埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第七十九回)



  第十七話 中国三大石窟を巡る人々をたどる本
〈その2〉雲岡・龍門石窟編


 【17−6】

【盗鑿され海外流出した石仏】〜大正から昭和にかけて〜

  上野の東京国立博物館、東洋館の1階には、多くの中国石仏が展示されている。
現在(H19/10)の陳列を見ると、美麗な初唐彫刻で知られる陝西省宝慶寺の菩薩像などの石龕仏が10余体、天龍山石窟の石仏が5体、雲岡石窟仏などが 展示されている。
  大阪市立美術館には、山口コレクション、小野コレクションと呼ばれる中国石仏コレクションが所蔵され、雲岡、龍門、天龍山石窟仏が多数あり、折々展示さ れている。
  根津美術館でも、天龍山石窟、宝慶寺などの石仏をいつも観ることができる。

 
東京国立博物館蔵・龍門賓陽中洞仏首  東 京国立博物館蔵・天龍山石窟仏首

 これらの石仏たちは、当然に美術商などの手を経て中国から流出したものであるが、これまで私は、そんなこと にあまり思いを致したことはなかった。
  北魏から唐にかけてのいろいろな石窟石仏を、日本に居ながらにして鑑賞することができ、飛鳥白鳳天平仏との関係などを知ることが出来て有難い。そんな感 じであったのが正直なところであった。

龍門・首の無い石龕仏

 昨年(H18)、雲岡・龍門・鞏県石窟を訪れてみて、石仏の首から上が無残にも削り取られているものがあま りにも多く、小ぶりのものは石龕ごと穴が空いたようになっているなど、あまりにも痛々しく惨めな姿を目の当たりにした。
この無くなった首が、日本や欧米に流出して、美術館などに陳列されているのだとおもうと、心が痛んだ。
  全部の石仏の顔が皆揃っていたならば、どんなに素晴らしいことだろう。その見事な造型にどれほど感動するだろうかと思うと残念でならない。

  偉大な文化遺産が、どうしてこんなにまで惨めな姿になってしまったのだろうか。

  アヘン戦争以来、中国の国力は衰亡の一途をたどり、20世紀のはじめ、清国の滅亡、中華民国建国の頃から、中国数千年の文化遺産は列強の古美術収集者の 草刈場になってしまった。
  中国石窟仏も、同じく盗鑿による破壊が幅広く行われた。
  龍門石窟は、その80〜90%の石仏が頭から切り取られているといわれるし、天龍山石窟に至っては、ほぼ完璧なまでに盗鑿し尽くされているという。
  雲岡・鞏県石窟のほうが、まだ少しはましというところだろうか。


  ここで、龍門石窟の盗鑿、破壊についてみてみたい。

  関野貞は1918年(T7)龍門の地を訪れ、1906年(M39)に初めて龍門石窟を訪れた時に全て完好だった仏像群が、大きく破壊されているのを目の 当たりにし、このように記している。

「而るに、支那人にはこの世界の 大遺跡を保存する心が無く、民国三年(1914)頃より洞窟に彫刻してある多くの仏像の頭などを取れるだけ取ってみな外国人に売って了い、今はほとんど完 全のものはひとつも無いといってよい位です。幾千百年の間無事で来た仏像の頸を取って売ってしまうとは実に呆れた国民といわねばならないのであります」 (北支那古代文化の跡〜支那の建築と芸術所収〜)


 龍門石窟は、この頃一気に破壊され海外流出したらしい。
  関野は、収集のため買い漁る側のモラールをさておいて、石仏破壊をすべて中国人自身の問題に帰しているが、これは如何なものであろうか。

  1913年、パリで龍門石窟から引き剥がされた仏像の優品の展示を観たウォーナーは、後援者フーリアにこのように報告している。

「ヨーロッパのディーラーが龍門 の写真集に印をつけて、それを中国にいるエージェントに送る。そして彼らが石工を連れて龍門へ行き、希望の品を切り出すということである。」


 1936年(S11)長広敏雄と水野清一は、龍門石窟の調査研究に訪れる。
  研究報告「龍門石窟の研究」には、このように記されている。

「1936年の龍門石窟は、荒廃 の二字に尽きた。奉先寺洞の露座・盧舎那大仏の忘れがたい荘厳さを除けば、とても仏教聖蹟などとはいえない惨状であった。」
「ここ賓陽洞で有名な浮き彫りの傑作がある。我々はこれに多大の期待をかけて龍門へ行ったのであるが、驚いたことにはこれらの浮き彫りはすっかり、掻きと られ、一面にみる生々しい鑿跡に我々の心は完全にうちのめされた。これは悪魔のしわざだ。」

 先にも記した、賓陽洞前壁の皇帝・皇后礼仏図の大レリーフの盗鑿である。

  このレリーフは、1930年代に盗鑿され、現在、皇帝礼佛図はニューヨークのメトロポリタン美術館に、皇后礼佛図はカンサスのネルソン美術館に所蔵され ている。

 
龍門石窟賓陽洞・皇帝皇后礼仏図

 王治秋「瑠璃廠史話」は、この盗鑿譚のいきさつを次のように述べている。

「龍門賓陽洞にある北魏の有名な 浮彫〈皇帝・皇后供養行列図〉は、アメリカのアラン・プリスト(メトロポリタン美術館)がまず龍門へ行って写真を撮り、この写真をもとに骨董奸商の岳彬と 契約を結び、5年以内の約束でこの石彫をたたき割ってアメリカへ運び去ったのであった。今この石彫の一つはアメリカ、ニューヨークのメトロポリタン美術館 に、もう一つはカンサスシティーのネルソン美術館に陳列されている。」


 率直に言って、あまりにも大胆な略奪行為といわざるを得ないのではないだろうか。

  アメリカの東アジア外交史家、ウォレン・I・コーエンは、この略奪について、

両図の内、皇帝礼佛図の略奪行為 は、上記のとおりだが、皇后礼佛図の方は、石工がばらばらにしてひそかに盗み出し北京のディーラーに渡したものを、若き中国美術学徒ローレンス・シックマ ンが、発見して救い出し再構成したものだ。


  と述べている。
  その経緯については、この本に詳しい。

  「アメリカ が見た東アジア美術」ウォレン・I・コーエン著 川嶌一穂訳(H10)スカイドア刊 【325P】 3300円


  長広敏雄も、古陽洞を訪れた時、

「私が訪問した1936年には、 10人ほどの男が床から天井まで数段の足場をかけて、カンカンと耳が痛いほど石づりの音をひびかせていた。ピストルを腰につけた人相の悪いボスらしい男が 立っていたのをおぼえている。」(雲岡と龍門)

 と綴っており、大胆な盗鑿が、堂々と行われていたようだ。

【訂正・追記】 (2020.05.12追記)

HPをご覧いただいた方から、
「上記の長廣敏雄の記述部分(自著「雲岡と龍門」所載)は、〈拓本を採拓する石づりの音〉について語ったものである」
というご教示を頂戴いたしました。
中国の採拓では、木槌で叩いて紙を密着させ押し込むことが多く、その拓本採りの音なのだそうです。

早速、「雲岡と龍門」の当該記述部分を確認してみた処、上記の文章の前段に、
「この石窟では、石刻造像記がたくさんある。
そのうち書法の立派な銘文を選んで拓本制作する風が盛んであったのであった。
龍門二十品などと称して珍重されたのである。」
と記されておりました。
長廣氏は、間違いなく採拓風景を語ったものでありました。

本をきっちりと読まずに、思い込みで盗鑿の有様が記されていると勘違いして、早飲み込みをしてしまったようです。
追記、訂正させていただきます。
よろしくお願いします。
 

次に、最も破壊、盗略された天龍山石窟についてである。

  天龍山には、今では完好な仏像は全くないということだ。

  天龍山石窟の石仏の海外流出については、美術商山中商会とアメリカとが関係しているといわれている。

 
天龍山石窟仏(首の無い像)       山中商会ニューヨーク支店

 山中商会は、明治30年代には、早くもニューヨーク・ボストン・ロンドン・シカゴ・北京などに支店を置いた 世界的古美術商で、昭和初期に至るまで興隆を 極めた。中国美術をもっとも得意とし、中国文物の取り扱いでは他の追随を許ささなかった。
そういった意味では、結果として、古美術品の海外流出にもっとも大きな役割を果たした美術商ということになるのだろうか。

山中商店よ り売却された天龍山石仏
(山中商店天龍山石仏写真集)

 山中商会は、興隆の立役者、山中定次郎の死後(S11)、日中戦争の泥沼化、日米開戦などにより海外資産を失うこととな り、戦後は中国からの文物将来の道も閉ざされ衰微の途をたどる。

  今日の中国においては、天龍山石窟は、1923年(T12)アメリカ人が山中商会を使って海外流出を図り、国内の石窟中でもっとも悲惨な破壊をこうむった文化財と して銘記されているそうだ。
 
また、天龍山石窟発見者の関野貞は、1927年(S2)、天龍山の仏首45個を招来、山中商会により大阪美術倶楽部展覧会が開かれた。

  関野は、「他日、中国において安全の保証が出来たとき、現地に返還してもらいたい」といったそうだが、現実 にはそうはいかなかった。

売りに出た 首

 この天龍山仏首招来展観の話は、木下杢太郎の本にも載っている。

  「売りに出 た首」 木下杢太郎著 (S24) 角川書店刊 【292P】 330円

  この本は、木下の文化美術についてのショートエッセイ集。
  題名と同じ「売りに出た首」という小文が載っている。
  その内容が天龍山石窟からもたらされた仏首の話。

「(山中商会の展観)目録の序に 〈就中学界に喧伝せられる天龍山の石仏彫刻コレクションのごときは、本展観の出品中最も誇りとする処のものにして・・・・・宛然彼の天龍山石窟を茲に移し たるがごとき観ある云々〉と書いてあるのは過言でない。
四十五個といえば、天龍山の彫刻像の殆ど全部と云ってよい。
・・・・・・・
然しこの一面には、支那現地に於いて計画的な略奪が行われたという疑をも起こすことが出来る。
また更に考えると、大同の石仏も近頃は漸く欠け損じるという し、あの天龍山が、支那の現状に於いて、無疵に保たれようなどということは、まるで考えられないことだ。せめてその首の大多数が一人の手に集まったという ことに対して、その蒐集者に感謝して然るべきことだと思う。」

 木下は、この仏首招来について、このように記し擁護している。

 

山中商会、山中定次郎は「天龍山石窟踏査記」という一文を遺している。

  「山中定次 郎傳」 (S14) 故山中定次郎傳編纂会刊 【454P】 非売品

 

山中定次郎      

 本書は、山中追悼の評伝等収録文集。「天龍山石窟踏査記」も収録されている。
関野貞が序文を記しており、1924年(T13)に山中が天龍山を訪れたときの、30ページほどの探訪調査記である。
  この自序で山中は、天龍山石窟の石仏破壊と自身との関わりについて、

「併し看て行く内に第一回のとき には慥にあった筈のある仏が痛ましくも、その麗しい御首を、何者かに掻き落とされ見るも気の毒な姿で淋しく並んで居るのを、幾体となく発見し た。
・・・・・
不埒にも斯うした惨虐な行為を敢えてした者を憎まずには居られなかった。」

 と述べ、
 
それらの仏首を捜し求め、いろいろは方面で発見することが出来、「漸く今、数十の麗しい首を集め得た」ことが喜ばしく、この天龍山紀行を綴った、と記し ている。

  天龍山石窟が、徹底した破壊、盗略に遭い、多くが海外流出してしまったいきさつ、山中商会やアメリカ人の関わりの真実というものは、実のところは、如何なものであったのだろうか?

いずれにせよ、全ての首が喪われ、無残な姿の天龍山石窟の現在の有様は、余りにも痛々しい。

 


      

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