特選情報(2005年)

● 京都・高麗寺跡で金めっきの相輪破片が出土(2005年12月21日) 

 京都府山城町上狛の高 麗(こま)寺跡で、 金めっきを施された塔の相輪の破片1個が出土した。
 相輪の破片は塔の基壇を囲む石敷きの南西角から見つかり、大きさは縦13.5cm、幅4cm、厚さ約1cmの銅製品で、長さ約10mあったと推測される 相輪の先端を飾った水煙を心柱に取り付ける円筒形の金具擦管(さっかん)の心棒の一部とみられる。少し錆びているものの鮮やかな金めっきが残っている。
 心棒片は姫路市の播磨国分寺跡など数カ所から出ているが、金メッキなどはほとんど残っておらず、国内では一番良好な保存状態であるという。
 南山城地域は高句麗からの渡来氏族の狛(こま)氏が多く住んでいたとされ、高麗寺は氏寺として創建され白鳳時代に完成した国内で最古級の寺院とされる。 1938年から発掘調査が進められ、これまでに塔や金堂、講堂の瓦積み基壇が出土していが、鍍金技術も狛氏の高度の技術によるところが大きいと考えられて いる。


● 山城・高麗寺跡で美しい瓦積み基壇発掘(2005年12月21日)

 京都府山城町上狛の高麗(こま)寺跡で、塔と金堂の瓦積み基壇が見つ かった。
 瓦積み基壇は、塔の南西角と金堂の南側で基壇の周囲に瓦を最高約1mの高さで丁寧に積み上げて化粧を施されていた。
 また内側の強度を増すため、土の基壇の周囲に石積みをして二重構造にし、瓦の破片と土を混ぜ合わせた、裏込めと呼ばれる補強材を使用した状況も確認でき た。
 中門跡からは基壇の一部とみられる造成跡や排水用の暗渠跡、大量の瓦なども見つかった。
 瓦積み基壇は瓦の重みで崩れやすく、きれいに積まれたまま見つかるケースはほとんどないが、伽藍配置も整然と計画されており、渡来人の狛氏が高い技術を 元に寺院を建立していたことがわかるという。


● 高松塚石室解体などにに7億円の予算(2005年12月21日)


 政府の来年度予算の財務省原案内示で、国宝壁画の劣化が問題となった明 日香村の 高松塚古墳の修復保存に約7億円が認められた。ハハハ
 また、奈良市の平城宮跡で進む大極殿の復元関連では27億1300万円が盛り込まれ、2010年開催の平城遷都1300年祭までの完成の目処がついた。

主な文化財関連予算案
高松塚古墳石室解体費用:2億円
高松塚古墳修復施設:4億円
高松塚古墳冷却管、覆い屋等:1億円。
平城宮跡大極殿の復元等:27億1300万円
キトラ古墳壁画の修復、滅菌処理:1億100万円

● 高松塚壁画修復施設古墳近くに建設(2005年12月21日)

 文化庁は、高松塚古墳の国宝壁画の修復施設を古墳近くの国営飛鳥歴史公 園館の隣 に建設することを決めた。
 修復施設の建設場所については、村は墳丘周辺での建設を要望していたが、文化庁はコスト面から奈良文化財研究所飛鳥資料館の敷地内に建てる計画を進めた ため、村が強く反発し、文化庁と縁を切り壁画の持ち出しを実力阻止するとの姿勢を見せるなど対立していた。

 村では一応安堵の表情を見せるが、壁画の劣化を招いた文化庁への不信感は、まだぬぐい切れていないという。
 石室解体は2006年末にも始まり、壁画の修復には10年以上かかるとみられる。

● 滋賀・敏満寺の石垣と礎石が出土 (2005年12月16日)

 滋賀県多賀町の敏満寺石仏谷墓跡で、石垣と建物の礎石が出土 した。
 石垣は高さ約2m、長さは南北約10m、石垣の内側は盛土して平らな面が造られており直径約1mの礎石5個も見つかった。
 敏満寺は、多賀大社の南に位置する青龍山の西側一帯にあったとされる寺で、聖徳太子が建立したとも伝わる。9世紀ごろには学僧の修行場として繁栄し、朝 廷や将軍家の帰依を受け勢力を拡大した戦国時代に織田信長らによって焼き打ちされ、廃寺になったとされる。

 

● 平城宮東朝集殿跡で礎石穴発見、唐招提寺に移築裏付け(2005年12月16日)

  奈良市佐紀町の平城宮東朝集殿跡で、奈良時代後半の礎石穴が見つかった。
 東朝集殿の基壇は南北38.7 m、東西17.8m。礎石を据えた一辺約1mの穴は3つ見つかり、柱の間隔は東西約3.4m、南北が約3.8mだった。
 朝集殿は役人たちが出勤前に衣服を整えた建物で、唐招提寺に移築されて講堂となったとされているが、礎石の間隔は現在の唐招提寺講堂と同じで、移築があ らためて裏付けられた。

 

● 金閣寺境内に 「北山殿」の遺構(2005年12月14日)

 京都市北区の鹿苑寺で、足利義満が造営し死 後破壊された邸宅「北山殿」の一部とみられる遺構が確認された。
 遺構は金閣寺からわずか40m東側で、直径約50cmの礎石が確認され、また、直径約70cmの礎石の抜き取り穴が、2.2m間隔で南北に続いており、 南北方向の廊下の基壇とみられるという。
 北山殿と見られる遺構は金閣寺の北側などで、小ぶりな建物跡が見つかっているが、中心部分の遺構の発見は初めてである。

 

● 国立博物館と文化研統合へ(2005年12月14日)

  文部科学省は独立行政法人評価委員会が11月にまとめた法人再編案に従い、独立行政法人の国立博物館と文化財研究所を統合 する。
 国立博物館と文化財研究所は2001年度にそれぞれ独立行政法人化し、国立博物館は東京、京都、奈良、福岡に計4館あり、文化財研究所は東京と奈良に拠 点施設がある。
 統合の目的は、博物館の保存修復部門と文化財研究所の保存科学部門との連携を通じて、両法人が収蔵する13万件に上る文化財の管理の質を向上させること や、国立博物館が持つ展示・公開のノウハウを研究所所有の文化財にも生かすことで、統合に先立ち二法人の職員の非公務員化も検討するという。
 統合時期や、現在東京国立博物館と奈良文化財研究所に分かれている本部組織の設置場所などは今後検討する。
 財政難や行革を背景にした統合には平山郁夫東京芸術大学長らが「安易に採算性を求める改革で、日本の文化芸術の衰退を危惧する」と反対していた。

 

● 国立博物館業務を民間に公開(2005年12月2日)

  文科省民間開放推進会議は、公共サービスの受注を官民が入札で競う市場化テストの対象事業として、国立美術館と国立博物館 の業務を民間開放することについて公開討論会を行った。
 討論で文科省は、施設管理や啓発普及、展示の設営などについては入札も可能との認識を示したが、展示企画などの本体業務は入札にはなじまないとして反論 し、議論は平行線となった。
 しかし、同会議は独立行政法人は聖域を設けない方針で、年末の答申には両施設を含む8法人を市場化テスト対象に盛り込みたいとしている。

 

(所感)

 国立博物館の独立法人化によって、 色々なアイデアが生まれてきていますが、全面的に民間解放となると、文化の基本を構成するような企画よ りも、奇をてらった人が集まる企画ばかりが益々優先されそうで行く末が不安ですね。

 

● 故 真野満さん法隆寺・金堂壁画の模写寄贈(2005年12月15日)

  法隆寺の金堂壁画を模写した画家の一人で平成13年に亡くなった真野満さんが保管していた金堂壁画の模写が、明日香村飛鳥 の県立万葉文化館に寄贈された。
 金堂壁画は国が昭和15年から保存のために模写事業に着手、日本美術院などから多数の画家が参加した。壁画は位置によって1〜12号に分けられ、真野さ んが担当したのは5号壁の半跏思惟菩薩像であったが、特に有名であった6号壁の阿弥陀浄土図についても、早朝の数時間を割いて個人的に模写したという。
 金堂壁画の模写は、昭和24年1月、堂内から出火して焼失している。
 同館は現在開催中の真野満展(25日まで)に初出展する。

 

● 和歌山・大日山35号墳かぶ との武人埴輪出土(2005年12月14日)

 和歌山市岩橋の岩橋千塚古墳群にある大日山35号墳から珍しい形のかぶとをかぶった大型の武人埴輪の頭部が出土し た。
 埴輪の頭部は高さ22cm、幅15cm。全身を復元すると1m以上となり、継体天皇陵とみられる今城塚古墳(大阪府、6世紀前半)の埴輪並みの大きさと いう。
 埴輪は船底型の衝角付き(しょうかくつき)兜につば型の眉庇(まびさし)を付けた極めて珍しいという。

 

● 寅の一部はぎ取り-キトラ壁画(2005年12月13日)

  奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、東壁の十二支像の寅の絵が一部を分割してはぎ取られた。
 はぎ取られたのは、赤く彩色された着物の裾部分を含めた14cmセンチ四方で、武器のような持ち物や裾を横切る亀裂に沿ってはぎ取られた。

 

● 井手寺で金堂とみられる柱跡発掘(2005年12月13日)

 京都府井手町の井手寺跡で、金堂の遺構とみられる柱跡が見つかった。
 見つかったのは、柱の礎石下に敷く根石の跡10カ所(直径約1m)で、柱は約3m間隔で東西に6本、南北に5本あったと見られる。
 これにより、2003年に約20m北で見つかっていた大規模な建物遺構は講堂と推定され、塔の位置は不明であるが、遺構の位置関係などから伽藍配置は法 隆寺に近い伽藍配置と考えられる。
 井手寺は、奈良時代の左大臣橘諸兄の建立と伝え、奈良の官寺に匹敵する大寺であったといい、
 今回の調査で7世紀前半のものを含む3色のうわぐすりを使った三彩瓦なども出土した。

 

● 高松塚床石にも亀裂-高まる解体の必要性(2005年12月10日)

  奈良県明日香村の高松塚古墳石室の床石に亀裂が入っていたことが分かった。
 これまでに亀裂が確認されている天井石同様、過去の地震が原因とみられ、既に決定している解体の必要性が更に高まった。

 

● 山科本願寺跡で「豆彩」日本初出土(2005年12月8日)

 京都市山科区山科本願寺跡寺の中枢である御本寺から明時代の豆彩(とうさい)など多数の輸入陶磁器片が出土した。
 山科本願寺は、応仁の乱直後の文明10年(1478)、本願寺中興の祖、蓮如によって造営され、御本寺、内寺内、外寺内の三つの郭で構成された城塞都市 で、後に近江守護六角氏や法華宗・延暦寺の連合軍に焼き打ちされた。
 発掘調査の結果建物跡とみられる礎石や柱穴のほか、石組みの溝や池跡などの庭園遺構が見つかった他、遺構を覆っていた焦土層から、豆彩と呼ばれる多数の 輸入陶磁器片が出土した。豆彩は明時代に完成された鮮やかな青緑色が特徴の図柄が描かれた磁器で、これまで日本での出土例はない。ほかにも天目茶碗、青磁 や染付の破片が数百点見つかった。
 遺物はいずれも、焦土から出ており、法華宗徒らに焼き打ちを受けた際のものとみられる。

 

● 奈良・大安寺で全国最大の風鐸出土(2005年12月8日)

 奈良市東九条町 の大安寺旧境内で、基壇の周囲から大型風鐸の破片、約20点が出土した。
 風鐸は塔の軒先などに付ける大型の風鈴で、西塔跡からは、昨年迄に12点の破片が見つかっていたが、今回発見した底部とみられる破片をつなぎ合わせて復 元すると、直径約30cm、高さ55cm、重量約12kgとなり、今迄最大とされてきた下野薬師寺跡(栃木県南河内町 7世紀末創建)の風鐸(高さ 40.5cm)を上回り、発掘された風鐸としては全国で最大となる。
 材質は青銅製で表面は金メッキされており、本体部分に乳(にゅう)と呼ばれる突起や帯状の文様がある。
 大安寺は南都七大寺の一つであり、塔は基壇の大きさから高さ約70mの七重塔で、8世紀末〜9世紀初めに建立され10世紀半ばに焼失したと考えられてい る。
 西塔跡ではこれまでに高さ約30cmの風鐸2個が見つかっているが、今回の風鐸は一回り大きく、大きい風鐸が塔各屋根の四隅に、小さい風鐸は塔頂上の相 輪に付いていたと見られている。

 

● キトラ 壁画奈良文化財研究所へ移送(2005年12月9日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳 で剥ぎ取られ、現地覆い屋で保存されていた四神像「玄武」などの壁画が、修復保存のため 奈良文化財研究所へ移送された。
 運ばれたのは、玄武をはじめ十二支像の亥や子、丑の北壁の4つの壁画。壁画は今後、修復に向けて同研究所で保存される。

 

● バーミヤンで仏塔現存の石窟発見(2005年12月3日)

 世界遺 産のバーミヤン遺跡で、破壊された西大仏立像跡の頭上付近のがけで、7−8世紀ごろの仏塔が内部に現存する石窟を、 文化財研究所のチームが発見した。
 バーミヤン遺跡では、仏塔が内部に残る石窟は確認されておらず、バーミヤン遺跡で仏塔が内部に現存する唯一の事例と考えられている。
 石窟は切り立った崖にあるため、今回は実際に石窟に入っての調査は見送られた。

 

● 北白川廃寺跡で金堂囲む回廊確認(2005年12月2日)

 京都市 左京区の白鳳寺院北白川廃寺跡で金堂を囲む回廊跡とみられる基壇が確認された。
 北白川廃寺跡では金堂とみられる基壇と塔跡が発見されており、今回の発見により塔は回廊の外に独立して建っていたことが判明した。
 白鳳時代の寺院では金堂と塔は共に回廊の内側にあるのが一般的であり、後の奈良時代でも塔が独立するのは大安寺が最初とされているが、この時期の京都盆 地には、飛鳥とは異なる仏教思想が入ってきていた可能性があると考えられるという。

 

● 宇治市街遺跡で藤原家邸宅の井戸や建物跡出土か(2005年12月1日)

  京都府宇治市宇治の宇治市街遺跡で、平安後期の井戸や建物跡などが見つかった
 工場内の道路整備予定地を調査したところ、0.8m〜0.5m四方の井戸計5基をはじめ、溝や土坑が見つかった。調査地の東隣では今年9月に平安後期の 藤原摂関家の(別荘)と思われる邸宅跡が確認されており、同じ邸宅跡とみられる。東隣の流路に続く流路北岸の州浜跡も確認された。

 

● キトラ古墳で玄武3分割し剥ぎ取り(2005年11月30日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で石室の北壁に描かれた四神図「玄武」などのはぎ取りに成功した。左下の12支 像の亥の 絵の残りもはぎ取られ、これで北壁のすべての壁画のはぎ取りが完了した。
 玄武は絵の周囲の余白も含め縦20cm×横28cmにわたってはぎ取られたが、蛇の頭部分は補強剤がうまく染み込まず壊れる恐れが あったため、縦3cm ×横2cmに割ってはがした。亀の甲羅は左右真っ二つになったが、修復すれば割れ目がほとんど分からないように修復できるという。

 

● 奈良・市尾墓山古墳で鳥形木製品出土(2005年11月24日)

 奈良県高取町の市尾墓山古墳で、周濠跡から鳥形や盾形などの木製品10数点が見つかった。
 見つかった鳥形木製品は全長110cm、厚さ最大4cmで丸い頭に胴体と大きく広げた尾羽が付いている。翼は見つかっていないが、胴体下部に翼を差し込 むための彫り込みがあった。古代、鳥は被葬者の霊をあの世へ運ぶ神の使いと考えられており、築造当初は墳丘を木の埴輪で飾っていたとみられる。

 

● 恭仁宮跡に大型建物跡、仮設の大極殿か 2005年11月24日(木)

  京都府加茂町例幣の恭仁(くに)宮跡で、大極殿跡の北東で東西43m、南北11mに及ぶ建物跡が見つかった。
 続日本紀には「742年1月1日、大極殿が未完成のため、聖武天皇が四阿殿において臣下から賀を受けた」との記述があり、見つかった建物跡は大規模で大 極殿との距離も約50mと近いことから、四阿殿に該当する可能性があるという。

 

● バーミヤンで幻の伽藍発見か(2005年11月24日)

 バーミヤ ン遺跡で発掘調査を続けている文化財研究所のチームが、東大仏跡の南東約1.5kmの地点で、かつて寺院があった ことを示す仏塔の基壇の一部を確認した。
 発掘の際に発見された土器片などから、バーミヤンで仏教文化が栄えた6−8世紀の仏教寺院跡と推定され、7世紀にバーミヤンを訪れた中国の僧、玄奘三蔵 が「大唐西域記」に涅槃仏や伽藍がると記した場所と想定されるという。

 

● 史跡名勝を指定(2005年11月19日)

 文化審議会は、大山崎 瓦窯跡(京都府大山崎町)など十三件を史跡に、東京都北区の旧古河氏庭園など三件を名勝に指定するよ う答申した。
 また、今回初めて制度化された重要文化的景観の第一号に滋賀県近江八幡市の「近江八幡の水郷」を、登録記念物に神戸市の「再度公園及び再度山永久植生保 存地」と相楽園を選定した。
 重要文化的景観と登録記念物は、棚田や里山など日本の原風景や、公園などを土地開発や過疎化による荒廃などから保護する目的で、今年四月施行の改正文化 財保護法で新たに設けられた。景観維持に向けた国の事業や固定資産税軽減の対象となる。

  主な指定
 【史跡の新指定】

  ▽大山崎瓦窯跡(京都府大山崎町)

 平安初期初期に平安宮や離宮に瓦を供給した官営の瓦窯跡で平安宮朝堂院や嵯峨院など嵯峨天皇が営んだ離宮と同じ文 様の瓦が 大量に出土した。今年2月に大山崎町教委の発掘調査で見つかったばかりで、発掘から指定まで最も早いケースの一つ。

  ▽田儀櫻井家たたら製鉄遺跡(島根県出雲市多伎町・佐田町)

 製鉄 に関連した施設が並ぶ田儀櫻井家の本拠地「宮本鍜冶山内遺跡」と十九世紀に稼働したとみられる同佐田町の「朝日たたら 跡」で構成する。
 朝日たたら跡は、通気孔などをほぼ完全な形で残し、近世高殿たたらの地下構造を実際に見ることができる県内でも唯一の遺跡。

  ▽下坂氏館跡(長浜市)

 南北朝から戦国時代にかけて足利氏や京極 氏に仕えた湖北地方の在地領主(土豪)の城館。主郭や4つの副郭などの建物跡や土 塁跡が確認されている。

   ▽上市黒川遺跡群(富山県上市町)

 平安時代末から鎌倉時代に築かれた円念寺山経塚、黒 川上山墓跡、伝真興寺跡などの遺跡で、94年に道路工事中に経筒外容器 や密教法具などが発見され、「立山信仰」の起源につながる遺跡として重要視されている。

  【名勝の新指定】

  ▽慶雲館庭園(長浜市)

  明治20年(1887)の明治天皇の京都行幸に際して、帰路の休憩所として建築。その後、行幸25周年を記念して庭園が本 格整備された。前庭、玄関前庭、奥庭から成り、かつては琵琶湖を望み、巨石を配したその大胆な構成が特徴だった。

 【史跡の追加指定・名称変更】

  ▽大安寺旧境内附石橋瓦窯跡(京都府綴喜郡井手町)

 平城京大安寺の創建瓦を焼成し、同寺の資財帳に記された「棚倉瓦屋(たなくらのかわらや)」と推定される。奈良時 代の官寺 の瓦生産体制を示す。

 【史跡の追加指定】

   ▽丹波国分寺跡附八幡神社跡(京都府亀岡市)

 奈良時代に全国に建立された国分寺の一つ で、現在も法灯を伝える。往事の姿をとどめる17個の塔跡の礎石が現存するほか、 寺域を区画する築地塀や側溝、金堂、中門など寺の中枢施設が発掘調査で確認されている。

   ▽無量光院跡(岩手県平泉町)

無量光院跡は、奥州藤原氏三代秀衡が建立した寺院跡。今 回、北側土塁の一部と東側の一部追加答申される。

  ▽骨寺村荘園遺跡(岩手県一関市)

 骨寺村荘園遺跡は一関市厳美町本寺地区を中心とする中尊寺経蔵別当の領地だった地域。14世紀ごろの絵図に描かれ ている寺 社などが現存し、当時の地形や景観を今も残す。

 【登録有形文化財(建造物)】

  ▽有礒正八幡宮(富山県高岡市)

 有礒正八幡宮は銅板ぶきの木造八 棟(はちむね)造りで、本殿は明治16年、拝殿などは昭和10年に建てられた。元々は雨晴 に鎮座していたが慶長年間に横田正八幡宮に合祀された。

  ▽火頭古神社本殿(滋賀県甲賀市)

 江戸時代中期の建物。柱の絵様 や装飾部の彫刻など細部の意匠に優れる。屋根は檜皮ぶきで木目の細かい良質の檜材で造られて いる。

 

● 京都・安祥寺十一面観音立像奈良期制作か(2005年11月18日)

  京都市山科区御陵の安祥寺の本尊、十一面観音立像の制作年代が、寺創建の平安初期より古い奈良後期の可能性があることが、 京都大を中心とするグループの調査で判明した。

 十一面観音立像はカヤ材による一木造り像高約2.5mの半丈六仏で、頭部は江戸期 の修復で付け替えられていたが、腰が高く肩幅の広い造形 や指の形の柔らかさ、衣の文様や材質などから、奈良後期〜平安初期につくられたと判断した。また安祥寺伽藍縁起資財帳には、半丈六の十一面観音像の記録は ないことから、創建後のある時期に同寺に移されたとみられる。

● 蘇我入鹿の邸宅跡発見か(2005年11月13日)

 奈良県明日香村の甘樫丘の東南ふもとで、蘇我入鹿邸とみられる建物跡や 塀跡、焼 けた土などが見つかった。
 国営飛鳥歴史公園の整備に伴う発掘の結果、掘っ立て柱建物跡5棟と塀跡が発見され、蘇我邸の有力候補地と考えられている同丘陵東側で、7世紀の建物跡が 見つかったのは初めてで、日本書紀に「谷の宮門」と記された入鹿邸の可能性が高いとみられる。
 

● 滋賀西明寺で三重塔内部公開(2005年11月11日)

 滋賀県甲良町池寺の西明寺で、三重塔内部の極彩色の壁画「三重塔初層荘 厳画」 (重要文化財)を11月30日迄特別公開している。
 西明寺三重塔は鎌倉時代の建築で、初層内部の壁や柱、扉に宮廷画師の巨勢派の画家によって法華経の世界が描かれるほか、須弥壇中央の本尊・大日如来坐像 を囲う4本の柱にも脇侍三十二菩薩が描かれている。


● キトラも石室解体検討へ(2005年11月9日)

 奈良県明日香村にあるキトラ古墳の壁画が劣化している問題で、文化庁が 石室の部 分解体案の検討を始めた。
 同古墳では、四神図「朱雀」や天文図などすべての壁画をはがして石室外で修復する作業が始まっているが、カビや細菌の繁殖で壁画の劣化が急速に進行して いることから、高松塚古墳と同様、石室の一部解体を検討する。
 

● 最古の古墳レーダー探査で確認か(2005年11月4日)

 奈良県桜井市箸中にある堂ノ後古墳が、隣接する最古の古墳とされるホケ ノ山古墳 (3世紀前半〜中頃、前方後円墳)より古い可能性があることが、天理大の学生が行ったレーダー探査で分かった。ハハハ  
 天理大歴史研究会の学生が、両古墳の地層をレーダー探査調査した結果、周濠が一部重なっており、ホケノ山古墳の周濠が堂ノ後古墳の周濠を切り取るような 形で造られていることから、堂ノ後古墳の方が古いと考えられるという。
 レーダー探査に対しては慎重論もあるが、近くには卑弥呼の墓説とされる箸墓古墳(3世紀中〜後半頃)など最古級クラスの古墳が密集しており、古墳起源論 争に一石を投じそうだ。
 

● キトラ古墳壁画丑の絵全体を剥ぎ取り(2005年11月2日)

 明日香村阿部山のキトラ古墳で北壁の十二支像三体のうち、右側の丑(う し)の絵 全体と左側の亥(いのしし)の手にした武器の絵の一部など一部を剥ぎ取った。
 剥ぎ取った壁画は古墳の保護施設内でいったん冷蔵保存し、残る四神図の「玄武(げんぶ)」や東壁の「寅(とら)」などをはぎ取った後、奈良文化財研究所 (奈良市)へ運ぶ。
 

● 三室戸寺で観音様の足の裏拝する会(2005年11月2日)

 京都府宇治市の三室戸寺で、11月3日から23日までの土日、祝日に、 観世音菩 薩坐像(重文)を後ろ向きに安置して、正座した足の裏を覗く「観音様の足の裏を拝する会」を行う。

● 滋賀・観音正寺で秘仏「磨崖仏」 三十数年ぶり公開(2005年10月30日)

 滋賀県安土町石 寺の観音正寺で、奥之院にある磨崖仏が開創1400年を記念し て、11月1日から30日迄三十数年ぶりに特別公開される。
奥之院には、高さ約3m、幅約2m石窟があり、その奥の巨岩に、二体の如来形坐像と脇侍の菩薩立像、及び左端に北斗七星を神格化した妙見菩薩とみられる尊 星王菩薩の計5体の仏像が線画で刻まれている。
 制作は、平安時代末期の作とみられ、滋賀県内では栗東市の金勝山にある狛坂の磨崖仏(奈良時代後期)に次いで古く、山岳修行の僧が彫ったという説もあ る。1970年代初めに、雨風で崩れるのを防ぐため石窟に祠状の木製の扉を設け、現在まで非公開となっていた。

● 東大寺二月堂が国宝に(2005年10月28日)

  文化審議会は、お水取りの舞台として知られる東大寺二月堂を国宝に、榛名神社(群馬県榛名町)など9件の建造物を重要文化 財に指定するように答申した。
 東大寺二月堂は8世紀後期の創建とされ、現在の堂は江戸時代の寛文9年(1669)の再建で、正面7間(22.5m)、奥行き10間(27.2m)の大 建築で、江戸時代の寺社建築のうち特に優れたものとして評価された。建造物の国宝は、04年に指定された長谷寺本堂(奈良県桜井市)以来で計213件 257棟となる。
 そのほかの新指定は次の通り。
◇国宝
東大寺二月堂(奈良県奈良市)

◇重要文化財
▽榛名神社(群馬県榛名町)
▽旧渋沢家飛鳥山邸 晩香廬、青淵文庫(東京都北区)
▽和井田家住宅(埼玉県八潮市)
▽旧磯野家住宅(東京都文京区)
▽八ツ沢発電所施設(山梨県大月市・上野原市)
▽古谿(こけい)荘(静岡県富士川町)
▽宇部市渡辺翁記念会館(山口県宇部市)
▽四階楼(山口県上関町)
▽江藤家住宅(熊本県大津町)

◇重要伝統的建造物群保存地区
▽加賀橋立地区(石川県加賀市)
▽加悦地区(京都府加悦町)
▽落合地区(徳島県東祖谷山村)
▽塩田津地区(佐賀県塩田町)

 

● キトラ壁画の天井剥落天文図への影響懸念(2005年10月28日)

  奈良県明日香村のキトラ古墳で、壁画のはぎ取り作業が再開されたが、天文図が描かれた天井の漆喰が約10cm四方にわたっ て剥落していることが分かった。
 剥落したのは、天文図から約40cm南側の絵のない余白部分で、天文図そのものには影響はなかった。漆喰片がまとまって床に落ちていた形跡はなく、粉状 の漆喰が徐々に落ちたとみられる。

 

● キト ラ壁画、はぎ取り再開(2005年10月25日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳で、細菌が 繁殖し、壁画の劣化が急激に進んでいるため、年明けに再開予定だった作業日程を大幅 に前倒して極彩色壁画のはぎ取り作業を再開する。

 11 月下旬までに、北壁に描かれている「子」など3体の十二支図と四神図「玄武」をはがし、12月中旬に東壁の「寅」に着手する。「朱 雀」については今後、はぎ取り方法を検討し、年明けにも作業に取り掛かる。北壁の玄武については、絵の中央などに亀裂が2本あり、3つ以上に分割する必要 があるという。

 

● 高 松塚修復は古墳近くで 再検討(2005年10月25日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の 国宝壁画の修復場所について、文化庁が古墳に近い国営飛鳥歴史公園内に設置する案を検討して いる。
 修復施設の設置をめぐっては、墳丘周辺を要望する同村に対し、文化庁は高松塚古墳から約3キロ離れた奈良文化財研究所飛鳥資料館の敷地内を主張するなど 対立していたが、古墳周辺で修復をという村民の意向を尊重して、設置場所を再検討することになったという。

 

● 山口瑠璃光寺五重塔を創建以来初公開(2005年10月25日)

  山口県山口市の国宝瑠璃光寺五重塔の内部が、来年1月20日から2月12日まで一般公開される
 瑠璃光寺五重塔は、室町時代、足利義満と戦い戦死した大内義弘の霊を弔うため、嘉吉2年(1442年)に建てられた。高さ約31.2m、屋根は檜皮葺の 優美な塔で、大内文化の最高傑作として山口市のシンボルともなっている。
 正式に公開されるのは創建以来初めてで、公開中は塔内には入れないが、中にある阿弥陀如来像や大内義弘のブロンズ像、経文約7000巻などを外側から間 近に見ることができる。

 

● 興福寺で建物基 壇が完成(2005年10月20日)

 奈良市興福寺で中門と回廊の基壇部分が完成し、一般 公開が始まった。
 復元された基壇は、中門と、中金堂と中門をつなぐ回廊の南半分。発掘調査結果に基づき、礎石の位置なども正確に再現した。
 今後、中金堂や中門など建造物の復元も順次進め、2014年までに中心伽藍の完成を目指している。

 

● キトラ古墳カビ一斉繁殖の危険性(2005年10月18日)

 奈良 県明日香村にある高松塚古墳とキトラ古墳が両古墳ともカビや細菌に侵され、急激に壁画の劣化が進んでいる。
 キトラ古墳では朱雀の尾羽の絵の部分で、横3 mm、縦1mmの穴が空いているのが見つかったほか、石壁から欠けるような状態で最大で直径1.5cmのものが天井部を中心に多数見つかっている。今後カ ビが一斉繁殖する危険性があるため、年明けに再開予定だった壁画はぎ取りを大幅に前倒しして、25日から作業を始め、北壁の玄武や12支像(三体)の壁画 のはぎ取りを年内に終えるという。
 高松塚古墳でも、キトラ古墳と同様の透明物質が発生していることがわかった。

 

● 蟹満寺釈迦如来坐像は創建以来不動だった(2005年10月14日)

 京都府山城町綺田の蟹満寺で、本尊釈迦如来坐像が7世紀後半の白鳳時代の創建時から約1300年の間、動かされて いないこ とが確認された。

 蟹満寺の釈迦如来坐像は、丈六の金銅仏で、本尊の台座の周囲を発掘したところ、台座の下に創建時に固 めたと見られる版築層が確認され、以 後の新しい地層のが見られないことから、本尊の位置が創建以来変わっていないことが確認された。

 

● 東大寺・公慶堂で公慶上人の300年御遠忌 法要(2005年10月13日)

 奈良市雑司町の東大寺で、江戸時代の大仏復興をなしとげ た公慶上人の300年御遠忌法要が公慶上人像(重文)をまつる公慶 堂で始まり、扁額の除幕式が行われた。

 

● 大仏から生まれた仏像を捜索(2005年10月4日)

奈良国立博物館で、江戸時代に東大寺の大仏殿を再建した公慶上人が大仏の 古材で 造った仏像を探している。
大仏は戦国時代の焼き討ちで首が落ちるなど大きな損傷を受けており、公慶上人が全国から寄付を集めて大仏を再建し、現在の大仏殿も上棟した。
再建に当たって、胎内の木組みを新しい材と入れ替えた際、古い材で千体の仏像を造ったと伝えられており、現在、東大寺、興福院(奈良市法蓮町)、本誓寺 (奈良県・田原本町)など4体が知られている。
12月に始まる特別展「東大寺公慶上人 江戸時代の大仏復興と奈良」に合わせてできるだけ集めたいという。
 

● 荒神谷博物館が開館(2005年10月6日)

島根県斐川町の荒神谷遺跡がある史跡公園内に町立の荒神谷博物館が開館し た。
荒神谷遺跡では、1984年にそれまでの全国での出土総数を上回る358本もの大量の銅剣が向きをそろえ埋められた状態で発見された。翌年にはすぐそばで 銅矛と銅鐸が一緒に埋納されているのが見つかり、銅剣は九州、銅鐸は近畿とされていた弥生時代の青銅器の出土分布を塗り替えるなど注目を集めた。
銅剣発見直後に一部が展示されて以来21年ぶりに銅剣(国宝)や銅鐸など計60点が特別展で展示される。

● 出雲大社半世紀ぶり修理へ (2005年10月6日)

島根県出雲市の出雲大社が傷んだ国宝の本殿の屋根などを修理する方針を固 めた。
前回修理が行われたのは1953年で、半世紀ぶりの本格的な修理となる。
腐食が進んでいる、本殿の檜皮葺きの屋根はすべてふき替えるほか、八足門などの重要文化財約20点を修理する計画で、2008年に神体を仮本殿の拝殿に移 した後、5年をかけて修理する。
出雲大社では昨年9月の台風で重要文化財の宝庫の屋根の一部が飛ばされ修理している。

 

● 遺跡と観光の共存を模索ハハハ (2005年10月1日)

 歴史遺産の保存と観光との共存を模索するシンポジウム東京都内で開かれ た。
 考古学者や国土交通省、文化庁、旅行会社の担当者が参加し、「観光考古学」をテーマに、遺跡の有効活用の在り方などを議論した。
 政府の「観光立国」政策で、一部の有名な歴史遺産が観光客を集める一方、大半の史跡は価値が認知されず廃れつつある問題などが討議され、「地方の歴史遺 産がテレビで紹介されると急に人が押し寄せる傾向にあるが、大抵は一過性のもので長期的にはマイナス」という意見もあり、官民一体でリピーターの観光客を 獲得する重要性を訴えた。

(所感)
 先月、壇ノ浦を通った時、昨年末に建てたという真新しい義経と平知盛の銅像がありましたが、NHKの大河ドラマが始まるたびに、一つずつ、歴史的遺跡が 荒れていく、というのは、何も今始まったことではなく数十年前から変わっておらず、これからも変わらないでしょう。世界遺産とやらも、人が落としていくお 金にしか興味に無い人が先頭に立っていると同じ運命を辿るのではと、行き先を案じずにはいられません。
 人を煽るだけではなく、歴史や文化財の意義をもっと地道に浸透させていくことが必要と思います。

● 奈良・キトラ壁画損傷
深刻 はぎ取り再検討も(2005年09月26日)

 奈良県明日香村 のキトラ古墳に描かれた極彩色壁画で、「朱雀」や「寅(とら)」 像にバクテリアが繁殖し、天井の天文図には消すことの難しい緑色のカビが発生していたことが判明した。黒カビの生えた高松塚古墳に続く壁画の損 傷。前例のないはぎ取り保存が進むキトラ壁画は、悪化の一途をたどっている。
 壁画を覆っているのは繁殖したバクテリアと見られるが、バクテリアを死滅させても、バクテリアの死骸がカビの養分になる可能性もあり、根本的な対策は難 しい。
 朱雀の壁画は漆喰が薄いうえ石壁にしっかり固着していることから、今後、破損のリスクを覚悟してはぎ取りを続行するか、高松塚同様石室を解体するか、ま たは作業を中止して石室を密閉するなどの検討が早急に必要となってきている。

 

● 文化庁高松塚古墳で白虎退色確認せず放置(2005年09月26日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳壁画の劣化問題で、文化庁内では数年前から 退色の認 識があったが、十分に確認をしないまま問題ないと発表してきたことが分かった。
 昭和63
年に発行された修理作業の報告書「国宝高松塚古墳壁画―保存と修理―」には、彩色面は「現状では安定していると判断される」と記されており、 退色に気付いた人はいなかった。
 しかし、文化庁美術工芸課内では、その後の壁画の点検時に、白虎が発見時より著しく色が薄くなって見えにくくなっていることに気付いていたものの、 1997年の壁画発見25周年の写真公開にあたっては、「退色していることが科学的に確認されたわけではなく、単に見えにくくなっているだけかもしれな い」として、「壁画は当初のまま維持されている」との見解を示すことになったという。
 劣化に関しては、文化庁の事なかれ主義的体質が改めて浮き彫りになった。

● 鳳凰堂で台座から装飾品630点を発見(2005年9月17日)

 京都府 宇治市の平等院鳳凰堂で、修理中の本尊阿弥陀如来坐像の台座内から、鳳凰堂内の天蓋を飾ったとみられる部品など装飾品が多数見つかり、特別企画展「残され た光の創造」で公開されている。
 台座納入品は、昨年から行われている修理中に台座の華盤の空間部分から見つかったもので、ガラス玉や、螺鈿を銅線で繋いだ垂飾り約90点、ガラス玉約 240点、銅の鎖約90点、花形金具約30点など合わせて約630点。このほか、中国の古銭6枚や木製仏像2体(像高6cm、12cm)も見つかった。
 今回展示されるのはこのうち、ガラス玉や螺鈿を使った垂飾りの部品や仏像、古銭など約200点のほか、本尊の光背周縁部にある飛天像13体のうち、創建 当初のものとみられる6体及び中央頂にある大日如来像(高さ65cm)も展示される。
 

● 最古級の天台法具 京都で発見(2005年9月17日)

 天台宗の密教儀式・大壇修法(だいだんすほう)に使われたとみられる平 安末期− 鎌倉前期の法具「羯磨(かつま)」四口と「飲食器(おんじきき)」八口が それぞれ、上京区の護浄院と左京区の青蓮院で相次いで見つかった。
 飲食器は八口で口径約15cm、高さ約10cmの金銅製で、うち五口は台脚が低く、杯の口が大きい鎌倉前期の制作と見られる。飲食器は湖南市・常楽寺な どに残る平安中期のものが最古とされている。
 また、羯磨一口は縦横約10cmの金銅製で平安末期の制作とみられ、最古とされる東寺所蔵の金銅羯磨(平安中期、重文)に次ぐものとして注目される。

● キトラ古墳壁画に細菌繁殖で現地調査(2005年9月16日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳のカビの発生に対し、微生物の専門家3人が 16日、 現地調査を終えて会見した。
 カビの発生原因は石室内の消毒に使用したカビ処理薬のエタノールを栄養源とするバクテリアが繁殖たためで、壁図の一部にみられた汚れは、バクテリアの分 泌物やカビの菌糸の可能性があるといい、壁画は憂慮すべき状態として早急な対策を訴えた。
 文化庁では、昨年夏から進めている壁画の取り外し作業を早ければ10月にも再開することを検討している。

● キトラ壁画にも黒カビ、透明の物質 朱雀付着も(2005年9月15日)

 奈良県明日香村 のキトラ古墳壁画で、初めて南壁の朱雀(すざく)で黒いカビが確 認され、また東壁にある獣頭人身の「寅」の矛を持つ右手や朱雀にゲル状の透明の物質が付着し濡れたようになっていることが判った。
 高松塚古墳でも新たなカビが確認されたばかりで、文化庁は専門家らによる現地調査を踏まえ、生物対策の見直しや、はぎ取りの前倒し実施など、今後の対応 を検討する。
 

● 渡来氏族の集落か(2005年9月14日)

 奈良県高取町の観覚寺遺跡で、6世紀の長方形の石組み池跡や精巧な舗装 道路、大 壁建物跡などが見つかった。
 池跡は、池底や側壁に直径5〜30cmの石を張り付けた、縦4m、横5m、深さ0.4mの方形池で、蘇我馬子邸があったとされる同県明日香村の島庄遺跡 で見つかった石組み方形池跡の原形とみられ、国内最古の例と考えられる。
 観覚寺遺跡は、古代の渡来系氏族・東漢氏(やまとのあやうじ)の本拠地とみられおり、日本書紀によると、7世紀に難波宮や百済大寺を造営した際、東漢氏 は高度な土木技術で中心的役割を果たしたとされる。方形池のほか、朝鮮半島にみられる暖房施設「オンドル」を備えた大壁建物跡建物跡なども出土し、当時の 先端技術を駆使して造られた町並みを彷彿とさせる。

● ソウルの北大門「粛靖門」、来年4月開放へ(
2005年9月8日)

 韓国のソウル北 部の北大門(粛靖門)(スクジョンムン)が来年4月から公開され る。
 粛靖門は李朝時代初期の1395年、朝鮮第1代王の太祖が王宮を中心として東西南北に設けたソウル4大門のひとつで、西大門(敦義門)は日本の植民地時 代に撤去されたが、現存する南大門(崇礼門)・東大門(興仁之門)とともに北大門と呼ばれていた。粛靖門は1968年に北朝鮮工作員が大統領府「青瓦台」 に侵入した事件以降、およそ37年間立ち入り禁止となっていため、自然の森が保存されている。
 文化財庁は、来年4月から粛靖門と同門付近の森の道を一日の人数を限って公開し、これを機に、ソウルの城郭と宮殿をユネスコ世界文化遺産
に登録を予定 している。
 


● 高松塚古墳壁画に新たなカビ(2005年9月8日木)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画の西壁の「白虎」の前脚と尻の部分に 新たに黒 色や緑色のカビが発生し、東壁の「青竜」の壁面にもしみが黒く拡大しているのが見つかった。
 約二週間間毎に行っている定期点検の際見つかったもので、今迄石室内のカビは何度も確認されているが、除去が難しい黒色や緑色のカビが絵の上にできたの は初めて。アルコール等で殺菌措置はとられたものの、カビは筆で触れても除去できないほど根付いており、2007年1〜3月頃に予定している石室解体のス ケジュールも再検討の可能性がある。

● 北野天満宮の「輪蔵」、愛媛の寺で発見(2005年9月3日)

 京都市上京区の 北野天満宮境内の寺にあったとされ、明治以降行方が分からなく なっていた「輪蔵(りんぞう)」が愛媛県新居浜市の瑞応寺にあることが分かった。
 輪蔵は室町三代将軍足利義満が、明徳の乱(1391)の戦死者を弔うため、同天満宮境内に建てた経王堂願成就寺に奉納されたもので、江戸時代に廃寺と なった後、一切経(重文)は大報恩寺に移ったが、輪蔵は、経王堂願成就寺に幕末まで置かれ、その後行方が分からなくなったという。
 輪蔵にまつられていたとされる大報恩寺の「伝大士・普建・普成像」が2年前に重文に指定されたとき、文化庁の調査で、瑞応寺の「大転輪蔵」が、この輪蔵 であることが分かり、大報恩寺の住職らが、このほど瑞応寺を訪れ、法要を行った。

●  高松塚古墳の解体準備に8億円(2005年8月30日)

 文部科学省は文化財保護関係の来年度予算として、解体保存を行うことに なった奈 良県明日香村の高松塚古墳の解体準備費8億円を盛り込んだ概算要求を行う。来年度は解体の準備として壁画の修復作業をする仮設施設の整備や、解体工程のシ ミュレーションなどを実施する。
 解体自体は早くても一年半後に着手となり、壁画の描かれた石室を取りだした後、十年がかりで修復し、あらためて現地で再保存・公開する方向という。

(所感)解体準備だけで、8億円、公開までに一体いくらか かるのか。必要な費用は かけるべきだし、勿体ないというつもりは毛頭無いが、自然の中で千年以上守られてきた壁画が文化庁の手に渡った途端なぜダメになったのか、その間の壁画の 状態も正確に報告されてこなかった。文化庁は国民の宝である「国宝」に対し、今回の決定に至った経緯を明確に説明する義務があるのではないだろうか。
「公開の原則」は、発掘調査に伴う現地説明会だけを言うのではない。

● 宇治・平等院阿弥陀如来坐像が修理を終える(2005年8月30日)

 京都府宇治市の平等院で阿弥陀如来 坐像が修理を完了し、約1年半ぶりに鳳凰堂に戻さ れた。
 阿弥陀如来坐像は、昨年2月に鳳凰堂から境内の修理工房に移されて修理がおこなわれていた。表面の金箔の剥落を漆で止め、顔に金箔を押し直したほか、木 製だった眉間の白毫は本来の水晶に戻した。
 9月1日から堂内の拝観を再開するが、頭上の天蓋や台座、光背も含めすべての修理が完了するのは2007年秋の予定。

● 滋賀長寿寺で寺宝を虫干し (2005年8月25日)

 滋賀県湖南市東寺の長寿寺は8月24日、県指定文化財の掛け軸などの寺 宝を、虫 食い被害やカビから守るために虫干しした。
 毎年地蔵盆の日に合わせて行っている行事で、県指定文化財の「聖観音曼荼羅」(鎌倉時代)や「観経変相図」(南北朝時代)などの画像を国宝の本堂の壁に 掛け風通しをおこなった。

● 蘇我馬子邸宅跡か 明日香の島庄遺跡(2005年8月29日)

 奈良県明日香村島庄の島庄遺跡で「主殿」とみられる大型建物跡の柱跡が 見つかっ た。
 島庄遺跡は、蘇我馬子の邸宅跡とみられ、確認された建物は昨年見つかったものも含め計16棟となった。最も大きい「主殿」の床面積が約90m2で、飛鳥 時代最大級の建物とわかった飛鳥浄御原宮の正殿跡(約291m2)の約3分。

● 大津「青江遺跡」 掘っ立て柱建物跡出土(2005年8月17日) 

 大津市神領の史跡「青江遺跡」で、近江国庁の関連施設跡とみられる3棟 分の掘っ 立て柱建物跡が見つかった。
 建物跡は近接して建てられ、うち2棟は重複していたが、国 庁と同じ方位に建てられていた。また、一棟は政庁の東脇殿跡に次ぐ規模で、国庁で使われた飛雲文の模様が入った軒丸瓦や8世紀後半から9世紀初めに作られ た土器も大量に出土していることから、3棟とも、同時期の建造とみられる。

 

● 東大寺・公慶堂に上人「自筆」の額を制作(2005年8月16日)

 奈良市の東大寺 は、江戸時代の大仏殿復興に尽くした公慶上人の300年忌にあわ せ、上人の坐像をまつる公慶堂に額を掲げることになった。
 公慶堂は境内の勧進所にあり、額を掲げたらしい痕跡があるが、額自体は残っていない。文字は古文書に残る上人の筆跡から選んで組み合わせる。
 東大寺では、来年が聖武天皇1250年忌にあたるため、聖武天皇の筆跡による「大華厳寺」の額を南大門に掲げる構想も進んでいる。

 

● 奈良・与楽寺の十一面観音の胎内仏はマユミ材(2005年8月2日)

 奈良県広陵町広 瀬の与楽寺十一面観音立像が、調査の結果マユミの木で造られてい ることが分かった。
 この像は、平成7年に同寺の十一面観音像(鎌倉時代)を解体修理した際、袋に包まれた状態で見つかったもので、像高31cm、ビャクダンなどの檀木を用 いて中国の唐で造られた像とも考えられていた。
 しかし、日本でも古くから使われているマユミの木で彫られていることや像の様式などから、日本の奈良時代の制作の可能性が高まった。
 マユミ材の仏像は、国内、中国とも今まで見つかっていないが、マユミは日本全土に生育し、古墳時代の弓材や、奈良時代の写経料紙(荼毘紙)の原料として 用いられている。
 本像は、現在奈良国立博物館で開催されている「古密教」展に出品されている。

 

● 山形で平安末期の住居跡発見(2005年7月30日)

 山形市成安の上敷免遺跡で平安時代末期の掘っ立て柱建物の住居跡や土坑 などが、 見つかった。
 住居跡は4棟で、柱穴は直径約50cm、深さ約50cm、最大で50平方メートル以上の建物があったとみられ、岩手県平泉で使われたかわらけ(素焼きの 器)と類似した土器や、輸入品の白磁なども出土し、奥州藤原氏と関連が深い有力者の住居と推測される。

● 草津・野路小野山製鉄遺跡で製鉄炉跡発掘 (2005年7月25日)

 滋賀県草津市野路町の野路小野山製鉄遺跡で、新たに4基の製鉄炉跡や鉄 鉱石など が見つかった。
 これまでにも約10基の製鉄遺跡が見つかっており、未調査箇所も含めると20基を超す製鉄炉が同時期に操業していたとみらる。また、出土した鉄鉱石は良 質で、質がそろっており、国家が関与した極めて計画性の高い官営工房の実態が伺える

● バーミヤン遺跡で仏像の壁画発見(2005年7月20日)

バーミヤン壁画 アフガニスタン のバーミヤン遺跡の石窟 (せっくつ)で仏像が描かれた壁画が発見された。
 ユネスコの文化遺産保存事業として文化財研究所が、先月15日から今月12日まで現地で行った調査で発見されたもので、壁画は、バーミヤン遺跡の西大仏 の西方約6キロのコレ・ジャラールでバーミヤン谷のがけを掘った石窟で見つかった。
 仏像の一つは首を傾けたポーズで、目の部分などが欠けているものの、口元や頭の周囲を赤色で表現している。石窟の内部には玉をつなげた文様の「連珠文」 などのほか、金箔を細切りした線を張り付けた装飾も見つかった。
 また、先月末には、2001年に旧タリバン政権が破壊した東側の大仏立像跡付近のがけ下で、直径約2.5mの石窟のドーム型天井に描かれた仏像画の胴体 部分とみられる壁画が発見されていた。天井の中心から放射状に数体の仏像画が描かれ、仏像と仏像の間がラピスラズリを使ったとみられる鮮やかな青色の顔料 で装飾されていた。

キトラ午像●  キトラ古墳壁画「午」全体像判明(2005年7月14日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳で石室南壁で見つかった獣頭人身の十二支図 「午(う ま)」の全体像が判明した。
 午の像は、表面を覆った粘土層に顔料が吸着され、粘土層の上に反転した状態で残されており、剥ぎ取った粘土層から漆喰を取り除いて確認された。
 鮮やかな朱色の衣服や細い線で表現された写実的な顔立ちなどがはっきりと残っており、今後の調査で、やはり泥に覆われた「卯」や「巳」などの発見が期待 される。

 

● 栗東・下鈎遺跡で前漢鏡の破片出土(2005年7月12日)

 滋賀県栗東市中 沢の下鈎(しもまがり)遺跡から、弥生時代中期後半に中国で作製 された銅鏡(前漢鏡)の破片が出土した。
 破片は、表面に漢字をくさび形に変形させた文字が刻まれた「異体字銘帯鏡」で、直径8cmの鏡の一部と推定される。
 前漢鏡は、国内では約130面が出土しているが、ほとんどは九州北部の王墓からの出土で、近畿地方では3例しかなく、今回の出土例が東限に当たる。
 同遺跡では、これまでに弥生時代後期のテラス付き大型掘立柱建物跡などが見つかっており、当時貴重だった前漢鏡を所持していたことから見て、邪馬台国の 成立以前に一帯に強大な力を持つ首長が支配する近江のクニがあったことを示すものと見られる。
 7月16日午後1時半から同市下戸山の市出土文化財センターで調査報告会を催す。

 

● 東大寺が「大華厳寺」額の復元を計画(2005年07月12日)

 奈良市の東大寺で聖武天皇の1250年忌を迎える2006年を目指し、 南大門に 「大華厳寺(だいけごんじ)」の額を掲げる構想を練っている。
 大華厳寺は、華厳宗大本山である東大寺の異名で、現在、境内に寺名を示す額はないが、鎌倉末期の華厳宗凝然が南都六宗の歴史を叙述した『三国仏法伝通縁 起』に、弘法大師の筆になる大華厳寺の額が南大門にあったと記されている。
 文字は、聖武天皇の筆跡を古文書から選んで組み合わせ、2〜3mの大きさで復元されるという。

● 高松塚、石室冷やすパイプ設置(2005年7月11日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で、劣化が進む国宝壁画の保存を目的に、 2006年 末にも行われる石室解体までの緊急措置として、石室内の温度を下げカビを抑える目的で冷却パイプを設置する。
 墳丘の表面と、石室の床下1.5mの地中に約150本のパイプを設置し、2度前後の冷却水を循環させ、上下から挟むような形で石室を冷やすという。冷却 は9月初めから開始する。

 (所感) 素人考えでは、2度の冷水を流したら、大気と隔離していない限り、結露して土の中が水浸しになると思うのですが、壁画に影響はないのでしょう か。

● 興福寺で300年前幻の金堂の設計図発見 (2005年6月24日)

  奈良市で、享保2年(1717)に焼けた興福寺を再建するために書かれた300年近く前の中金堂の設計図が発見 された。
 設計図は縮尺20分の1で、屋根の軒先が柱からの張り出しが8.1mと、東大寺大仏殿の7.9mを超え、実現すれば東大寺大仏殿をしのぐ巨大な仏堂だっ た。
 実際には、用材の都合もあってか、一回り小さい仮堂が建立されたが、興福寺は、2015年の完成を目指して中金堂復元を進めていることから、当時の意気 込みを生かす事を検討する。

 

● 奈良・キト ラ壁画で新たに十二支の「午」発見(2005年6月15日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳 で、午と見られる絵が見つかった。
 朱雀図の剥ぎ取りに先立ち、朱雀の下方の漆喰をはがしたところ、赤と黒の顔料で描かれた絵の一部が確認できた。見つかった位置からみて、十二支像のうち 「午(うま)」と考えられる。
 同古墳で確認された獣頭人身十二支像は西壁の戌、北壁の亥、子、丑、東壁の寅に続き六つ目となった。

 

● 邪鬼3体は同じ木から制作(2005年6月7日)

 奈良市五条町の 唐招提寺で、金堂の軒を支える邪鬼四体のうち、奈良時代に作られた三体が、年輪の変動パターンから同じヒノ キを用いて彫られたものであることが判った。
 邪鬼は「隅鬼」とも呼ばれ、高さ約30センチ。軒下の四隅に配され、魔よけの意味を持つとされる。

 (参考)唐招提寺 金堂の邪鬼3体創建当初の作(2003年2月13日)

 

● 唐招提寺で特別開扉・公開(2005年6月6日)

 奈良市西の京の 唐招提寺で、開祖の唐僧・鑑真和上をしのぶ「開山忌」が始まった。仏像修理所や御影堂が、6月5日から12 日まで特別公開されている。
 仏像修理所では、解体修理中の金堂から運び出された盧舎那仏坐像と千手観音立像などの補修作業が進められており、ほとんどの手が取り外された千手観音立 像や修理の過程を解説したパネルが展示されている。

 

●  興福寺・南円堂で特別開扉・公開 2005年6月6日(2005年6月6日)

 奈良市登 大路町の興福寺では、大阪市立美術館で開かれる「興福寺国宝展」を記念して6月7日から26日まで、観音霊場札 所、南円堂を特別開扉する。南円堂では、康慶など慶派の制作になる不空羂索観音坐像や四天王立像を拝観できる。

 

● 寂光院で本堂落慶法要(2005年6月2日)

  京都市左京区大原寂光院で、放火事件で全焼した本堂が再建され落慶法要が営まれた。入り母屋造り柿葺きの本堂は5年ぶりに 焼失前の姿を再現した。
 寂光院は、推古2(594)年、聖徳太子が父の用明天皇の菩提を弔うために創建したと伝わる。平安時代末期には、平清盛の娘で安徳天皇の母の建礼門院 が、傍らに草庵を結んだとされる。
 2000年5月9日の未明、放火で本堂を焼失し、本堂に安置されていた重要文化財の本尊・地蔵菩薩立像(鎌倉時代)も焼損したが、本尊も新たに造立され た。
 本尊は、3日から一般公開される。

 

● アンコール遺跡の修復が完成(2005年6月3日)

 日本国政府ア ンコール遺跡救済チーム(JSA)によるカンボジアのアンコール・ワット北経蔵とアンコール・トムのプラサー ト・スープラ塔の約10年間にわたる修復事業が完成し、6月3日にカンボジア国王を招いて竣工式典が行われた。
 アンコール遺跡は、9世紀から15世紀にかけて栄えたクメール王国のアンコール王朝が残したもので、都城址のアンコール・トムの中心寺院であるバイヨン と呼ばれる石造りの遺跡は、四面に尊顔を彫出した仏塔が林立する特異な形式で知られ、アンコール遺跡の中で最も崩壊の危険が迫っていた。
 北経蔵は崩落・散乱していた約800個の石材片の中から約450個について元の位置を割り出し、再利用が可能な300部材余りについては、劣化部分を修 復の上で再構築した。
 アンコール・トム内の王宮前広場の東側に林立するプラサート・スープラと呼ばれるラテライト(紅土岩)造りの12棟の塔群は、いずれも半倒壊状態にあ り、周辺のテラスは壊滅的な惨状のまま、ブッシュに覆われて近付くことも困難な状況であったが、最も傾斜が進行していた北側の塔について、アンコール地域 では初めての、基壇基礎までを含めて全解体した上で、再構築をする修復を行なった。総事業費は約10億円。

 

● 木簡の文字画像のデータベース「木簡字典」を公開(2005年5月20日)

  奈良文化財研究所が従来から公開している木簡のデータと画像のデータをリンクさせ、木簡に記載された個々の文字を検索でき るデータベースが公開された。通常のモノクロやカラーの写真だけでなく、赤外線撮影写真も含めて検索できる。
 現在までに、平城京や大宰府で出土した約280点、文字数にして約4800字の画像データが収録されている。

 「木簡字典」 http://jiten.nabunken.go.jp/

 

● キトラ古墳、白虎前脚もはぎ取る(2005年5月24日)

 奈良県 明日香村のキトラ古墳で、石室に描かれた四神図のうち西壁の白虎の前脚部分の剥ぎ取りに成功し、石室外に運び出しさ れた。  
 前脚部分は余白部分を含める縦32cm、横26cmの大きさで、表面を和紙などで補強した上で、壁から切り離した。
 壁石からはく離していた胴体部分は既に昨年9月、剥ぎ取られており、前脚部分が残されていた。壁石に固着した彩色部分をはがすのは初めてだったが損傷は ない。
 最後に残された南壁の朱雀図の剥ぎ取りは6月に行なわれる予定。

 

● キトラ古墳・帯執金具に金象眼(2005年4月27日)

 奈良県明日香村阿部 山のキトラ古墳の石室から昨年6月に出土した帯 執金具のサビ落としたところ、純度90%以上の金で精密な象眼で装飾が施されるなど、 高度な技術で作られていたことがわかった。
  帯執金具は大刀を帯につるす環状で、長さ3.9cm、高さ1.7cm、幅1cmの環状の金具。金象眼は上面にS字文様が2列に、また上面と側面に線状に施 されており、国内で類例のない豪華な文様である。
 帯執金具は、飛鳥資料館(明日香村奥山)で開催中の「飛鳥の奥津城」展で、4月28日から5月15日まで展示される。

 

● 建長寺山門など9件、重文指定を答申(2005年4月22日)

 文 化審議会は、近世の伽藍再興事業の集大成ともいうべき建長寺山門と、法堂(神奈川県鎌倉市)など9件を、重要文化財に指 定するよう中山成彬文部科学相に答申した。指定を受ければ、重要文化財(建造物)は2277件、3995棟(国宝の212件、256棟を含む)となる。

【重文指定文化財(建造物)】

▽建長寺山門、法堂 神奈川県鎌倉市

 建長寺は臨済宗建長寺派の大本山で、1251年の創立。現在の山門は1775年に建設された。三間二重門としては 東日 本最大の規模を誇り、法堂は大型禅宗様仏堂として価値が高い。

▽荏柄天神社本殿 神 奈川県鎌倉市
▽清白寺庫裏 山梨市三ケ所

 清白寺は足利尊氏が開基 し、夢窓疎石を開山として1333年に創建された臨済宗寺院で、南から山門、仏殿、本堂などが 直線上に建ち、本堂の東に庫裏がある。 庫裏は切り妻造りの三角部分側を正面とする妻入り、茅葺き屋根、江戸時代中期再建されたという。の大きく整然とし た平面構成で、座敷や土間まわりに趣向を凝らすなど、デザインは優秀で価値が高いと評価された。
 同寺の現存の仏殿は1415年に建立になり、国宝に指定されている。

▽深澤家住宅 長野 県塩尻市・
▽旧澤原家住宅 広島県呉市・
▽安岡家住宅 高知県香我美町・
▽旧八百津発電所施設 岐阜県八百津町・
▽武雄温泉新館・楼門(佐賀県武雄市)

【重要 伝統的建造物群保存地区】

▽青森県黒石市の「『こみせ』の残る津軽の商家町」
▽京都府伊根町の「伊根湾に面して舟屋が連なる漁村集落」
▽長崎県国見町の「近世の地割や屋敷構成などの歴史的風致を良く残す武家町」など
 重要伝建地区は61市町村69地区となる。

 

● 金戒光明寺で千手観音像 13年ぶり里帰り(2005年4月22日)

 京都市左京区の金戒光明寺で重要文化財の千手観音立像が13年ぶりに寄託先の国立京都博物館から戻り、記念法要が 営まれ た。
 「黒谷さん」の呼び名で知られる、同観音像が六番札所となる「洛陽三十三所観音巡礼」が百数十年ぶりに再興されたのに合わせ、境内では初めて一般公開さ れる。  千手観音像は「吉備観音」と呼ばれ、平安時代前期の作。奈良時代の遣唐使、吉備真備の乗った船が遭難しかけた際、「南無観世音菩薩」と唱えて難を免れた ため、唐より持ち帰った栴檀香木で作られたとされる。もともと近くの吉田寺の本尊だったが、江戸時代に廃寺となり、幕府の命で黒谷に移された。
 かつては境内の観音堂に安置されていたが、ほとんど公開されず、1992年から同博物館に寄託されていた。今月4日、洛陽三十三所巡礼が再興したのを機 に同寺に移され、この日から御影堂で一般公開された。

 

●  高松塚古墳滑車使い人力での解体検討(2005年4月21日)

 極彩色壁画の劣化が進む 奈良県明日香村の高松塚古墳について、文化庁の同古墳保存対策検討会作業部会が、滑車を使って人力 で石材をつり上げ、石室を解体する方法を検討していることが分かった。
 作業部会は既に実験を行い、実現可能と判断。5月の検討会で正式に提案するが、石材の重さや強度など具体的な状況が分かっておらず、今後、論議を呼びそ うだ。
 石室は、男女の群像や四神図が描かれた東西各3枚、南北各1枚の側壁と、天文図のある天井石4枚、床石3枚の計15枚の切り石を組み合わせたつくり。壁 画の下地となっているひび割れたしっくい面に触らず、側面を挟み込むようにして天井石から持ち上げるという。

 

● 高松塚古墳、壁画の解体保存を検討(2005年4月16日)

 奈良 県明日香村の高松塚古墳で、劣化が進む彩色壁画について、石室を解体し、古墳外で修復、保存する方法を検討している。
 現地保存では壁画のカビ発生や劣化が指摘されており、キトラ古墳と違い絵が描かれたしっくいが細かくひび割れていることから、はぎ取りも困難となってい る。5月に行われる高松塚古墳保存対策検討会に提案する予定。
 高松塚古墳では、発見以来前室を設けて温度・湿度を管理し、カビに体しては薬剤塗布を行ってきたが、石室内のカビ発生を抑えられないだけで無く、カビを 除去するための薬剤が壁画退色の一因ともみられることから、現状のままでの保存は困難との見方で一致した。

 

● 7世紀後半の鴟尾を完全復元 (2005年4月7日)

 滋賀県大津 市一里山3丁目の山ノ神遺跡から出土した鴟尾が復元された。
 山ノ神遺跡では、近江大津宮があった7世紀中ごろから後半にかけての窯跡が4基確認されているが、2003年3月に、1基の窯跡から4基の鴟尾が割れた 状態で出土した。
 復元された鴟尾は、幅60cm、奥行き1m、高さ1.4m、重さ163kgの陶製で、焼成の途中で窯の天井が崩れ、そのまま放置されたとみられている。
 鴟尾の頂部に段差があり、穴の開いた小さな突起もあるのが特徴で、鰭にあたる部分にくぼみをつけ、粘土ひもで模様を描いていたことも分かった。
 4月8日から同市御陵町の大津市歴史博物館で展示する。

 

●  奈良県指定文化財決まる(2005年4月6日)

2004年度の県指定文化財が決まった。

【有形文化財】
▽光林寺本堂・表門 川西町
▽木造十一面観音立像 大和高田市・長谷本寺
▽木造兜跋毘沙門天立像 大和高田市・長谷本寺
▽紙本白描不動明王図像 桜井市・長谷寺
▽紙本白描愛染明王図像 桜井市・長谷寺
▽銅錫杖頭 斑鳩町・法輪寺
▽興福寺大和国雑役免坪付帳 奈良市
▽銅鐸 橿原市・県立橿原考古学研究所付属博物館
【史跡埋蔵文化財】下池山古墳 天理市
【名勝天然記念物】神末のカヤの巨木林 御杖村
【無形文化財】刀匠の河内國平 個人蔵 東吉野村
【無形民俗文化財】高田のいのこの暴れまつり 桜井市

 

● 京都西寿寺阿弥陀如来坐像が平安後期の作と判明(2005年4月2日)

 京都市右京区鳴滝の 西寿寺の本尊阿弥陀如来坐像が、仏師定朝の流れ をくむ仏師の作であることが分かった。
 京都国立博物館などが、昨年9月から行った調査で、端正な作風と構造から、寄木造を確立した定朝の流れをくむ仏師が、京都か奈良の工房で、1170年代 に制作したと見られることが分かった。また、胎内に「愚故上人が万治2年(1659)に修復した」という趣旨の銘文があった。
 同寺の伝記によれば、江州甲賀郡上野村(現・甲賀市甲南町)で野ざらし状態だった新宮大明神(現・新宮神社)の本地仏を寺を中興した愚故上人が遷座し修 復した、と伝えており、伝承が間違いないことがわかった。

 

●  綾部・安国寺の釈迦三尊像、修復終え2年ぶりに帰山(2005年4月1日)

 京都府綾部市安国寺 町の安国寺の本尊釈三尊像(重文)が、2003 年から財団法人美術院で行われていた修復を終えて2年ぶりに同寺に戻った。
 本像は、暦応2年(1339)、足利尊氏が全国に安国寺を設置した際に円派仏師の豪円により作られたとされる。
 修復過程で、脇侍の2体の胴体部分が取り違えられていたことが判り、また台座の下から、制作当時の文殊菩薩像のものと思われる手が発見され、原状に戻さ れた。
 釈迦像内から発見された墨書に、江戸時代に水害で寺の裏山が崩れ4年後に修復されたと書かれていたことから、その際に取り違えられたと見られる。

 

● 熊野速玉大社の神像国宝に指定 (2005年3月17日)

  文化審議会は、和歌山県新宮市の熊野速玉大社の木造熊野速玉大神坐像など4体の神像を国宝に、京都市右京区・高山寺の絹本 著色五聖曼荼羅、大津市・西勝寺の木造阿弥陀如来立像など46件を重要文化財(美術工芸品)に指定するように答申した。
 これにより美術工芸品の重要文化財は10209件、うち国宝が858件となる。登録有形文化財(建造物)は4805件となる。
 重要文化財と主な登録文化財は次の通り。

【国宝】

 ▽木造熊野速玉大神坐像・木造夫 須美大神坐像・木造家津御子大神坐像・木造国常立命坐像(熊野速玉大社) 

 熊野三所と称 される主神3体と同じ平安時代の神像で重要文化財に指定されていた。高さ約80〜101cmの神像で、大 型でかつ重厚な神像は、熊野信仰が急速に発展した平安前期の作。現存する神像遺品の中でも群を抜く名作として知られる。今回統合して1件の国宝として指定 する。

【重要文化財】

《絵画》
 ▽紙本淡彩駿牛図断簡(文化庁)
 ▽曽我蕭白筆・紙本著色群仙図六曲屏風(同)

  曽我蕭白(1730〜81)は18世紀における最も独創的な画家の一人で、奔放で大胆な作風による水墨画風を確立し た。紙本著色群仙図は35歳の時の作で、貴重な大画面(縦163cm、横362cm)の大作。

 ▽ 長谷川信春筆・紙本著色牧馬図六曲屏風(東京国立博物館)
 ▽絹本著色春日宮曼荼羅図(東京都港区・根津美術館)
 ▽絹本著色五聖曼荼羅図(京都市・高山寺)
 ▽絹本著色十一面観音像(奈良市・東大寺 13世紀ごろ)

  左手に水瓶、右手に数珠を持った十一面観音が、浄土の「補陀落山らしい山水を背景に描かれている。

《彫 刻》
 ▽木造十二神将立像(神奈川県鎌倉市・覚園寺)

 十二神将立 像のうち5体は応永8(1401)〜18(1411)年、仏師朝祐作の銘記がある。同寺薬師堂内の薬師如来 像両側に6体ずつ中央に向いて並んでいる。高さ151.6cm〜189.7cm。

 ▽厨子 入木造千手観音立像・木造四天王立像(奈良市・東大寺 13世紀)

 千手観音は全身が金泥 塗りで、衣の表に細かな金箔(きんぱく)を張った切金文様がある。一緒に厨子に納められた四天王 はいずれも極彩色を施してあった。安置されている戒壇院千手堂が1998年5月の火事で全焼後、修復されたが、厨子の扉と後板にある二十八部衆などの絵は 未修復で、模写画があてられている。

 ▽木造真教坐像(神奈川県小田原市・蓮台寺)
 ▽木造女神坐像・木造男神坐像(山梨県忍野村・浅間神社)

本殿に祀られる3神像(木花開 耶姫・鷹飼・犬飼座像)は県内最古とされる。

 ▽木造阿弥陀如来立像(大津市・西勝寺)

 木造阿弥陀如来立像は、高さ約97cmのヒノキ製、割矧造。
 胎内の納入品から、建仁3(1203)年に京都の公家とみられる三善為清が願主となって造立されたことがわかる。作者は不明だが、院派仏師が造った可能 性が高い。

 ▽木造兜跋毘沙門天立像(京都市・青蓮院)
 ▽木造十一面観音立像(奈良県広陵町・広瀬区)

 木造仏の体内に納められていた。白檀ら しい木材に細密な彫刻を施した一木造りで、当初は中国・唐のものとみられたが、 現在は奈良時代の国産と考えられている。

 ▽木造五智如来坐像(大阪府河内長野市・金剛寺)

《工芸品》
 ▽孔雀鎗金経箱(東京国立博物館)
 ▽唐物茶壷(東京都豊島区・徳川黎明会)
 ▽絵唐津柿文三耳壷(東京都千代田区・出光美術館)
 ▽丹波・菊花文三耳壷(愛知県豊川市・個人蔵)
 ▽鉦鼓(京都市・八坂神社)
 ▽能装束(和歌山県九度山町・古沢厳島神社)
 ▽灌頂道具類(和歌山県高野町・竜光院)

《書跡・典籍》
 ▽不空三蔵表制集巻第五(根津美術館)
 ▽安元御賀日記(徳川黎明会)
 ▽宴曲(京都市・冷泉家時雨亭文庫)
 ▽讃岐入道集(京都市・野村文華財団)

《古文 書》
 ▽伯家記録(東京都港区・人間文化研究機構)
 ▽武蔵国鶴見寺尾郷絵図(神奈川県立金沢文庫)
 ▽浄光明寺敷地絵図(鎌倉市・浄光明寺)

 敷地絵図は縦63・4センチ、横96センチ。 楮(こうぞ)を原料にした和紙4枚をはり継いだものに、墨で描かれた同寺 の境内図。朱線で寺領の範囲が示されている。足利尊氏の重臣、上杉重能の花押が7カ所に描かれている。中世の寺領安堵のさいに作成されたと見られる。

 ▽大徳寺文書(京都市・大徳寺)
 ▽惟康親王願文(京都市・金地院)

《考 古資料》

 ▽白磁水注(文化庁)
 ▽北海道美々8遺跡出土品(道立埋蔵文化財センター)
 ▽埼玉県生出塚埴輪窯跡出土品(同県鴻巣市)
 ▽平安宮豊楽殿跡出土品(京都市埋蔵文化財調査センター)

 出土品は1987、88年に 中京区聚楽廻西町での発掘調査で見つかった。軒先を飾った緑釉瓦422点は当時の最高級の 建物にしか使われなかった貴重な瓦。平安時代中期の「小右記」には藤原道長が自ら建設した法成寺に使う緑釉瓦を作る原料にするため、豊楽殿の鉛製の鴟尾を 奪おうとしたとの記述がある。

 ▽大阪府陶邑窯跡群出土品(府立泉北考古資料館)
 ▽兵庫県西求女塚古墳出土品(神戸市埋蔵文化財センター)
 ▽奈良県メスリ山古墳出土品(県立橿原考古学研究所付属博物館)

 全長250mと国内最大級の墳丘に二つの石室があり、長さ1.82mの鉄弓やいす型の石製品、王権のシンボルと見 られ る玉杖などが出土。墳丘では国内最大の円筒埴輪(高さ2.42m、直径90cm)なども見つかった。これらを一括指定する。

《歴史資料》
 ▽対馬宗家関係資料(東京国立博物館)
 ▽銅人形(同)
 ▽壬申検査関係資料(同)
 ▽蝦夷三官寺善光寺関係資料(北海道伊達市・善光寺)
 ▽蝦夷三官寺等じゅ院関係資料(北海道様似町・等じゅ院)
 ▽蝦夷三官寺国泰寺関係資料(北海道厚岸町・国泰寺)
 ▽1873年英国製・一二三号機関車(京都府加悦町・カヤ興産)
 ▽山口県行政文書(同県文書館)
 ▽鎌倉芳太郎撮影・琉球芸術調査写真(沖縄県立芸術大)

【主な登録有形文化財】
 ▽千葉県立佐倉高校記念館(佐倉市)
 ▽名古屋テレビ塔(名古屋市)
 ▽三朝橋(鳥取県三朝町)

 

● 奈良・平城宮もう一つの「正倉院」か (2005年3月17日)

 奈良市の平城宮跡で、皇太子の住居や天皇の離宮があった東院地区から、南北に2棟並んだ8世紀後半−末ごろの巨大 な正方形 の高床式建物跡が見つかった。
 建物跡の一辺は約18m、床面積は約324m2で、東大寺の正倉院に匹敵する。古代都城でこれほど大きな正方形建物跡が発掘されたのは初めて。
 当時の法典・養老律令には、東宮に皇太子の宝物や愛好品を管理する役職を置く−とあり、2棟は皇族ゆかりの品々を納めた倉庫群だった可能性がある。奈 良・東大寺の正倉院(8世紀中ごろ)と年代的に近いことから東院の『正倉院』だったとも考えられる。

 

● 飛鳥寺同様の一塔三金堂式 下野薬師寺の伽藍配置(2005年3月16日)

  南河内町薬師寺の国指定史跡下野薬師寺跡で、同寺の伽藍配置が国内最古の寺と伝えられている奈良・飛鳥寺と同じ一塔三金堂 形式であったことが判明した。
 今回の調査で従来金堂と考えられていた建物が、12m四方の正方形の建物であることが判明し、仏舎利を安置し中心の柱を設置する心礎の痕跡も発見された ことから、金堂ではなく、創建当時の五重塔と位置付けた。
 また、伽藍の中央部に東西に並んでいた二つの建物がいずれも金堂だった。
 下野薬師寺は飛鳥寺より約百年後に創建されたとされているが、一塔三金堂形式は、国内では飛鳥寺のみで、飛鳥寺以降に建立された寺院では伽藍配置が変化 しており、これまで研究されてきた寺院建設様式の通説を覆すことになる。

 

● キトラ古墳鑑定結果から浮かぶ人物像(2005年3月11日)

 明 日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末―8世紀初め)で出土した被葬者とみられる人骨について、頭がい骨の破片や歯の擦り 減り具合から40―50代の男性と見られることが分かった。ガラス小玉なども新たに見つかった。

 

● 唐招提寺金堂で立柱式(2005年3月11日)

 奈良市の唐招提寺 で解体作業中の「天平の甍(いらか)」金堂で36本ある基壇の柱の最後の1本を据え付け修復を終えた柱が 再び立ちそろったことを祝う立柱式が行われた。
 金堂は、柱の傾きなどを直すため2000年から修理中で、2009年までにで知られる屋根も含めた建物全体の組み立てを終える。
 これまでに部材の年輪年代測定から奈良時代末の建立と分かったほか、創建当初の基壇が現在より一回り大きかったことも発掘調査で判明した。

 

● 京都府指定文化財に観音寺・木心乾漆菩薩坐像など(2005年3月11日)

 京都府教育委員会は、府指定・登録文化財と文化財環境保全地区に、「永観堂」の名で知られる禅林寺(京都市左京 区)の建物 6棟や観音寺(和束町)所有の奈良時代につくられた木心乾漆菩薩坐像など計15件を新たに決めた。
 観音寺木心乾漆菩薩坐像は、像高27.9cmの小像ながら均整のとれた像で、数年前まで秘仏として厨子内に安置されていた。奈良時代の木心乾漆像は府内 では他に京田辺市・観音寺の十一面観音像(国宝)だけで極めて貴重である。

《建造物》
 ▽禅林寺(永観堂、左京区)
 ▽阿上三所神社本殿附棟札7枚、覆屋1棟(和知町坂原)
 ▽丹後震災記念館(京丹後市)

《美術工芸品》
 ▽木心乾漆菩薩坐像(和束町、観音寺)
 ▽絹本著色浄阿真観像(北区、金蓮寺)
 ▽金銅蓮華形柄香炉(上京区、廬山寺)
 ▽紺紙金字法華経(上京区、妙顕寺)
 ▽白紙金字法華経(同)
 ▽寂照院金剛力士像造立結縁交名(長岡京市、個人所有)
 ▽鹿王院文書(右京区、鹿王院)
 ▽曳覆曼荼羅版木(加茂町、西明寺)

《無形文化財》
 ▽丹後二俣紙(大江町)

《天然記念物》
 ▽夜久野玄武岩柱状節理(夜久野町)

【文化財環境 保全地区】法常寺文化財環境保全地区(亀岡市)

【登録】《建造物》
 ▽阿上三所神社拝殿(和知町坂原)

 

●  紫香楽宮跡で 甲賀寺創建時の回廊跡遺構が出土(2005年3月10日)

 滋賀県甲賀市 信楽町黄瀬の史跡紫香楽宮跡で、聖武天皇が大仏造立に着手した甲賀寺の創建時の回廊跡とみられる遺構が見つ かった。
 発掘場所は紫香楽宮跡(約7ha)の中心部。回廊跡は1930年の調査で見つかった経楼跡と接続しており、恭仁宮跡(京都府加茂町)と同型の瓦が見つ かっていることから、甲賀寺創建時の遺構と断定できる。

 

●  平安京跡から陶製の獅子の頭が出土(2005年3月8日)

 京都市中京区の平安 京跡で、貴族の邸宅とみられる井戸中から唐で作 られたとみられる陶製の獅子の頭が見つかった。
 獅子はこぶしほどの大きさで、鉄分の入った釉薬(ゆうやく)で獅子のたてがみや目、まゆ毛、鼻などが茶色で彩られた上に青磁釉が施され、開いた口の中は 朱が塗られていた。
 釉薬の使い方や土の種類が中国・湖南省の長沙窯の壷や茶碗と同じであることや、出土した同窯の獣形枕と形がよく似ていることから陶枕と結論づけた。同窯 の獣形枕は中国で5件の出土例があるが、それと比べてリアルな彩色で精巧な出来栄えという。

 

● 二光寺廃寺から六 尊連坐のせん仏も(2005年3月6日)

 奈良県御所市御所市の二光寺廃寺 で、国内で例のない意匠のせん仏が新たに見つかった。
 出土した約200点の破片を調査中、二つの破片をつなぎ合わせると縦12cm、横11.5cmの方形せん仏になり、3体の如来が上下2列に現わされた 「方形六尊連坐せん仏」があることが分かった。
 どれも光背があり、上段中央の如来の両手や両ひざあたりには金箔や漆が残っていた。
 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館で3月5〜27日に開かれる速報展「二光寺廃寺のせん仏」で、すでに出土したせん仏や瓦などとともに展示される。

 

● 白鳳時代のせん仏が出土(2005年2月 22日)

 奈良県御所市西北窪の7世紀後半の古代寺院の金堂とみられる礎石などの遺構が見 つかり、周囲から内部の壁を飾ったせん仏の 破片約200点が出土した。
 遺構は、出土した瓦などから白鳳時代(7世紀後半)のものとみられ、地名から「二光寺廃寺」と命名された。
 せん仏は、復元すると約55cm四方(推定)となる阿弥陀三尊を中心とした大型多尊せん仏のほか、縦22〜16cm、横15〜10cmで、仏像3体又は 6体が浮き彫りにされたものなど計4種類の破片が出土した。
 このうち大型多尊せん仏は、阿弥陀如来の背後に異国風の顔立ちの五体の神将を配しているなど、図柄は、三重県名張市の夏見廃寺の出土品や、奈良市の唐招 提寺の所蔵品(重文)とほぼ一致し、同じ型で作った可能性が高い。また、夏見廃寺のものと同様に金ぱくが残った破片もあり、同じ工房で作られたと考えられ る。
 また、須弥壇部分の破片には年代を表す「甲午」の文字があり、「甲午」に当る694年の制作とみられる。
 せん仏の出土例は、近畿を中心に全国で100前後あるが、その中でも今回の像は保存状態が良く、表情や衣装の鮮明さは際だっている。
 二光寺廃寺は文献に登場しない謎の寺だが、一帯は港のある紀州、に通じる街道沿いで、周辺には渡来系氏族の古墳群や渡来系氏族の氏寺とされる朝妻廃寺、 高宮廃寺などもある。同じタイプのせん仏や瓦が出土していることから、二光寺廃寺も同様に渡来系氏族の氏寺だった可能性がある。

 

  

 

● 葛城氏の祭政施設か 高台に「楼閣」跡 (2005年2月20日) 

  奈良県御所市・極楽寺ヒビキ遺跡で、祭祀と政治を行った中心施設である楼閣(高殿)とみられる古墳時代中期の大型建物跡な どが見つかった。
 極楽寺ヒビキ遺跡は、奈良盆地を一望する標高240mの高台に、二重の塀と、石積み護岸の濠で囲み、敷地は約1500m2。南に出入り用の渡り堤を設け ていた。
建物跡は約15m四方の高床式で、約40cmの柱の直径から、高さ約10mの二階建てと推定され、天皇家に比肩する権勢を誇った葛城氏の実像に迫る第一級 資料となる。
 古墳時代中期の豪族居館跡としては群馬県群馬町の三ッ寺1遺跡などが知られるが、平地に築かれており、高台の施設はこれまで見つかっていなかった。
 遺跡の北東には、葛城氏に関連するとされる居館や倉庫群、ガラスや鉄の工房、祭祀に用いた導水施設など、約一キロ四方に約二十か所の遺跡が集中する南郷 遺跡群が広がる。

 

● 井手寺跡から奈良時代 の石敷きの遺構が出土(2005年1月27日)

 京都府井手町の井手寺跡から建物と回廊の 遺構、瓦の破片、及び8世紀中頃の石敷きが見つかった。
 瓦は、花弁模様を線刻し緑や白、黄の三色彩ゆう薬で着色したタルキ先瓦で花の文様は3種類以上あった。また、石敷きは幅約2.3m、長さ約7mで、直径 30−40cmの石約210個がびっしりと敷き詰められおり、建物に通じる道か、庭園の一部だったと考えられる。
 これらの規模や内容から、伝承通り同寺が奈良時代の左大臣、橘諸兄が創建した氏寺である可能性が高まった。

 

● 寺院跡に平城宮と同型鬼瓦(2005年1月21日)

 奈良県王寺町 で奈良時代前半の寺院跡が見つかり、平城宮の大極殿に使われたのと同じ型の鬼瓦が出土した。
 国道拡幅に伴い発掘したところ、2棟の掘っ立て柱建物跡や堀跡などが出土し、遺構の配置から寺院跡見られる。鬼瓦は半分ほど欠けた状態で見つかり、幅約 30cm、高さ約40cm。平城宮大極殿の鬼瓦と同じ文様で、復元した大きさもほぼ同じだった。
 敏達天皇系の王族が建立したとの説がある片岡王寺の遺構とみられる。
 片岡王寺は王寺町の名前の由来とされ、法隆寺の史料などに登場する。

  

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