辺境の仏たち

高見 徹

 

第五話  広島・善根寺の平安仏

 安芸の国分寺跡は、県下有数の大盆地である西条盆地の中央部、現在の東広島市西条町にある。この地には日本武尊の伝説を伝え、三角縁神獣鏡や鉄製素環頭太刀を出土した白鳥古墳や、県下最大の前方後円墳である三ッ城古墳などが残され、安芸地方を支配した豪族の居住地であったことが想像される。

 一方、安芸国府は現在の安芸郡府中町にあったとされているが、国府跡が明確でなく、また府中町は広島市の中に安芸郡の飛地として存在しているという複雑な地理関係から、当初は国分寺の付近にありその後何らかの理由で移されたのではないかとも考えられる。

 いずれにしろ、西条は、奈良時代の安芸国分寺の建立も伴って、古代安芸国の政治、文化の中心地であった。

 西条から沼田(ぬた)川沿いに三原市に至る一帯にも、御年代(みとしろ)古墳や梅木平(ばいきひら)古墳など、県下最大級の横穴式石室を持つ後期古墳が残されている。

 この地域は、平安時代には平家の官領、沼田庄として経済的にも恵まれていた。また、鎌倉時代以降は、源平合戦で勲功をたてた土肥実平・遠平親子が小早川姓を名乗り地頭職として統治し、村上水軍を掌握し活躍した小早川隆景の時代には多くの寺院が隆盛を誇った。現在でも、小早川氏の居城であった高山城を中心に、中世の仏像を残す棲真寺、竹林寺、同氏の氏寺であった楽音寺、米山寺、仏通寺などがあり、安芸の歴史を伝える多くの文化財を残しているが、 平安時代に遡る遺品はほとんど伝来していない。

 高山城址から沼田川沿いに4km程下った三原市の最西部に位置する小坂町の、善根寺薬師堂と呼ばれる収蔵庫に30体近い平安時代の尊像が保存されている。善根寺の存在自体、かつてこの付近にあったという言い伝えを残すのみで不詳であり、保存されている尊像も、付近の廃寺にあったものを集めたものと思われる。

 中央の須弥壇に、本尊薬師如来坐像、日光・月光菩薩立像、及び帝釈天、吉祥天立像の五体が安置され、その周りに、四天王立像、兜跋毘沙門天立像をはじめ、多くの破損仏が並べられている。どの像も風雨に曝されて摩滅しており、尊名の不明な像も多いが、いずれも平安時代の一木造の像である。

 薬師如来坐像は胸、肩も厚く堂々たる体躯を持つ 。面部は後世の厚い漆箔で覆われており、両手先は後補で各所に補修の痕が見られるが、他の像とも共通する太い鼻梁や頬の張りに古様を見せている。日光・月光菩薩立像は、彫りは浅く、表情も穏やかであるが、条帛部の大きな結び目や腹前の衣の折り返し等に平安時代初期の特徴を示している。両脇侍の後ろに安置される天部像、吉祥天像も摩滅はしているものの、量感を持ち、服制も古様で一群の中で最も古い像と考えられ注目される。特に、吉祥天立像は神像のような森厳さを備え、平安時代初期の制作として知られる、広島県千代田町・古保利薬師堂の吉祥天立像を思わせる。

 兜跋毘沙門天像は当地では珍しく、県内では唯一の作例である。足下の地天女(ちてんめ)まで含めて一木で彫成しているが、表情や動勢も硬く、服制が同様の四天王立像も含め、平安時代後期の制作と考えられる。

 この他、目鼻立ちもはっきりしない破損仏も多いが、いずれも制作当時の愛らしさを感じさせる像である。

 破損仏を安置するお寺の多くは、山深い暗いお堂で、哀れさを感じさせる所が多いが、このお堂は周囲が広々として明るく、仏像の表情からも暗さは全く感じられない。

 

薬師如来坐像
帝釈天立像          吉祥天立像
月光菩薩立像                    日光菩薩立像

 

   

      月光菩薩立像              菩薩立像     

 

三原市小坂 山陽本線三原駅から仏通寺行き小坂行きバス小坂下車 
 


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