埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第六十九回)


  第十六話 中国三大石窟を巡る人々をたどる本
〈その1〉敦煌石窟編

 【16−3】
〈ペリオ探検隊〉

 1908年、スタインが千仏洞の蔵経洞から敦煌文書を持ち去ってから一年後、ペリオがこの地を訪れる。
  フランス人ペリオは、若くしてサイゴンのインドシナ考古学ミッションの給費生となり、ベトナム中国を足繁く往復、文献収集にあたっていた。フランス極東学 院の中国語教授を勤めるほど、流暢な中国語を話すことができ、弱冠27歳でフランス政府派遣の中央アジア探検隊長に選ばれた。
 1907年12月、探検中のペリオは、ウルムチで流刑になっていた光緒帝のいとこの載瀾から、餞別として法華経一巻を贈られる。
 これを見たペリオは、大いに驚いた。この法華経は明らかに唐代の写経であったのだ。ウルムチに滞在中に、中国人から敦煌千仏洞で夥しい経巻が発見されたということを耳にしていたが、この法華経古写本こそ、敦煌発見の経巻に違いない。
 単なる噂かと思っていた話の真実性を確信したペリオは、他の調査予定を省いて一気に敦煌に直行する。
 1908年2月、莫高窟に辿り着いたペリオは、千仏洞内外の碑文、銘記の調査にのりだしたが、敦煌文書の探索の手も緩めなかった。

  一方、王道士は、スタインからもらった馬蹄銀で、それまで同様千仏洞の修理や掃除を続けていたが、実のところは「そのまま密閉して保存しておくよう」との 県庁の命令を破り、経巻を売り渡したことに、内心びくびくしていた。しかし4ヶ月たっても何のお咎めもなく、人々のうわさにもなっていない。むしろ千仏洞 の寺観をどしどし修理する王道士の手腕を、讃えるほうに向かっていた。

 そんなところへ、流暢な中国語を駆使できる外国人がやってきたのだ。

 それなりの駆け引きがあったようだが、オブルーチェフには蔵経洞の場所も教えず、スタインには中にも入れようとしなかった王道士も、この中国通のペリオには警戒を解き、とうとう蔵経洞の鍵を開け洞内での古文書の調査を許した。
 王道士は今回もまた、すべての古文書類を譲り渡すことは、峻拒した。
 莫高窟到着後9日目の3月3日、ペリオは蔵経洞に足を踏み入れ、20日あまりをかけ洞内の古文書群すべてを通覧し、自らの手で約5000点の古文書を選定し、銀500両で譲り受けた。
 選択されたものは、スタインのやや大雑把な選び方と違い、逸品ぞろいのものとなった。


莫高窟を調査するペリオ

    
蔵経洞で敦煌文書を選定するペリオ      羅振玉     

 その後、北京へ入ったペリオは、入手した珠玉の敦煌文書を秘密裏に荷造りして本国パリに送り、いったんハノイに帰着する。
  そして翌年1909年、いよいよフランス本国へ向かうことになるペリオは、かねてから選んでおいた優品を携え、もう一度中国へ入り、南京・天津・北京など で、そのコレクションを公開する。これを見た羅振玉などの中国人学者の、驚きと反響の大きさは、ひとかたならぬものであった。いまだかつて現れたことのな い六朝から唐代にかけての写経や経典が、数十点もずらりと並べられたのである。
 この出来事は、中国国内だけでなく世界に知れ渡るところとなり、若き東洋学者ペリオの名は、たちまち世界的なものとなったのである。
 ペリオの将来品は、古文書類はフランス国立図書館に、絵画類はギメ美術館にそれぞれ所蔵されている。

 

ペリオ収集敦煌仏画


〈中国政府の対応〉

 あわてたのは中国人学者たちであった。
 これまで遺されていないと考えていた珠玉の珍品が、むなしくヨーロッパへ持ち出されるのを目の前にして切歯扼腕した。何とか一部でも買い戻せぬものかとペリオに掛け合ってみたものの「まだまだ敦煌には、沢山古文書が残っていますよ」と断られてしまった。
 腰の重かった政府も、有数の学者たちの進言を受け、押っ取り刀で腰を上げ敦煌文書の残巻を北京に運ぶことを決した。
 政府の学部(文部省)は、敦煌県庁に電報を打ち、
「千仏洞の書籍を精査した上で、学部に引き渡されたし。造像古碑は外人をして購買せしめざるよう注意ありたし」
との命令を発した。
 しかし現実に、現地の役人が動き出したのは、この電報が発せられた1年余り後の1910年10月のことであった。
 この動きを察知した王道士は、残された古文書の4分の1ほどを、別の場所に移し隠匿してしまったらしい。
 また、敦煌から北京に運ばれる途中で、地元の役人たちが折々に古文書を抜き取ったし、敦煌文書の保全を進言した張本人の李盛鐸や劉廷琛といった高官達が、なんと運送途中や北京到着後にめぼしいものを大量に抜き取るという始末であった。
 結局最終的に、京師図書館におさめられたのは、6000巻あまりであった。2000巻あまりが中国国内で散逸したのではないかといわれている。


〈大谷探検隊〉

 大谷探検隊は、浄土真宗本願寺派の22代宗主となった大谷光瑞が、ロンドンに留学中ヘディンやスタインの探検成果に刺激され組織したもので、仏教東漸の遺跡を調査することが目的であった。
  探検は1902年から3次に亘って行われたが、探検隊が敦煌を訪れたのは第3次のときである。探検隊には、20歳そこそこの若年、橘瑞超が派遣されていた が、途中で連絡不能となり消息を絶ってしまう。案じた大谷光瑞は、吉川小次郎を探索に派遣するとともに、敦煌文書を入手するように命じた。1911年10 月、吉川は敦煌に到着し、王道士と出会う。

 
大谷光瑞       吉川小次郎

 吉川が敦煌に到着したときは、清朝政府が敦煌文書を北京に運び去った後で、もう古文書は残されていないはずであったが、したたかな王道士は、その前に隠匿しておいた古文書を買いに来る外国人を待っていたのだ。
 吉川は消息の判明した橘との合流を待つ間、王道士の家に泊まったりして親交を深めながら、少しずつ経巻などを買い貯める。王道士も偽物を敦煌文書に紛れ込ませて売ろうとしたり、虚々実々の駆け引きの末、約1000巻の古文書や塑像を買い取り、日本にもたらした。
  大谷探検隊は、敦煌文書のほかにもホータン、クチャ、トルファン、楼蘭などの遺跡から、貴重な遺物を持ち帰った。これらの将来品は、大谷光瑞の失脚などに より、かなり散逸したといわれているが、文物類は旅順、ソウル、東京の各博物館に、敦煌写本などの古文書類は龍谷大学に所蔵されている。


〈オルデンブルグ探検隊〉

 世界の列強が続々と中央アジアを探検、貴重な遺品を将来したり敦煌文書を入手するなか、ロシアもこれを黙ってみているはずもなく、探検隊を派遣するなどいろいろな方法で敦煌の遺品を手に入れたようだ。
  現在、ロシアの国立東洋研究所レニングラード支所には、1万点にも及ぶ敦煌文書が秘蔵されているという。エルミタージュ美術館にも、かなりの量の敦煌出土 品が所蔵されている。しかしながら、これらの遺品が、いったい何時どのようにして入手されたかについて、はっきりしたことがほとんど判っていないというの が、実情のようだ。
 そんななかで、ひとつ判っているのは、ロシアのオルデンブルグ探検隊が、1914年、敦煌を訪れ、この時に大量の敦煌文書や壁画などを持ち去ったと思われることであろう。
 オルデンブルグは、1909〜1915年に2回に亘って中央アジアの調査を行っている。
 彼は革命後も東洋研究所所長の要職にあり、多忙であったためか探検報告書などが刊行されていないことが惜しまれ、そのことが現在所蔵の文物の入手経路が判然としない一因にもなっている。


〈最後の略奪者・ウォーナー〉

 敦煌文書を北京へ移送した後も、次々訪れる外国人が残存文書を持ち去っているという状況が明らかになるにつれ、石窟再調査の機運が高まった。
 1919年、甘粛省政府教育庁は敦煌知県に対し、
「すべからく石窟寺内を精査して、遺書残巻を悉く検閲し、当地へ送って省図書館に保管せよ」
と、厳命した。
 相当量の経巻、文書がいまだ残されていたようであるが、この点検精査により王道士の隠匿物は一切なくなり、これらの敦煌文書もきっちりと格納され、散逸の危険は遂になくなった。

 ハーヴァート大学付属フォッグ美術館の東方部主任であったウォーナーが敦煌にやってきたのは1924年1月のことであった。
 もはや「敦煌文書」を持ち去ることは不可能であったが、なんと、ウォーナーは、莫高窟の美しい壁画を剥ぎ取って持ち帰るとともに、唐代の優れた塑像数体をも持ち去ったのだ。
 ウォーナーが剥ぎ取った壁画は26面、3200平方センチにも及び、今も剥ぎ取られた跡があちこちに痛ましく残っている。
  ウォーナー自身は、壁画を剥ぎ取ったことについて、ロシア革命から逃れたコサック兵が敦煌莫高窟に強制収用されたとき、塑像の金箔をはがしたり、焚き火で 壁面を煤けさせたりした様子を見て、悩んだ末に今後の破壊行為から護るために、壁画を剥がして持ち帰ることを決意したのだと、語っている。
 この言い訳には、かなりの無理があるようで、ウォーナーの言い分と彼が莫高窟でしたこととの間には、大きな隔たりが横たわっているといわざるを得ない。
 中国サイドから見れば、スタインに始まった「敦煌略奪の歴史」は、ここに極まれりと言わざるを得ないであろう。
 なお、ウォーナーはこれに味をしめ、1925年には壁画剥離の専門家を同行して第2回の敦煌調査を試みたが、途中で現地の中国人達に阻止され、一歩も敦煌に踏み込めなかったということである。

 

  ラングトン・ウォーナー

 

剥ぎ取られた敦煌壁画

 ラングトン・ウォーナーの名は、わが国においては「第二次大戦中、京都や奈良の歴史的文化財を保護するため、連合軍の爆撃対象から除外するよう働きかけた人物」とされている。
 いわゆる「ウォーナー神話」として語られ、「日本美術の恩人」とも呼ばれている。
 しかしながら、中国においては、ウォーナーの名は、「悪辣なる文化の破壊、略奪者」として、大いなる批判の対象になっている。
 一人の学者の文化史的評価が、かくも両極に分かれることになるとは、なんとも皮肉な話である。


 かくして、数多くの敦煌文書が中国国外に流出していった。
 現在、大まかに見て敦煌文書は、ロンドンに約1万点、パリに5〜6千点、北京に約1万点、レニングラードに約1万点、日本に約1千点と、総計4万点近く残されている。
 その内80%は漢文文書、これについで多いのがチベット語文書で、ほかにも数多くの言語の文書がある。大部分が仏教文献で、北魏から五代までの各種の経典、写本である。

 これらの古文書の出現によって、忘れられていた多くの宗教、言語が息を吹き返した。
 また、その学術的研究により、巻物や冊子本など、さまざまな古代の書籍の形、古文書の実態も数多くの実物の出現で明確になった。紀年の明らかな世界最古の印刷本も発見された。中国の書籍の伝承や記録の具体性が、これらの文書の発見によって再検討されるようになった。
 これらの敦煌文書の研究者たちは、当初敦煌派などと呼ばれていた。今日では学問的体系も整い、これらの古写本の研究は、ひとつの学問分野として「敦煌学」という名で呼ばれるようになったのである。


 


       

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