辺境の仏たち

高見 徹

 

第八話  静岡・鉄舟寺の平安仏

 

 旧清水市は、平成15年4月1日に静岡市と合併し静岡市となったが、かつて奈良時代には駿河国の国府が庵原(現静岡市清水庵原町)に置かれ、天武天皇の頃、国府が静岡に移されるまで、駿河国の政治文化の中心として栄えた土地であった。
 地形的には駿河湾に突き出した三保の岬を自然の防波堤とする天然の良港である清水港を中心に、ここから眺める富士の山の遠望は、万葉の昔から歌に詠まれ、浮世絵に描かれてきた。
 大坂の陣の時、大坂への物資の輸送に協力したことから元和2年(1616)、幕府から回船問屋を免許されると共に、駿河湾一帯の海上取締り権を与えられ、駿府の海の玄関口となり、明治にはいると開港場に指定され、お茶の輸出港として知られている。

 鉄舟寺はもと補陀落山久能寺と称し、今の久能山にあって推古天皇の時代、久能忠仁によって開創され、奈良時代の初期に行基菩薩が中興したと伝える。当時坊中三百六十、宗徒一千五百人もあり、豪勢を誇ったという。
 江戸時代、武田信玄が久能山に築城するのに伴って、天正3年(1575)現在の場所に移された。徳川幕府も古来からの名刹久能寺を庇護し御朱印地を賜った。
 明治維新に寺領を失って荒廃したが、西郷隆盛・勝海舟による江戸城の無血開城会談の立役者となった山岡鉄舟が、由緒ある名刹が滅びるのを惜しみ、明治16年、自ら中興開基となり、臨斎寺の今川貞山を中興開山に迎えて再興し、寺号も鉄舟寺と改めた。山岡鉄舟は募金のために沢山の書を揮毫して侠客清水次郎長こと山本長五郎に与え、次郎長も鉄舟寺再興に大いに奔走したが、鉄舟は寺の完成を見ることなく明治21年に、次郎長もまた明治26年没している。

 この寺に伝わる紙本墨書法華経は、鳥羽上皇ご出家の折藤原一門の手により書写されたもので、料紙に金・銀の切箔子を散らして墨書し、表紙、見返りにも華麗な模様や装飾文様が施こされ、荘厳経として厳島の平家納経と並ぶ逸品で、国宝に指定されている。 鳥羽の安楽寿院に納められてあったが、後に久能寺に移された。

 鉄舟寺の禅堂は、収蔵庫になっており、堂内には、沢山の寺宝が安置されている。管理の方の手作りの案内板、年表が微笑ましい。薬師如来坐像、梵天・帝釈天立像(伝日光・月光)、地蔵菩薩立像は、長年風雨に晒されたらしく、各像とも表面が磨滅しており、肩や肘など、朽ちたり、節が抜け落ちた痕が空洞となっているが、塊量感を持つ内刳りのない一木造である。梵天・帝釈天立像、地蔵菩薩立像は、頭部の奥行きや両腕から垂らす袖もゆったりと表現され、左肩から右脇に掛かる衣文も大らかで、全体のバランスも破状なく、平安時代中期の制作と考えられる像である。三体とも朽損のためか下部を切断されて足先を失っており、金具で台座に固定されているのが痛々しい。
 本堂には本尊千手観音立像、文珠菩薩坐像、及び脇室に菩薩坐像を安置する。千手観音立像は像高2m近い大きな像であるが、頭部のみが平安時代後期の作で、体部は後世のものに造り替えられている。脇室の菩薩坐像は、両肩から先を失うものの、宝髻を高く結い揚げた宝髻や玉眼を使用した小振りな面相、引き締まった腰回りなど鎌倉時代も早い頃の制作と考えられる。若い頃の快慶を思い起こさせる意思的な面相を持つ像である。

 禅堂の脇から墓地に沿って急な階段を上り詰めた高台に観音堂と毘沙門堂がある。観音堂の本尊は秘仏であるが、平成13年に清水港湾博物館(フェルケール博物館)で公開された。脇手を掌を上にして頭上に組む、清水寺式と呼ばれる形式を持つ像で、両肩や両膝間の衣文の畳み方は浅く形式的で造作の小さな目鼻立ちや下半身の鈍重なモデリングは当地での制作を感じさせるが、膝前の衣の端部に細かい文様を刻む所や硬質な彫り口など古様を示し、中部地方でも注目される像である。
 毘沙門堂には兜跋毘沙門天立像が安置される。各部が朽損、磨滅しており、挙げた右手の袖を大きく作りややバランスを欠く像ではあるが、地天女まで一木で彫出した像で、平安時代の制作と考えられる。
 このほか境内の十二祖神社には十数体の神像の破損仏が保管されているが、これらの神像も由緒ある名刹が滅びるのを惜しみ、自ら中興開基となって保存に尽力した山岡鉄舟らの力によるものと想像され、鉄舟の執念が感じられる。

 観音堂の建つ高台からは、富士山から、国名勝である日本平、羽衣伝説で知られる三保の松原などの景勝地を手に取るように眺めることが出来る。山号である補陀洛山を海の彼方に思いを寄せた古人の気分に触れたような気がする。

 
     

梵天(伝日光菩薩)立像       帝釈天(伝月光菩薩)立像

菩薩坐像

観音堂からの遠望

静岡市清水村松 東海道本線清水駅から忠霊塔前行き・静岡市立清水病院行きバス鉄舟寺下車

 

 2004年6月4日、境内の十二祖神社が、放火と思われる火災により社殿を全焼した。何ともやりきれない思いでこのニュースを聞いたが、貴重な文化財を護ることの重要性を益々痛感した。 


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