鳥取・島根仏像旅行道中記 (平成15年8月23日〜26日)
朝田 純一
〜行程〜
8月22日(金):東京駅→鳥取駅(夜行寝台列車)
8月23日(土):鳥取駅→鳥取砂丘→学行院(国府町)→鳥取県立博物館(鳥取市)
→倭文神社(東郷町)→三仏寺(三朝町)
→倉吉泊
8月24日(日):大日寺(大栄町)
→観音寺(大栄町) → 伯耆国分寺石仏・国分寺跡(倉吉市)
→斎尾廃寺跡(東伯町)
→大山寺(大山町)→上淀廃寺(淀江町)→米子泊
8月25日(月):清水寺(安来市)→美保神社(美保関町)→仏谷寺(美保関町)
→松江市内→松江泊
8月26日(火):島根県立博物館(松江市)→神魂神社(松江市)→熊野神社(八束郡八雲村)
→八重垣神社(松江市)→万福寺(出雲市)→鰐淵寺(平田市)→出雲空港
→羽田空港
8月24日(日)(第二日)
良い天気、暑くなりそう。熱中症予防ペットボトルをぶら下げて倉吉駅前を出発。
倉吉は、蔵の街。少し散策といきたいが、今日の行き先は盛り沢山。古き街並みの郷愁はバスの窓から眺めて、大日寺へ。
大日寺 胎金山大日寺 天台宗 倉吉市桜
●阿弥陀如来坐像 寄木造彫眼 布下地漆箔 115.2cm
胎内墨書に、嘉禄二年(1226)卯月の造立銘
□薬師如来立像 一木造彫眼 彩色後補 152.0cm
昼から法要があるということで、朝一番の訪問。
今は、山間の集落のはずれにある、地元の人々と共に在る普通のお寺という感じであるが、平安から鎌倉にかけては、堂塔建ち並ぶ大寺であったらしい。
延久三年(1072)年号のある藤原期の瓦経が旧本坊跡から発見されたり、鰐淵寺にある寿永二年(1183)銘の梵鐘もこの大日寺にあったものであることなどから、その全盛がしのばれる。
「どうぞ自由に拝んで、写真もどうぞ」と気さくな、ご住職。
本尊厨子の背後に、薬師如来と平安の石仏という朽ちかけの大日如来。薬師は、いかにも藤原地方仏で粗削り。
突然、数十名の白装束の団体が本堂にあふれんばかりに入堂。こんな田舎の寺に何が起こったんだろうか?法要は昼からの筈だしと思いきや。
イヤイヤここは、中国四十九番薬師霊場でありました。突然の大型バスでの巡礼でご住職もびっくりというところ。
信仰厚き巡礼の人々に押し出されるように、境内本堂脇の収蔵庫へ。
阿弥陀如来像は、こじんまりした収蔵庫に安置。
すっきり良く出来たおとなしい感じの像。中央作か、地方の雰囲気は感じさせない。
「新時代の息吹がうかがえるが、全体としてなお平安後期の作風をとどめている。山陰における鎌倉時代(前期)の在銘仏として貴重なものである」との解説のとおり。
観音寺 円通山観音寺 天台宗 大栄町東高尾
●千手観音像 一木造彫眼 188.0cm 平安時代前期
●十一面観音立像 一木造彫眼 157.5cm
平安時代後期
□十一面観音立像、不動明王像、兜跋毘沙門天立像、吉祥天立像、地蔵菩薩立像、四天王像5体
その他破損仏多数
観音寺は、今回最大の狙い目。
三十数年前、学生の同好会で島根仏像旅行に行くとき、会のT君から「ひと足先に立って東高尾観音寺に寄るけど一緒に行かないか」と誘われ、暇はあったのに「オレはいいよ」と行かなかったのだ。
当時、この仏像のことを詳しく知らなかったし、写真を見ても、今一つ食欲が湧かなかったのでパスしたのでありました。
実はその写真は写りが良いものではなく、その後美しく撮れた千手観音の写真を何枚も見て、「これは凄いではないか、あの時どうして行かなかったのか!」と悔しがったが後の祭り。
大日寺の裏山を一つ越えれば東高尾観音寺で、バスはその山麓を回りこむように20分ほど山間の細道を走る。
美しい杉林に囲まれた石段の上に小さく粗末なお堂が現れた。上り口に「観音寺」の石碑。「ようやくやって来た」。
仏像は、本堂脇の収蔵庫「早く観たいな、会いたいな千手観音」。
ご住職が扉が開くと、真正面左に、こちらを向いて凛と立っていた。果たして、私の長年の期待を裏切らぬ像。
伸びやかなエネルギーを、強く感じる。よく出来てる、なかなかに素晴らしい。
すらりとスマートな体つき、いわゆる平安初期彫刻の強烈なボリュームやゆがみはないが、パワーは十分。
肉付きは豊かでむっちり、クビれるところはクビれて、きりっとした締まりある身体。
〜書いていて表現にどこかイヤラシさが滲み出しているよう〜
妖艶さは感じない。明るく健康的、おおらかな感じで、山陰の風土には似合わない。
昔の女優に譬えれば、ソフィア・ローレンというところか?〜それにしても余りに古い、もう齢だね〜
この仏像も古そうだ。
久野健は
「中国地方に伝わった平安初期の菩薩中、私が最も古いものではないかと考えているのは、鳥取県の観音寺に残る千手観音像である。・・・・・体躯が長身の割に頭部が小さく、体躯は強く胴でくびれ、腰が太く抑揚に富んでおり、庄部落所有の菩薩立像や、広隆寺の不空絹索観音像を連想させる。・・・・衣文の形式も極めて古様で、薬師寺東院堂の聖観音像を思わせるものがある。・・・・・・恐らく本像の制作年代は9世紀もかなり古いほうの遺品ではないかと考えられる。」(中国地方の平安初期菩薩像〜平安初期彫刻史の研究所収〜)
と述べている。
確かに、奈良様(天平末)の伝統を引きずったモデリング。何故に伯耆のこの地にこのような像が残されたんだろう。伯耆には、白鳳期寺院と推定される古廃寺が九ケ寺も残ることをみれば、納得できることなのかも知れない。
「来て、見て、良かった」それだけの値打ちあり。
堂内には、四十数体の破損仏が所狭しと安置されている。出来はそれぞれ異なるが、みな平安仏。
観音寺は、これだけの仏像群を祀る規模の寺であったとは考えられず、先ほど訪ねた大日寺(もしくは近辺の寺)から、何らかの理由でここに移されたと考えられている。
今では、中央に凛と立つ千手・十一面観音を囲んで、諸仏肩を寄せつつ静かに佇む。
破損仏となってしまったと雖も、よくこれまで守られてきたものよと、感慨がよぎる。
現住職は、飾らぬ純朴そのものの仁。もう七十はとうに過ぎ、日焼けした顔が人なつこい。
問はず語りの話によれば、小さな頃から学校も行けず、本当に貧乏し苦労し、漁船に乗って食いつないだ。その後名古屋で粗末な食堂をやり、やっとのことで子供たちを立派な大学に行かせる事が出来た。
それもこれも、妻女の郷里の観音様のご加護とお陰に他ならない。そこで、この観音堂をお守りすることが自分の勤めだと考え、食堂もたたみ、最下位の僧籍もとって、ここの堂守をしているのだそうだ。
この素朴で一途な老人にお守りされて、ここの仏たちは幸せだなあ・・・・と心より思う。
「いつまでも健勝で」と念じつつ、石段を下った。
☆
伯耆国分寺石仏 5体 倉吉市国府
謎の石仏といわれているそうだ。
国分寺跡から出土したといわれていて、国分寺の地覆石(80cmほどの角状石材)を利用した高肉彫り異形の五体の像。制作年代、作者も不明。尊名もわからないらしい。
国分寺跡そばの社小学校前庭植え込みにひっそりと並んでいる。
説明がないと、小学校で作った作品か、と思ってしまうかも。〜ちと言いすぎか?〜
向かって左の二体は、木喰仏そっくり。寛政10年(1789)伯耆を訪れた木喰上人の作ともみられるが、確証はないとのこと。
伯耆国分寺跡 倉吉市国府
芝生と樹木で、きれいに整備された史跡公園になっている。愛犬の散歩と運動にもってこい。
寺域は約二町四方(182×160m)、周囲には土塁と堀がめぐらされていたことが、昭和45年から始まった発掘調査で明らかになっている。
南門・金堂・講堂が南北一直線に並び、塔跡が南門のやや東北に位置する国分寺伽藍。
300メートルほど西に、国府跡がある。霊亀2年(716)山上憶良が国守として、この国府に赴任し5年ほど勤めた事が知られている。
斎尾廃寺跡 東伯町槻下 白鳳時代
残暑の厳しい陽が、じりじりと照りつける。「暑い!」うだるよう。バスのなかにいても、汗が止まらない。このバスの冷房はどうも効きが悪い。運転手さんは良い人なのだが、車は少々疲れ気味?旅行会社に料金値切りすぎたのかしらん。
バスは海岸沿いを走る。碧き海と海岸の美しき景色を眺めていると、しばし暑さも忘れる。
少し内陸に入り、畑地帯が四方に広がるど真ん中に斎尾(さいのお)廃寺跡があった。
西南には、伯耆大仙をはるかに望む見晴し良き台地。寺というものは杜の中、山裾に在るものとのイメージからすると、すごく開放的。
説明版が立ってないと、隣の芝育成地の続きのよう。
山陰地方で、唯一国の特別史跡に指定されている古代寺院跡であるが、今は草地に基壇と礎石が残るだけ。
山陰地方唯一の法隆寺式伽藍配置で、法隆寺と同系様式の軒丸瓦や、白鳳期の塑像断片(小仏頭、螺髪、髻、仏足等)、仏が出土している。
昭和8年に石田茂作らにより発掘調査が実施され、遺跡の全容が明らかにされたという。
伽藍跡の草地を歩くと、近時トレンチでも入れたのか処々土を寄せたようなところがある。いつの時代のものか、大小の布目瓦断片が散在していた。
大山寺 角盤山大山寺 天台宗 西伯郡大山町
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十一面観音立像 銅像 22.7cm 白鳳〜天平時代
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観音菩薩立像 銅像 27.3cm 白鳳〜天平時代
三面頭飾をつける。細作りのすっきりした像
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観音菩薩立像 銅像 32.0cm 白鳳〜天平時代
火中のため両手先を失う。四十八体仏に共通する様式がみられるともいう。
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観音菩薩立像 銅像 37.1cm 北宋〜遼時代
冠の正面に大きな化仏をつけ、全体に装飾の目立つ像。細い目や薄い頬肉などの面相に特徴があり、中国宋時代の像と推定されている。
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阿弥陀如来坐像及び両脇侍像 木像一木造 漆箔 平安後期
阿弥陀270.0cm、観音270.0cm、勢至262.0cm
阿弥陀堂本尊像、天承元年(1131)3月14日から6月25日まで費やし大仏師良円が造像との中尊胎内墨書。
大山の中腹、古来山岳修験の霊場として著名。養老年中(714〜724)金蓮上人が地蔵菩薩を感得して一堂を創建したのに始まると伝える。貞観年間(859〜877)慈覚大師円仁が留錫して常行堂(阿弥陀堂)を建立、平安後期以降は衆徒(僧兵)を多く擁し、この地方屈指の大寺となり、三仏寺・鰐淵寺・清水寺と並ぶ天台霊場として栄えた。
伯耆富士は標高1711m、中国地方の最高峰。古代よりの山岳密教の聖地、霊峰大山。今日は雲に中にかすんでいる。
立派な登山道路は、裾野からほぼ真直ぐ、大山寺を目指して直登して行く。バスは喘ぎ喘ぎ登っていく、疲れ気味の車には結構きつそう。
ようやく、何とかエンストせずに大山寺に到着。千メートル以上あるんだろうか、クソ暑かった下界より結構涼しい。土産物屋や食堂などが並び、結構にぎやかな観光地という様子。日曜で夏休み、大山フェスティバルも開催中。子供連れ、ハイカー、巡礼の人が行き交う。
アイスクリーム片手に参道を登れば、右手に宝物館「霊宝閣」。
中をひとまわり見たが、これが古刹大山寺の宝物、文化財かと思うほどに、古いものがなく寂しくみすぼらしい。
聞けば、威容を誇った大山寺も、明治の神仏分離、廃仏毀釈のあおりをまともに受け、明治8年本殿を神社に引渡し大山寺号廃絶。仏教美術の文化財、宝物は悉く破壊し尽くされたという。
明治36年、寺号は再興、昔日の面影はないものの、なお三堂宇に十ケ寺の子院を有し、山陰天台の名刹として復興して来たのだという。
なるほど!これで宝物館がシャビーなのも納得。
そうは言っても、大山寺の歴史と由緒を物語る小金銅仏が四体、正面奥に陳列されている。
三体は、白鳳仏と思われる30センチ内外の小金銅仏菩薩立像。
一体は火中しており、もう一体はさらにやつれがひどい。
久野健は、この三体の制作時期を
「大宝2年(702)銘大分長谷寺観音菩薩立像の前後、古代小金銅仏第4期(天武から元正に至る白鳳末期、及び天平初期)前半期の制作」(古代小金銅仏)
としている。
ひときわ、ボクの眼を惹いたのは、残りの一体。
中国宋時代の金銅仏。その巧緻を極めた繊細な作技は見事。造形にも清新な生気があり、いわゆる工芸的に堕したところがない。なかなかの逸品で素晴らしい。
「いい仕事してますねえ」のきめ言葉が、思わず口をついて出そう。
本堂参拝を終え、阿弥陀堂(重文・室町時代)へは、バスで移動。
本堂からかなり離れた、人気のない静かなところにある。大山寺の威容を唯一とどめる、立派な文化財なのだが、訪れる人は少ないようだ。
長い並木の石段を、一歩一歩登っていくと、木立の中から立派な阿弥陀堂が、姿をあらわす。なかなかに良い雰囲気。
堂々たる、丈六阿弥陀像。
これだけの阿弥陀三尊を常行堂に安置していたというだけでも、当時の大山寺の隆盛がしのばれる。
定印、八角裳懸座に坐す、まさに定朝様の典型。
天承元年(1131)大仏師良円作の胎内墨書銘があり、藤原末期の基準作例となっている。
良円については詳らかでなく、この時期地方を中心に活躍していた仏師によって作られたのではないかと考えられている。
この山中の、ほの暗い古き堂中で拝していると、円満、温和、優美と評される定朝様のこの阿弥陀像も、むしろ金色の偉容、堂々として、あたりを睥睨する圧力のようなものを、感じてしまう。当時の人々は、この山中の阿弥陀をどのような心持で拝したのであろうか?
見事な像ではあるが、瞳の描き方が大変気になる。
いつの修理の時に描いたのだろうか。右目の黒い瞳の二重円の描き方が余りに稚拙、不自然で、折角の風格を大きく損じているように思う。
残念至極。
そろそろ夕刻。今日は盛り沢山の古寺、古仏でありました。
もう満腹、少々お疲れ気味。
早く、宿に着いて汗を流して、冷えたビール、美味い酒で暑気払い、癒し系と行きたい処。
オットどっこい、これからまだ行くらしい。
目指すは、「世紀の大発見」といわれた仏教彩色壁画が出土した山陰の白鳳寺院、上淀廃寺。〜かなり大げさな言い回し、でも概報本の帯にこう書いてある〜
それは行かずばなるまい!
もうひと踏ん張り元気出して、上淀廃寺へ。ああシンドイ・・・・
上淀廃寺跡 淀江町福岡 白鳳時代
淀江町歴史民族資料館
●石馬 安山岩 体長150cm 古墳時代後期
近くの石馬谷前方後円墳前方部から出土
上淀廃寺の存在を最初に注目したのは、大正年間、高等小学校長だった足立正。
宇田川村史に「本村に一大寺が建立せらしことは・・・国分寺時代の瓦によりて明なり・・・」記されている。
その後時を経て、礎石も存在することが報告されるなど(S60)注目されるに至り、平成3年、淀江町教育委員会により発掘調査されることになった。
多分、上淀廃寺は、その由緒が明らかなものでもなく、巨大伽藍というわけでもなく、当地での普通の寺跡発掘調査だったんだろう。
ところが、な、な、なんと!金堂跡から法隆寺と並ぶ国内最古と思われる彩色仏教壁画のおびただしい破片が発見された。
「これぞ世紀の大発見」この業界の中では古代史への衝撃を与え、また新聞等でも大きく報じられ、世間様の大注目を浴びたのでありました。
〜小さな破片が発見されただけという割には、大騒ぎ〜
破片は、火中変色しており図柄も十分残ってはいないが、神将、菩薩、樹木、雲などが破片をつなぎ合わせ復元され、資料館に展示されている。
制作年代は
「法隆寺金堂壁画より進んだ構図、あるいは複雑な要素を含んだ壁画であろうといえます。そうなりますと8世紀の初めぐらい、白鳳時代の末か、あるいは奈良時代の初め、中国の随あるいは初唐の大きな影響のもとに、こういう構図が出来上がったのではないかと思われます。」(百橋明穂〜淀江町国際シンポジウム:上淀廃寺彩色壁画の謎を追うー基調報告〜)
と考えられているようである。
他にも、丈六の如来、脇士、天部像と推定される塑像断片(8世紀ごろ)や、軒丸瓦も出土、資料館に展示されていた。
この発掘では、当寺の伽藍配置は「法起寺式」であるとされた。
ところが、ところが、平成4年の第4次調査で、「三塔一金堂形式」という、全く他に例を見ない伽藍配置を企図したものである事が判明、またまたの新発見となった。
金堂の東側に南北に塔を配する形式で、実際には二塔が建立され、三塔目は心礎のみで建てられなかったらしい。
仏舎利重視の「一塔三金堂」の飛鳥寺から、ついに塔の装飾性、象徴性重視の「三塔一金堂」にまでも、変化していったのだろうか?
それにしても、同時に発見された「癸未年」紀年銘瓦から、天武十二年(683)頃の当寺創建をイメージすると、ちょうど大和では「二塔形式」の本薬師寺造営の頃。
この山陰の果ての地で、何故、時代を先取り?する形式が生まれたんだろうか。イヤ、むしろ当寺のこの地は、大和よりも大陸半島文化を摂取可能であったんだろうか?
歴史資料館から数百メートル奥の高台に、伽藍跡がある。きれいに整地、保存されており伽藍配置など大変良くわかる。
小高い山を背にした高台で、近くに美保湾・淀江を望み、眺望開けた地。
当時、淀江の浜からこの上淀の伽藍を見上げれば、万緑叢中にくっきりと朱彩の堂塔一際映え、また日輪を受け金色に輝き、その威容、秀麗を誇ったのであろう。
資料館で、丁寧なる説明を頂いた学芸員の女性に、「これだけ有名になった上淀廃寺ですから随分沢山の人がくるのでしょう」と聞くと「最初のうちは、賑わって大変でしたが、最近はねえ・・・・・・」
嗚呼、十年一昔、うつろいやすきは人の心・・・・・・
オーバーワークの道中第二日、バスは米子の宿へ。
早く一風呂浴びて、一杯やりたい。
(続く)つもり?
(写真は橋本
昇氏撮影)
(2003年9月22日)
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