神仙思想を正しく反映した国産品。当時の日中交流を証明する資料」という。
 吉備塚古墳の象眼大刀発見の詳細は、2004年特選情報の2004年2月5日の項参照
 http://www.bunkaken.net/index.files/topics/toku2004.html

 

● 三角五輪塔は重源の考案ではなかった(2006年4月18日)

 東大寺を復興した高僧・重源(1121―1206)の考案とされる三角五輪塔について、古くから京都・醍醐寺で用いられており、重源がデザインを伝授された可能性が強いことがわかった。
 五輪塔は大日如来の象徴とされ、下から順に地、水、火、風、空を表現し、火輪の底は通常は正方形だが三角五輪塔は三角形で、密教の教義を忠実に表現したとされる。
 今までは、重源の考案と伝えられていたが、醍醐寺の子院、金剛王院などに土製の三角五輪塔が伝わっており、若い頃を醍醐寺で過ごした重源が、三角五輪塔のデザインを伝授された可能性が強いという。

 

●  高松塚壁画損傷で検討会座長が引責辞意(2006年4月17日)

  奈良県明日香村の高松塚古墳で2002年、文化庁や東京文化財研究所(東文研)の担当者が作業中に国宝壁画を傷つけたのに公表せず補修していた問題で、当 時の東京文化財研究所長で、現在文化庁の同古墳壁画恒久保存対策検討会座長の渡辺明義氏が、座長を辞任する意向を示していたことが分かった。
 損傷事故は2002年1月、石室内の観察中に機材が転倒し男子群像など2カ所を傷つけたもので、損傷の事実を公表せず、墳丘の土を塗布して彩色し傷を目立たないように補修したが、文化庁の古墳修理日誌には、同庁の対策を了解する渡辺氏の所見もあった。
 石室内のカビ対策のために2003年に発足した検討会は、2005年石室を解体して壁画を保存することを決めたが、渡辺氏は損傷の事実を示さないまま議論を進めていた。

 

● 大峯奥駈道の釈迦如来像傾く(2006年4月16日)

 修験道の祖・役行者が開いたとされる大峯奥駈道にある下北山、十津川村境の釈迦ケ岳の山頂に立つ釈迦如来像が傾いてきていることが分かった。
  釈迦如来像は石積みの壇の上に野ざらしの状態で立っており、長年の風や雨で少しずつ傾いてきたらしい。大峯奥駈道は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の 一部。釈迦如来像自体は世界遺産の対象ではないが、文化的景観の一部を担っており、地元住民や修験者は、早く何とかしなければ倒れてしまうと危機感を募ら せている。

 

● 高松塚壁画の損傷事故、各界の意見

○ 網干善教・関西大名誉教授(考古学)
  一般的に国宝を傷つけると、犯罪として取り締まり処分される。傷つけた状態をそのまま公表するならまだいいが、修理して隠蔽(いんぺい)工作までしてお り、犯罪的行為といえる。文化財保護法違反の疑いで警察が捜査してもいいくらいの、重大な問題。文化庁はこれまで、壁画の劣化に、自分たちは責任はないと いう姿勢をとってきたが、許すわけにはいかない。

○ 百橋明穂(どのはしあきお)・神戸大教授(絵画史)
 石室が狭いので、市民も専門家も簡単に壁画を見ることができない。そこで、文化庁を信頼して管理を任せたのにー。人間がすることにミスがあるのは仕方がないが、起きた後の対応は問題だ。
 担当者個人の責任を追及しても意味がない。文化庁全体のチームワークに問題がなかったか、それをどう解決するかを、しっかり検証してほしい。

○ 白石太一郎・奈良大教授(考古学壁画・恒久保存対策検討会委員)
 石室外のカビが主因とは説明されず、湿度や温度に問題があると受け止め、適切ではない緊急対策を積み重ねたことは事実。洗い出せば、こうしたことは今後も出てくるのではないか。日本が保存科学の先進国だという神話は崩壊したと言わざるを得ない。

○ 菅谷文則・滋賀県立大教授(考古学)
 驚いたが、これまでの文化庁の姿勢をみているとありえることだと思う。ケアレスミスはこれにとどまらない可能性がある。文化庁はこの際、作業日誌などすべての資料を公表すべきだ.

○ 猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)
 未公表という対応は本当に残念。国民の財産が損失を被っただけでなく、文化庁と国民との信頼関係が失われた。石室内の作業は常に不測の事態が予想され、 2007年2月からの解体作業でも同じような危険が伴う。文化庁はその覚悟を新たにすべきだ。

○ 関義清・明日香村村長
 怒りというよりあきれている。文化庁の隠蔽(いんぺい)体質を変えるのは大変だ。組織的な問題があるのではないか。

 

● 高松塚壁画損傷こっそり補修、東文研所長が指示(2006年4月15日)

  奈良県明日香村の高松塚古墳で、作業中の文化庁や東京文化財研究所の調査員が2002年に国宝壁画を傷つけ、公表せずに補修していた問題で、補修が当時の 東京文化財研究所長で、現在は文化庁の同古墳壁画恒久保存対策検討会座長を務める渡辺明義氏の指示で行われていたことが文化庁の内部資料などから分かっ た。
 事故が起こった2カ月後の3月28日の「高松塚古墳修理日誌カード」日誌によると、渡辺氏は事故当日の午前、現地を訪れ、「事故部分には周囲の土を殺菌して、水だけで溶いて塗付する」と方針を示し、作業は午後、その方針通り行われたという。
  東京文化財研究所は、文化財の保存と修復技術の調査研究をする独立行政法人の機関で、高松塚古墳では美術などの専門家が傷んだ壁画の修復などにあたってい るが、補修にあたった7人のうち渡辺氏を含め4人が文化庁の古墳壁画恒久保存対策検討会(24人)のメンバーになっていることも分かり、関係者からは検討 会の正当性を疑問視する声が上がっている。

 

●  当時の文化庁部長 高松塚壁画損傷の報告受けた記憶ない(2006年4月13日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画がカビの除去作業中に損傷された問題で、当時、文化庁文化財部長だった木谷雅人・京都大学副学長は、損傷事故について報告を受けた記憶はないと話し、「部長に報告されていた」とする同庁の説明を否定した。
 同副学長は「事故があった2002年当時、石室内のカビ対策が重要な課題だったことは覚えているが、損傷の報告は記憶にない」とした。その上で「事故を公表しなかったことを含め、結果として十分な対応ができなかったことは申し訳ない」と語った。

 

● 高松塚古墳のカビ発生は防護服未着用作業が原因(2006年04月13日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で、2001年2月に墳丘土の崩落防止工事をした際、文化庁のマニュアルに反し、工事関係者が防護服を着ないで作業していたことがわかった。
  高松塚古墳保存修理マニュアルによれば、古墳内の定期点検や工事などで古墳に入る際には、搬入物はすべてアルコールで滅菌し、体を防護服で覆って雑菌など の持ち込みを防ぐことを決めているにも係らず、作業者は、頻繁に出入りする必要があったためか防護服を着ておらず、一般の作業着のまま作業をしていた。
  高松塚古墳では、同年3月に石室外に大量のカビが確認され、12月には石室内でも大量に見つかっており、文化庁の担当者は、2001年4月作成の作業日誌 で、この作業が3月の石室外のカビ発生の原因であることは間違いないと指摘していたが、古墳壁画恒久保存対策検討会には「対策が不十分だった」とだけ報告 していたという。

 

● 高松塚の壁画損傷でこっそり補修(2006年04月12日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で、石室内のカビの除去作業中に壁画を傷つけていた際、報告せずに応急処置していたことがわかった。
 文化庁は壁画の損傷に対し、いずれも2ヶ月後に応急措置として、近くの泥を水で溶かして塗りつけ修復していたという。
 この経緯は、文化庁担当者の作業日誌には手書きされていたが、2002年3月の「国宝・高松塚古墳壁画保存点検報告書」には記載されなかった。

 

● 高松塚の壁画を損傷していた(2006年4月12日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で2002年、石室で作業した文化庁の修復担当者が、極彩色の壁画を傷つけていたことが分かった。
 壁画の損傷は2002年1月28日に石室でカビの除去作業中に誤って室内灯を倒し、西壁の男子群像の衣服の一部、約1cm四方がはがれ落ちた。同時に空気清浄機も倒れ、西壁の絵がない部分に長さ8cmの傷をつけたという。
 文化庁は関係者だけで修復、これまで事実を公表しておらず、今年になって記者会見し、損傷事故の発生の事実と調査会を設置する考えを明らかにした。文化庁は高松塚の壁画劣化についても、長く明らかにしておらず、姿勢があらためて問われそうだ。

 

● 中国・雲岡石窟出土の仏典翻訳の場特定(2006年4月12日)

 京都大人文科学研究所は、戦前に調査収集し、未発表のまま保管されていた中国最初の巨大石窟寺院・雲岡石窟の出土遺物整理をこのほど終え、調査報告書を約 60年ぶりに刊行した。(B5判 184ページ 8400円 朋友書店)
  これらの資料は同研究所の前身の東方文化研究所が1938年から44年にかけて発掘調査し持ち帰った、約1000点の遺物で、1950年代に全16巻の報 告書がまとめられているが、美術品が中心で、遺物はほとんど未整理のまま残されていたため、京都大のグループが2002年から整理作業を行っていた。
  瓦を摩耗度や傷の様子でグループ分けし、出土地近くの仏像の年代や、他の陵墓で出土した瓦などと比較して建物年代を推定した。その結果、建物は470年前 後、480年代、490年代以降の3期に分けて造営されたことが確認され、石窟のがけ上の東側の基壇跡から出土した瓦が第1期に当たることから、文献で 472年に曇曜が仏典を翻訳したとされる僧坊が特定出来たという。

 また、別の場所からは中国最古の緑釉瓦も出土しており、壮麗な寺院や僧坊が林立していた可能性が高まった。

 

● 大津市歴史博物館で「大津絵の世界」(2006年4月11日)

 大津市御陵町の大津市歴史博物館で開館15周年記念企画展「大津絵の世界」が4月16日まで開かれている。
  大津絵は、江戸時代に東海道筋で土産物として売られていた。初期は仏画が多く、その後、鬼や奴などを題材にした風刺画が描かれるようになり、全国的に人気 を集めた。企画展では、初期の仏画や絶頂期の風刺画をはじめ、富岡鉄斎や竹内栖鳳といった著名画家の作品など約300点を紹介している。

 

● 大津・山ノ神遺跡で出土の鴟尾を復元展示(2006年4月11日)

 大津市一里山の山ノ神遺跡から出土した鴟尾4基のうち、3基が復元され、大津市歴史博物館で展示されている。
  鴟尾は、いずれも幅約60cm、奥行き1m、高さ1.4mという大きなもので、2003年3月に7世紀中ごろから後半にかけての工房跡とされる山ノ神遺跡 から出土した。いずれも7世紀後半につくられたとみられ、近江大津宮(667〜672)と関係のある大規模な寺院の屋根を飾るためのものだった可能性もあ るという。

 

● 聖武天皇1250年御遠忌法要30日から(2006年4月11日)

 奈良市雑司町の東大寺で、聖武天皇1250年御遠忌法要が、4月30日から行われる。
 この行事は、東大寺の造営など仏教による国づくりを進めた聖武天皇(701〜756年)の没後1250年の御遠忌法要と慶讃行事で、奈良時代の記録に残る「廬舎那仏燃灯供養」を現代の形で再現するほか、多彩な奉納行事を通じて聖武天皇の功績を顕彰する。

 

● 福井・小浜国宝めぐりバス発進(2006年4月4日)

 若狭おばま観光協会が主催し、11月下旬までの土、日曜日を中心に、小浜駅から明通寺や神宮寺など八カ寺と食文化館などの施設を約80分で巡回する。

 国宝めぐりバスは、国鉄バス時代の1964(昭和39)年にスタート。2001年にJRが撤退した後も続いている。現在は一日6便運行。昨年は約3000 人の利用があった。一回券200円、一日フリー券500円。

 

● 奈良県広陵町で古墳出土の遺物展示センターオープン(2006年3月31日)

 奈良県広陵町南郷の文化財保存センターで、先日葬送用具とみられる舟形の木製品が出土した巣山古墳をはじめ、広陵町内の古墳から出土した遺物を展示する文化財保存センターの展示施設が、4月2日に広陵町役場内にオープンする。

 

● 徳島・観音寺遺跡で最大級の木簡出土(2006年3月30日)

 徳島市国府町の観音寺遺跡で、国内最大級の8世紀の木簡が出土した。
 木簡は長さ58cm、幅5cm、厚さ4.9〜0.8mmのヒノキの木片で、8世紀後半の河川跡の砂層から出土した。文字は墨書きで、表面と裏面に合計約 150字書かれており、寸法、文字数とも国内最大級。
 内容は、朝廷が官人登用に際して、阿波国府に依頼した身元調査(勘籍)の回答と見られ、人物の年齢や出身地、戸主などが記してある。
 何度も削ったり、棒線を引いて文字を修正したりした跡もあった。
 木簡に書かれた勘籍の結果は紙に書き写したうえで朝廷に送られ、官人の情報が一元的に管理されていた。現在、東大寺・正倉院にはこの勘籍の一部、約10 人分の記録が残っている。

 

● 西大寺で創建時の鴟尾出土(2006年3月29日)

 奈良市西大寺南町の西大寺旧境内で、創建時(8世紀後半)の瓦製鴟尾(しび)の破片が見つかった。
 破片は現境内の東側の井戸と素掘りの穴から一点ずつ出土し、頭部とひれの一部とわかった。
 鴟尾を復元した大きさは金堂クラスだが、創建時の金堂の鴟尾は記録では金銅製であることから、金堂に匹敵する規模の主要建物のものとみられている。平城京にあった寺院の鴟尾が発掘調査で見つかったのは初めて。

 

●  龍谷大、京都に仏教博物館を計画(2006年3月23日)

 京都市伏見区の龍谷大は、仏教博物館「龍谷ミュージアム(仮称)」を市内に建設する構想を学内答申した。
  龍谷大は、国宝級の仏像や仏教美術品をはじめ、仏教伝来の道筋を探るために本願寺派22代門主・大谷光瑞が中央アジアやインド、中国などに派遣した大谷探 検隊による収集品約9000点をはじめ、国宝「類聚古集」など多数の美術品を所蔵している。また、デジタルアーカイブ技術で歴史資料を保存したり、アフガ ニスタン仏教遺跡の学術調査研究などにも取り組んでいる。
 龍谷大では、2009年度に創立370周年を迎えることから、これにあわせ、大宮学舎や西本願寺の近辺に建設し、所蔵美術品や最先端のデジタル技術で復元した仏画などを展示、一般公開する計画という。

 

 上記の報道に対し、龍谷大学側は、仏教博物館(龍谷ミュージアム構想)については、学内の委員会から答申が出されたが、今後答申に対して検討委員会の設置準備を進めていく段階であり、設置が確定した訳ではないという声明を発表した。

 

● 敦煌の壁画、劣化進む(2006年03月26日)

 中国の世界遺産、敦煌・莫高窟の石窟内の壁画の劣化が急速に進んでいる。
  石窟内の壁画の中には剥落や亀裂、かびの繁殖による傷みのほかに、壁画の広い範囲が下地ごとはがれ落ちるなど深刻な状態のものも少なくない。これらは、石 窟内の地中にある湿気が塩分を溶かして化学変化をおこす塩害が壁画劣化の主な原因との見方が強まっており、敦煌研究院は今春から、すべての壁画の傷みの状 態を把握できるカルテづくりに乗り出す。
 
左写真:千仏が描かれた壁画。上半分には残っているが、湿気の影響で下半分は消えかかっている
右写真:第35窟。下地が浮き上がり、ひびが入った壁画。下の赤い部分は壁画を支えている板

(所感)

  日本政府は、平成7年度および平成8年度の環境白書において、敦煌の壁画などについても言及している。その中で自然状態での劣化としては、彩色層のひび割 れや剥落、壁面の浸食や洞窟の埋没、さらには塩類晶出による彩色の剥落や、経年による顔料の変退色などが挙げられており、今後の地球温暖化の進展により 100年で1ないし3.5度の気温上昇が予測され、これによる降雨量の増加及び集中豪雨などにより、石窟内への雨水の下方浸透による、急激な壁画破壊の進 行が危惧されるとの指摘があると指摘している。
 日本もこの白書に基づき、国立文化財研究所が中心となって現地の調査、研究を進めているが、今後共、こうした長期的な気象環境の変化を含めて、世界的規模での保存対策を講ずる必要がある。それでなくては、世界遺産に選んだ意義がない。

 

● 宇治・平等院本尊台座は魚鱗葺および葺寄式の両構造か(2006年3月25日)

 仏師定朝の代表作として知られる京都府宇治市の平等院本尊・阿弥陀如来坐像の台座が、当初から魚鱗葺にもなる構造だったとことが分かった。
 阿弥陀如来坐像の台座を飾る蓮弁の様式は、1950年代に修理する前は魚鱗葺であったが、当時の調査で仏像が造られた平安後期には葺寄式だったものを後世に魚鱗葺に改めたとみて葺寄式に直していた。
 しかし今回、修理に伴って、同寺が花弁の柄を差し込む穴などを詳しく調査したところ、漆の塗り具合などから、魚鱗葺用の穴は仏像が造られた当初からあったことが明らかになった。
 葺寄式は蓮弁の上下の並びがそろって見えるように葺く形式で平安時代に多く見られ、魚鱗葺は互い違いに見えるように葺く形式で奈良、鎌倉時代に多く見られる。 平安後期は両様式が混在していたと考えられるが、定朝が両方の葺き方を試みた可能性もあるという。
 また、エックス線調査によって、蓮弁64枚のうち2枚の先端の金ぱくの下に、直径3mmの穴跡があり、本堂の鳳凰堂内に描かれた絵画などから、造像当初にはガラスや金属の瓔珞などを吊り下げたとみられ、隅々にまで装飾を施した優美な姿が浮かび上がった。
 3月25日から7月3日まで平等院ミュージアム鳳翔館で行われる企画展で蓮弁を展示するほか、調査結果もパネルで紹介する。

 

● 加茂・海住山寺の発掘調査で塔頭跡発見 (2006年3月24日)

 京都府加茂町例幣の海住山寺の発掘調査で、本堂の南約150mの地点でかつての塔頭寺院の一部とみられる建物跡などが見つかった。
 寺伝によると、同寺は735年、恭仁京に都を移した聖武天皇の勅願で創建されたと伝えるが、1137年に全焼し、高僧貞慶が1208年に海住山寺と名付け、再興したとされる。
 現在は本堂や国宝の五重塔、重要文化財の文殊堂などを除いて大半が残っていない。
 発掘調査では、見つかった柱穴跡から5.4m×3.6m規模の建物があったと見られ、江戸時代の絵図や地誌「瓶原古今志」などから、建物は塔頭だった「宝蔵院」の護摩堂跡と推定されるという。

 

● 宇治市街遺跡から4世紀後半の最古級の須恵器出土(2006年3月22日)

 京都府宇治市妙楽の宇治市街遺跡で、4世紀後半に作られた最古級の須恵器が出土した。
 一緒に出た板材の年輪年代測定法と炭素年代測定法による分析により、今まで須恵器の生産開始時期は渡来人が技術を伝えた5世紀前半とされてきた定説を 20〜40年さかのぼることが判った。
 出土した須恵器は、高坏や器台、かめなど20点。平安時代遺構の下層の溝跡から見つかった。実年代は不明ながら最古級の須恵器と位置づけられる大阪府堺市の大庭寺遺跡の須恵器の模様や形式と類似していた。
 溝跡からは、朝鮮半島南部の素焼き土器と同形式の韓式土器約70点をはじめ、土師器や木製品も出土。板材を年輪年代測定した結果、木が伐採された年は 389年との結果が出た。さらに炭素14法による年代測定でも359〜395年とされた。

 

● 東寺で特別展 密教図像49点を展示(2006年3月20日)

 京都市南区の東寺で、真言密教の教えを伝える絵図や仏画を公開する特別展「東寺密教図像の世界」が3月20日から5月25日まで開かれる。
 今回は計24件、49点を展示し、前後期で約半数を入れ替えるが、多くが7年ぶり公開となる。
 空海が持ち帰った図像を後に転写した仁王経五方諸尊図(同)など多くの図像が7年ぶりの公開となる。
主な展示品
火羅(から)図 重文 平安時代
 密教の占星法を描いた中心に獅子に乗る文殊像、上部に北斗七星を表す諸尊が着色で描かれた

蘇悉地儀軌契印(そしつじぎきげいいん)図 重文 中国・唐時代
 手の指の組み合わせで諸尊の悟りや働きを表す印相を図解した秘儀とされる手印の多様な形が描写されている

仁王経五方諸尊図 重文
 空海が持ち帰った図像を後に転写したもの

 

● 守山・松塚遺跡で市内最大の円墳発見(2006年3月18日)

 滋賀県守山市浮気町の松塚遺跡で、市内で最大となる直径約37mの古墳後期の円墳跡が見つかった。
  埋葬施設などのある墳丘部は削られていたが、深さ約1m、幅6−9mの周濠が、全体の3分の1ほど見つかった。復元すると直径約37m、周濠部分を合わせ ると最大約53mの円墳と分かった。周濠からは円筒埴輪片や須恵器片が出土した。一帯では6世紀初めごろに物部氏の支配が始まることから、物部氏と関係の ある有力者が埋葬されたと考えられという。

 

●  奈良・飛鳥京遺構で三宮殿の重なり確認(2006年3月18日)

 天武天皇の宮殿、飛鳥浄御原宮の正殿跡2棟目が見つかった明日香村岡の飛鳥京跡で、浄御原宮に先立つ飛鳥板蓋宮と飛鳥岡本宮の遺構と見られるの石敷きと建物跡が確認された。
  石敷きは南北7.6m、東西0.7mの細長いもので、2棟目の正殿跡の南にある広場の下で見つかった。飛鳥京跡の宮殿のうち最も古い飛鳥岡本宮の建物跡と は向いている方向が違うが、後飛鳥岡本宮から飛鳥浄御原宮に存在した正殿跡より古いため、中間の時代に築かれた飛鳥板蓋宮の遺構らしい。
 一方、 正殿跡の南西では、掘っ立て柱建物跡1棟が下の地層から見つかった。岡本宮と同じ方向を向く建物で、東西、南北共に9m以上で、焼け跡があった。日本書紀 の「岡本宮に火災が起こり、天皇は田中宮に移った」という記述にも一致するため、岡本宮の遺構ではないかと見られるという。
 飛鳥京跡に重なる3つの宮殿がまとまって確認できたのは珍しく、宮殿の変遷がうかがえるという。

 飛鳥時代の主な宮の変遷
 飛鳥岡本宮 (舒明天皇)   630〜636
 飛鳥板蓋宮 (皇極・斉明天皇)643〜655
 後飛鳥岡本宮(斉明天皇)   656〜667
 飛鳥浄御原宮(天武・持統天皇)672〜694

 

● 琉球尚家資料など国宝、立石寺慈覚大師頭部、木棺など重文に(2006年3月17 日)

 文化審議会は、那覇市所有の「琉球国王尚家(しょうけ)関係資料」と、福岡県前原市の「平原方形周溝墓」の出土品を国宝に、山形市の立石寺所有「木造慈覚大師頭部、木棺」など47件を重要文化財に、それぞれ指定するように答申した。
 これで美術工芸品の重要文化財は1万255件、うち国宝は860件となる。 
 重要文化財と登録文化財は次の通り。かっこ内は所有者か保管者。

【国宝】

▽琉球国王尚家関係資料(那覇市所有)
 尚家関係資料は明治になり東京に移った尚家に伝わったもの。尚家が那覇市に寄贈し、調査が進められてきた。王冠などの工芸品、政治や外交などの文書・記録類など16〜19世紀の1251点。

▽福岡県平原(ひらばる)方形周溝墓出土品(文化庁保管)
 平原方形周溝墓からは国内最大の内行花文鏡を含め40面の銅鏡や多数の玉などが出土。

【重要文化財】

《絵画》

▽紙本著色四季日待図・英一蝶筆(東京・出光美術館)
▽紙本墨画竜虎図・単庵智伝筆(京都市・慈芳院)
▽絹本著色孔雀明王像(文化庁)
▽紙本著色東福門院入内図(東京・三井文庫)
▽絹本著色春日補陀落山曼荼羅図(東京・根津美術館)
▽紙本著色地獄草紙断簡(東京・五島美術館)

《彫刻》

▽木造慈覚大師頭部と木棺(山形市・立石寺)
 伝教大師の廟のある比叡山に自らの墓は置かないという慈覚大師の意向で、貞観6年(864)入寂のとき頭部だけが華芳の峰に残されて、胴体部と代りの木造頭部が金箔押の棺で入定窟に運ばれたものとされる。

▽木造顕智坐像(栃木県二宮町・専修寺)
  像高 85.4cm 鎌倉時代 親鸞の弟子真仏に師事し、専修寺三代目となった顕智の肖像彫刻。専修寺御影堂内に安置される。 像内頭部に延慶 三年(1310)八月二十四日の銘があり、命日から51日目に当たるので、存命中に制作が始められ、七七忌日を意識してつくられたことが分かる。上記の銘 のほか、道恵、円慶等の銘があり、それぞれ絵仏師、仏師と考えられる。 
 彫刻の写実的面貌あるいは質素な袈裟などから、像主を前にして造立されたことが推定される寿像である。顕智の師である真仏の像が併置されており、これを附とする。

▽厨子入木造大黒天立像(長野県軽井沢町・セゾン現代美術館)

▽ 木造不動明王坐像(滋賀県近江八幡市・伊崎寺)
 頭と体をヒノキ材から削り出した一木造り。平安時代中期(10世紀後半)の像で像高は85.4cm。大きく見開いた目、下の歯で上唇をかむ口の形、6カ所で結ぶ弁髪が特徴。伊崎寺の開祖・相応が神秘的な体験の中で見たとされる不動明王をモデルにつくったと伝わる。

▽ 木造鬼神像(京都市・北野天満宮)
 本殿の修理で見つかった憤怒の相を示した上半身裸形の鬼神像13体。平安中期の民衆信仰の対象となった魔よけの神像とみられ、主神の神体とともに民衆的な神々を並行してまつる古来の風習を伝える。

▽木造諸尊仏龕(京都市・報恩寺)
 中国・北宋期の作。釈迦如来と多くの菩薩、宝樹など微小な彫刻が小さな木製の箱に納められる。保存状態が良く、各区画の境に多種の珠玉がはめられ、装飾的につくられている

▽厨子入木造阿弥陀如来及び両脇侍立像と厨子入木造千躰地蔵菩薩像(同・同)
 前者は両脇侍像が腰をかがめて臨終者を迎える阿弥陀三尊像。後者は山に座る地蔵菩薩像がほぼ千体の地蔵小像やえんま王・冥官に囲まれる。微小で精密な彫刻が特徴

▽木造童形神坐像(京都府八幡市・石清水八幡宮)
 みずらを結った四体の童形神像。制作時期は12−13世紀。うち二体は若宮殿にまつられた八幡若宮像の可能性が強い。

▽ 木造持国天増長天立像(奈良市・弘仁寺)

《工芸品》

▽春日龍珠箱(奈良国立博物館)
▽紺黄染分綸子地竹栗鼠梅文様振袖(東京・カネボウ)
▽彩磁禽果文花瓶・板谷波山作(新潟市・敦井美術館)
▽輪宝羯磨蒔絵舎利厨子(京都市・高山寺)
 筒形容器に納めた火焔宝珠形舎利容器を安置した宝形造りの厨子。鎌倉末期−南北朝期か。蒔絵や彩色、きり金を用いて文様や釈迦三尊像などを描く。
▽能装束・紅浅葱地菊笹大内菱文様段替唐織(広島県廿日市市・厳島神社)
▽絵唐津菖蒲文茶碗(福岡市・田中丸コレクション)

《書跡・典籍》

▽称名寺聖教(横浜市・称名寺)
▽宋版南史(同・同)▽智証大師伝(東京国立博物館)
▽袖中抄(京都市・冷泉家時雨亭文庫)
▽春屋妙葩墨蹟(京都市・鹿王院)
▽伊勢集(奈良県天理市・天理大)

《古文書》

▽奉写一切経所紙納帳(文化庁)
▽神泉苑請雨経法道場図(奈良国立博物館)
▽天養記(三重県伊勢市・神宮)
▽賀茂別雷神社文書(京都市・賀茂別雷神社)

《考古資料》

▽深鉢形土器・新潟県堂平遺跡出土(文化庁)
▽鹿児島県広田遺跡出土貝製品(国立歴史民俗博物館)
▽北海道カリンバ遺跡墓坑出土品(北海道恵庭市)
▽土偶・長野県中ツ原遺跡出土(長野県茅野市)
▽三重県宝塚1号墳出土品(三重県松阪市)
▽修羅と梃子棒・大阪府三ツ塚古墳出土(大阪府)
▽埴輪水鳥・大阪府城山古墳出土(大阪府藤井寺市)
▽鹿児島県広田遺跡出土品(鹿児島県)

《歴史資料》

▽ジョサイア・コンドル建築図面(京都大)
▽銀板写真・松前勘解由と従者像(北海道松前町)
▽万年自鳴鐘(東京・東芝)
▽銀板写真・田中光儀像(東京都練馬区・個人蔵)
▽同・黒川嘉兵衛像(東京都町田市・個人蔵)
▽同・遠藤又左衛門と従者像(横浜美術館)
▽同・石塚官蔵と従者像(横浜市・個人蔵)
▽長崎奉行所関係資料(長崎県)

【登録有形文化財】

《美術工芸品》

▽有田磁器・柴田夫妻コレクション(佐賀県)
▽飛騨地域考古資料・江馬修蒐集品(岐阜県高山市)
▽建築教育資料(京都大)
▽紙芝居資料(宮城県)

《建造物》(主な事例)

▽旧関善酒店主屋(秋田県鹿角市)
▽石岡第1発電所本館発電機室ほか(茨城県北茨城市)
▽国際文化会館本館(東京都港区)
▽旧上野家住宅ほか(京都府舞鶴市)
▽堂々川二番砂留ほか(広島県福山市)
▽浜田温泉資料館(大分県別府市)

 

●  滋賀県延暦寺慈眼堂など7件が有形文化財に指定(2006年3月17日)

 滋賀県教委は延暦寺慈眼堂など計7件を、新たに県有形文化財に指定した。県指定文化財は計438件になる。
 指定された文化財は次の通り(カッコ内などは所在地、所有者)。

【建造物】

▽延暦寺慈眼堂(大津市坂本4丁目、延暦寺)
 江戸時代前期(1646年)、徳川家光の命を受け建立された。屋根は宝形造りで、桟(さん)瓦ぶき。禅宗様を基調としつつ、和洋の要素を採り入れている。慈眼堂、石燈籠(とうろう)が一体になり、良好な景観が保存され、廟所建築として貴重な建造物。

【美術工芸品】

▽絹本著色兜率天曼荼羅図 県立琵琶湖文化館、成菩提院
 南北朝時代(14世紀末)。弥勒菩薩が住む兜率天曼荼羅を描いた数少ない作の一つで、青や緑など寒色中心に抑揚を抑えた描線が特色。中世の仏画はほとんど残っておらず、仏教画史上貴重な作品。

▽銅鉢 県立琵琶湖文化館、明王院
 南北朝時代(1335年)の作で願主は僧侶の覚実(かくじつ)。鋳型に銅を流し込んで作製する鋳銅制仕上げで、供養具として使われた。作製年と願主が分かっており、西日本では数少ない鉢の基準作になっている。

▽大般若波羅蜜多経 愛荘町、金剛輪寺
 筆者は源敦経(みなもとあつつね)で、平安時代後期(1112年)に書写した。院政期貴族の生活がうかがえることから資料価値が高い。

▽近江輿地志略94冊 県琵琶湖文化館、県
 近江輿地志略6冊 大津市歴史博物館、浄光寺
 江戸時代中期(1733年)、膳所藩主・本多康敏の命で藩士の寒川辰清が編さんした地誌。県内全域を網羅した地誌の原本資料として、貴重。村、名所旧跡、神社、河川などを中心に、土産物なども記述している。

▽山津照神社古墳出土品 米原市能登瀬、山津照神社
 米原市能登瀬の山津照神社古墳跡から出土した金剛製冠の破片や壺鐙(つぼあぶみ)などがあり、古墳時代後期(6世紀中期)の物とみられる

 

● キトラ壁画の「白虎」5月12日から公開(2006年3月17日)

 明日香村阿部山のキトラ古墳の石室からはぎ取った「白虎」が、5月12日から同28日までの17日間、明日香村奥山の飛鳥資料館で一般公開される。
  白虎(西壁)は、絵に亀裂が入っていたため、分割して平成16年9月に胴体、17年5月に前足がそれぞれはぎ取られた。青龍(東壁)や玄武(北壁)もはぎ 取られ、保存処理が進められているが、白虎は絵の描かれている漆喰が比較的安定していたため、先駆けて公開することにした。

 

● 守山・欲賀南遺跡で銅造十一面観音像が出土(2006年3月16日)

 滋賀県守山市欲賀町の欲賀南遺跡から、平安時代後期の銅造十一面観音立像が見つかった。
 観音立像は像高9.6cmの銅造で、室町−江戸時代の屋敷跡周辺の穴から出土し、頭部の十一面観音や身に付けている天衣が分かる保存状態だった。
 平安時代の銅製の十一面観音立像が出土するのは全国的にも珍しく、有力者の念持仏だった可能性もあると見られる。
 また、併せて調査した欲賀南遺跡から200m北西の欲賀遺跡では、2年前に巫女形埴輪が出土した古墳が、直径約20mmの円墳と確認された。

 

● 大津・日吉大社境内神宮寺跡見つかる (2006年3月10日)

 滋賀県大津市坂本の日吉大社境内にある日吉神宮寺遺跡で、室町時代の神宮寺跡とみられる建物の礎石が見つかった。
 遺跡の中心部で室町時代のものとみられる礎石が3m間隔で南北12m、東西9mにわたって確認された。礎石の見つかった場所は、延暦寺に伝わる室町時代の絵図「日吉山王社古図」に描かれた神宮寺の位置と符合した。
 また、さらに下層からは、平安時代とものとみられる土器が出土した。
 神宮寺については、天台宗の開祖・最澄の父親が子どもを授かるよう祈願するため草庵を設けてこもった場所で、最澄も比叡山に入る前にこの草庵にこもり祈願したと伝えており、平安期にも室町時代と同規模の寺があったと考えられる。

 

● 醍醐寺で寺宝展(2006年3月17日)

 京都市伏見区醍醐の醍醐寺の寺宝を特別公開する「密教美術と桃山の美−秀吉と桜」が、3月18日から5月14日まで同寺の霊宝館で始まる。
 絵画「閻魔天像」と「訶梨帝母像」が初めて同時展示されるなど、国宝5点、重要文化財36点を含む69点を公開する。

 主な展示品
 閻魔天像 国宝 縦130cm、横70cm 平安後期
 訶梨帝母像 国宝 縦130cm、横80cm 平安後期から鎌倉前期
 醍醐花見短籍 重文
  慶長3(1598)年に豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」で、北政所や前田利家らが詠んだ和歌をまとめたもの。

 

● 奈良・平城京の羅城は東西1km(2006年3月10日)

 奈良県大和郡山市の下三橋遺跡で平城京の正門「羅城門」両側から広がった城壁「羅城」は、瓦屋根がある高さ3〜4mの木造塀で、東西約1キロだけだったことが分かった。
 平城京の九条大路南側2カ所を調査した結果、幅は約1.5mの2列の掘っ立て柱の穴が見つかった。
 平城京が手本にした唐の都長安は堅固な城壁に囲まれていたが、平城京は都の中心を南北に走る朱雀(すざく)大路の入り口、羅城門の両側にだけ木造塀を設けた構造で、外来の客を迎える京の入り口を装飾的な役割しか持っていなかったと考えられる。

 

● 石神遺跡で銅の人形二つも出土(2006年03月10日)

 奈良県明日香村飛鳥の石神遺跡で銅製の人形、古代のげたや封筒などが見つかった。
  銅製人形は、一つは長さ5.5cm、幅1.7cmで、点状の目と口が表現されている。もう一つはひと回り小さい。観音経木簡と同じ溝跡から二つが重なるよ うに出土した。 同じ溝からは、封緘(ふうかん)木簡(長さ7cm、幅3.5cm)も見つかった。2枚の木簡で手紙を挟み、両端をひもで結んで使った封筒 のようなものだという。 別の溝からは、二つの歯があるものとしては最古級のげた(長さ26.5cm、幅10cm)も出土。

 

● 奈良・石神遺跡で最古の観音経の木簡が出土(2006年3月9日)

 奈良県明日香村の石神遺跡で、観世音経(観音経)について国内最古の記録となる木簡が見つかった。
  同遺跡は、天武天皇の母である斉明天皇の迎賓館などがあったとされ、木簡は溝跡から出土した。縦18.6cm、幅2.3cm、厚さ4mmで、表に「己卯 (きぼう)年八月十七日白奉経」、裏に「観世音経十巻記白也」と墨書され、観世音経10巻を書写したことを報告する内容。
 日本書紀は、天武天皇が亡くなる2カ月前の686年7月、観音経を大官大寺で読経させ、8月には観音像100体を宮中に据えて観音経を読ませたと記しているが、木簡の己卯年は679年と見られ、日本書紀の記述を7年さかのぼる。
 仏像では、奈良県斑鳩町の法隆寺にある651年の銘の観音菩薩像が国内最古とされている。

 

● 石舞台古墳そばに蘇我一族の宿泊施設か(2006年3月8日)

 奈良県明日香村の石舞台古墳の隣接地で、墓を築く際に蘇我一族が現場に泊まっていた建物跡とみられる柱穴が見つかった。
 県道工事に伴って島庄遺跡内の棚田を調査。古墳東側の外堤から約30mの所で計9本の柱穴が見つかり、いずれも古墳石室と同じ向きに並んでいた。付近から7世紀前半の土器が出ており、古墳築造と同時期の2棟の建物跡と判断した。
 また、一辺と深さが2m近い四角い穴の一部が2カ所で見つかりった。儀式や目印に使われたと見られる直径約30cm、高さ10m以上の柱が立っていたと見られる。
 日本書紀は、628年に蘇我一族が馬子の墓を造るため墓の地に泊まっていたと伝え、推古天皇の後継問題を巡って馬子の子の蝦夷と対立した馬子の弟境部摩理勢が宿泊所をうちこわし、後に蝦夷側に殺害されたと伝えている。

 

● 奈良・飛鳥京跡 天武天皇の居室「内安殿」出土(2006年3月8日)

 奈良県明日香村の飛鳥京跡で、天武・持統両天皇の飛鳥浄御原(きよみはらの)宮(672〜694年)で天皇が居住した「内安殿」とみられる大型建物跡が見つかった。
  昨年3月に発掘された、正殿とみられる建物跡の北隣約20mの位置に新たに見つかったもので、建物跡は、直径約80cmの柱穴が並ぶ西半分を確認、東西 24mに復元できることから、同規模、同構造の建物が2棟が平行に建っていたことが判明した。南側の建物は階段を備えており、儀式などを行った公的な性格 が強いとみられ、今回の建物は天皇が起居し、限られた人物しか出入りできない「私的空間」だったらしい。2棟に挟まれた場所は塀で囲った跡があり、特別な 儀式を営んだ広場だった可能性もある。周囲には石を敷き詰め、建物の隅に幡(旗)を飾った柱穴があり、脇殿の一部も見つかった。
  日本書紀によると、浄御原宮には、天武天皇が親王・諸王を招いた「内安殿」と、遊戯や饗宴(きょうえん)を催した「大安殿」、諸臣が集まった「外安殿」が あったと記されており、昨年発掘された建物跡が正殿に当たる大安殿、今回の建物が内安殿と見られ、塀を隔てて南側にあった建物を外安殿、区画外の「エビノ コ大殿」を大極殿とみている。
 また、下層からは柱穴に焼け土や炭が詰まった東西、南北とも9m以上の大型建物が出土し、跡舒明天皇の飛鳥岡本宮(630〜636年)の一部とみられることが判った。古代宮都や律令国家の形成の解明につながる成果となる。

 

● 聖武天皇の仏教帰依、大地震がきっかけか(2006年3月2日)

 聖武天皇(701〜756)が平城京と難波宮間を行幸した直後にその一帯で阪神・淡路大震災級の大地震が起きたとみられることが明らかになった。
  続日本紀には天平6(734)年4月に「山が崩れ、川がふさがり、地が裂けて、多くの圧死者が出た」と記述されているが、デジタル地図に情報を重ねる地理 情報システム(GIS)で震度分布図を作製した結果、この地震は大阪を南北に走る生駒断層帯が動いた直下型とみられ、マグニチュードは7.0〜7.5 だったことがわかった。聖武天皇は地震直前の3月に難波宮を訪れ、竹原井頓宮(かりみや)(大阪府柏原市)をへて平城京に戻っているが、聖武天皇の行路周 辺は断層帯に近く、震度6弱以上の強い揺れに見舞われ、大きな被害が出たと推定した。
 天皇は地震後の7月に最近天変地異が多く、地震もあった。責任は自分一人にあるとして大赦を実施。同じ年には人々の命を全うさせるためにと写経を、翌年には読経も命じ、7年後の741年に国分寺建立、743年に大仏建立の詔を出している。
 聖武天皇は訪れたばかりの地が震災に見舞われたことに大きなショックを受け、仏教への帰依を強めたのではないかと考えられるという。

 

● 大阪府が国の文化財へ補助復活(2006年3月4日)

 大阪府教育委員会は、1999年に財政難で一部を除き打ち切った国宝や重要文化財、史跡など国指定文化財の修復、保存を目的にした補助金の一部を復活させる方針を固めた。
 国指定文化財の修理などは国が費用の85−50%を補助しており、1999年以前は残りの半額を府教委が補助し、後は市町村と文化財所有者が折半していたが、2000年以降は国と市町村だけが補助を続けていた。
  一時は浄土真宗の本山だった大阪府貝塚市の願泉寺では、阪神大震災や台風などで屋根が損壊し、建立以来約300年ぶりの大規模修復工事を始めたものの、修 復事業費15億6千万円のうち国と貝塚市の補助を除く2億3500万円を寄付などで賄おうとしたが1億円弱しか集まらず完成がおぼつかない状態という。

 

● 金色堂の造立年輪年代法により通説裏付(2006年3月3日)

 岩手県平泉町の中尊寺金色堂の柱や天井板に使われたスギ材とヒバ材が1114〜16年ごろのものであることが年輪年代法による測定で分かった。
 金色堂は、棟木銘や文献から奥州藤原氏の初代清衡が平安後期の1124年に造立したとされており、清衡が建立したという通説が科学的に裏付けられた。

 

● 唐古・鍵遺跡の楼閣を初公開(2006年3月3日)

 奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で1994年に復元された楼閣(高さ12.5m)が3月19日に一般に特別公開される。
 同遺跡は弥生時代最大級の環濠集落遺跡で、楼閣は出土した土器の絵を元に復元されたもので、高床風の建物に上屋を重ねた2階建で、唐古の唐古池の端に立つ。
 さくが設けられて普段は入れないが、今回は屋根などの修理に合わせ、池の土手から組んだ足場を通って入場できるようにした。

 

● 平城宮跡朝集殿院で道路の両脇に飾る旗の柱穴発見(2006年3月3日)

 奈良市佐紀町の平城宮跡で、儀式の際に立て並べた旗ざおの柱穴が見つかった。
 柱穴は約26mにわたって見つかり、道路の両側に十数基ずつ並んでいた。これまでにも南側で見つかっており、同院の南門から北の端まで、中心道路の両脇を旗で飾った様子が浮かび上がった。

 

● 高松塚古墳の石室解体取り上げの実験成功(2006年3月3日)

 京都府加茂町に設置された高松塚古墳の石室解体実験場で、石室模型を利用して解体実験をスタートし天井石の取り上げ実験を行った。
 クレーンに取り付ける治具は、最小限の力でバランス良く持ち上げられるよう、6カ所にセンサーを取り付け、石のひずみの度合いを計測し、実物と同様、亀裂を入れて設置した天井石を無事取り上げた。

 

●  滋賀県で「びわこ検定」の検討開始(2006年2月28日)

 滋賀県は、滋賀に関する知識を問う「びわこ検定」の実施に向け、県内の経済界や観光関連業者と検討を始めることを明らかにした。
  地域の歴史や文化などを問う「ご当地検定」は、京都や沖縄、金沢などですでに実施されており、滋賀県でも彦根商店街連盟が昨年12月に初めて「彦根城下町 検定試験」を行ったが、びわこ検定では、滋賀の特色を打ち出すため、琵琶湖や滋賀の環境に関する問題を盛り込む方針。2007年度以降の開始を目指す。

 

● 奈良まほろばソムリエ検定来年1月から(2006年2月28日)

 奈良の歴史や文化に関する知識を問う「奈良まほろばソムリエ検定(奈良検定)」が来年1月からが始まる。
 奈良商工会議所が主催し、奈良への理解を深めてもらい、観光振興につなげるのが狙い。県全域の歴史や文化などが出題対象で、「奈良通2級」「同1級」、記述式の「奈良まほろばソムリエ」がある。

 

●  法隆寺・金堂須弥壇に亀裂、国宝の多聞天像を緊急避難(2006年2月27日)

 奈良県斑鳩町の法隆寺で、金堂須弥壇の表面の漆喰に数cmから数十cmの亀裂が何本も入り一部浮き上がった状態になっていることがわかった。
 金堂には、本尊の釈迦三尊像など飛鳥から鎌倉にかけての国宝や重文などの仏像9体が安置されている。
 須弥壇は金堂の中央付近にあり、東西約8.7m、南北約5.4m、高さ約57cmの土壇。昭和の大修理(1949〜54年)の際、破損した部分を切り崩して築き直し、表面に漆喰を塗って修復したが、昨年になって、増加していることが判明。
 北東隅では下の土台が見える部分もあり、寺は、応急措置としてひび割れ付近の須弥壇側面を板で補強。また、万一の事態に備え、昨秋、四天王像(国宝)の一つ多聞天像を宝庫に緊急避難した。
 亀裂が起きた理由は不明だが、土台そのものが損傷している可能性もあるという。

 

● 三十三間堂3月3日に無料拝観(2006年2月27日)

  京都市東山区の三十三間堂では今年も3月3日に無料拝観を実施するが、今年は初の試みとして、本堂の一隅に高さ約1.5mの壇を特設し、参拝者は階段状に 並ぶ1001体の観音像を高い位置から広く見渡せるようにする。三十三間堂は平安時代末期に平清盛が建立。焼失後、鎌倉前期の1266年に再建された。
 今年は新たに本堂南東角の廊下にL字型の壇を設置し、普段は仰ぎ見る格好の千手観音像や二十八部衆、風神像などを見渡すことができる。

 

● 奈良・巣山古墳ハ大王運んだ霊柩船(2006年2月23日)

 奈良県広陵町の国特別史跡・巣山古墳の周濠から、表面に文様が刻まれ、朱が塗られた類例のない形の大型の船形木製品や、木 棺の蓋、木偶(もくぐう)などの木製品が多数出土した。
 木製品は船の形に復元でき、埋葬前に遺体を仮安置する「殯(もがり)」の場から古墳まで陸路で遺体を運んだ〈霊柩(れいきゅう)船〉の一部とみられ、古代の葬送儀礼を実証する発見となる。
  船の側板形の部材は杉製で長さ3.7m、幅45cm、厚さ5cm、復元すると長さ8.2m。魔よけを意味する三重の円と帯状の文様が刻まれていた。木棺は クスノキ製で長さ約2.1m、幅約78cm、厚さ約25cm。縄掛け突起があり、組み合わせ式石棺「長持型石棺」と似た形状を持つ。復元長は約4m最大幅 約1m。表面に直線と弧線を組み合わせた「直弧文」と三重の円が刻まれ、一部に朱色の顔料が残っていた。
 これらを組み合わせると、先端が反ったゴンドラ形の船に棺を載せたような形になり、中国の7世紀の史書「隋書倭国伝」の「貴人は、三年外に殯し、葬に及べば、屍を船上に置きて、陸地にて之を牽く」という記述と合致する。
 すべて人為的に破壊されおり、棺の埋葬後、役目を終えた船や飾りは、斧や槌で砕く、「破砕祭祀」を行ったとみられ、古代の葬送儀礼を知る手がかりとして注目される。
 古墳から木偶が出土した例は初めてという。
 一帯は大豪族、葛城氏の本拠地とされ、被葬者は大王に近い有力者とみられている。
 

 

● 大津市の上仰木遺跡から製鉄炉、延暦寺造営の資材工房か(2006年2月21日)

 大津市の上仰木遺跡で、平安時代前期の製鉄炉1基が見つかった。
 製鉄炉は長さ1.2m、幅0.5mで箱型で燃料の木炭を焼く窯も1基あった。
 近くの谷からは、製鉄の過程で生じる鉄かすや炉壁のかけら(計約120トン)も発掘され、かなり大きな工房だったらしい。
  遺跡は比叡山のふもと、延暦寺横川中堂まで約3キロある道の登り口にあり、延暦寺の大規模な伽藍造営に当たり、くぎやかすがいなど建築資材を作った重要な 生産工房だった工房跡と見られ、10〜11世紀ごろの銅の塊も出土することから、銅製の仏具なども鋳造したと見られる。

 

● 大阪・百済寺跡の西塔 基壇は壇上積み(2006年2月16日)

 大阪府枚方市の百済寺跡西塔の基壇跡が壇上積みという最上級の外装方法だったことが分かった。 

 百済寺は、660年の百済滅亡のため亡命してきた渡来氏族・百済王氏の氏寺と伝えており、凝灰岩の延石の上に地覆石を組み合わせた、地方の氏寺としては最上級作りであることが判った。

 

● 京都市、指定登録文化財に下鴨神社社家、鴨脚家庭園など7件 (2006年2月16日)

 京都市は下鴨神社社家、鴨脚家庭園など7件を市指定・登録文化財にすることを決めた。
◇…指定…◇
【名勝】▽下鴨神社社家、鴨脚(いちょう)家庭園(左京区)
【美術工芸品】▽絹本著色佐久間将監像(北区・大徳寺真珠庵)
▽客殿障壁画(右京区・妙心寺隣華院)
▽金銅製蓋付き蔵骨器(京都市)
◇…登録…◇
【建造物】▽九頭神社本殿(右京区京北)
【有形民俗文化財】▽崇仁船鉾・十二灯装飾品一式(下京区・崇仁自治連合会)
【無形民俗文化財】▽御香宮祭礼獅々(御香宮獅々若会)

 

●  高松塚壁画の女性像に黒いしみ(2006年2月10日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の極彩色壁画のうち、「飛鳥美人」として知られる西 壁の女性像の目尻や肩に黒いしみができていたことがわかった。
  西壁の女性群像のうち、右から2人目の赤い上着を着た女性の右目尻に、直径約1mm、右肩に縦約2cm、横約3cmの黒いしみがあった。今月2日に撮影し た写真を検討中に発見した。以前の写真も調べたところ、写真集の出版に伴い平成14年に撮影した壁画の写真には写っていなかったが、昨年9月に撮影した写 真にはしみが既に写っており、平成14年から昨年9月までの間で、発生したと見られる。
 高松塚壁画は今まで、数カ所にカビが見つかっているが、顔など中心部に汚れを確認したのは初めて。
 また、同じ女子像の肩付近で、以前から確認されていた黒いしみが、さらに濃くなっていることも判明。目元や肩のしみの原因は不明。近く微生物の専門家が現地調査し、原因の特定を急ぐ。


● 高松塚古墳の石室にゆがみ(2006年2月10日)

 国宝壁画の保存に向け、来年2月にも石室が解体される明日香村平田の高松塚古墳 の石室にゆがみがあることが分かった。
 石室内部の測量調査で、床面が北東隅から南西隅に向かって約7cm下がっており、天井も同様に約8cm下がっていることが判明。また石室の主軸方位が北で西に約1度ずれていた。石室解体を実施する上で貴重なデータとなりそうだ。

 

● 高松塚、発掘は10月開始、石室解体は来年2月から(2006年2月9日)

 文化庁の高松塚古墳恒久保存対策検討会は、作業部会が提案した石室解体と修復の スケジュールを了承した。
 これによると、まず壁画の現状を高精度カメラで撮影し、フォトマップを作成。壁画を傷めない方法を実験で確かめ、9月からレーヨン紙やガーゼで壁画を表打ちし、下地漆喰を補強する。その際解体の支障となる漆喰は取り除く。
 古墳周囲の発掘は本年10月に開始し、墳丘頂上から石室の底まで段階的に掘り、石室の実寸計測や石材状態の調査、墳丘の構造や壁画環境の劣化原因を探った後、石室の解体作業は来年2月から行う。
 石室を元に戻すまで10年がかりの作業になる。
 

● 高松塚古墳解体の実験場を公開(2006年2月2日)

 石室を解体し、壁画を修復・保存することが決まっている奈良県明日香村の高松塚 古墳の石室を解体実験場として、京都府加茂町西小設置された設備が公開された。
 実験場付近も土の質が、高松塚古墳の墳丘の土と似ていることなどからこの場所を実験場に選定し、工法も同古墳と同様に土を何層にも突き固めながら盛り土していく版築を用いて直径15mの墳丘を設置するなど、できるだけ同じ条件になるように造ったという。
 9日に奈良市内で開かれる同古墳保存対策検討会後、解体実験に着手する。


● 長岡京・下海印寺遺跡で建物跡など発見(2006年2月2日)

 京都府長岡京市下海印寺の下海印寺遺跡で長岡京時代に建てられた可能性のある 掘っ立て柱建物跡3棟と溝などが見つかった。
 西側の1棟は柱穴8基を備えた、南北4.2m、東西3.9mの規模で、3棟のうち2棟の主軸は、南北方向を向いて整然と並んでいる。
 また、溝は長さ10m、幅80〜100cm、深さ40cmで、奈良−平安時代の土師器や須恵器の破片も多量に出土した。
 建物も溝も長岡京時代に含まれると考えられ、長岡京の造営事業が京域西端にまで進んでいた、と推測させる貴重な資料となる。


● 「奈良検定」来年1月に実施(2006年2月2日)

 全国の京都通が知識を競う「京都検定」に続き、「奈良検定」が07年1月に実施 されることになった。
 奈良検定の正式名は「奈良まほろばソムリエ検定」で奈良商工会議所が主催する。
  資格は「奈良まほろばソムリエ」をトップに奈良通1級、同2級の3ランクを設定。2007年は最も易しい2級のみで、2008年に1級、2009年にソム リエ試験が行われる。出題は4択式の100問。京都検定が主に京都市内を対象としているのに対し、奈良検定は奈良県全体を対象とする。
 2009年以降にはソムリエ認定者でつくる「まほろば倶楽部(仮称)」を発足させ、旅行計画を会社に提案したり、旅館で旅の手配をしたりする奈良観光のエキスパートとして活躍してもらうことも検討中という。
 また今秋には、奈良を訪れる修学旅行生を対象に「ジュニア検定」も計画している。

● 三宅島の重文・観音像、5年半ぶり帰島(2006年1月31日)
 2000年8月の大噴火直後、東京・上野にある文化庁の収蔵庫に保管されていた、東京都三宅村海蔵寺に伝わる国指定重要文化財の観音立像が、昨年2月に避難指示が解除されたのに伴い、5年半ぶりに帰島することとなった。
 観音立像は高さ約30cmの銅造で、白鳳時代につくられたとされる優美な像であるが、火山ガスが金属に与える影響の度合いを測り、ガス吸収用のシートでこん包することなどを条件に「帰島可能」と判断した。

● 野洲で仏像の台座など見つかる(2006年1月31日)
 滋賀県野洲市冨波の常楽寺遺跡で鎌倉時代前期とみられる仏像の台座の一部や瓦片、輸入陶磁器などが見つかった。
  見つかったのは、木製の仏像の蓮華座の一部(長さ約20cm、幅約6cm、厚さ約6cm)で、ハスの花の模様が描かれ、黒漆が施されていた。また、井戸跡 からは、観音菩薩が持つ蓮華の茎と考えられる棒状の木製品(長さ約12cm、直径約1cm)も出土した。台座と木製品はセットの可能性が高く、仏像は像高 約90cmの聖観音立像と推測される。
 現在の常楽寺には、前身の常楽寺が織田信長の焼き打ちで焼失したという言伝えがあり、伝承通り常楽寺の前身の寺院があった可能性が高まった。

● 東大寺転害門の古材、床柱に転用(2006年 1月27日)
 奈良市多門町の河瀬家住宅で、国の登録有形文化財の登録に伴って調査した結果、 国宝・東大寺転害門の地垂木が床柱として転用されていることが分かった。
 河瀬家住宅は奈良奉行所の同心などが住んだ武家屋敷で、主屋は安政3(1856)年の建築。床柱は昭和17年の改修で組み込まれたといい、転害門が昭和 6年の解体修理された際取り外された地垂木の一本とみられる。 


● 前橋の寺院跡で8世 紀前半の塑像片出土(2006年1月26日)

 群馬県前橋市総社町の山王廃寺で出土した塑像片に「群青」の彩色が確認された。
 山王廃寺は7世紀後半の白鳳期に建てられた初期の寺院で、11世紀前半まで「放光寺」の名称で栄えたとされ、これまでの発掘調査で、約2200点の塑像片が見つかっている。
 群青が確認されたのは、「胡人像上半身」と呼ばれる全長約10cmの塑像片で、焦げ茶色に変色した着物の襟部分の青色粒子がエックス線分析の結果、群青の原料である藍銅鉱であることがわかった。
 群青の使用は7世紀末の法隆寺金堂壁画が国内最古とされ、東日本でほぼ同時代のものが確認されたのは初めてという。

● 奈良・キトラ古墳で寅のはぎ取りを断念(2006年1月17日)

 明日香村阿部山のキトラ古墳で、17 日にはぎ取る予定だった東壁の12支像の寅の胴体など本体部分について、急きょはぎ取 りを断念した。
  寅の本体部分をはぎ取る前に、絵の右上の余白部分をはぎ取ったが、絵の下地となっている漆喰が全面的に石壁と固着し、ヘラが石壁との間に挿入しにくい状況 だった。また、針状のものを使って、少しずつ剥ぎ取ろうとしたが、表面に亀裂が入るなどうまくいかず、剥ぎ取った後は一部がばらけてしまった。
 文化庁では、壁画はぎ取り作業は一時中断し、道具を改良して再度挑戦する予定だが、傷みが激しい天井の天文図や、漆喰が予想以上に薄い南壁の朱雀に加え、壁画保存対策に新たな課題が生じた。文化庁は、石室の部分解体も含め今後の対応を検討する。

 

● 投入堂は朱塗りだった可能性(2006年1月13日)

 鳥取県三徳山三仏寺の国宝投入堂が、当時、朱色に塗られていた可能性があること が分かった。
 投入堂は役行者が706年に開いたとされる修験道の道場として知られるが、現在の投入堂は白木造りで、大正時代に修復されているが、修復前から同様の姿だったと考えられていた。
 しかし、岡倉天心らが国宝調査のため明治36年(1903)に鳥取、島根、山口の3県を旅した際の日記を分析した結果、当時、朱色に塗られていた可能性があることが分かった。


● 山瀧寺跡で瓦溜まり出土(2006年1月12日)

 京都府宇治田原町山瀧(さんりゅう)寺跡から奈良時代の瓦片を中心とした瓦溜ま りが見つかった
南北幅約3m、東西幅約1mで、コンテナ5、6箱分の大小の瓦片が出土した。創建期と思われる白鳳時代の軒瓦2点も含まれている。
山瀧寺は、7世紀後半に建てられたとされる寺院


● 高松塚古墳2月にも石室解体実験(2006年1月12日)

  奈良県明日香村の高松塚古墳で国宝壁画を修復・保存するための石室解体について、文化庁の同古墳保存対策検討会は保存科学や考古学などの専門家ら9人が参 加して、来年1、2月ごろの石室解体に向け、今年2月にも解体実験をし、秋に墳丘を発掘するなど大まかな作業日程を固めた。

 

● 京都府指定・登録の府文化財小冊子作成(2006年1月6日)

 本年度に指定・登録された京都府文化財の歴史などを解説した小冊子「守り育てよ うみんなの文化財」23号が発行された。
 禅林寺(永観堂-京都市左京区)の阿弥陀堂や、観音寺(和束町)に伝わる奈良時代の木心乾漆菩薩坐像などの建造物、美術工芸品15件を紹介している。
 また、勧進状をテーマにした特集記事も掲載している。


● 藤原宮内裏で大型建物遺構(2006年1月5日)

 持統、文武、元明の三代天皇の都だった奈良県橿原市の藤原宮跡で、内裏中心部か ら周囲にひさしのある大型の掘っ立て柱建物の遺構が見つかった。
 遺構は東西17m、南北11mで、1mの柱穴や、直径約30cmの柱も残っており、周辺の状況から庇(ひさし)があったとみられる。
 位置は都城の中軸線上からずれており、天皇の住む正殿ではなく、儀式などに使った建物だった可能性もあるが、藤原宮の内裏中心部で、建物の規模が明らかになったのは初めてという。

 

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