埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二十五回)

  第七話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本

《その2》再建非再建論争をめぐって(2/5)

【7−2】

 1.再建非再建論争の回顧とその周辺

 

 「日本書紀」天智9年(670)の条に、こう書かれている。

 夏四月癸卯壬申、夜半之後、災法隆寺、一屋無餘、大雨雷震、

 

 現在の法隆寺(西院伽藍)は、書紀の記すとおり、創建法隆寺が焼失した後、再建されたものか?それとも、この記事に関わらず、創建当初のものか?
 論争が、「書紀の記事をそのまま認めるか否か」から始まったものであることは、今更云うまでもなく周知の通り。そして、この問題が論じ始められたのは、明治20年代に入った頃からであった。
 黒川真頼、小杉榲邨ら歴史家は天智9年の焼失を認め、それ以降再建されたものと説いた。
 建築史家として、日本建築史研究を開始した伊東忠太や塚本靖は、法隆寺の建築年代への言及はしなかったが、その様式が「推古式」であることを強調した。

 

 このあたりから、法隆寺建築年代が論じられ、その後の論争に発展することとなる。
 そのいきさつに入っていく前に、再建非再建論争の歴史を、主なる研究者・学説について、年表風にまとめてみたい。
 なお、この表に名前を挙げた人々の本については、後で採り上げる【論争に登場した人々】のところで、まとめて紹介することとしたい。

時期
研究者
再建/
非再建
焼失年
書紀記事の考え方等
発表論文等
M23
黒川真頼
再建
天智9(670)

書紀記事のとおり焼失

法隆寺建築説
(国華)

M26
伊東忠太

推古式建築と位置付け

法隆寺建築論
(建築雑誌)

M27
塚本靖

推古式建築と位置付け

法隆寺建築装飾論
(建築雑誌)

M29
小杉榲邨
再建
天智9(670)

書紀記事のとおり焼失

法隆寺金堂壁画の説に就きて(国華)

M33
北畠治房
非再建
二寺説

若草伽藍(斑鳩寺)焼失
創建法隆寺・現西院伽藍

法隆寺・斑鳩寺二寺説
(建築史S15)

M38
関野貞
非再建

様式論・尺度論

法隆寺金堂塔婆及中門非再建論(史学雑誌)

M38
平子鐸嶺
非再建
推古18(小災)

干支一運説

法隆寺草創考
(国華)

M38
喜田貞吉
再建
天智9(670)

書紀記事のとおり焼失

関野平子二氏の法隆寺非再建論を駁す(史学雑誌)など

T6
小野玄妙
再建
皇極2(643)

蘇我氏斑鳩宮焼払時に焼失

法隆寺堂塔造建年代私考(仏書研究)

S2
関野貞
非再建
二寺説

若草伽藍(太子の為の寺)焼失、創建法隆寺現西院

アルス建築大講座「日本建築史」

S2
秋山義一
非再建
二寺説

若草伽藍(法隆学問寺)焼失、斑鳩寺・現西院

斑鳩寺法隆学問寺別寺説に就いての考察(史学雑誌)

S6
会津八一
再建
推古15(607)

干支一運説

法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究(S8)

S14
足立康
非再建
二寺説

若草伽藍(法隆寺)焼失太子の為の寺・現西院

日本建築史連続講座(奈良博)

S14
石田茂作
再建

若草伽藍発掘調査二寺並存可能性を否定

法隆寺若草伽藍の発掘(日本上代文化の研究S16)

 【大論争の始まり】

 明治38年2月。
 この年が、法隆寺論争の花々しい口火が切られた、記念すべき年となった。

  

喜田貞吉         平子鐸嶺         関野貞

 非再建論の両雄となる、関野貞、平子鐸嶺が同時期に、黒川、小杉の再建論に反駁する「非再建論」を二研究誌に発表した。
 同じ2月に、小杉は「再建説」を述べる講演を日本美術院で行っており、この機を狙って形勢を一気に逆転すべく、関野・平子が互いに連携し、「非再建論」を発表したのではないかといわれている。
 狙いは見事にあたり、翌3月の「史学雑誌」では、編集委員が二人の非再建論を高く評価し「本邦美術史界の一大問題を解決したる」と非再建に軍配を挙げるに至った。
 この編集委員は、若き日の濱田青陵であったという。

 再建論の大御所、小杉榲邨にとっては、はなはだしく面目を傷つけられた形になった。
 喜田貞吉は、その頃、小杉宅を訪問する。
 喜田によれば、小杉は「こんなばかげたことがあるか、・・・・しかし今さら老人が、こんなものを相手にして議論を闘わすでもあるまい」と気の毒なほど沈んでいたという。
 小杉は、喜田にとっては、郷里徳島の先輩にして恩師、その温厚なる人格に私淑していた。
 喜田は、勃然として奮い立ち「言葉尻をつかまえてでも、少なくとも、水掛け論のもとの状態にまで引き戻して、小杉先生のお顔を立ててあげたいものだ。」と、一夜にして「関野・平子二氏の法隆寺非再建論を駁す」を書き上げた。
 これが、喜田貞吉が、「再建論」の雄・大立者となっていく始まり、きっかけであった。

 このとき、喜田は、法隆寺には、一度だけ夕方ちょっと足を踏み入れたことがある(M31)という程度。にもかかわらず、その後1年間に、法隆寺を訪れることなく、15本前後の法隆寺再建に関する論文を、立て続けに発表している。
 喜田は当時35歳、大胆というか、文献史学者だから出来たと云うべきか。それにしても、物凄いエネルギーである。

 さて、再建、非再建論の内容・論拠についてだが、よく知られていることでもあり、そのいきさつを語るための、最低限のものとしたい。

 平子の非再建論は
 「干支一運説」というもので、書紀の天智9年(670)火災の記事は、「庚午年」を干支一運〈60年〉誤って記載したもので、正しくは推古18年(610)のこと、しかも小災であった、というもの。

 関野の非再建論は、
 法隆寺建築は、我が国古代建築様式から見て、飛鳥様式といえる。使用尺度は高麗尺で、唐尺では完数が得られない。唐尺が使われたのは大化の改新以降のこと。飛鳥期の美術品が伝世している。などから創建当初の建築であるというもの。

 これに対して喜田は、
 法隆寺の火災は、書紀編纂の50年前のことで、平城京から2里しか離れぬ大寺の火災の年を60年も間違えるはずはない。使用尺は再建の場合、元の尺度を用いることが十分考えられる。
 として再建論を主張した。

 この論争、明治38年中は、双方数多くの論文を発表、活発な論争が展開された。非再建尺度論の論拠が、三浦周行により否定されるなどがあったが、いずれにせよ両者五分五分、論点が噛みあわないといったところで、翌年になると急に熱がさめたように、活気を失ってしまう。

 それにしても、法隆寺が再建か非再建かに、何故これまでこだわり、論争に発展していったのだろうか?
 所詮、長い歴史のなかでの100年未満の時差。それも寺一つ焼けたかどうかという話。
 さすが、天下の法隆寺といったところだが、次のようなことが、大きな関心を呼んだ事由であろう。

◆法隆寺の建築様式は、飛鳥様式なのか白鳳様式なのか?
 その建築時期によって、飛鳥→白鳳→天平と展開する建築様式の変化の理解が、全く違ったものになってくる。

◆飛鳥、白鳳といわれる仏像、絵画は、法隆寺に集中しているため、その制作年代、様式問題に大きな影響を与えることになる。

◆法隆寺は、我が国が世界に誇る、世界最古の木造建造物。国民的にも、法隆寺にとっても、古ければ古いほうが良い。

  即ち、再建非再建論争の始まりは、
  様式論の観点から、法隆寺を飛鳥様式の建築と位置付けたい、建築史、美術史学者と、
 「書紀」の記述に歴史的信頼性を置く、文献考証歴史学者、
 との激突と云えるだろう。

 

 【明治末年〜大正期の動き】

五重塔心柱下空洞
 明治末年から大正にかけては、論争沈静期で、著しい動きは見られなかった。
 この休戦状態のような時期、関野は平城宮址・非再建論の関する論文で工学博士の学位を得(M41)、一方、喜田は、再建論で文学博士の学位を得る(M42)。
 また、小杉榲邨も亡くなり(M43)、一撃を加えた平子鐸嶺も、35歳の若さで早逝した。

 大正6〜7年、小野玄妙が、法隆寺が焼失したのは、皇極2年(643)、山背大兄皇子が蘇我入鹿の兵により斑鳩宮を焼かれ、斑鳩寺で自殺した時とする説を発表。(あまり大きな反響は呼ばなかった)
 大正9年からの修理工事で、西院地下に焼土が見られなかったことから、非再建論者が喜んだり、大正14年に五重塔心礎の下に空洞が発見され、心礎舎利孔から舎利容器と共に、唐時代の海獣葡萄鏡が発見され、再建説が有利になったりした。

 この頃、喜田は、再建の時、寺地が変わっていると主張するようになり、若草伽藍址が、にわかに注目されるようになってくる。

 

 【二寺並存説の登場】

 昭和に入ると、論争第2ラウンドが始まる。

 その主役は、非再建サイドは関野貞・足立康、再建論サイドは喜田貞吉。
 昭和2年、関野貞は旧説を改し、「法隆寺二寺説」を唱える。
 これは、この地には推古以来の寺が二寺あり、一寺は現在の西院伽藍、もう一寺は若草伽藍址で、若草伽藍の方が、書紀に記すとおり天智9年(670)に焼失した、とするものである。
 この説は、明治30年代に法隆寺の大御所と言われた北畠治房が唱えたもので、これが形を変えて再登場してきたもの。
 同じ昭和2年に非再建を主張した秋山義一、昭和14年に非再建を花々しく主張した足立康の各説も、詳しくは触れないが、大胆に云えば、この二寺説の、現西院と若草伽藍の旧寺名、本尊などの組み合わせのバリエーションといえる。

 

北畠治房            会津八一

 この非再建論は、書紀の記事を歴史的事実として認めつつ、飛鳥様式建築の現存を上手く説明する、なかなか巧みな解釈といえるものであった。

 翌昭和3年、東大・山上御殿での史学会例会の講演で、関野が自説を口頭説明するが、席上、喜田は関野への反駁を試み、激しい応酬が行われた。
 昭和8年には、会津八一が、学位論文となった「法隆寺・法起寺・法輪寺建立問題の研究」を出版。平子の干支一運説のバリエーションとも言える、推古15年焼失説を主張したが、その後、福山敏男、足立康等の反論により、否定される。

 昭和10年には、非再建論のご本尊とも云うべき、関野貞が没する。享年68歳。

若草伽藍址と心礎

 こうしたなか、昭和14年2月、足立康が、突然、新二寺説とも云うべき新説を発表する。
 これは、関野説の改良説というものであったが、足立が当時の仏教美術史界で、はなばなしい活動を展開していたこともあり、広く一般に報道され、世間の関心を引くこととなった。
 翌3月には、関野・喜田両雄の論戦が行われた東大・山上御殿で、今度は、喜田・足立の論戦が行われる。
 喜田説が、大筋において旧説を出なかったのに対し、足立説は、巧みに諸説を取り入れ構成され、いちいち反論に対する逃げ道まで用意してあるかのような印象を与えたという。
 そのため一般には、足立新説が勝ちを制したかに見えたが、石田茂作など専門家筋では、足立説への批判が多かったという。

 論争が過熱するほどに、寺外に出ていた若草伽藍塔心礎が、四半世紀ぶりに返還されることとなるなど、若草伽藍址が益々注目を浴びるようになった。

 

 【若草伽藍址の発掘】

石田茂作

 はたして、この年の12月、かくも多くの研究者を熱中させた大論争に、突然幕が降りてしまう。
 石田茂作、末永雅雄によって行われた、若草伽藍址発掘の結果、二寺並存がありえないと言う重大事実が、明らかになったのである。
 即ち、若草伽藍は法隆寺式と異なる四天王寺式伽藍配置で、またそのその方位(南北の中心軸)が、現西院伽藍と17度も違っていること。また伽藍規模から見て、寺地が近すぎて両寺の寺地が重なってしまうことが、判明した。

 明治から昭和へと、三代に亘って大論争が繰り返された再建非再建論争は、ついに幕を閉じることとなり、現西院伽藍は若草伽藍焼失後に再建されたこと、即ち白鳳期の再建ということで一致を見るに至った。

 この若草伽藍址発掘の結果を、喜田貞吉が知ることが出来れば、その感慨如何ばかりかと思うのであるが、喜田は、奇しくも発掘結果の出る半年ほど前、昭和14年7月、69歳でその生涯を終えていたのであった。

 この間、多大の研究成果、法隆寺学の発展をもたらした法隆寺論争は、戦後、再建時期と様式問題の研究へと展開していくのである。

 

若草伽藍址発掘状況           発掘実測図(石田作成)

      

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