埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第三十回)

  第八話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本

《その3》昭和の法隆寺の出来事をたどって(2/6)

【8-2】

【五重塔心柱下空洞と秘宝の発見】

 昭和24年、終戦の直前に解体された「五重塔の修理再建工事」も、いよいよ立柱式を挙げるところまで進んでいた。

 ところが、5月の国宝保存協議会の場で、村田治郎が大問題を提起した。

 「五重塔の心柱の下の空洞の中にある舎利容器を、この際、学術調査すべきである」と主張したのだ。

 このまま立柱(式)が行われてしまうと、大正15年にその存在が確認された舎利容器が、学術的調査をされないまま、永遠に心礎下に埋め込まれてしまうからであった。 法隆寺側、佐伯定胤管主は、「舎利こそ信仰の根本対象、信仰の尊厳が脅かされてはならない。秘宝の公開調査などもってのほか」と峻拒。
 その後この問題は、美術史学会が寺と文部省に善処要望する声明書を出したり、新聞各紙に報道されたり、国会で質問されるなど、大きな社会問題に発展していく。 学者達が強く公開要望したのは、創建当初納入と考えられる舎利容器と鏡が、再建非再建論争の続く五重塔創建年代解明の重要な手がかりになると、考えられていたからでもあった。

 そもそも、心柱下に心柱が朽ちた空洞があることが発見されたのは、大正15年1月のことであった。
 発見したのは奈良県古社寺修理技師・岸熊吉。
 これを知った大阪府技師の池田谷久吉が、数日後(岸の留守の間に?)空洞に入り、その状況を新聞紙上に発表した。

 これに対し、法隆寺側は、4月、管主・佐伯定胤が、関野貞、伊東忠太などに相談、世に公表することなく秘密裏に調査することとし、金銅製舎利容器と海獣葡萄鏡を取り出した。
 舎利容器の中には、金・銀・瑠璃の三重の容器にルリ玉・真珠・舎利が納められてた。
 このことは参画した人々の中で、絶対秘密にすることが申し合わされていたのだが、その後、世に知られるようになり、「公然の秘密」と化していたものであった。

 池田谷久吉が、空洞に入ったときの話は、この本で知ることが出来る

 「趣味の古建築」 池田谷久吉著 (S3) 福音社書店刊

 「法隆寺五重塔と空洞の調査研究」「同続編」という文が所収され、その中の【現実と夢の境〜日記帳より】という項に、興奮と感激まじりに、入洞の有様が生々しく語られている。

 

 話は、昭和24年に戻る。

 学者の公開調査要望を、世論マスコミは後押しし、公開を頑なに拒む法隆寺、とりわけ佐伯定胤に厳しい批判が相次いだが、管主の信念は微動だもしないという状況が続いた。
 文部省は、学界と寺側に対立の事態の解決を図るため、文化財保存課長・深見吉之助を法隆寺に派遣、事態の収拾を図るべく、何度かの協議を重ねた。

 その結果、

「現宝器の埋蔵状況では浸水等により損ずる懸念があるため、内部清掃の上厳重密封し保存する。そのため、一時宝器を寺院内に奉遷安置し、その機会に信徒代表と一部学者に奉拝を許す。調査報告書を文部省に提出する。」

 ことで合意を見た。

 秘宝の移遷は、10月3日に行われ、岸熊吉・梅原末治・石田茂作・藤田亮策等の学者が奉拝した。(10/17〜20)
 11月28日には、新たに完成したガラス製外容器に宝器が納められ、元の心礎穴に奉遷された。  この後空洞はコンクリートで固められ、その上に心柱が立てられた。
 舎利容器は、今も心柱の下に在り、誰の眼に触れることはない。

 

 

 秘宝調査の内容は、昭和29年に「法隆寺五重塔秘宝の調査」という報告書が出版されたが(500部限定)、秘宝の尊厳を守るためという理由で複写転載が禁じられている。

 この五重塔秘宝の調査のいきさつなどの物語については、次の本に詳しく記されている。

 「法隆寺日記をひらく〜廃仏毀釈から100年〜」 高田良信著 (S61) 日本放送協会刊

 「信仰と秘宝の間で」という章が設けられ、【五重塔秘宝の発見・秘宝調査の是否、紛糾す】という項立てで、要領よく纏められている。

 「まぼろばの僧 法隆寺佐伯定胤」 太田信隆著 (S51) 春秋社刊

 この本は、法隆寺の近現代史に佐伯定胤の生涯を重ね合わせた物語。

 【秘宝舎利容器・世論の前に・秘宝の再発掘】の項立てで、発見から調査へのいきさつ、佐伯定胤の心境や信条などが丁寧に描かれている。

【昭和の大修理から生まれた本】

 昭和の大修理には、数多くの著名な建築史学者が参画した。

 ここでは、昭和大修理を題材にした本、その研究成果についての本を紹介したい。

 昭和大修理に最もかかわりの深い学者は、浅野清。
 浅野は、名古屋高等工業建築科を出て、名古屋市立工芸学校で教師をしていたが、昭和9年、「昭和の大修理」のため開設される国宝保存工事事務所に、弱冠29歳で抜擢される。
 以来、金堂火災発生問題もあり、昭和24年にここを去るまで、15年間ドップリと法隆寺昭和大修理に没入、法隆寺建築の第一人者となった。

 浅野の著した法隆寺建築に関する本には、他に次のようなものがある。

 「古寺解体」 浅野清著 (S44) 学生社刊

 浅野の古寺解体修理に捧げた人生を振り返り、解体修理に取り組んだ建築物についての思出や知見について平易に語った本。法隆寺昭和大修理についての記述が殆んどを占め、昭和大修理によって得られた知見、新事実をやさしく知ることが出来る。

 「昭和修理を通して見た 法隆寺建築の研究」 浅野清著 (S58) 中央公論美術出版社刊

 本書は、S27便利堂から刊行された「法隆寺建築綜観 昭和修理を通じて見た法隆寺建築の研究」の全面改訂増補版。法隆寺昭和修理の研究成果としては最も詳しい研究書。

 「法隆寺」 浅野清著 (S23) アテネ文庫・弘文堂刊

 「法隆寺の建築」 浅野清著 (S59) 芸術選書・中央公論美術出版社刊

 

 その他の、昭和大修理関連本は次のとおり。

 「法隆寺重脩小志」 服部勝吉著 (S21) 彰国社刊

 服部は、初代の国宝保存工事事務所・技師長。その職にあった1年間の思い出や知見をまとめた書。

 「法隆寺建築」 太田博太郎著 (S18) 龍吟社刊

 太田は、「まえがき」にこのように記している。

「かつて法隆寺工事事務所にあって、多くの人々を案内して以来、かかる書物の必要を痛感しているからに他ならない。そして古建築の研究を志し、法隆寺の保存工事に携わるものの責務として、わたしはあえて筆をとったのである。」

 「建築技法から見た 法隆寺金堂の諸問題」 竹島卓一著 (S50) 中央公論美術出版社刊

 竹島は、国宝保存工事事務所・所長職にあった仁。その研究成果をまとめた書。

 


      

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