高 見 徹

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〜行程〜

8月25日(木):東京駅 → (新大阪)→ 下関駅

8月26日(金):国分寺(下関市) → 功山寺 → 下関市立長府博物館 → 住吉神社 → 覚苑寺
         → 赤間神社 → 春帆楼 → 下関泊
8月27日(土):国分寺(防府市) → 毛利博物館毛利邸庭園 → 常栄寺(山口市)
         → 雲谷庵跡 → 瑠璃光寺 → 龍蔵寺 → 山口泊
8月28日(日):大林寺(山口市) → 関水(徳地町) → 僧取淵 → 十三仏 → 昌福寺
         → 法光寺 → 月輪寺 → 西宗寺 → 石風呂 → 防府泊
8月29日(月):防府天満宮(防府市) → 阿弥陀寺 → 正護寺(山口市) → 正福寺(小郡町)
         → 菩提寺山磨崖仏(三陽小野田市) → 山口宇部空港 → 羽田空港


8月26日(金)第一日目

凡例:●国宝、◎重文、○県文、□市文

長門国分寺
下関市南部町4-1

 不動明王立像 像高84.0cm 一木造 藤原初期
◎ 絹本著色十二天曼荼羅図 (寺伝安鎮曼荼羅) 掛幅装 縦172.7cm 横130.3cm 鎌倉時代 
□ 市重要文化財 不動明王立像
□ 市重要文化財 木造毘沙門天立像
□ 市重要文化財 麻布着色地蔵十王図

 下関市の旧市街、唐戸にほど近い町中にある小さなお寺である。本来は、北東5km程離れた、これから行く功山寺に程近い長府宮の内町にあったが、戦後現在地に移されたという。
 拝観をお願いすると、天候によってはお出し出来ないと連絡のあった、不動十二天曼荼羅図を二人かかりで本堂の畳の上に広げて出して頂く。図像を畳の上で広げてながめるのも初めて、周りに座り込んでじっくり拝観する。
 十二天の衣装の細かい文様も切金を用いた美しいものだ。十二天をそれぞれアップで撮影したが、一体一体が迫力があり魅力的である。
 本堂の須弥壇の右側に安置される不動明王立像は、波に洗われる岩座の上に立つ波切不動である。
表情はやわらかく、藤原時代の典型的な像であるが、全体の動きがあり、衣文もシンプルながら、丁寧に彫られている。

 

 

 

                十二天曼荼羅図             不動明王立像

 功山寺によった後、国分寺の旧跡を訪ねたが、マンションの一角に申し訳程度に礎石を置くだけで、昔のおもかげは全くない。また、全国の国分寺でもこれ程移動した例はないという。


 金山功山寺 曹洞宗
 下関市長府川端1丁目

 ● 仏殿 桁行三間梁間三間 一重入母屋 檜皮葺 鎌倉時代
 □ 山門 間口三間 瓦葺き 安永2年(1773)
 □ 書院 天保6年(1835)
 □ 経蔵
 ○ 地蔵菩薩半跏像 クス 寄木造 像高137cm 藤原時代
 □ 千手観音菩薩坐像鎌倉末期〜南北朝
 □ 韋駄天立像鎌倉末期〜南北朝
 □ 二十八部衆立像 南北朝〜室町初期
 ○ 絹本著色楊柳観音坐像 朝高麗時代
 ○ 絹本著色仏涅槃図 鎌倉時代

 対元冦の前線基地として、鎌倉から長門探題として、長府に赴任した北条時仲が、この地が鎌倉に似ていることから建立を発願し長福寺と号したと伝える。
 その後、足利氏、大内氏、毛利氏と一貫して中央政権との関わりをもった名刹であり、山門からの佇まいも歴史を感じさせる。
 室町末期、城主となった大友義鎮(宗麟)の弟大内義長は、毛利元就に攻められ、わずかな家臣をつれて長福寺に入り自刃した。その後、毛利氏の保護を受け、慶安3年(1650)に毛利元就の孫、秀元の法号をとって寺号を功山寺と改めたという。
 幕末には、吉田松陰の高弟・高杉晋作が遊撃隊士などわずか80人ばかりの同志をひきいて俗論党打倒をさけび、明治維新の転機となる旗揚げをしたところでもある。

 拝観をお願いすると、住職自ら出てこられ、
 「皆さんは仏像だけですか、信仰も大切ですよ」と、先制パンチ。
 それでも「一般の方には中に入れませんから、早く入って下さい」といいながら、仏殿の中に入れて頂く。

 仏殿は、内部の柱に「元応二年(1320)卯月五日柱立」の墨書があり、禅宗の仏殿としては、鎌倉円覚寺の舎利殿よりも古く、軽快な美しい姿を見せている。
 柱の上下部が急に細まる粽(ちまき)状の柱、軒下の放射状の扇垂木、花頭窓など、純禅宗様の建築である。壁の上部全周に施された連子窓の縦桟が波形の柔らかい曲線で造られており、中から見ると木々にそよぐ風が連子窓越しに感じられる、心憎い演出だ。

 仏殿の土間はタイル状のせんで敷き詰められ、中央に一段と高く須弥壇を置き、千手観音坐像を安置している。
千手観音坐像は、南北朝時代の制作であるが、引き締まった面相や四十二臂の複雑な形状をバランスよくまとめており、京仏師雲渓作と言い伝えられるように、中央仏師の制作になると思われる。



 仏殿を出て、山門付近にある延命地蔵堂の地蔵菩薩坐像を拝観する。
 普段は閉めっぱなしで汚れているが丁度地蔵盆で掃除をしたばかりで運がいい、と言われながら、堂内に入る。
 左足を踏み下げた延命地蔵像である。藤原時代の制作になり、本寺の創建より古いことから、他の寺院から移されたものであろうと思われるが、伝来は不詳である。
 手先、台座は後補であるが、全体に保存状態はよい。球形に近く彫り出された面相は穏やかで、体躯も大振りでゆったりと造られており、左手にかかる衣文も流れるように丁寧に彫られている。側面観はやや奥行きに欠けるが、藤原時代盛期の典型的な像である。


 

 本堂に戻り、庫裏の玄関脇に安置される、韋駄天立像を拝観する。韋駄天は護法鎮火の仏として厨房に祭られることが多いが、厨房に続く玄関に安置されているのであろう。韋駄天像としては大きな像で、南北朝時代の制作とみられるが、面相も意思的で、迫力のある像である。
 玄関に、庭園拝観300円とあり、ご住職が、「玄関から上がると300円、韋駄天像は玄関の中だから無料」と冗談を言われるが、韋駄天像の拝観の後、お手洗いを拝借ついでに玄関を上がり、お庭をこっそり拝観させてもらった。

 境内の寺務所兼売店で絵葉書などを選んでいると、ご住職が「奥に二十八部衆があるが、興味はあるか」といわれる。勿論とばかりお願いして拝観させて頂く。
 二十八部衆像があることは承知していたが、総門の二階に安置されていると聞いていた。
 二十八部衆といえば、湛慶一門の手になる京都・三十三間堂の像が国宝に、滋賀・常楽寺の像が重要文化財に指定されているが、これら以外に国指定の像は無く優作はそう多くはない。
 昨年、静岡県を訪れた時も、室町から江戸時代の二十八部衆を二組拝観したが、造形的に優れているというよりは、揃っていることが貴重であった。

 二十八部衆は、ー部盗難等に遭い、現在二十三体を残している。
 部屋に入った途端、正直驚いた。像高約1mの像が一室に所狭しと並べられており、こちらを睨みつけている。多くの像が両腕や手先、持物等を欠いており、 尊名が不明な像も多く、後世の彩色が施されているが、全体的には当初の姿を良く残しており、その迫力に圧倒される。

 永正17年(1520)の胎内銘をもつ像もあるが、南北朝から室町にかけて制作された像であろう。
 この時代は、ややもするとユーモラスなほどバランスを崩した像が多いが、神将像のキリリとした面相や、動的でバランスの良い造形は、鎌倉時代の様式を忠実に伝えており、一体一体が丁寧に個性を持った表情に表されている。
 婆藪仙人や、大弁功徳天などの姿勢と服制が、三十三間堂などと近く、慶派工房など中央仏師が制作に係ったものと考えられる。
 なんといっても、すべての像に優劣が少なく、レベルが揃っているのが素晴らしい。
 功山寺は、仏殿といい、千手観音像、二十八部衆などの仏像といい、やはり中央との関わりが多く、中央仏師がこの地に来て制作に携わったものと考えられる。


  

神将像

 
大弁功徳天像               阿修羅像   

 二十八部衆を眺めつつ、写真を撮っていると、
 「皆さんは、こうやって拝観されて、何か発表などでもされるんですか?」と、聞かれ、
 「本などを執筆したり、ホームページに掲載したりしている人もおります。」
 「そうですか、是非どのように書かれるのか見てみたいですね」
 「今回の旅行の原稿が出来ましたらお送りしますよ」
 などと、お話する。

 ところが、帰り際にご住職から名刺を頂いてびっくり。肩書きに「京都大学名誉教授」とあるではないか。
 失礼ながら物の本で確認すると、元京都大学総合人間学部教授で、京都大学の他に奈良や名古屋にて教鞭をとられていた方であった。
 いやいや、京大の名誉教授に原稿を送るなどと大それたことを言ってしまい、穴があったら入りたい気分。


 下関市立長府博物館
 下関市長府川端1丁目

 下関市立長府博物館は、市立の博物館で管理は別だが、功山寺の境内にある。
展示されていたのは、毛利氏関係の資料がほとんどで、所蔵しているはずの仏像や仏画、国分寺の出土品などはほとんど展示されていない。早々に退散。
 外で待っていた運転手さんに「ここは早いんですねぇ〜」と妙に感心される。
 普通の観光客は、お寺は境内をざっと見て、博物館をじっくりという方が多いらしい。
と、いうか、我々がお寺に時間をかけ過ぎているのだろう


 竹生寺
 下関市有富町

 ○ 聖観音菩薩立像 像高169cm ヒノキ材 一木造 平安後期
 □ 十一面千手観音立像 一木造 像高177.0cm 平安時代

 当初竹生寺に行く予定であったが、確認したところ、昨年の台風で収蔵庫が被害を受けて、像は某所にて保管中であるが、さらしに巻いて、燻蒸修理中のため拝観は不可とのこと。
 残念ながら、パスする。


 住吉神社
 下関市一の宮住吉一丁目11-1

 ● 本殿 応安3年(1370)
 ◎ 拝殿 天文8年(1539)
 ○ 住吉神社文書 鎌倉期〜江戸時代
 ○ 住吉神社社叢
 ◎ 朝鮮鐘
 ◎ 金銅牡丹唐草透唐鞍
 ◎ 住吉社法楽百首和歌短冊
 ○ 板絵着色繁馬図

 住吉神社は長門一の宮で、神功皇后が三韓出兵の帰途、神のお告げにより荒魂を祀り、社を建てたことに始まると伝え、延喜式の名神大社に列する古社である。
 鬱蒼とした広い境内の高台に国宝の本殿と舞台式の拝殿を残す。
 石段の途中にある狛犬の表情が独特なので眺めていると、宮司さんが通りかかり、「どちらからお参りですか」「鎌倉、東京から」「広い境内だから手入れも大変でしょう」「いやいや、鎌倉の鶴岡八幡宮に比べれば楽です」と、しばし歓談。

 本殿は祭神五座を祀る五社殿を合の間でつなぐ横に長い本殿に五ヶの千鳥破風を載せる、九間社流れ造というの特徴ある建物で国宝に指定されている。拝殿は、舞台形式になった珍しいもので、重要文化財に指定されている。

 本殿の脇に絵馬堂があり、眺めていると、先ほどの宮司さんがやって来られ、「元は釣鐘が掛かっており、囲い堂と呼ばれていた」とのこと。なるほど、天井部分に大きな梁がわたっており、鉄の釣り具が掛かっている。
 釣鐘は朝鮮鐘で宝物殿にあるとのこと。早速見せて頂く。
 釣鐘は、地の間に大振りな飛天、撞座には唐草文様に囲まれた蓮華を陽鋳する。飛天や撞座は文様が明瞭に残っており美しい。神功皇后が三韓出兵の帰途持ち帰ったとの言伝えは兎も角、地理的条件からも韓国との関係が深かったものと思われる。
 文様の美しさに思わず、「拓本を採ったら売れますよ」と口走ってしまった(反省)。

 山口県教育委員会発行の「山口県の文化財」の表紙には、この飛天のアップが使われている。
 宝物館には、本殿の合の間に安置されていたという随神像も安置されている。
 

 長門鋳銭所跡


 黄檗宗寺院の覚苑寺の境内にあり、本堂前に石碑が建っている。
 奈良・平安時代に銭貨の鋳造を行った場所で、和銅開珎や鋳型、鋳造用具を出土している。
 和銅開珎は全国で、近江国、河内国、播磨国、長門国の四カ所で鋳造された記録があるが、場所が特定できているのはここだけという。
 以前は、付近から和銅開珎が時々見つかったというが、もう流石に見つからないか。

 付近には、侍屋敷長屋、菅家長屋門、土塀の続く古江小路など城下町の面影を感じさせる町並みが残る。


 赤間神社

下関市阿弥陀寺町4-1

 源平合戦の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る神社で、関門海峡に面して、真っ赤な竜宮城のような門を持つ。明るい境内であるが、耳なし芳一像を祀る芳一堂や、平家一門の墓所は昼なお薄暗い、社務所の横奥にあり、ものの哀れを感じさせる。

 春帆楼

 安徳天皇陵に隣接して料亭春帆楼がある。春帆楼は日清戦争後の講和条約が締結された場所として知られる由緒ある料亭であるが、現在は近代的なビルに建て直されている。
 敷地の一角に日清講和記念館があり、日本・清国両国の全権大使伊藤博文、李鴻章らが使用した椅子やテーブル・硯など、当時の資料を展示保存してある。



 今日は、先日の大騒ぎによる睡眠不足、疲れもあるだろうということで、早めにホテルに到着、約二時間後にロビーに集合し、食事をすることにした。中途半端な休息時間で、一旦寝たら起きれないのではちょっと心配したが、全員時間通りに集合。
 唐戸市場にも近く、地元の新鮮な海産物をということで、近くの料理屋さんを予約して、隠れ家のような離れの二階個室に通された。
 穴子の柔らか煮、オコゼの唐揚げが美味しそう。活イカの刺身を頼んだとこ ろ、唐戸市場に今晩入荷するイカを使うので7:30にならないと漁から上がってこないからとオアヅケ。8:00過ぎに頼んだがダメ、結局9:00頃迄待っ てもこないので諦めた。活イカに後髪を引かれながら宿へ。


(2005年9月18日)

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