辺境の仏たち

高見 徹

 

第九話  岩手・東楽寺の平安仏

   
 岩手県は、古代において、阿弖流為(アテルイ)を首領とする蝦夷に対し、征夷大将軍・坂上田村麻呂が戦いを繰り広げた場所で、この地を平定した坂上田村麻呂は平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生んでいる。

 盛岡市の北東に位置する姫神山は岩手山、早池峰山とともに古来の三霊山とされ、坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられる。
 山頂には姫大神を祀り、山麓の前山に玉東山筑波寺を創建し姫神の本地仏として十一面観音立像を安置したという。
 それ以降姫神山の山中や山麓には多くの堂宇が開かれ、修験道の霊場として栄えた。また、江戸時代には、盛岡藩主が、もと盛岡市仁王にあった観音堂から寛文年間(1661〜1673)に現本尊十一面観音立像と仁王像を移し、姫神山山麓の玉山観音堂に奉納したと伝える。

 明治初年の廃仏毀釈では、当地も多くの寺院が廃絶となり、姫神山中に祀られた諸仏も堂宇の廃絶に伴って行き先を失い、転々とした後姫神嶽神社に集められ祀られていたが、昭和2年になって、姫神嶽神社から一括して東楽寺に移され、現在に至っている。
 かつては十一面観音の聖地であったとされる姫神山の修験道の歴史も、当寺に伝わる破損仏群がその歴史の一端を伝えるだけである。

 東楽寺は古くは東北地方の民間伝承の古文書集『衣川文書』に、奥州藤原氏の祖先である安部氏の時代に建立された寺院として伝えられており、玉山観音堂付近の寺久保がその旧地とされるが明らかではない。
  山門の脇にコンクリート造りの六角のお堂があり、その中に像が安置されている。ほとんどが平安時代の制作になる一木造の像であるが、朽損が激しく流転の歴 史を感じさせる。二体の仁王像を除く七体の菩薩像は、すべて十一面観音立像であるが、十一面の化仏が残るものは1体だけで、他は全て頭頂の化仏を失ってい る。
 中央の本尊十一面観音像は像高3.6mを越え、東北地方では成島毘沙門天像に次ぐ大像である。頭頂の化仏と左腕を失っているが、堂々とした 量感ある像である。巨像ながらバランスもよく、中央風の像である。背中から大きく内刳が施されて薄い背板が当てられており、裳裾あたりはスカートを履いた ように薄くなっている。
 本尊後方両脇の十一面観音立像は両腕を失うなど痛みが激しいが、共に耳前の髪の毛を天部像のように逆立てているのが特徴的でる。
 また本尊の前方両脇に立つ等身大の十一面観音立像は一番原形を留めている。面相は理知的で、衣文、条帛、裳の表現も丁寧で量感もあり、本尊十一面観音立像に先立つ様式を示している。
 これらの像はほとんどが、ハリギリという東北地方ならではの材料が使用されており、それぞれ時代や様式は異なるものの、いたって中央風の雰囲気を表している。
 これは、地方作の特色の顕著な天台寺の諸仏とは対照的な存在であり、姫神山の十一面観音信仰の奥深さを見る思いがする。

  手前の仁王像は手足を失っており、体部は彫りもほとんど摩滅して、腰の部分に所々に大きな穴が開いている。特に阿形像は、首部を大きく欠いており、頭部は 体部とほんの一部でしか繋がっておらず、抽象彫刻のモニュメントを思わせる像であるが、仏像というジャンルを越えて訴えかけるものを感じる。

 これらの像が木塊となってもなお我々に訴えかけるのは、東北のという、かつては辺境であったこの地の風土とそれを護り続けた人々の力なのであろうか。 

 

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      仁王像               十一面観音立像

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    十一面観音立像        十一面観音立像

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木像群  

 

 東楽寺 岩手県盛岡市玉山区玉山字一笠31  盛岡バスセンターよりバス玉山線城内(じょうない)下車3分

 


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