富山・岐阜仏像旅行道中記 (平成16年8月20日〜23日)
朝田 純一
→ 第二日目
〜行程〜
8月20日(金):富山駅→日石寺(上市町)→立山博物館(立山町芦峅寺)→閻魔堂・布橋・
姥堂跡→雄山神社前立社殿(立山町岩峅寺)→富山市内泊
8月21日(土):常楽寺(婦中町)→二上射水神社(高岡市)→瑞龍寺(高岡市)→総持寺
(高岡市)→国分寺薬師堂(高岡市)→高岡市内泊
8月22日(日):常福寺(砺波市)→安居寺(福野町)→五箇山・菅沼合掌造り集落
(上平村)→〈岐阜県〉→白川合掌造りの里(白川村)→清峯寺
(国府町)→高山市内泊
8月23日(月):飛騨国分寺(高山市)→高山市郷土館(高山市)→千光寺(丹生川村)
→松本駅解散
さあ、今日から富山・高山への仏像旅行がスタート。
昨年、楽しかった鳥取島根旅行へご一緒してから、一年ぶりの寧楽会・仏像旅行。
前回は、夜行列車で出発からヘトヘト。
今回は富山駅で各自集合。
前に懲りて、富山空港まで飛行機奮発。体力温存を狙ったが、ちょうど「オリンピック」の真っ最中。
「アテネをミテネ!」の女子アナ・TVコマーシャルにずっぽり嵌ってしまい、柔道・水泳・体操など金メダル続出で、完全寝不足状態、またまた〈お疲れモード〉でのスタートとなってしまったのでありました。
8月20日(金)(第1日)
マイクロバスは、総勢16名を乗せ大岩山日石寺へ。
「大岩不動・日石寺磨崖仏」
私にとっては、今回仏像旅行の最大の目的、目玉。大げさに言えば、この磨崖佛を拝し、観るために来た様なもの。
学生時代の三十余年前、ド迫力の不動明王顔面アップ写真を、丸山尚一著「生きている仏像たち〜日本彫刻風土論〜」(S45刊)で見てから、いつかはきっと、と思っていた。念願の日石寺磨崖仏拝観。
とはいうものの、何しろ修験道信仰の象徴、一般人が近くで拝観などできるのだろうか?
久野健著「仏像の旅」(S50刊)によると、
「『こちらの信者の方はみな、大岩の不動さんは生きとると信じておりますから、そのおつもりで』と注意を受け、わずかに本尊の姿が燈明で暗に浮き出している中、長い読経のあと拝観調査した」らしいし
丸山尚一も、「信者たちは格子戸の外から拝む。真っ暗な堂内で、微光が不動をいかにも迫力ある像に浮き出させている」と述べている。
日本磨崖仏中、十指に入る名品といわれ、比類稀なる迫力を感じる「日石寺磨崖仏」を、今日は、もうすぐ拝観できるのだ。
日石寺 富山県中新川郡上市町大岩
大岩山と号する真言密教寺院。神亀2年(725)行基が岩壁に5体の石仏を彫ったことに始まり、天平2年(730)日石寺が創建されたと伝える。
室町期には六十余坊を有す大寺院だったが、火災で衰微。近世、加賀藩主前田利常が復興に尽力、磨崖仏覆屋を建立。(慶安4年1651)
日石寺は、上市川を上り大日岳をめざす立山登拝の登攀口として賑わい、不動三尊磨崖仏も、山間修行僧たちの立山信仰を背景に造立されたものといわれる。
●
日石寺 磨崖仏 5躯
中尊 不動明王坐像 346cm
向かって右 阿弥陀如来坐像 113cm 矜羯羅童子立像 219cm
向かって左 僧形坐像 103cm 制迦童子立像 219cm
石造(凝灰岩の巨岩)半肉彫り 平安時代
バスは、参道前に到着。
まずは、茶屋で腹ごしらえ。名物〈冷やしそうめん〉が、のど越しに心地よい。
いよいよ修験の霊像に拝観、気を引き締めて参ろう。
杉の老木のなか、長い石段を登って行くと、コンクリート造りの社殿が見えてきた。古い覆屋は、昭和42年解体修理中に焼失、再建したのだそうだ。
拝観は、どのようにするのか知らん?祈祷の儀式があったり、はるか遠くから辛うじて拝むだけなどということになるんだろうか。
事務所に声をかけると、拝観料不要、ご自由に拝観を、ということ。あれれ、若干拍子抜け。
お堂の中にはいると、ほの暗きなか奥のほうに燈明(電燈)に照らし出されて、磨崖仏が見える。ふと横に眼をやると、お堂の板敷に普通の服装の人が7〜8人、ゴロリと横になっている。昼寝?精神修養?どうみても、マグロの横たわり状態。
不動明王像の前には、腰の高さほどの黒の鉄柵、すぐ近くまで近寄って観ることが出来る。
写真も自由で撮り放題。
緊張気味だった私には、なんとも締まらないことおびただしい。厳粛気分は忽ち崩壊、霊像の有難味も神秘性も急に薄れ、すっかり気抜けでガックリ。
イヤイヤ、森厳、荘重といった神秘的雰囲気を勝手に期待したのがいけなかった。ムードに流されてはいけない。
ここは気を取り直して、対象物のみを虚心に、周囲に惑わされることなく見つめなくては・・・・・。
両眼をかっと見開いた、古様の不動明王。
ジーッと不動明王像を見つめていると、その顔は、流石ド迫力。
「顔面勝負の像。就中、〈眼と鼻〉勝負」そんな感じがする。
浮彫りなので、正面から観るとさほどでもないが、斜めから観ると、両目を大きく見開き目を怒らせ前方を睨む表現は、立体彫刻を越えんとする強烈な迫力を感じさせる表現。
臼杵や大谷石仏のように丸彫り的表現でなく、レリーフなのに〈よくぞここまでパワフルな立体表現できるもの〉と感心。
顔面と上半身デッカチで、体躯はちょっと縮こまった感じ。顔面ほどの迫力はない。
遠近効果を意識しそのように彫ったといわれるが、それでもやはりバランス感を欠いている。また下半身の彫技は手を抜いているわけではなかろうが、やや扁平で雑。
ノミ痕をはっきり残し、鋭いノミの打ち込みを明瞭に感じさせる荒彫り表現。彫技の巧みさより、一刀入魂の訴える力を表現した像。どのような仏師が彫ったのだろうか?
久野健は、「御性根のある仏像。いかにもこの言葉がぴったりとする不動尊である。」
丸山尚一は、「作者は、ノミの一打一打を呪文を唱えて打ち込んだのだろう。その冴えは生きた仏像を感じさせる」
と述べている。
不動明王の顔面を眼前に見入ってみると、やはり、その言葉がそのとおりに腹に入る「顔面勝負の、ド迫力の不動明王」でありました。
不動三尊は、平安前期とも平安後期とも言われる。阿弥陀如来坐像と僧形坐像は11世紀末〜12世紀の追刻。
不動三尊のほうは、もともと塑造土により細部修正し、うえに彩色を施したと考えられるが、今はその痕を残していない。
私には、不動三尊・平安前期はちときつい、迫力はあるが目鼻のつくりやモデリングなどは、藤原の穏やかさをのぞかせていると感じるが、どうだろうか。
また、この磨崖仏は、古代修験道が「立山信仰」の影響を色濃く受け、一種の「立山曼荼羅」の景観を呈するとも言われる。不動三尊は、立山剣岳の神スサノオノミコトの本地仏、阿弥陀如来は立山雄山の神イザナミの本地仏と言う。
本堂(覆堂)を出て、帰路に向かい石段を降りると、滝の水が六条、数メートル下に真直ぐ落ち、水しぶきを上げている。眼病の霊水として、人々の信仰を集めている。
不動明王の強烈な迫力をまともに受けて若干上気気味の私には、滝のしぶきがもたらしてくれる涼風が、ひんやりと心地よい。心のほてりをそっと冷やしてくれたように感じつつ、大岩の不動を後にしたのでありました。
今日は曇天。
八月にしては凌ぎ易いが、立山連峰は遠くかすんで、はるか雲の中。
立山というのは、どの山?
立山という山は無いそうで、主峰雄山付近にある峰々を総称して、その連峰を立山というのだそうだ。ああ、知らなかった、情けなや。
この立山、古来、山岳信仰のメッカ、修験道の道場として知られ、主峰雄山の頂上には雄山神(立山神)の峰の本社が建てられている。
バスは、立山の方向をめざし川沿いの道を登っていく。
座席で資料をめくってみると、このように解説されていた。
「万葉の昔から、神のおわす尊い山として崇められてきた立山。大伴家持が詠んだ歌をはじめ万葉集に収められた数々の歌の中からも、その神々しさがひしひしと伝わってきます。
やがて、時代は平安を迎え天台密教や浄土宗の影響を受けながら、雄山神社を基軸に独特の信仰体系を確立してきた立山は、神から特別の力を賜る修験道の一大興隆地として脚光を浴びました。当時、人々は白衣にすげ笠、草鞋履き、金剛杖という出で立ちで、精神の統一ののち真理を体得する〈立山禅定〉を行ったと言います。誰もが、熱湯噴出す地獄谷に奈落の世界を観、そして、安寧待つ極楽浄土へ夢を馳せたのです。」
ふーん、なるほど、なるほど。
「立山登拝の雄山神社には三社ある。立山へ向かう全ての道が集まる岩峅寺(イワクラジ)には前立社殿、雄山への登山口にある芦峅寺(アシクラジ)には祈願殿、そして雄山山頂には峰の本社が設けられている。岩峅寺、芦峅寺は立山信仰の宗教集落として栄えた。」
これが、立山信仰か・・・・・・。
読み進むうちに、バスは早、芦峅寺に到着。
ところで、芦峅寺という寺はどこにあるの?イヤ、そんな寺は無いのだそうだ。岩峅寺、芦峅寺というのは寺の名ではなく地名、集落名。
エェー!そんな変な。
そのいきさつは、こんな話。
確かに江戸時代までは、二つの寺はしっかり存在していた。神仏習合の時代、立山権現を祭る「岩峅寺」、「芦峅寺」はそれぞれ「麓の大宮」、「根本中宮」と称し栄えていたそうだ。明治初年の神仏分離の際、仏教的要素は排除され「岩峅寺」は「前立社殿」、「芦峅寺」は「祈願殿」と称されるようになった。
当地でも廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、仏教施設等が徹底的に破壊し尽くされたようで、この芦峅寺も宗教集落としての面目を失い、また多くの人が職を失い衰微したという。
「ウーン、なるほど」と納得。
この芦峅寺、哀しい歴史を背負った集落なのだと、すこしばかり感傷的な気分。
富山県「立山博物館」 富山県中新川郡館山町芦峅寺
●銅像男神立像 49cm 鎌倉時代 寛喜2年(1230)造
●慈興上人坐像 87cm 鎌倉時代 杉 寄木造
芦峅寺にある、立山の自然と信仰をテーマにした博物館。シャレた現代風建築。
お目当ては、なんと言っても峰の本社の御神体であった「銅像立山神像」。
台座に長文の刻銘があり、寛喜2年庚寅(1230/3/11)に立山頂上の御神体として造られたものと考えられる。50センチほどの小像、ガラスケースに収められている。
峰の本社は、草木も生えぬ険しい岩場の頂上建てられた小さな祠、冬の嵐には吹き飛んでしまいそう。神像も、鍍金は剥げ立山地獄から出る硫黄ガスで、像の表面が硫化してかせてしまっている。
筒形冠を頂き、袍衣をつけ、靴をはいて立つ長身の姿。鋳像法は「寄せ鋳き」、胴体と腕を別々の型でおこし両肩を蟻柄で組み合わせる。
彫刻作品としては「ふーん、そんなもんか」といったところだが、この像が、博物館に展示されるようになるまでには【数奇な流転物語】がある。その話に想いを致すと、この立山神像、「ここに戻って来れて良かった」という感慨で、もう一度じっとその姿を見つめ直してしまう。
この像は、明治の神仏分離、廃仏毀釈の際、仏像と間違えられて山から下ろされ、行方知れずの後、長らく県外にあった。
立山に戻ったいきさつは、元富山県文化財保護委員・長島勝正により自著「越中の彫刻」で語られている。
それによると、
長島が、重要美術品目録に「愛知県加藤一氏蔵・銅像立山神像一躯」とあるのを見出したのは、昭和17年のこと。加藤氏は愛知春日井の真宗寺の住職、訪れると、本像は、加藤氏の祖父が明治のはじめ、富山駅前の古道具屋から他の金銅仏二躯と共に買ったものらしい。
この訪問記を新聞に掲載したところ、立山の坊の方々が買い戻そうとしたが折り合わず。時を経て、加藤氏がこの像を離されるという事もあったりして、いろいろの経過があり、五百万円で県に納まることとなった。昭和42年7月末、立山の神像は約百年ぶりに富山県に戻ったのである。
と、感慨深げに語っている。
館内を往くと、胸に小さな穴のあいた鋳造阿弥陀如来立像が数体展示されている。県内では、「矢疵の阿弥陀」と呼ばれるそうだ。
立山開基伝説に基づくもので、立山縁起によれば、大宝元年(701)越中国司の長男・佐伯有頼が、鷹狩途中熊に襲われ弓でその熊を射ると、立山山頂に逃げ「玉殿の岩屋」で金色阿弥陀如来と化し、立山開基を命じたという。
「矢疵の阿弥陀」は、この伝説をもとに制作されたもので、県内に10体程度あるらしい。
慈興上人像の展示は無し。残念。
閻魔堂・布橋・姥堂跡
立山博物館を出て、ほんの少し往くと閻魔堂・布橋・姥堂跡に至る小径に入る。
かつて、芦峅寺より奥の地は立山の聖域とされその手前を横切って流れる姥堂川は、この世とあの世を分つ境界と考えられていたそうだ。この姥堂川にかけられた布橋は実質的に立山登拝の入り口である同時に、立山信仰そのものを象徴する重要な場所でもあった。
そしてまた、立山は女人禁制の地でもあった。
「布橋大潅頂」
明治の廃仏毀釈で廃止となってしまった【擬死転生儀礼】、この宗教儀式をご存知だろうか?
この仕掛けを最初に考えた人は、本当に凄い!極楽往生、来世救済という切なる願望を、ドラマチックな宗教的恍惚感にまで高め、現世で歓喜を味会わせる巧みな〈演出〉。
いま話だけ聞いて想像しただけでも、異常な興奮を眼のあたりにしたような気分におそわれる。
「布橋大潅頂」とは、女人禁制の立山で、中世以来行われてきた女人救済の大行事。
秋の彼岸の中日、閻魔堂から布橋を渡り姥堂までの道に、白布が三列に張り巡らされる。大潅頂を受ける女人は白い死装束を纏い、目隠しをして閻魔堂から白布の上を歩き、此岸と彼岸を結ぶ布橋を渡る。橋を渡るとき、心の悪いものは橋から落ちるといわれ、渡り終わると彼岸に着く。そして姥堂に入る。
堂に入ると扉が閉められ、真っ暗闇の中で一心に経を読む。
もうろうと陶酔状態になったころを見計らい、扉が開けられる。暗黒にわかに光明に転じ、真正面に立山の神々しい姿が見えたとき、女人たちは、阿弥陀浄土の立山を拝し極楽往生の歓喜に浸った。
多いときは一回に3千人を越す女性が布橋大潅頂に参加したという。
今では、閻魔堂は昭和初期の再建、布橋は昭和45年の復元、姥堂は石碑と基壇跡を残すのみではあるが、往時を偲び、姥堂跡に立って立山を望むと、女人たちの恍惚歓喜の声が聞こえてきそうな気がする。
雄山神社前立社殿 富山県中新川郡立山町岩峅寺
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本殿 正面五間社 一間向拝付流れ造り 桧皮葺 室町時代中期
布橋大潅頂の残像を心に残しながら、バスは芦峅寺から下り坂を岩峅寺へ。
前立社殿は、県下最古、北陸最大の神社社殿だそうだ。
ぶらぶら歩いて、社殿を眺めたが、
朝からド迫力の「大岩不動」、廃仏毀釈で流転の「立山神像」恍惚歓喜の「布橋大潅頂と姥堂跡」など立山信仰、修験道の気迫と魂に押しまくられ、あてられて、お疲れ気味。
殆んど何も観ずに、バスに戻ってぐったり。
今晩の泊まりは、富山市内。
早く、一風呂浴びてサッパリ、美味い地魚、地酒で一杯やってグッスリといきたい。
オリンピックを見る気力は無さそう。
〈続く・・・・はず〉
(2004年9月1日)
→ 第二日目
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