埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第七十六回)



  第十七話 中国三大石窟を巡る人々をたどる本
〈その2〉雲岡・龍門石窟編


 【17−3】

3.雲岡・龍門石窟を巡る人々

 さて、ここからは本稿のメインテーマである、雲岡・龍門石窟を巡る人々の話に入りたい。


 今では、雲岡・龍門石窟は、中国の一大観光史蹟であり、観光ツアーも沢山組まれ、誰でも気軽にその地を訪れることが出来る。
  しかし、20世紀初頭、中国石窟が世に知られざるときに、この地を訪れ、調査などを行うことが、いかに困難を極めたことかは想像に余りある。
  明治から昭和にかけ、多くの中国石窟寺を訪れた関野貞は、
  「匪賊二三千の来襲の間隙を盗むようにして調査行を決行した」石窟もあったと記しているし、
  大正年間に天龍山石窟を調査した田中俊逸は、
 「崩落する厳崖に加えて、洞窟付近に棲む豹や狼に脅かされた」
と報告している。
  今日では想像し難い驚くべき状況であるが、当時の学者たちは、一大決心をしてその研究意欲を満たさんと、調査行に臨んだのであろう。

 そこで、近代に入り、雲岡・龍門石窟そして天龍山石窟を訪れ、これらの石窟を世に紹介しその存在を広く知ら しめた人達、またその芸術性や美術史的意義を明らかにしてきた人達の、足跡やその著作を巡る話をたどってみたい。


 まずは、近代に入り、雲岡・龍門・天龍山石窟を訪れた人々とその調査研究著作などの主要なものを、私流に年表風にまとめてみると、次のとおり。

   

(近代以降)雲岡・龍門・天龍山石窟を訪れた人々と、その調査研究著作など

年代人名訪問調査の内容や著作など
清代初朱彝尊清朝の学者・朱彝尊の随筆「曝書亭集」に雲岡石窟が紹介されている
1889M22康有為中国の思想家・書家、康有為「広芸舟双楫」を著し、初めて「龍門二十品」を載せ、その賛揚と唱導に尽力
1893M26岡倉天心帝室博物館による「日本美術史」編纂のため、中国各地を歴遊、龍門石窟を訪問
龍門石窟の美術史的価値を世界で最初に見出した研究者となる。
賓陽洞本尊を法隆寺金堂釈迦像と「毫も変わることなし」と評す。
1897M30ルプランス・ランゲフランスの鉱山技師ランゲが龍門石窟を参観。簡単な旅行報告を交付し欧米の学者に龍門石窟に対する注意を促す
1902M35伊東忠太建築学者伊東忠太、中国史蹟探訪旅行中に、雲岡石窟を発見。
発見談を「支那旅行談」(建築雑誌189号1902)として発表。
雲岡石窟調査成果を「北清建築調査報告」(建築雑誌1902)として発表。
1906M39関野貞建築史美術史学者・関野貞、初めて中国にわたり、鞏県石窟・龍門石窟を訪れる。
1907M40シャヴァンヌフランスの中国学者シャヴァンヌ、龍門石窟、雲岡石窟訪問調査
「華北考古図譜」(1909)に雲岡・龍門石窟調査内容を発表、高く評価される
1908M41塚本靖・関野貞・平子鐸嶺建築、工芸学者・塚本靖、関野・平子を同行し雲岡訪問、訪問記を「讀清国内地旅行談」(東洋学芸雑誌1909)として発表
1910M43チャールズ・フーリア米国コレクター・フーリア、天龍山石窟を訪れる
1912M45浜田耕作龍門石窟を訪問
1915T4大村西崖美術史学者・大村西崖「支那美術史 彫塑編」出版、雲岡、龍門石窟等を紹介
1917T6松本文三郎インド哲学者、仏教学者・松本文三郎、雲岡を訪問、その後「支那仏教遺物」(1919)出版
1918T7関野貞建築学者・関野貞、雲岡・龍門訪問、天龍山石窟調査
天龍山石窟は関野によって始めて学会に発表され(「天龍山石窟〉国華1921)、天龍山石窟の発見者となる
陳垣中国人学者・陳垣、雲岡石窟を視察。「記大同武州山石窟寺」を発表
1920T9常盤大定僧侶で仏教学者・常盤大定、天龍山、雲岡、龍門石窟調査。後に「支那仏教史蹟踏査記」(1937)、関野貞共著「支那文化史蹟」(1939)刊行
木下杢太郎9月、画家・木村荘八と共に雲岡石窟に17日間滞在、鑑賞探訪記「大同石仏寺」(1921)を出版
1921T10大村西崖初めて中国訪問、「支那歴遊誌」(東京美術学校校友会月報1922)を発表
1922T11小野玄妙仏教学者美術史家・小野玄妙、天龍山石窟をまとめて紹介解説「天龍山石窟造像攷」(仏教学雑誌1922)
田中俊逸天龍山石窟の調査結果を「支那天龍山仏龕調査通信」(仏教学雑誌)で発表
1923T12小野玄妙雲岡石窟訪問・調査。「極東の三大芸術〉(1923)を刊行、その成果を収める。
中国では、この頃、米国人が山中商会を使い天龍山石窟石仏を海外流出させたと云われている
1925T14浜田耕作考古学美術史学者・浜田耕作、雲岡石窟訪問
オズワルド・シレンスウェーデンの美術史家シレン、大著「支那彫刻」刊行、中国彫刻研究の定本とされる
1927S2関野貞天龍山石窟の仏首45個を日本に招来
1934S9アラン・プリスト龍門賓陽洞前壁の皇帝・皇后礼仏図のレリーフが剥ぎ取りを北京の商人・岳彬と共謀、盗略。
1936S11水野清一
長廣敏雄
考古学美術史学者・水野・長広、響堂山、龍門石窟を調査。
調査研究成果を「龍門石窟の研究」(1941)にて刊行
白志謙中国人学者・白志謙「大同雲岡石窟寺記」を著す
1938S13水野清一
長廣敏雄
東方文化研究所(京都大学人文科学研究所)の事業としてS13〜19まで、7年間に亘り雲岡石窟にて現地滞在、調査研究に携わる。
その成果を「雲崗石窟」16巻32冊(1951〜56)の大著で刊行。雲岡石窟研究の不朽の名著となる。
1939S14小川晴暘古美術写真家・小川晴暘、3ヶ月余にわたり雲岡に滞在、石窟の撮影を行う
1941S16小川晴暘第2回の雲岡石仏撮影、モンゴル地方も訪問。2回に亘る雲岡石窟撮影写真と紀行解説の「大同雲岡の石窟」(1944)刊行
没後、1978年、小川晴暘撮影雲岡石窟写真の再編集版「雲岡の石窟」刊行
1956S31北川桃雄美術史家・北川桃雄、40日間中国各地見学行、1960,1961にも中国訪問
雲岡・龍門石窟を訪問、美術紀行文を残す。没後、紀行文集「大同の古寺」(1969)刊行
1958S33楊烈「山西大同雲岡石窟の修護規則]を発表石窟保存方法の具体的法案を示す
1959S34陳明達「龍門石窟修繕問題」を発表、修整工作について述べる
1982S57久野健
杉山二郎
龍門・鞏県石窟の調査訪問記と写真集「龍門・鞏県石窟」刊行

 

【雲岡石窟の発見】

 雲岡石窟を発見したのは、建築学者・伊東忠太である。

伊東忠太

 1902年(M35)、東京帝国大学助教授であった伊東忠太は、中国の建築古跡の調査旅行に赴く。
 そして、北清建築調査のため山西省大同を訪れたとき、偶然に大同郊外の雲岡石窟を発見、調査旅行報告として記した 「北清建築調査報告」(建築雑誌 189号〜1902〜)の中で、「大同の石佛寺」と題してその概要を発表した。
  学史的には、これをもって「雲岡石窟の発見」とされ、伊東忠太は「雲岡石窟の発見者」としてその名を留めることとなった。

 そ して、この発見の話は、ハノイにある極東学院(敦煌文書を持ち帰ったペリオは、ここの中国語教授をしていた)に伝わり、研究員であった仏人・シャヴァンヌ が雲岡現地に出張調査して「華北考古図譜」を刊行した。この本には、雲岡石窟に関する図版が多数掲載され、全容が世に広く知らしめられ、雲岡石窟寺の名は 急に世界の注目を集めるようになった。


シャヴァンヌ

 伊東忠太の発見報告は、あくまで「北清建築調査報告」の一部として、小文かつ写真図版も少ないかたちで発表 されたため、シャヴァンヌに雲岡石窟紹介者の名をなさしめるようになったようである。
  伊東忠太は、後に
  「こういう点では、欧米人はなかなか抜け目がないね。日本人はいつも損をする」
  と、述懐していたという。


 ここで、伊東忠太が雲岡石窟を発見するに至った、いきさつについて記してみたい。

 伊東忠太という人物は、著名でよくご存知のことと思うが、我国近代の建築学者の草分けといえる人物。
  法隆寺を研究して明治31年「法隆寺建築論」と題する論文を発表したが、これは日本建築史における最初の論文で、建築史学の創始者といわれる。
  また「建築学」という言葉を初めて用いたほか、自ら多くの建造物の建築設計にあたった。


築地本願寺

 主な建築作品には、大谷光瑞の私邸であった二楽荘、築地本願寺、明治神宮、平安神宮、大倉集古館などがあ る。
  1943年(S18)には、文化勲章を受章している。
  後代「建築巨人・伊東忠太」と称されたほどに、日本の建築学、建築史学の発展は、伊東忠太に始まり、伊東忠太なくしては為し得なかったといっても過言で はない人物である。

 伊東忠太が、雲岡石窟を発見する中国などの歴訪に出かけるに至るには、面白いエピソードが残されている。
  当時、東京帝国大学では、教授に昇進するにあたっては「一度、欧米に3ヵ年留学経験をすることが必須」という不文律があった。
  助教授であった伊東にもその順番が回ってきた。


伊東忠太の留学ルート

 「法隆寺建築論」を発表していた伊東は、大陸に渡って仏寺等を調査し、その源流や実相を明らかすることを念 願としており、欧米の代わりに中国、インド、トルコへの留学を切望した。
  ところが先例が無いとして受け入れられず、文部省まで巻き込んですったもんだした挙句、「帰路は欧米経由とする」という珍妙な条件の下に、やっとこの ルートでの留学が許可された。


伊東忠太(右)

 そして、弱冠31歳の伊東は、1902年(M35)中国大陸へ渡航、6月に大同を訪れたのであった。
  旅行記によると、北京から張家口まで6日かかり
  「驢馬を駆って岩石危うき山岳を越え、砂塵に咽ぶ平野を行く」
 という有様。そこからは馬の調達に成功、大同までは通算15日がかりでやっと到着ということであるから、大変難渋の旅であったことが偲ばれる。
  大同で、知事に会って「珍しい古建築は無いか?」と訪ねたところ、
  「遼金時代の遺構は城内にもある。古文献によれば、大同の西三十里のところ雲岡に北魏時代の遺構があるという。ただしまだ実地に見たことが無いし、支那 の文献には錯誤・誇張が多いので信用は出来ない」
  との答えであった。


露 座大仏前の伊東忠太(雲岡の発見)

 伊東は、とにもかくにもこの雲岡の地を訪れてみることにした。
 訪れてみて「腰を抜かすほど驚き且つ喜んだ」とは、伊東の弁である。
  紛れも無く、雲岡石窟群は北魏時代の巨大遺構であり、各窟に彫出された建築的細部装飾は法隆寺堂塔のそれと寸分も違わなかったのであった。
  伊東はこの発見物語について、次のように記している。
  「元来この石窟寺の発見は、全く偶然であった。この地に拓跋氏時代の遺跡が 現存していようとは夢想だにしていなかったのである。実は大同では、遼や金 の遺物を探るのが目的であったところが、案外な発見をして、実に喜んだ」(「支那旅行談」建築雑誌189号・1902)

 かくして、歴史の流れの中で忘れ去られてしまっていた「雲岡石窟」が、北魏時代の巨大な仏教美術遺構の文化 遺産として、現代人の前によみがえる事となるのであった。

 ただし、中国国内では雲岡石窟が、全くもって忘れ去られたのではなく、その存在は知られていたようである。
  清朝の学者、朱彝尊も「曝書亭集」の中で、
  「雲岡の寺、数十建つ。拓跋氏より今に存するは、特にその一のみ。石仏の大なるは、高さ七十余尺、小は径尺に至る。・・・・・・・」
  と記している。

 そういった意味で は、伊東忠太は「日本や欧米に雲岡石窟の存在とその文化史的意義を知らしめた最初の人」ということになるのだろう。

 

 


      

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