埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第七十四回)



  第十七話 中国三大石窟を巡る人々をたどる本
〈その2〉雲岡・龍門石窟編


 【17−1】


 雲岡・龍門石窟探訪

 「とうとう雲岡にやってきた」

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雲岡石窟・世界文化遺産碑

 「世界文化遺産 雲岡石窟」と刻まれた、石窟寺への入口の石碑の前に立ったとき、そんな思いが自然とこみ上げてきた。
 雲岡石窟の巨大石仏の写真を初めてみたのは、高校の歴史の教科書だ。
 以来、仏像彫刻に興味を持つほどに、飛鳥佛の源流として語られる、雲岡石窟の露座大仏や龍門石窟賓陽洞の三尊佛の写真を、仏像彫刻の本の中で幾度見たことであろうか?
 その露座大仏の実物の姿をまもなく眼にすることが出来るのだ。

 昨年(H18)秋、初めて雲岡・龍門石窟を訪れることが出来た。

 雲岡石窟は、大同市の郊外にある。大同は北京から西へ300キロ程のところ。
 前日、北京から、バスで5時間以上、ほぼ一日がかりで大同市にたどりついた。
 市内から約20キロ、大きな採炭工場を眺めながら30分ほどバスに乗ると、雲岡石窟に到着する。
 10月の大同の早朝は、少し肌寒い。
 眼の前の木々の緑の向こうに、岩肌を見せた小高い岩壁が左右に拡がり、その中心あたりに石窟寺の楼閣のような建物が見えてくる。

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雲岡石窟遠望


 この石窟は「北山南水」の地勢を利用して造られたという。俯瞰写真を見ると、敦煌莫高窟の眺望風景にそっくりだ。
 武州川に沿って南面する20〜30メートルほどの断崖に、東西1キロにわたって、およそ50あまりの大小石窟がならんでいる。

 「雲岡石窟のシンボル」ともいえる露座大仏は、石窟寺の入口から左手へしばらく歩くと、断崖の前が広場のように大きく広がるところに、堂々としたその威容をあらわす。
 眼前にそびえ立つような大仏を見上げると、「オオー・・・」と思わず声を発してしまう迫力。

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雲岡第20洞 露座大仏

 像高は、14メートルもあり、奈良の大仏(14.8m)とほぼ同じ。
 「デカイ!」
 写真では、何度も見てはいるものの、実物の前に立って感じる迫力はまた格別。
やはり本物は凄い。
 この像が造られたのは、西暦460年代というが、よくぞこれだけの巨大石仏を彫ったものだと、驚嘆してしまう。
 ただ、その姿からは「仏陀の化身」といった感じや、「悟りとか慈悲」の表現という印象は受けない。もっと生々しい威厳や威圧の表現というのが率直な印象であった。

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雲岡第20洞 露座大仏
 「このみ仏に声を出させたならば、武州川の対岸はおろか、北魏全土ににも届くような立派なバリトンがひびいただろう。・・・・・・・なべてこれらの特色は雲岡初期仏像に共通するところ、・・・・・・・それは拓跋族の英雄的な理想形でもあっただろうか。」(雲岡と龍門)
 長広敏雄はこの像について、このように綴っている。

 「とくに露大仏はたしかに、仏陀というよりも、北魏の帝王である。・・・・・・
 巨大な仏陀の姿をかりて帝王の威厳と専制力を人民に誇示したのだ。そういう感じを強くする巨像群である。」(大同の古寺)
 これは北川桃雄の露座大仏の感想である。

 「うーん、そのとおりだ。素晴らしい彫像だけれども、仏像を拝したというよりも、パワフルな造型の巨像を見たという感じのほうが近いかな?」

 眼前の露座大仏の巨像を仰ぎ見ながら、私もそんな思いを心に抱いた。

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雲岡第5洞 仏坐像

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雲岡石窟 洞内の仏像

  この露座大仏を含む、「曇曜五窟」呼ばれている初期窟の仏像達からは、そのような印象を受けるのだが、一方「仏さまらしい優美さ」をそなえた石仏も数多く 在る。北魏中後期といわれる他の窟を巡っていると、切れ長の眼に優しいアルカイック・スマイルとたたえた繊細優美な表現の像に出会うことが出来る。
 第五窟北壁の仏坐像などは、その代表例ともいっても良く、日本人の感覚にフィットして、「美しい仏像だなあ」と素直に感じてしまう。


 いずれにせよ、あまりに夥しい仏像の圧倒的な数量に、石仏はもう沢山という気分になってしまうのが正直なところ。5万1千体の彫像があるという。
 すべての窟を丁寧に鑑賞するには、どのくらいの時間がかかることやら。
 東西1キロといわれる、石窟を2時間ほどかけてひととおり回るだけで、腰が痛くなるやら、脚が棒になるやらで、中年にはきつすぎ、そこそこに観たつもりで流すのがやっとのことであった。

 「スケールがはるかに違う!」「中国4千年の歴史という言葉は、伊達じゃない」
 正直そのように実感した凄い規模の石窟、「雲岡石窟」であった。

 それにしても、意外に日本人が少なく、欧米人の観光客のほうがよく眼についたのは意外であった。
現地大同のガイドさんに尋ねたら「日本人は大同まで観光に来る人は少ないよ」ということらしく、雲岡の邦人観光客吸引力もまだまだなのかと思いつつ、石窟を後にした。


 雲岡石窟の次は、洛陽郊外にある鞏県、龍門石窟を目指す。
 洛陽は、雲岡石窟のある大同から南へ約650キロ。
 大同から洛陽へは、太原までバスで4時間、そこから夜行列車で11時間、やっとのことで洛陽にたどり着く。

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龍門石窟から伊水を望む

 鞏県石窟を鑑賞した翌日、龍門石窟を訪れた。

 龍門石窟は古都洛陽から西南へ13km。まさに河端の急斜面にある。
 伊水という河を挟んで東に香山、西に龍門山が対峙していて、あたかも天然の門のように見えるため「龍門」「伊闕(いけつ)」と呼ばれている。両山のうち主に西山(龍門山)南北2kmにわたり、北魏の洛陽遷都以来、唐中期まで400年にわたり多くの石窟が造営された。

 

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龍門石窟西山遠望

 雲岡石窟より、長きに亘って造営されてきただけに、その規模は格段に大きく、石窟と佛龕は西岸、東岸、併せて2137。その内訳は石窟が1352、仏龕が785、石彫像は10万余体を数えるという。
 雲岡石窟で、凄い規模と夥しい仏像の圧倒的な数量に驚かされてきた私にとっては、その数層倍の石窟・佛龕、石仏の数量に、またまた、
 「中国というところは、スケールがはるかに違う!」
と、つぶやかざるを得なかった。

 龍門石窟で、私が見所と目指してきたのは、古陽洞、賓陽洞、奉先寺洞。

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古陽洞釈迦如来像

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龍門二十品牛造像記
 古陽洞は、龍門の石窟の中で最も古く開かれた窟。
 5世紀最末期の造営で、薄暗い洞奥には釈迦如来像の姿が、ぼんやりと見える。
 洞内の高さは10メートルぐらいで、雲岡の石窟と比べると随分スモールサイズだ。
 ここで観たかったのは、なんといっても龍門二十品。
 龍門二十品とは、龍門石窟内に刻まれた3千6百余の石刻造像記のうち、書法の優れた北魏書体の楷書銘文が、清朝中期以降高く評価されるようになり、それを龍門二十品などと称して、賞讃するようになったもの。
 その拓本は珍重され、多くの拓本が採られた。
 今でも古書肆・古美術商の目録などでよく見かけるし、龍門二十品の拓影を載せた本も数多く出版されている。
 その龍門二十品のうち、十九品がこの古陽洞の造像題記なのである。
 意気込んで、眼を凝らしたが、造像題記の位置が結構高く遠く、また洞内が暗くてくすんだようでよく見えない。誠に残念。
 造像記が刻されたところには、真っ黒な墨色が残り、これまで幾度も採拓されてきたことを物語っている。


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賓陽中洞 釈迦如来像・諸尊

 次は、賓陽洞。
 6世紀のはじめに造像された賓陽洞の釈迦如来座像は、法隆寺釈迦如来像の源流といわれ、仏像関係の本にはよく掲載されている、おなじみの仏像。
 日本史の教科書の法隆寺のところに、この仏像の写真が掲載されていたことので、とりわけ私の記憶に残っている仏像だ。
 古陽洞と同じく10メートルぐらいの高さの洞。
 期待に胸を膨らませて、洞内を覗き込む。釈迦如来座像は洞奥に在り、遠く暗いので単眼鏡で眼を凝らす。
 明るく微笑んだような、大陸風の表情が眼に入ってくる。
  「やはり、法隆寺の釈迦如来の感覚とだいぶ違う。確かに、太い鼻翼、杏仁形の眼、アルカイック・スマイルを浮かべた顔貌とか、二等辺三角形の左右相称のシ ルエットと大きな裳懸座といったような形式は似ている。けれども顔の表情や雰囲気は、これが法隆寺釈迦の源流といわれると、どうもしっくりこない。ムード が違う。」
 実物を前にして、これまで写真で感じていた印象をなお強くした。

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賓陽中洞 釈迦如来像

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鞏県石窟仏像

  今日の研究では、「飛鳥彫刻の源流は、賓陽洞の釈迦如来座像にあり」とは言われなくなってきた。その源流は、雲岡・曇曜五窟の内の最後期である第16窟の 如来立像から始まり、龍門石窟最古の古陽洞の中尊に伝わる様式が南朝に伝わり、南朝と交流の深かった百済を通じて日本に伝わったと考えられている。
 もう一度、法隆寺の釈迦如来像に似ているかなという気持ちで眺めてみたが、
 「昨日見た、鞏県石窟の仏像達の表情や雰囲気のほうが、よほど法隆寺釈迦のそれに近い。鞏県石窟のほうを飛鳥仏の源流といわれたほうが、しっくりくる。」
というのが、率直な感想。

 

 

 

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皇帝礼仏図

 ところで、賓陽洞の前壁には、豪華な皇帝・皇后礼仏図の大レリーフが刻されていた。
今は、破壊の跡だけが、むなしく残されている。
 この図には、北魏・孝文帝と文明皇太后を中心とし前後を人が取り囲む礼拝の行列の様子が描かれている。精緻で美しく彫刻は精密で、芸術価値も非常に高いとされる。
 しかし、このレリーフは新中国成立以前に盗まれて、米国に運ばれた。
 今は、皇帝礼佛図はニューヨークの市立美術館に。皇后礼佛図はカンサスのネルソン美術館に所蔵されている。

 龍門石窟を巡っていると、夥しい石仏が並んでいるが、2メートルぐらいまでの仏像のほとんどが、首がない。

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龍門石窟・首のない石仏

 とりわけ出来がよいものは、全て首がないといって良い程で、もし仏顔が残っていたなら、どんなに美しく素晴らしいだろうと思うと残念でならない。
 これらの仏像は、戦前、観賞用に手頃なものは全て盗鑿され、古美術商の手などを経て、欧米や日本のコレクターに買い取られてしまった。
 日本の博物館などで、北魏や唐代の石仏の首が展示してあるのをよく見かけ、そのときはさほど考えたことはなかったが、こうして石窟を巡ってみると、偉大な文化遺産をどうしてこんなにまで惨めな姿にしてしまったのかと、その痛々しい有様に、本当に心が痛む。


 そして、目当ての最後は奉先寺洞。
 龍門石窟のシンボル、華ともいえるのが、奉先寺洞の大盧舎那仏だ。
 この大石仏は、唐代の制作で、像高は台座から16m程(像身は13m)。雲岡石窟の露座大仏、奈良東大寺の大仏と肩を並べる巨像である。
 奉先寺洞の真下から続く急な石段を登っていくと、まず大盧舎那仏の秀麗なお顔が眼前に現れてくる。猶も登ると、次第しだいに、胸から全身へとその姿を現していく。
 まさにドラマチックな演出、大盧舎那仏を最高の感動で目の当たりに拝することとなる。
 龍門石窟の山腹に、堂々たる威容を誇る大盧舎那石仏と神王、力士などの眷属の姿は、周囲を圧して壮観である。

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龍門奉先寺洞全景  龍門奉先寺洞諸像

 盧舎那仏の顔は比類なく端正で、秀でた長い眉は見事な半月形で崇高な美しさを感じる。肩や胸あたりの肉付けは豊満で通肩の衣文は薄い着衣を思わせるが、それでいて若々しいみずみずしさを十二分に発散している。
 唐代彫刻を代表する傑作中の傑作といわれるが、まさにそのとおりだ。
 盧舎那仏の前に佇み、そのお顔、姿を見上げるとき、完璧ともいえる造型と美しさに、五感に感動が走るといっても過言ではない。

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龍門奉先寺・盧舎那仏

 台座に刻まれた、「大盧舎那佛造像記」によれば、この造営は唐の高宗の勅願によるものであった。高宗の皇后である有名な則天武后が、自らのお化粧料二万貫を寄付して、この造営をたすけ、3年9ヶ月かかって上元2年(675)に完成したという。
 そのお顔は、則天武后の顔に似せたとも云われているが、この盧舎那仏のお顔と姿は、そんな俗世の生臭い匂いを感じさせない。初唐のみずみずしい理想美と仏陀らしい崇高さを漂わせて余りある。
 雲崗石窟の露座大仏を見たとき、
 「仏陀の姿をかりて帝王の威厳と専制力を誇示した、パワフルな巨像」
という感を強くしたが、
 この大盧舎那仏を眼前にすると
 「仏陀らしい仏陀の姿を拝する」
 という思いが心よりこみ上げてきた。

  龍門石窟の全ての洞を一時に見るというのは所詮無理なことだが、有名で主要な仏洞を駆け足でみるだけで、急な石段を登ったり降りたり。2〜3時間の鑑賞時 間の中では、観るというより、あえぎあえぎの道中でやっと何とか回ったというところであった。結局何を鑑賞したのやらというのが、正直な本音。
 しかしながら、大盧舎那仏という素晴らしい彫像を、眼前にしっかりと拝し得たことで、わざわざ龍門までやってきた甲斐があったと、心から満足した、龍門石窟探訪でありました。

 この雲岡・龍門石窟探訪旅行については、高見徹氏が「雲岡・鞏県・龍門石窟道中記」を本サイトの旅行記のコーナーに掲載されている。是非ご覧いただきたい。

 
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龍門石窟風景

 

            


      

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